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スルーパスと芦雪

2015年9月17日

 

スルーパスと芦雪

 


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デンマンさん。。。 今日はなんだか場違いな所に出てきてしまいましたわ。

。。。ん? 場違い。。。? どうしてですか?

だってぇ~。。。 サッカーと掛軸のお話でしょう?

いや。。。 サッカーと掛軸の話ではないのですよ。

でも、上の写真はサッカーと掛軸ですわ。

確かに、写真を見るとサッカーと掛軸なのだけれど、実は、話のきっかけにサッカーと日本画家の長沢芦雪(ろせつ)が出てくるのですよ。

それで、サッカーと掛軸の写真を出したのですか?

そういうことです。。。

。。。で、そのきっかけのお話というのはどういうことなのですか?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。

中田のスルーパスと芦雪


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かつて中田英寿が現役だった頃、伝説的なパスがあった。
と、言っても、実は、私自身そのプレーを見たわけでなく、サッカー好きの友人が何度も熱弁をふるって、あたかもそこでその試合が行われているかの如くしゃべるのを聞いているうちに、私の内でもテレビで見たかのように如実な記憶として育ってしまったのである。

ご存じの通り、パスとは通常、サッカーやバスケットボールなどの球技で「送球」、つまり持っていたボールを味方に渡すことであるが、パスの中にもいろいろ種類がある。
もらったボールをくれた人に戻すリターンパスや自分のところに来たパスボールをそのまま即時に誰かにパスするダイレクトパスなどがある。

他にもサッカーに特有なものとして、スルーパスというものがある。
スルーとは“through”つまり、「~を通り抜けて」という意味である。

相手ディフェンダーの間にボールを蹴り込み、通り抜けさせて、その背後に走り込む味方に合わせるパスのことである。
成功すると一気に形勢が変わり、得点できるチャンスが生まれる。

ある試合、走っている中田に味方から速めのパスが来た瞬間のことである。
縦目の速いパスだったので、たまたま中田は、そのボールに触れずにしばらく全力で併走し、敵陣をめざす結果となった。

 (中略)

その直後のことである。
観客は思いも寄らぬ行為を見ることになるのである。
一体中田はどんなプレーをしたのか。

中田は、なんと何もしなかったのである。

それまで、ドリブルも行わず、その速いボールに付き添うように全力で併走していた中田は、スルーパスを出したい選手に正確に出すには、今のボールが持っている角度とスピードが最適であると判断した。
そして、そのままそのボールから離れたのだ。
すると、果たせるかな、ボールはなんと、受けてほしい味方の選手の前方、最良のポイントに躍り出たのである。

中田の伝説的なパスは、中田が少しも触れていないパスなのである。
何もしなかったが故に最高のパスになったのだ。 

(略) こんなことを思いおこしながら、画家の福田美蘭(みらん)さんが日本経済新聞に寄せた永沢芦雪(ろせつ)の解説記事を読んでいた。
(略) その記事は平成18年の7月のものである。 
気になって切り抜きにしてあったものの いつの間にか紛失し、忘れてしまっていた。
それが、机の上を片付けた拍子に (略) 発掘されたのだ。
その切り抜きには、最初に読んだときにも感じたのか、青いボールぺンで「中田のスルーパスのような……」と私の筆跡で走り書きのメモが端に書かれていた。 

芦雪は近年、人気のとみに高い若冲(じゃくちゅう)と同じく江戸時代後期に京都で活躍した日本画家だが、その解説は「白象黒牛図屏風」について書かれ、その屏風絵も載っていた。


(rosetsu1.jpg)


(rosetsu2.jpg)

 (中略)

私は、この屏風を見ているうちに、中田のスルーパスをなぜか思っていた。

(略) この屏風を構成する一枚(白象図・左から四曲目)を目の当りにすると、新聞記事の写真であっても、そんな軽いめまいのような状態が生まれる。


(rosetsu1b.jpg)

その一瞬のクラッという思いが、中田の触れたのか、
触れなかったのか、という思いを呼び起こしたのだった。

もちろん芦雪の屏風の一曲は絵筆で色を塗ってあり、
何もしていないというわけではないが、
(略) その一枚だけ眺めると意味を決定することができなかったのである。

 (中略)

我々は物事の意味を決定するとき、無意識ではあるが、必ずある思考的枠組みを重層的に用意する。
そして範囲を狭め意味を明確にしていく。

 (中略)

しかし、この枠組みが固定化したり、その繫がり方もパターン化してくると、新しい気持ちが起こらなくなってしまう。
まるで錆とか埃がこびりついた動きの悪い機械のように、毎日行う思考に自由さが失われてしまうのである。

多くの人にスポーツや芸術が愛好されるのは、枠組みの固定化や繋がり方のパターン化を壊し、新しいそれらを見せてくれるからであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


59-65ページ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

上の文章を読んでデンマンさんは感銘を受けたのですか?

いや。。。 感銘と言えば感銘と言えるかもしれないけれど、僕は上の文章を読んでオツムに閃(ひらめ)いたモノがあったのですよ。

また、どう言う訳でひらめいたのですか?

