幻の雅叙園


 
2009年1月17日 (土曜日)
 
 
幻の雅叙園
 
 

昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテル
と書いてあった。

1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり

投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”


『室生犀星と卑弥子さんと悪徳ブログ (2008年10月1日)』より

ニューグランド ロッジはどうして“幻のホテル”なのでござ~♪~ますか?

日本人で、このロッジに泊まった人が少ないからですよう。だから、良く知られていない。それで記録にもあまり残っていないのですよう。

。。。んで、小百合さんがこのロッジに惹かれるのは、なぜなのでござ~♪~ますか?

その事で僕は小百合さんとメールの交換をしたのです。ちょっと読んでみてください。

[522] Re:軽井沢のことになると小百合さんは

目の色を変えるのですね?

\(^δ^)/ キャハハハ。。。

Name: sayuri E-MAIL
Date: 2009/01/08 13:49
(バンクーバー時間: 1月7日 午後8時49分)

日本のお土産屋さんが白人用に 英語だけでプリントしてますね。
まさか カナダやアメリカの人が自分の祖国に送っていたとか?
それとも 日本人が記念に持っていた?

後で 図書館で色々調べるつもりが 遊んでばっかり…
軽井沢のニュー グランドホテルは まだまだ分からないことだらけ…

デンマンさんだから パソコンで調べたと思うけど…

お昼はそうめん(正確にはひやむぎ)を食べました。
冷たくて冬でも食べたくなります。
胃が悪い時に お酒は飲めません。
しばらく休み。


『RE:目の色を変えるね? (2009年1月8日)』より

『ビーバーランド e-XOOPS』 の “ロマンポルノ天国”に
ニューグランド ロッジのことで2つスレッドを立てましたよう!

ポルノとは関係ないけれど、
ロマンとめちゃ関係あるので、
あえて“ロマンポルノ天国”にスレッドを立てました。

かなり時間をかけて調べましたよう。
面白い写真も探して貼り付けました。

小百合さんが見たら、もう卑弥子さんのように熱狂すること、間違いありません!

キャ~♪~ すてきィ~♪~

1) ニューグランド ロッジの歴史と解説

2) ニューグランド ロッジの大きなオリジナルのポストカード

この2つのスレッドを読めば、小百合さんもかなり知識を詰め込む事ができます。

実際に、どの場所にあったかもはっきりと分かりました。
土地見取り図もゲットしました。

雲場池の南側のコケが生えている平地だとばっかり思っていたら、
なんと、池の北側ですよう。

デンマン注: 実は、上の地図は上方が北ではなく西です。
ニューグランドロッジは雲場池の西側にあったのです。

万平ホテルのように大きな建物の中に部屋が集まっているのではなくて、
42のバンガローが散らばっていたのです。

ポストカードに写っている手前の建物はバンガローで
その後ろのオレンジ色の屋根の建物は
ダンスパーティーや宴会などをやるためのホールだったようです。
上の見取り図の“ニューグランド ロッジ”と書いてある場所です。

これが、そのダイニング・ホールの内部です。

日本のお土産屋さんが白人用に 英語だけでプリントしてますね。
まさか カナダやアメリカの人が自分の祖国に送っていたとか?
それとも 日本人が記念に持っていた?

ニューグランド ロッジは日本人も泊まることができたけれど、
外国人向けのようだったらしい。
だから、日本語のポストカードは用意しなかったようです。

後で 図書館で色々調べるつもりが 遊んでばっかり…
軽井沢のニュー グランドホテルは まだまだ分からないことだらけ…

1月11日の『小百合物語』でニューグランドロッジを取り上げる予定です。
小百合さんも楽しみにしていてね。
2つのスレッドを見てみれば分かるけれど、例によって僕は結構調べました。
興味深い事をたくさん書いたから、ぜひ覗いてみてね。

2つのスレッドには18禁の写真は一つもありません。
安心して見る事ができます。

Date: 2009/01/08 17:34
(バンクーバー時間: 2009年1月8日 (木曜日) 午前0時34分)
『e-XOOPS にニューグランド ロッジのことで2つスレッドを立てましたよう!』より


『ニューグランド ロッジ (2009年1月11日)』より

小百合さんは昭和25年の地図を持ち出してきたけれど、それから10年ほど経つと、雲場池畔のホテルは「雅叙園」に変わってしまうのですよう。

つまり、オーナーが変わってしまうのですわね?

