大名行列@行田


 

2016年1月19日 (火曜日)

 

大名行列@行田

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“大名行列”をタイトルに掲げたのですか?


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いけませんか?

だってぇ~、“大名行列”なんてぇ、今時 話題にする人など居ないと思いますわァ~。

たまには江戸時代の話も面白いではありませんか!?

そうでしょうか?

それに、小百合さんと“大名行列”が関係あるのですよ。

まさかァ~。。。?

僕が小百合さんにだしたメールを読んでみてください。


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Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…

From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分

 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


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小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。 
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。

行田船着き場跡


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(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斎藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


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この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


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 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


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英照皇太后


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昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


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省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


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なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


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ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


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『手作り弁当@船着き場』より
(2015年12月3日)

上のメールには どこにも“大名行列”は出てないではありませんか!

あのねぇ~、確かに“大名行列”は出てきません。。。 でもねぇ~、上のメールをじっくりと読むと“大名行列”と関わりがることが分かるのですよ。

いったい、どこにその関わりがあるのですか?

小百合さんは、もう忘れてしまったのですか?

何をですか?

やだなあああァ~。。。 小百合さんは釣りに拘(こだわ)っていたのですよ。 三男のトモユキ君が釣りが好きだと言うので、“行田船着き場跡”が 釣りに手ごろな場所だと下見までして拘りましたからねぇ~。。。

いけませんか?

いや。。。 別に釣りに拘ってもかまわないけれど、トモユキ君が釣りをしている間に、“行田船着き場跡”で僕と小百合さんが弁当を広げてピクニックを楽しんだでしょう!


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確かに、そのようなことがありましたわァ~。。。

僕は、まさか“行田船着き場跡”でピクニックすることになるとは考えてもいませんでした。

いけなかったかしら?

いや。。。 かまいませんけれど。。。 段ボール箱が近くにあったら、ホームレスのカップルが昼飯を食べていると誤解されてしまうだろうと思いましたよ。。。 (微笑)

つまり、その事を言いたくて わざわざ上のメールを持ち出してきたのですか?

いや。。。 もちろん、それだけじゃありません。。。 あのねぇ~、ちょっと次の小文を読んでみてください。

忍の時鐘


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忍の時鐘程、幾回も動かされたものは少ないであろう。
この鐘こそ240年の時の流れを体験した唯一のものといえよう。
鐘が歴史を知っているとでも表現したい様な、波乱の運命を背負っている。

松平侯三代忠雅は相続争いの為(白川騒動)に二代忠弘の孫でありながら、11歳で家督相続し白川城より山形城へ、8年間で福山城(広島県)へ、12年間で桑名城へ移封となった。
正徳元年7月(1711年)のことである。
一生涯で遠隔の地を移封になった藩主は少ないであろう。 (略) そして侍従少将となり異例の出世であった。

忠雅は桑名入城を記念し「永保家国」(銘文)を祈り、享保2年(1717年)11月にこの鐘を桑名城内に完成させた。
260年前の事である。

ところが宝暦5年(1755年)1月12日桑名城下町本町から出火、海風にあふられて320軒、居城各門を焼失する大火となってしまった。
この洪鐘も力一杯乱打され、鐘自身も火を受け、ひびが入ってしまった。

父忠雅が誇っていた洪鐘を破損不能にした事を残念とし、宝暦14年(1764年)2月父忠雅の銘文と自分の銘文を入れて、現在ある洪鐘を改鋳した。
鐘を改鋳したからでなく、偶然にも四代は忠刻(ただとき)という名である。
鋳造した冶工は広瀬出雲大掾藤原道次、彫工は藤原儔次で親子であるらしい。
わざわざ書いたのは桑名市に広瀬家の後裔の方がいらっしゃるので、友好都市として敬意を表したいからである。

それから60年、五代目の忠堯(ただたか)の文政6年(1823年)、突然武州忍へ移封となったのである。


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この鐘も桑名港から海路を渡り、東京湾から利根川を上って酒巻に着き、この地に運ばれたわけである。
そしてここ二階櫓の上に安住し、広い忍沼にその音色を響かせたのである。

六ツ(むつ)と正午の時を報せ、慶応4年(1868年)1月14日大雪の夜、維新の急変の一報を藩士集合と乱打された。
それから5年、明治政府は東京に一番近い親藩である理由で、本年中に忍城の建物等一切の取り壊しを命じて来た。
藩財政は取り壊しをするどころではなかった。
強制入札で借金を棒引きして売りつけ、引きとらせたという。
だから「私の家の門は忍城の木で造った」とか、「家の蔵は忍城のものだそうだ」とかいう人が多い。

この時鐘は二階櫓から降ろされて櫓は取り壊したものの、時鐘の引き取り手がないので、そこに野ざらしにされたままだった。
ところが、“忍城の鐘”の音色がいいのは金がたくさん入っているからだと噂され、イボ(乳頭)を盗む者が出て来てしまった。
今も幾つかないままに昔を物語っている。

明治7年仕方なく東照宮が今の地に移されたので、鐘のみ社務所の前にひと先ずおいて盗難をさけた。
世川農士麿は何としても鐘の響きを聞かせたいと有志をつのり、宅地を提供してそこに今の形のものを造り、昔通りの時を撞いた。
何しろ時計のない時代だから唯一の時を報せるものだったのである。

明治14年1月6日今の中央小学校の地に、埼玉県下最初の洋風二階建ての学校、進修館が新築されたのを機に、その玄関の前に移転した。
それから進修館小学校は移り大正11年、忍高等女学校となり、やはり時の鐘は打ち続けられた。
昭和20年忍高女は進駐軍の病院に接収されたので万一を思い、今の東照宮、諏訪曲輪西端の今の地に移されたのである。