中田は、なんと何もしなかったのである」と書いてある。 確かに、その時 何もしなかったから、ボールは、受けてほしい味方の選手の前方、最良のポイントに躍り出たのですよ。 つまり、何もしないことが時には最良の判断になることもある。

そのことがデンマンさんのオツムに衝撃を与えたのですか?

いや。。。 その事よりも、「この屏風を構成する一枚(白象図・左から四曲目)を目の当りにすると、新聞記事の写真であっても、そんな軽いめまいのような状態が生まれる」と書いてある。


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つまり、上の写真の赤枠で囲んだ部分は屏風の 6つの面の一つなのですよ。。。 その赤枠の部分だけを見ると“空白”のように見える。。。 つまり、画家が何も描いてないように見える。。。 要するに、中田選手のように何もしてないように見える。

その“空白”の部分を見て 佐藤雅彦さんは「軽いめまいのような状態が生まれる」と書いてますけれど、 デンマンさんも その“空白”の部分を見てオツムに閃いた物があったのですか?

そうなのですよ。

。。。で、いったい何が閃いたのですか?

あのねぇ~、柿本人麻呂が詠んだ次の和歌を見てください。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている

何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。

それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。

あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。

でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、上のように月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのです。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。

高市皇子(たけちのみこ)

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。
皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


(kaki004.jpg->kaki199.jpg)

ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?

もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのです。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのです。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのです。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのです。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 クリントン夫人のようなものです。


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クリントン夫人って、それほど実力があったのですか?

クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかったでしょう!?

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

その通りですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。

柿本人麻呂


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660年頃 – 720年頃

柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の略歴に手がかりがあるのですか?

そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのです。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。


(temple53.jpg)

『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)


(sayuri55.gif)

つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?


(kato3.gif)

そうです。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのです。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのです。 ぜひ読んでみてください。


(bond010.gif)

『古代のある女の悲劇』

 (2006年7月3日)

『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)

『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)

。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。


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東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?

どうしてですか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

マジで信じています。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 

ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。

でも、柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?

ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。


(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)

 

新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。

これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。

どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうです。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 つまり、柿本人麻呂が芦雪のような日本画家だったとしたら、当時、巨象の姿、つまり持統天皇の悪事をすべて描くことができなかったのですよ。


(rosetsu1.jpg)

どうしてですか?

持統天皇に睨まれたら首が飛んでしまう。。。 じっさい、彼は左遷されてしまった。 だから、次のようにしか描けなかった。


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上の赤枠の部分が柿本人麻呂が詠んだ「かぎろい」の和歌ですよ。 当たり障りのない和歌しか詠めなかった。。。 だから、背景を何も知らずに読むとつまらない和歌なのですよ。。。 でも、大伴家持は背景を充分に知っていた。。。 だから、“空白”の和歌にも“巨象”を見ていた。 それで、一見つまらない人麻呂の歌を『万葉集』に載せたのです。

つまり、大伴家持は上の赤枠で囲んだ空白しかない和歌を『万葉集』に載せて、現代の私たちが“巨象の姿”を見て欲しいと思ったわけですか?

その通りですよ。。。 「かぎろい」和歌を読む我々が 歌の中に込められた歴史の真実を理解して欲しいと願いながら 大伴家持は『万葉集』に載せたのです。 “行間を読む”という格言があるけれど、この場合、“余白”を読む必要があるのです。

つまり、その事が芦雪の屏風の“空白”を見て デンマンさんのオツムに閃いたのですか?

そういうことですよ。。。


(laugh16.gif)

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
確かに、デンマンさんの お話を伺っていると、そうなのかなァ~、とも思いますよね。

でも、あたくしは、柿本のおじさまが単純に「かぎろい」の美しさに魅せられて詠んだと思うのですわ。

いづれにしても、そのような事よりも、今のあたくしは お腹がすいたので 具のたくさん入った“あんかけ焼きそば”を作ろうとしているのでござ~♪~ますわァ。

あなたのために、作り方を教えますわねぇ。


(joe306.jpg)

どうですか? 美味しそうでしょう?

でも、あたくしは これだけでは満足できませんのよう。
デザートに“たいやき”をいただくのでざ~♪~ますわよう。
うふふふふふふ。。。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。


(taiyaki5.jpg)

あなたも 好きなものを“たいやき”に詰めてみませんか?

そういう面白い“たいやき選手権”があったのですわよう。
うふふふふふ。。。

では、あなたのためにビデオクリップを貼り付けますので ご覧になってくださいまし。

お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?
でも、この記事を最後まで読んでから台所に走ってくださいね。

では、小百合さんのお話に戻りますけれど、
どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


(hand.gif)

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■ 『トリュフと軽井沢タリアセン夫人』


(fragran11.jpg)

■ 『ロマンの香り愛のスパイス』

■ 『愛と人生のスパイス』

■ 『愛と人生の陰で』

■ 『愛のポテトチップサンド』

■ 『インドカレー@熊谷』

■ 『スープカレー@行田』

■ 『軽井沢タリアセン夫人@Bike』

■ 『かねつき堂と亀姫』

■ 『甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)

■ 『蕎麦屋と軽井沢タリアセン夫人』

■ 『おしまいでございます』

■ 『軽井沢タリアセン夫人 愛の写真』

■ 『菊ちゃんと阿部忠秋』

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■ 『短歌に込められた愛の真実』

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(curryind.jpg)


(byebye.gif)

焼き滅ぼさむ再び

2015年9月5日

 

焼き滅ぼさむ再び

 


(hell100.jpg)


(hell104.jpg)


(rengfire.jpg)


(merange12.jpg)

デンマンさん。。。 あんさんは、どないなわけで“焼き滅ぼさむ再び”という けったいなタイトルを付けはったん?