そうです。だから、ニューグランドロッジを知っている人は少ないはずなんですよう。おそらく70代の人でないと知らないと思いますよう。

それで、デンマンさんはご存知なのですわねぇ~

何を言ってるのですか?僕は“戦後生まれ”と言っているでしょう。。。誤解を与えるような事は言わないでくださいね。

日清戦争後も戦後生まれでござ~♪~ますわ。

太平洋戦争後ですよう。んも~~

。。。んで、ニューグランドロッジは、いつ開業したのでござ~♪~ますか?

1928(昭和3)年8月1日です。この当時、雲場池では泳ぐことが出来たらしい。でも、ニューグランドロッヂにはプールがあったのですよう。記録によると、宿泊客は主に外国人だった。

横浜のニューグランドホテルが持ち主だったのでござ~♪~ますか?

ポストカードには次のように書いてあります。

“Under the management of

Hotel New Grand, Yokohama”

だから、間違いなく横浜のホテルとは密接な関係があったのですよう。

どういう理由で軽井沢に開業したのでござ~♪~ますか?

夏になると、横浜の方の宿泊客が減少するのに、軽井沢などの避暑地には滞在客が増えることに注目して開業したそうですよう。地元の建設業・野沢組が所有する建物を借りて、7月15日から9月10日までの限定で営業した、と記録に残っていますよう。

年中無休ではないのですね。

年々利用者が増加し、増設しても間に合わなかったそうです。

宿泊客は、どのような事をして楽しんでいたのでござ~♪~ますか?

今とあまり変わらないですよう。ゴルフ、乗馬、水泳にボート遊び。ホテルでは、週末に映画会やディナーダンスを開催したそうです。

。。。んで、昭和34年までは“ニューグランド ロッジ”という名前で営業していたのですわね。なぜ、止めてしまったのでござ~♪~ますか?

実は、僕もいろいろとネットで調べてみたのですよう。でもねぇ、残念ながらどこにもオーナーが変わった事を書いてないのですよう。ただし、昭和34年の地図には「ニューグランド ロッジ」ではなく、「雅叙園(がじょえん)」と書いてある事ははっきりしているのです。

つまり、昭和25年から昭和34年の間にオーナーが変わったのでござ~♪~ますわね?。。。んで、「雅叙園」と言うのは日本料理店の名前ですか?

雅叙園と言えば、現在では東京の目黒にある「目黒雅叙園」が有名ですよう。結婚式場とホテルとレストランを経営していますよう。

雅叙園(がじょえん)

(廊下の美人画)

株式会社・目黒雅叙園(めぐろがじょえん)は、東京都目黒区で目黒雅叙園(結婚式場・ホテル・レストランなど)を運営する企業。

【歴史】

石川県出身で立身出世の創業者・細川力蔵が、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯および岩永省一邸を入手し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に開業した料亭で、国内最初の総合結婚式場でもあった。
それより以前1928年(昭和3年)には、東京・芝浦にある細川力蔵の自邸を改築し、芝浦雅叙園という「純日本式料亭」を経営していた。

本格的な北京料理や日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人や政治家、華族層以外の普通市民の料亭利用者を増やした。
また、中華料理店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も1931年(昭和6年)細川力蔵の考案で、その後に中国大陸へ伝わったものである、という説もある。
しかし英語圏などでレイジースーザン(英語:Lazy Susan)と呼ばれるターンテーブル自体は、18世紀のイギリスにすでに存在していたので、細川力蔵の発明や最初の考案と断言はできない。

目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』にも登場する。
絢爛たる装飾を施された園内の様子は“昭和の竜宮城”とも呼ばれた。

保存建築「百段階段」は国の登録有形文化財に登録されており、映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、通常は公開されていないが、希望者は申請すれば観覧が可能となっており、定期的に食事とのセットで一時公開されることもある。

1991(平成3)年の全面改築は日建設計および鹿島建設によるもので、このリニューアルに際し、園内のエレベーター壁面や室内に使われた螺鈿や漆による装飾は、韓国の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)によって新たに制作、もしくは修復された。一階にある化粧室の内装も彼の手による漆工芸によって装飾されている。

目黒雅叙園カフェラウンジを上より望む昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。
金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。
その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。
その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。

創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が成されてきたが、これを受けた運営会社である雅秀エンタープライズが2002年に経営破綻し、外資ファンドにより買収された。
現在の株式会社目黒雅叙園として再建の後、2004年ワタベウェディング傘下となる。
2007年には経営破綻した福岡山の上ホテル(福岡県福岡市中央区)の再建スポンサーとなり、傘下におさめている。

同一敷地内に全面改築時に建設されたオフィスビルのアルコタワーを有していたが、現在は別資本である。

目黒雅叙園 結婚式場の神殿・天穂殿(あまほでん) 2008年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この目黒の雅叙園を経営していた会社がニューグランド ロッジの経営を引き継いだのでござ~♪~ますか? 