想えば数奇な運命をたどった洪鐘である。
忍城時代ここにあったことを書いておかないと、いつしか昔から東照宮の所にあったと思い込まれてしまう。
多聞櫓、二重櫓の南、白壁の数百米の塀の中、大きな鐘掛松といわれた松の大木の脇の、二階櫓の上から打ち響く鐘の音は広い忍沼を渡り、行田町中はおろか、物の本には“四里四方響く”とさえ書いてある。
16粁四方まではどうかと思うが、風向きでは随分遠くまで聞こえたという。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


134-138ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社

桑名藩の城主だった松平忠堯(ただたか)が文政6年(1823年)、突然武州忍へ移封となったのですよ。。。 そして、この時鐘も桑名港から海路を渡り、東京湾から利根川を上って酒巻に着き、この地に運ばれたわけです。。。 つまり、小百合さんとピクニックした場所で“鐘”が船から降ろされたのです。


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『拡大する』

現在の利根川は東京湾ではなく千葉県を通って太平洋に流れ出しているけれど、当時は江戸湾から赤丸で囲んだ古利根川をさかのぼって酒巻までゆき、そこから水路で当時の忍藩の“行田船着き場”まで行ったわけです。 そこで僕と小百合さんがピクニックをしたわけなのですよ。


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でも。。。、でも。。。、大名行列というのは、まさか船でやって来たわけではないでしょう!?

もちろん、当時のことだから、桑名から東海道を通って多くの人たちが行列を作って歩いてやって来たのでしょうねぇ~。。。


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だったら、何も“大名行列”を持ち出さなくてもいいではありませんかァ!

でもねぇ~、すべての人が歩いてやって来たわけじゃない。。。 ちょっと次の小文を読んでみて下さい。

長徳寺跡


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愛宕神社

長徳寺が長久寺の隠居寺として、いつ出来たか不明である。
明治元年に廃寺になり、愛宕社のみにした記録がある。

元年4月20日(旧暦3月28日)に“神仏判然令”が発布され、「神社が仏語を神号とすること、仏像を神体とすることを禁止」した。
その発布により、行田市内の社寺が、社と寺を分けて、一つにした例は多い。

 (中略)

明治元年長徳寺は廃止され、8畳6間の本堂と、庫裡2間の長徳寺は、明治5年8月3日有名な「不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」の学制頒布によって、行田町に小学校を造ることになり、この長徳寺が行田学校となったのである。
明治5年10月13日のことである。

 (中略)

下町の人は、長徳寺がなくなり、さびしくなることを憂いて、当時、だんだん流行してきた“酉の市”を開いて、行田町の名物にしようと、明治40年12月6日に盛大に行うことにした。


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そして20周年を記念して「行田酉之市起源碑」を、大正15年12月6日建碑した。

だが、長徳寺が晴れの舞台になったのは、文政6年11月12日、桑名から国替えになった、松平下総守忠堯(ただたか)候が、忍城に初入城する時、この長徳寺で行列を整えて、本町通り、今の魚七の所を左へ折れ(当時、川に沿って大手門まで高い土手があった)、大手門外の升形門を通り、大手門二つをくぐり、内行田通りに出て、元の登記所の所を右に折れ、今の体育館の玄関あたりにあった沼橋御門を抜け、(ここ一帯は島になっていた)今もある道を中央小学校の方へ行き、太鼓門から二の丸(今の忍中学校の地)へ入った。
それ以外二の丸へ行く道はなかったのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


25-28ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


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『拡大する』

大きな荷物や、足の不自由な人とか、年寄りたちは、船でやって来て長徳寺で待機していたのですよ。。。 それで、大名行列も長徳寺で休憩して、ここで鎧兜(よろいかぶと)をつけて行列を整え格調高く忍城に初入城したというわけですよ。

つまり、この事を言うために、わざわざ“大名行列”を持ち出したのですか?

そうですよ。。。 考えてもみてください。。。 小百合さんと弁当を広げてピクニックしたところが 193年前には桑名からやって来た荷物と人でごった返したのですよ。。。


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
それにしても 193年前には多くの人が桑名から大名行列を作って
行田まで歩いてやって来たのですから、大変だったでしょうねぇ~。。。!?

あたくしが京都から行田を訪れた時には新幹線でしたから、4時間もあれば充分でしたわ。
「行田のフライ」というのが名物なのですけれど、
喰い意地がはっている あたくしは さっそくいただきましたわァ。

なんとなく素朴な味わいでした。

それから、「さきたま古墳公園」を訪ねたのですけれど、
駐車場の近くに「さかもと」というおみやげ物屋さんがあるのです。
そこでゼリーフライを売っていました。


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これも なんだか複雑なお味がしましたわァ。
デンマンさんは食べながら 子供の頃の思い出が湧き上がってきたと言いましたわァ。
その当時は“ゼリーフライ”とは言わずに“ゼニ(銭)フライ”と呼んでいたそうです。

このようなことを書いていたら、なんだか お腹が空いてきました。
あたくしも何かを作って食べようと思いますゥ。

あたくしの好物は 具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”でござ~♪~ますう。
あなたのために、作り方を教えますわねぇ。


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どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは満足できませんのよう。
デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわよう。
うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


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あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

では、あなたのために あたくしが育った地元の京都の“たいやき”をお見せしますわね。
うふふふふふ。。。

お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?
でも、この記事を最後まで読んでから、近くの“たいやき屋さん”に走ってくださいね。

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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