(kato3.gif)

あきまへんか?

そやかてぇ、なんやァ古臭い文語調ですやん。。。

あのなァ~、実は、めれちゃんも覚えていると思うのやけど、『焼き滅ぼさむ』という記事を今年の6月18日に投稿したのやがなァ~。。。

その記事を あんさんはまた取り上げはるのォ~?

いや。。。 わてが取り上げると言うよりも、ネット市民の皆さんの中に 古典に関心のある人が居るのやがなァ~。。。 ちょっと次のリストを見て欲しいねん。


(ame50831c.png)

『拡大する』

これは、アメブロのわてのブログの8月25日から31日までの1週間の「人気検索キーワード」のリストやねん。。。 赤枠で囲んだ 14番に注目して欲しい。

「君が行く、道の長手(ながて)を繰(く)り畳(たた)ね、…」を入れて検索して あんさんのブログにやって来た人が居たのやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

その人が6月18日に、あんさんが投稿しやはった『焼き滅ぼさむ』という記事を読みはったん?

そういうことやんかァ~。。。

。。。で、その人はアメブロの検索エンジンで検索しやはったん?

わても、そう思って検索してみたよってに、その結果を見て欲しい。


(ame50902s.png)

『拡大する』

あらっ。。。 ameba検索では、「一致する情報は見つかりませんでした」と出てますやん。

そういうことやァ~。。。 そやから、GOOGLEで同じ語句を入れて検索してみたのやァ。。。 その結果を見て欲しい。


(gog50902a.png)

『現時点での検索結果』

そやけど、赤枠で囲んであるのは Denman Blog に掲載された『焼き滅ぼさむ』ですやん。。。


(wp50618e.png)

『実際の記事』

残念ながら、アメブロで投稿した『焼き滅ぼさむ』は上の結果には出てきよらん。

それやのに、どないなわけでアメブロのリストに載ってるん?

次のように検索するとアメブロの記事が出てきよる。


(gog50902b.png)

『現時点での検索結果』

「君が行く、道の長手(ながて)を繰(く)り畳(たた)ね ameblo.jp/barclay」と入れて検索すれば、アメブロのわての記事が出てきよる。

そやけど、上のリストのトップに出てきよったのは記事ではのうて、テーマやんかァ~。。。

そういうこっちゃァ。。。 つまり、“テーマ:文芸・文学の教養”というページにアクセスして、そのページに出てきよった『焼き滅ぼさむ』を読んだわけやァ。。。


(ame50902t.png)

『実際のテーマ』

なるほどォ~。。。 “文芸・文学の教養”というテーマのページで『焼き滅ぼさむ』を読んだわけやのねぇ~。。。 そやけど、それがどないなわけで、あんさんの興味を惹きはったん?

あのなァ~、今年の6月16日には、別の人が同じ語句を入れて Denman Blog の『焼き滅ぼさむ』を読みはってん。。。


(wp50616c.png)

『拡大する』

これは、Denman Blog の6月16日の「人気検索キーワード」のリストやねん。

あらっ。。。 “君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索して あんさんの Denman Blog へやって来たのやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

そやけど、どないなわけで、この和歌が人気があるん?

それに答えるには、ちょっと次の小文を読んでみて欲しいねん。。。


(rajomon1.jpg)


(bigroad.jpg)

1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。

平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。

それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。

これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。

つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。

物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社

なるほどォ~。。。 あんさんが『別冊太陽』から、引用しやはったのやねぇ~。。。

あきまへんか?

かまへんけど、わたしには、一つだけ大きな疑問がありますねん。

どないな疑問やねん?

あんさんが『焼き滅ぼさむ』の中で引用した次の検索結果をもう一度見て欲しい。


(gog50616a.png)

『現時点での検索結果』

わてが「君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも」を入れて検索した時には、上のような検索結果をゲットしたのやでぇ~。。。 それが どうやと言うねん?

あんさんの Denman Blog へのリンクは 4番目に出てきよる。。。 ということは、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索しやはった人は、当然のことやけど、1番から3番のリンクをクリックして3つの記事を読みはったに違いあらへん。

そうやろなァ~。。。

それやのに、どうして4番目に出てきよる あんさんの Denman Blog を読む必要があるのやろか? つまり、わたしが言いたいことは 1番から3番の記事の中に、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”の和歌の意味がちゃんと書いてありますやん。 わたしやったら、トップの記事を読んで意味が書いてあれば、他の記事など読まへん。。。 それやのに、どうして Denman Blog のあんさんの記事を読む必要があるのやろかァ?