その可能性がもっとも高いのですよう。でもねぇ、上の説明の中には、どこにも書いてないのですよう。ネットで調べたのだけれど、ニューグランド ロッジと雅叙園の関係を書いた記事は一つも見当たらなかった。

デンマンさんは、どう思うのでござ~♪~ますか?

昭和34年の地図には「ニューグランド ロッジ」ではなく、「雅叙園」と書かれていたのだから、創業者の細川さんが経営を引き継いだのだと僕は考えているのですよう。今でも軽井沢の雲場池から、それ程離れていないところに目黒雅叙園が経営している結婚式場・葬儀場の「軽井沢クリークガーデン」があるのですよう。

。。。んで、いつ頃、経営が変わったのでござ~♪~ますか?

ニューグランド ロッジは敗戦後、米軍の一般兵士用の宿舎として接収されたのですよう。横浜のニューグランドホテルも1945(昭和20)年の8月30日に連合軍に接収されたのです。

つまり、米軍以外には使われなくなったのですね?

そうですよう。

。。。んで、その接収が解除になったのは、いつなのでござ~♪~ますか?

帝国ホテルが接収解除になったのが1952(昭和27)年の3月31日です。おそらく、軽井沢のニューグランド ロッジが接収解除になったのも、その頃だと思うのですよう。

横浜のニューグランドホテルは接収解除になってから続けたのに、軽井沢のニューグランド ロッジは、なぜ経営を止めてしまったのでござ~♪~ますか?

終戦後、軽井沢で避暑をする人が、戦前と比べてめっきり少なくなったから経営的に魅力がなくなって手放したのでしょうね。

それで、細川さんが目をつけたと。。。?

多分、そう言う訳で経営が「雅叙園」に移ったと僕は考えているのですよう。

でも、細川さんは、どうして軽井沢のニューグランド ロッジに目をつけたのでござ~♪~ますか?経営的には魅力がなくなったのでしょう?

そうです。あまり金儲けにはなりそうになかった。しかし、細川さんがニューグランド ロッジを手に入れたのは、お金儲けのためではなかったと思うのですよう。

お金儲けではなかったとは。。。いったい、どう言う事でござ~♪~ますか?

それを突き止めるために、僕は創業者の細川さんについて調べてみたのですよう。

どう言う事が分かったのですか?

この人は今風に言えば、かなりのオタクですよう。

どういう方面でオタクだったのでござ~♪~ますか?

ウィキペディアの説明の中にも書いてあるけれど、絢爛たる装飾を施された雅叙園は“昭和の竜宮城”とも呼ばれたのですよう。

つまり、絢爛たる装飾にオタク趣味を発揮したのですよう。細川さんは1889年(明治22年)に石川県に生まれました。県内では立身出世をした一人として知られているようです。明治30年頃、東京に出て、同じ石川県出身者で神田で風呂屋を経営していた人の元で奉公したのですよう。その後、独立して銭湯経営などで財をなして、芝浦に料亭を開いたのです。

。。。んで、その頃から“絢爛たる装飾”にハマッテいたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。芝浦に料亭を造った時、日本画家の松林桂月や堅山南風に室内画の製作を依頼するなど、現在の目黒雅叙園のオタク趣味が見え始めていたのですよう。それで、目黒雅叙園を立ち上げたときには、数多くの画家、象嵌師や塗師、庭師、建具職人を登用して、きらびやかな“竜宮城”を造ったのですよう。

それ程、すごかったのでござ~♪~ますか?

すごかったのですよう。絢爛豪華な仕上がりを誇るように、「我等が誇る三大名所 富士ヤマ・日光・雅叙園」と宣伝したほどですよう。

それって、誇大宣伝ではござ~♪~ませんか?