あのなァ~、めれちゃん。。。 ニーチェのおっさんが かつて次のように言うたのやァ~。。。

読むべき書物


(nietzsche9.jpg)

わたしたちが読むべき本とは、次のようなものだ。

読む前と読んだあとでは世界がまったくちがって見えるような本。

わたしたちをこの世の彼方へと連れさってくれる本。

読んだことでわたしたちの心が洗われたことに気づかせるような本。

新しい知恵と勇気を与えてくれる本。

愛や美について新しい認識、新しい眼を与えてくれる本。

 

『悦ばしい知識』 — ニーチェ


183 『超訳 ニーチェの言葉』
訳者: 白取春彦
2010年3月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社ディスカバー・トゥエンティワン

つまり、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索しやはった人は、次のような記事を読もうと思いはったん?


■ 読む前と読んだあとでは
  世界がまったくちがって見えるような記事。

■ わたしたちをこの世の彼方へと
  連れさってくれる記事。

■ 読んだことで
  わたしたちの心が洗われたことに
  気づかせるような記事。

■ 新しい知恵と勇気を与えてくれる記事。

■ 愛や美について新しい認識、
  新しい眼を与えてくれる記事。

その通りやがなァ~。。。 要するに、常識的な、誰もが思いつくような意味だけでは満足できへんかったのやがなァ~。。。

それで、あんさんの Denman Blog の記事を読んで、ようやく満足できる解釈に巡りあったわけやのォ~。。。?

そういうこっちゃがなァ~。。。 その人は、わての解釈を読んで読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになったのやァ。。。

。。。で、上の和歌の意味は。。。?

次のような意味やねん。。。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


文字通りに解釈すれば
「あなたの行く長い長いその道のりを
手繰り寄せ、そして重ねて
焼き滅ぼしてくれるような
天の火が欲しい」という意味になるけれど、
そんな事を言うために上の和歌を詠んだわけじゃない。

私の父・旅人(たびと)は
729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」で
涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならなかった。

しかし、藤原氏の専横がいつまで続くわけではない。
いつか 必ずや 天の火が天罰のように
藤原氏を見舞うことになるだろう。

(巻15の3724)

そやけど、そないな解釈をこれまでに 見たことあらへんわァ~。。。

あのなァ~、めれちゃん。。。 最初に引用した小文の中に 「この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もある」と書いてあるやろう。。。

確かに、そないに書いておますなァ~。。。

そやから、実際の作者は「長屋王の変」と藤原氏の専横に事寄せて上の和歌を詠んだのやがなァ~。。。 

つまり、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索しやはった人は Denman Blog の「長屋王の変」のタグ(tag)のページをマジで見やはったん?

そうやァ。。。 すると次のページが出てきよる。


(wp50905t.png)

『実際のテーマのページ』

上のページの2番目に出てきよる記事が『萌える恋歌の裏に』というタイトルやねん。

検索した人は、その記事をよみはったん?

そうや、次の記事を読むと、上のように解釈した理由が書いてあるねん。 それで読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになるねん。


(rengfire.jpg)

『萌える恋歌の裏に』


(laugh16.gif)

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
あなたも、上の記事を読めば
もしかすると、読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになるかもしれません。
うふふふふふ。。。

ところで、めれんげさんはボダを克服して
健康も回復して元気になりました。
これからも、『即興の詩』を更新して欲しいですよね。

あなたも、めれんげさんの日記と“即興の詩”に興味があったら、ぜひ読んでみてくださいね。

めれんげさんは 2013年の6月に『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよね。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。
でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

でも、現在は、6位です。

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


(hand.gif)


(surfing9.gif)

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(linger49.gif)


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こんにちはジューンです。

卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ


(beach02.jpg)


(byebye.gif)

道鏡伝説の謎

2015年4月20日

 

道鏡伝説の謎

 


(doukyou5.gif)


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デンマンさん。。。あんさんは、どうして道鏡伝説などをタイトルにしやはったん?


(kato3.gif)

あのなァ~、わては、たまたまライブドアの わての『徒然ブログ』のアクセス解析の記録を見ていたのやァ~。。。


(liv50417b2.png)

『拡大する』

そやけど、上のリストには どこにも道鏡さんの名前がありませんがなァ。

その通りやァ。。。道鏡さんの名前は上のリストの中にはあらへん。。。そやけど、“肥後ずいき”が仰山(ぎょうさん)出てきよる。 そやけど、この“ずいき”は食べようと思って検索したのとちゃうねん。

そんなら どうしようと思うて検索しやはったん?

誰もが“性具”の“肥後ずいき”について調べようと思うて検索して わてのブログの記事を読みはってん。

確かに、『肥後ズイキが性具になったきっかけは?』という記事を読みはった人もいてますなァ~。。。

そうやァ~。。。 実は、「肥後ズイキ」を見て、わては思い出したのやがなァ。 そう言えば 道鏡さんについて書いたと。。。

つまり、このページのトップに貼り出しはったイラストは その時に、あんさんが描きはったものやのォ~?

そういうこっちゃ。。。 うしししし。。。 

そやけど、「肥後ズイキ」がどうして道鏡さんと関係ありはるのォ~?

あのなァ、“性具”がキーワードなのやァ。。。めれちゃんかて性具のことを知ってるやろう?

言葉の意味ぐらい知ってますがなァ。。。そやけど、その程度のことで、わたしを“エロい女”やというレッテルを貼らんといて欲しいねん。

わては、めれちゃんが“エロい女”やと思うておらんでぇ~。。。

そやけど、あんさんの顔に、そう書いてありますやん。

さよかァ~。。。うへへへへへ。。。

あんさん!。。。下卑(げび)た笑いなど浮かべてえ~へんでぇ、性具と道鏡さんとの関係を説明せんかいなァ!

あのなァ。。。わては、その事でも記事を書いたのやがなァ。 ちょっと、その部分を読んで欲しいねん。

『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』


(doukyox1.jpg)

上の絵は葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。
『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題がついていますが、道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。
奈良時代の僧には、鎌倉時代のようにまだ僧兵として活躍できる場はありませんでした。では、なぜ、道鏡の鎧甲という画題で、葛飾北斎が上の絵を描いたのでしょうか?
よく絵を見てください。
確かに鎧兜らしきものが2つ描かれていますが、私たちが普通頭に思い浮かべる鎧兜とは格好がかなり違っています。

もちろん、これは戦争で身につける鎧兜ではありません。
江戸時代に使われた性具を描いたものです。左が鎧で右が兜なのです。
鎧はペニスに装着します。これを男根に嵌(は)めるこことによって太さが増すと共に、この凹凸が腰を使った前後運動に伴い女性の膣壁をしっかりと摩擦することになります。
つまり、これによってGスポットが、確実に愛撫されるというわけですね。
江戸時代の研究家が、性生活の知恵としてこういうものを考え出したようです。

兜は亀頭にかぶせます。
リングだと思えばどのような効果があるか想像がつくと思います。
しかし、使ったことがない場合、この絵だけで判断しますから、とても実用的とは思えませんね。
これでは、すぐに外れてしまいそうです。何か仕掛けがあるんでしょうか?
この性具に詳しい方が居たらぜひ教えて欲しいものです。

『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』


(kouken82.jpg)

上の絵も葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。
『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』という画題がついています。
気がついたと思いますが、孝謙女帝の『孝』の字が『光』になっています。
おそらく、天皇の名を性具の名にかぶせるのは恐れ多いことだとして、わざと一字だけ変えたのでしょう。
中国では、皇帝の名は庶民は使えませんでした。
現在よりも、中国の文化の影響が強かった時代ですから、葛飾北斎か、あるいは、この煉香(ねりこう)媚薬の考案者が、そのように配慮したものだと思います。

この香合(こうごう)というのは国語辞典で引くと「香の入れ物(香盒とも書く)」と出ていますが、この場合の香合は「こうあわせ」のことです。
つまり、二種の香木をたいて、その匂いや香銘の優劣を競うゲームのようなものです。

孝謙女帝はご存知のように、巨根の道鏡を愛人にしていたと、下世話では昔から言い伝えられてきました。
最近では、多くの研究家がそれはデマだと言うようになりました。
私も、そのうちの一人です。
詳しい事は次の記事を読んでください。

『日本女性の愛と情念の原点』

従来どおり下世話に従うなら、巨根の道鏡を愛人として受け容れていたわけですから、この女帝はたぐい希な巨マンの持ち主だったというわけです。
その孝謙女帝の巨陰の姿をそのまま写した煉香(ねりこう)が、上の絵に描かれているわけです。


『道鏡と孝謙女帝は性具でも有名』より
(2004年3月1日)

デンマンさん。。。あんさんは、ずいぶんと詳しいやんか。。。道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)を使いはったん?

めれちゃん、言うに事欠いて何を言うねん? わては道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)を使う必要ないねん。

つまり、使わんでも道鏡さんの鎧甲(よろいかぶと)に太刀打(たちう)ちできると、あんさんは自慢したいん?

めれちゃん。。。脱線しているやん。。。脇道にそれたらアッカ~♪~ン!

分かりましたわ。。。あとでゆっくりと見せてもらいますよってに。。。(微笑)。。。それで、他に何が言いたいねん?

わては、たまたまバンクーバー図書館からおもろい本を借りてきたのやがなァ。

何がそれほどおもろいのォ~?

芥川龍之介がエロ本を探して欲しいという依頼の手紙を書いてるねん。 ちょっと次の部分を読んで欲しいねん。


(akuta01.jpg)

大正10年3月、芥川はある人に こんな手紙を書いている。

「拝啓 支那の本中楊貴妃の生殖器なぞの事を書いた本と云(い)ふのは何と云う本ですか御教示下されば幸甚です
なほそんな本で面白いのがあつたら御教へくださいませんか
僕の知つてゐる誨淫(かいいん)の書は金瓶梅。
肉蒲団。 杏花天。 牡丹奇縁。 痴婆子。 
貪官報。 歓喜奇観。 殺子報。 野嫂曝言(やそうばくげん)。 
如意君伝(にょいくんでん)。 春風得意奇縁(しゅんぷうとくいきえん)。 
隔簾花影(かくれんかえい) 等です
以上」


172ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社

あらっ。。。あの有名な芥川さんがエロ本に関心がありはったん?