でもねぇ、目黒の雅叙園を訪れた人は、誰が言うともなく「昭和の竜宮殿」と呼ぶようになったのですよう。上の写真を見ても、ちょっと異常な“オタク趣味”を感じるでしょう?

そうでしょうか?

あのねぇ、今日でも、目黒雅叙園には名物があるのですよう。それは、なんと国の登録有形文化財なのですよう。

何でござ~♪~ますか?

「百段階段」ですよう。この百段階段は、1935年に増築された旧目黒雅叙園の3号館にあったものです。階段廊下として、福島県産のケヤキを敷き詰めて造った。中国では100という数字が縁起がよく、そこから考えられたものだそうです。でも、実際には遠慮して1段少なくし、99段になっているとか。

99段の階段なんて。。。確かに珍しいですわね?デンマンさんはご覧になったことがあるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、この百段階段は、普段は一般公開されてないのですよう。

どうしたら見れるのでござ~♪~ますか?

食事付きの見学プランがあるのですよう。

つまり、食事付きの百段階段見学ツァ~でござ~♪~ますわね?

そうですよう。

やっぱり、商売根性がすさまじのですわねぇ~。。。うふふふふ。。。んで、このオタク趣味とニューグランド ロッジがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?

だから、そのオタク趣味を細川さんは自分自身に適用して自分を絢爛豪華に飾ったのですよう。

自分を絢爛豪華に飾るって。。。一体、どういうことでござ~♪~ますか?
 
あのねぇ、上のウィキペディアの説明の中にも書いてあるけれど、目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』に登場するのですよう。

それで。。。?

僕は興味があったので更に調べたら、『佳日』は後で映画になったのですよう。太宰治の作品では初めての映画化だった。その題名は「四つの結婚」。

デンマンさんは、ご覧になったのでござ~♪~ますか?

残念ながら、まだ見てないのですよう。でも、調べたら、主演は入江たか子、その他に山根寿子、高峰秀子のような女優が出ている。知る人ぞ知る有名な女優さんたちですよう。

。。。んで、その女優さんたちが創業者の細川さんと関係があったのでござ~♪~ますか?

あったのですよう。。。大有りなのですよう。うしししし。。。

つまり、その女優さんたちと創業者の細川さんが四角関係になっていたとか。。。?

やだなあああァ~~。。。卑弥子さんはすぐに、そのような過激な妄想に走ってしまうのですよねぇ~。

んも~~。。。もったいぶらないでオセ~テくださいましなァ~。

あのねぇ~、細川さんが3人の女優さんたちと関係を持って自分を絢爛豪華に飾った訳ではないのですよう。

だから、どのように細川さんは、ご自分を飾ったのでござ~♪~ますか?

実は、3人の女優さんの内で入江たか子さんに注目して欲しいのですよう。

入江たか子

本名: 東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)

1911(明治44)年2月7日に生まれる。
1995(平成7)年1月12日、肺炎のため死去。享年83。

昭和期の日本の映画女優。
華族出身のノーブルな美貌と近代的なプロポーションによって大スターとなり、「銀幕の女王」「ミス・ニッポン」などと称えられた。
第二次大戦前・戦中の男性俳優にとって、彼女と共演することは役者冥利に尽きる最高の栄誉だったという。
家族の不幸や自身の病気により戦後は人気が下降し、怪談映画の「化け猫女優」として名をはせた。
山田五十鈴・原節子とともに日本映画史上の三大美人だという(高峰秀子著『私の渡世日記』による)。

【略歴】

東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。
子爵東坊城家の出身で父の徳長は子爵、貴族院議員。
1922年、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。
油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。

1927年、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。
同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。
それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。
内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。
その後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。
また、1931年には、伊丹万作脚本、稲垣浩監督の『元禄十三年』で片岡千恵蔵と共演し、時代劇初出演も果たした。
このとき、千恵蔵に恋心を抱いていたことを後年告白している。

1932年、新興キネマと提携して映画制作会社入江プロダクションを創立した。
当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江プロ」が初めてだった。
この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。
その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。
この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。

この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。
田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れず別居結婚であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。
結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。

1933年、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。
ところが、溝口は一女優の入江プロダクション作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。

続いて、高原療養所の美貌の看護婦を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。
1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂ブロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。
しかし、1937年に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江プロダクション」は解散する。

以後、東宝と契約を結び、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』などに出演し、人気を保つ。
しかし、戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけた。

更に、戦後は病気がちになり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。
1950年にはバセドー氏病の宣告を受け、無理に仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年末になり大手術を受け、命を取り留める。

退院後は仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。
その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。
大スターの面子もありためらったが、生活のためと割り切り引き受ける。
1953年『怪談佐賀屋敷』に主演する。
入江迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。

更に1955年、溝口監督の『楊貴妃』に出演。
先述のように、かつて入江プロダクションという一女優のプロダクションに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。
執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。

1959年、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転進する。
その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のトンカツ店を手伝いながら余生を過ごした。
その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演し、話題となった。

娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

入江たか子さんは、ずいぶんと苦労なさったのでござ~♪~ますわね?