あのなァ~、男なら、まず間違いなくエロ本に関心のない人はおらん。

そうやろか?

『春本を愉しむ』を読むと、森鴎外、北原白秋、石川啄木なども春本をずいぶんと愛読していたと書いてある。

あんさんもエロ本を愛読してはるのォ~?

最近は、それほどでもないんやけど、日本に居た頃にはずいぶんとあさって読んだものなのやァ。 うししししし。。。

あんさん!。。。下卑た笑いを浮かべている場合と違いますやろう?。。。それで何が言いたいねん?

上の続きがあるねん。 ちょっと読んでみて欲しいねん。

芥川が「知っている」書の中に、『如意君伝』なるタイトルが見える。 

この本は、作家・駒田信二氏によれば、「中国風流本の四大奇書」の一書だそうである。 

他の三書は『痴婆子伝』 『肉蒲団』 『杏花天』 だそうで、芥川は全部読んでいたことになる。 

駒田氏の教示に従い、『如意君伝』の素性を紹介しよう。

この本は中国では禁書となり、押収されて滅びてしまった。 

ところが、わが国に伝わり、宝暦13(1763)年に日本橋南通3丁目の小川彦九郎、同庄七の手で和訓本の体裁で発行された。

その4年後、翻訳書が出版された。 

『通俗如意君伝』である。 翻訳者は「自辞矛斎蒙陸(じじむさいもうろく)」という。 中野三敏氏の研究では、この狂号のぬしは山口輝雄(きゆう)という。 通俗は、わかりやすいという意味である。

 (中略)

本編の主人公は、独裁者、則天武后である。 

この恐るべき女傑のお相手をつとめるのが、「如意君」、彼は何者であるか?

薛敖曹(せつごうそう)という。 

背が高く、色白のはなはだ美しい若者で、色男に似ず頭が優れており、読書を好み諸芸に通じ、おまけに酒が強い。 

変わっているのは、「肉具ハナハダ壮大ニシテ常ノ人」ならず、男の一物が馬鹿に大きかったというのである。

何でも頭から根まで筋ばっていてミミズのようで、怒ると頭は蝸牛(かたつむり)の如く、竿は皮を剥ぎたる兎の如し、突き立つ雁首に一斗の粟(あわ)を入れた袋を下げてもたるることなし、というから力も強い。

遊郭の女は皆恐れて、叫びながら逃げ去る。

 (中略)


(sokuten2.jpg)

「頃(このころ)太后スデニ六十余歳に及ビ玉ヘドモ。 淫心サカンナルママニ」肉具の大なる男を召し入れては寵愛する。

牛晋卿(ぎゅうしんけい)という宦官(かんがん)が、武后のかすかな溜息を聞き、恐れながら、としゃしゃりでる。 

声をひそめて奏上することは、かの薛敖曹のことである。 

武后の目が光る。 晋卿の郷里の者という。 

聞くに従い、よだれをが流れだした。 そなた、早速その者を連れて参れ、と命ず。

 (中略)

晋卿、ささやきていわく、君の肉具に合う容器は武后以外に無し、この機会を逸すと君は、人道(男女の交わり)を知らないで終わるぞ。

この時、敖曹、30歳である。

晋卿の、人道うんぬんに、たちまち心がぐらついたというのだから、まあ大した男ではない。

もっとも大した男だったら、春本に登場するはずがない。

春本の読者にすれば、こんな嬉しい人物はいないのである。

 (中略)


(asura2.jpg)

奈良後期の女帝、孝謙帝に重用された、河内の人、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は実在の僧だが、彼は宮中に入って病気を治した功で帝に信頼されたのだった。

このくだりは、ロシア帝政末期の怪僧ラスプーチンと似ている。

道鏡は太政大臣禅師に昇任し、ついには法王にもなった。

野望はさらに募り、宇佐八幡のお告げと称して皇位の継承を企てた。

孝謙帝が亡くなられて失脚したが、道鏡が女帝に目をかけられた理由が巨根だったから、という俗説は、恐らく『如意君伝』がわが国に伝えられてからのことと考えて間違いあるまい。

『如意君伝』が成立したのは明代らしく、日本の室町時代である

いつごろ原本が伝来したのか不明だが、江戸期には知識人の間で読まれていた様子である

紹介した『通俗如意君伝』が出版された前後から、道鏡と巨根を結びつけた川柳が、続々と詠まれている。

道鏡はすわるとひざが三つ出来

「ちんぽこめらと公卿(くげ)を嘲弄す」

「公家めらがやきおりますと道鏡言い」

(注: 写真はデンマンが貼り付けました)


175-187ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社

ずいぶん長々と引用しやはったけど、『通俗如意君伝』が日本で読まれるようになってから道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるのォ~?

そうや。。。 めれちゃんかて上の文章をじっくりと読めば中国の則天武后と薛敖曹(せつごうそう)の話が孝謙女帝と道鏡のエロ話の元になっているのが判るはずやねん。

そやけど、則天武后は唐時代の女帝ですやん。 当時の日本は奈良時代やった。 それなのに江戸時代まで則天武后のエロ話が日本に伝わってき~へんかったと言うのはおかしいんとちゃうん?

あのなァ~、則天武后が生きていた時代に則天武后が登場するエロ話を書いて出版したら首が飛ぶねん。 則天武后が亡くなったあとかて中国の女帝になった人をエロ話に登場させて出版したら、当局の役人に睨(にら)まれて出世の道はなくなってしまうねん。

つまり、則天武后が悪女やと言う事が世間で受け入れられる明の時代まで『如意君伝』のような書物は出版できへんかったと、あんさんは言わはるのォ~?

そうや。。。 それが証拠に明朝の時代といえども『如意君伝』は禁書となって押収されて滅びてしまったのやがな。 日本に密輸入された物が日本に残って、その原本が 1767年に翻訳されて出版された。 それが『通俗如意君伝』やんかァ!

要するに、『如意君伝』が中国で出版されへんかったら道鏡伝説は日本に広まらなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ。。。

そやけど、日本の庶民が独自に道鏡さんの巨根伝説を作ったと言う事だって考えられるんとちゃうん?

それは、ありえないと、わては思うでぇ~。。。

どうして。。。?

あのなァ~、もともと道鏡さんは悪い事をしてへん。 藤原氏が政権を奪い取って思いのままに日本を動かそうとすることに対して孝謙女帝と道鏡さんが立ち向かったのやがな。 そやから、道鏡さんをからかうような戯(ざ)れ歌など奈良時代や平安時代にできるわけあらへん。

その証拠でもあるん?

そのことでは、すでに、わては記事の中で書いたのや。 めれちゃんも読んでみィ~なァ!


(doukyou2.gif)

道鏡は本当に悪者だったのか?

当時、僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可(なまはんか)な人間には とうてい真似の出来ないことでした。

道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。

道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。

しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。
とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。

なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?

称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。

もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。

こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。

なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?

それは、その後 権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。

この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。

この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。

のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。
しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。

つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。
娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。
つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。

この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。

伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。


『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

つまり、道鏡さんが法王になって日本を乗っ取ろうとした企みが事実とすれば『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていた。 そうならへんかったのは藤原氏の陰謀があったという何よりの証拠やと、あんさんは言わはるのォ~?

その通りやァ。。。明治時代の「大逆事件」を見れば、すぐに分かろうと言うものやァ。

大逆事件

(たいぎゃくじけん)


(taigyaku.jpg)

『拡大する』

1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。
日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。

特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す。
幸徳事件ともいわれる。

概要

政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。
裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。
以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件

敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。
これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。
松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。
検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。
1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。
特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。
仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。


(写真は『軍歌余談』より拝借)

出典: 「大逆事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

道鏡さんが企てたことが本当やとしたら大逆事件以上に日本国に対する最大の罪やん。 少なくとも藤原氏の目には、そう見えたはずや。 死刑にしてもまだ足りないはずやったのに、なぜ下野(しもつけ)の国にある寺に左遷だけやったのか?

なぜやの?

つまり、藤原氏の側に後ろめたさがあったのや。 悪いのは孝謙女帝と道鏡さんではなくて、自分たちだと言う事をよ~く知っていたのやがなァ。

その証拠は。。。?

その当時の刑罰には5つの刑が定められていた。

笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)

大逆事件以上の事件を起こしたのやさかいに道鏡さんは死刑になっても当然なのやがなァ。 それなのに死刑にせんかった。 それよりも軽い流(る)罪やった。

だから、どうして。。。?

あのなァ~、当時の人はマジで霊魂を信じていたのやァ。 無実の人を罪に陥(おとしい)れて死なせたりしたら、どうなるのか? 藤原氏の人たちはよ~く知っていたのやァ。 

無実の人を死に追いやると、どうなるん?

恨みを持って死んでいった人の霊魂の祟(たた)りに遭うのやがなァ。 そういう事件が実際に起きてしもうた。

長屋王の変

長屋王(ながやのおおきみ)

生年: 天武天皇13年(684年)?
没年: 神亀6年2月12日(729年3月16日)


(nagaya99.jpg)

長屋王は、奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。

長屋王政権

長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。
平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。
ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。

霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。
さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に薨去すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。
その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。
また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。

神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願している(神亀経)。

長屋王の変

このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。
不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になってきた。

神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。
これが長屋王の変である。
讒言であったとする説が強い。

聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。
政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。

王の薨去後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。 王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。

なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。
子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。

なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。
『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている


出典: 「長屋王の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


(merange12.jpg)

つまり、陰謀で道鏡さんを退(しりぞ)けようとした藤原氏の人たちは、道鏡さんを死刑にしたら自分たちが後で祟りに遭って死んでしまうと、それで祟られないように下野(しもつけ)のお寺に左遷するだけにしたと、あんさんは言わはるのォ~?