うん、うん、うん。。。確かに、いろいろな苦労があったのですよう。でもねぇ、注目して欲しいのは、苦労ではなくて入江さんが華族の出身であると言うことですよう。

上の説明には細川さんは見えませんけれど、入江さんと細川さんが、何か関係あるのでござ~♪~ますか?

あるのですよう。実は入江さんのお姉さんが細川さんの夫人なのですよう。しかも、そのお姉さんは宮中で大正天皇に仕えていたのですよう。

つまり、入江姉妹が東坊城子爵の令嬢だったと言うことをデンマンさんは言いたかったのでござ~♪~ますわね。

そうですよう。人間、お金ができると、次に目指すものは名誉だとか、自分に箔(はく)が付くモノを求めたくなる。

つまり、細川さんはオタク趣味で建物を豪華絢爛に飾った。。。んで、今度はご自身の奥様に迎える人を“豪華絢爛な人”、つまり“華族”から選んだわけなのでござ~♪~ますか? 

そうですよう。そうであるならば、ステータスシンボルとして軽井沢の土地にあるニューグランド ロッジも、経営的には魅力がないけれど、細川さんにとって自分を飾るために魅力があったに違いない。

要するに、入江たか子さんのお姉さまを妻にしたのもステータスシンボルを得るためだったのでござ~♪~ますか?

イヤ。。。それだけではなかったでしょうね。

それだけではなかったとおっしゃると。。。?他にどのような理由で。。。?

細川さんにとって、大正天皇のそばに仕えていた女官を妻に迎える事はロマンだったでしょうね。風呂屋の小僧として働いていた細川さんが、東坊城子爵の令嬢と恋をして結ばれる事など、当時、考えただけでも夢のまた夢ですよう。

そうでござ~♪~ましょうか?

だって、そうでしょう!源氏物語の研究者である卑弥子さんならば分かるでしょう!源氏物語の中で台所の釜の下で芝を燃やしていた下男が、藤原氏の貴族の令嬢と結ばれたケースが一度でもありましたか?

いえ、そのような事は、一度でもござ~♪~ませんわ。

そうでしょう!小説の中でも、そのような滑稽な事は考えられなかったのですよう。天皇に仕えていた女官を妻に迎えた細川さんが次に取った行動は、豊臣秀吉が“金の茶室”を造ったような気分で、軽井沢のニューグランド ロッジを手に入れたのですよう。事実そうだとしても、決して無駄な事ではなかったでしょう。それも、細川さんにとっては、男のロマンだったのですよう。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
細川さんは、本当にそのように考えてニューグランド ロッジを手に入れたのでござ~♪~ましょうか?
デンマンさんの理屈に従うと、確かに、ごもっともと思えるのでござ~♪~ますわ。
しかし、どうなのでしょうか?
あなたは、どう思いますか?

とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまたあさって、読みに戻って来てくださいね。
じゃあ、またねぇ。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

“旅の恥はかきすて”

日本では、よくこのような諺を耳にしますよね。

あなただって聞いた事があるでしょう?

もちろん外国でも

似たような諺がたくさんありますわ。

ところで、英語では何と言うのでしょうか?

考えてみた事がありますか?

A man away from home

need feel no shame.
 
文字通りに訳せば、

「家を遠く離れた者は恥を知る必要がない」

と言う意味です。
 
You can throw away all inhibitions

while on a trip.

「旅に出たら普段恥ずかしくって

できない事をやっていいのよ」

と言う意味です。

You can cut loose while traveling.

砕けて言えば上のように言うこともできます。

また、次のような言い方もあります。

Leave your sense of shame at home.

「(旅に出る時には)恥ずかしいなんて思う気持ちは

家においてくればいいの」

しかし、あまり人に迷惑をかけない方がよいですよね。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

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