(kato3.gif)

その通りやァ。。。めれちゃんかて祟りの事を考えたら道鏡さんを死刑にはできへんやろう? それ程、藤原氏の陰謀家たちも祟りを恐れていたのやァ。 要するに、道鏡事件も藤原氏が祟られるような事をしていた何よりの証拠やねん。

そう言う考え方が一般的やったので江戸時代まで道鏡さんの巨根伝説は生まれなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

その通りやァ。

。。。で、江戸時代になって民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ。

そやけど、それってぇちょっと飛躍しているのとちゃうん?

決して飛躍してへんでぇ~。。。これまでの話をもう一度噛み締めてみれば、民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんと孝謙女帝のカップルを薛敖曹(せつごうそう)と則天武后に面白おかしく結びつけるようになったのやがなァ~。 祟りを恐れなくなるまでに、これだけの年月が必要だったと言うことやァ。

そうやろかァ~?

あのなァ~、『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』も江戸時代になってから葛飾北斎によって描かれたものやァ。


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つまり、江戸時代になるまでは祟りが恐ろしくて画けなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

いや。。。祟りやのうてぇ、『通俗如意君伝』を読むまでは道鏡さんが巨根の持ち主だという発想が湧いて来なかったのやがなァ~。


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。
道鏡さんの巨根伝説が生まれたのは『通俗如意君伝』が読まれるようになった江戸時代かもしれませんわ。
でも、道鏡さんを死刑にしなかった事が藤原主流派の陰謀説という根拠は、ちょっと飛躍していると思うのです。

なぜならば、確かに律令制度には次の5つの刑罰がありました。

笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)

でも、この制度が実施されていた平安時代には事実上、死刑は行われなかったのです。
なぜなら、死刑にすると罪人の怨霊に祟られると言う考え方が藤原氏の上層部にあったからですわ。

もちろん、下々の間では人殺しはノミやシラミをつぶす様に日常茶飯事でした。
追いはぎなどをしないと食べては行けない人がたくさんいたのです。
うふふふふ。。。

笑い事ではありませんわ。
失礼いたしました。

とにかく、次回は、さらに面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


(byebye.gif)

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こんにちはジューンです。

性具のお話を興味深く読ませていただきました。

洋の東西を問わずに性具というのは

昔からあったようですわ。

わたしもその類のお話を聞いたことがあります。

わたしは実際に使ったことがありませんが

東洋から伝来した性具として“Benwa”というものが

カナダやアメリカでは知られています。

Burmese bells とか

Geisha balls とも呼ばれています。


(benwa10.jpg)

卵よりも一回り小さなボールを2つ繋(つな)げたもので

それを女性の大切な所に入れるのだそうです。

そうすると、行為の最中に、

よりいっそうの刺激を受けることになり、

女性は、より甘美な快感に浸れるのだそうです。

日本語では何と言うのですか?

デンマンさんに、そう尋ねましたら

“卵形ローターのことじゃないの?”

そうおっしゃったのですが、私は別物だと思いますわ。

もし、時間があったら、

あなたも調べてみたらいかがですか?


(catanta2.jpg)

ところで、デンマンさんがレンゲさんの記事を集めて

一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『最近のレンゲ物語 特集』


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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


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萌える恋歌の裏に

2011年5月7日

 

萌える恋歌の裏に

 


(rengfire.jpg)

萌える恋歌

平城京に住む人びとは、何を自分たちの住む都の代表的な「景」として想起していたのか。 それを知る手がかりが、『万葉集』の卷15にある。 熱烈な恋歌で知られる中臣宅守(なかとみのやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌である。 罪を得て、越前(現在の福井県)に流される途中に宅守が娘子に送った歌に、次のような歌がある。 配流の時期については明確ではないが、738(天平10)年前後のことだと考えられる。


(rajomon1.jpg)

 

あをによし

奈良の大路は

行き良けど

この山道は

行き悪(あ)しけりかり



(todaiji2.jpg)

 

(あをによし: 枕詞)

奈良の大路は

歩きやすいけれど

この山道は

行きづらい

(巻15の3728)

 (中略)


(bigroad.jpg)

望郷の念にかられた宅守の脳裏にあったのは、整然と南北に延びる平城京の直線道路だったのだろう。 地方の官道が整備されていった時代とはいえ、それは都以外には存在し得ない光景だったからである。 だからこそ、流罪となった宅守が望郷の思いのなかで、都大路を想起したのであろう。 (中略) さて、もう一人、遠く鄙(ひな)の地にあって、望郷の思いから都大路に思いを馳せた歌人がいた。 大伴家持(おおとものやかもち)である。 国司として越中に赴任していた家持は、750(天平勝宝2)年の春3月に、次のような歌を残している。

2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首


(yanagi2.jpg)

春の日に

萌(は)れる柳を

取り持ちて

見れば都の

大路し思ほゆ


春の日に

芽吹いた柳を

手に取り持って

見ると都の

大路のことが思い出される

(巻19の4142)

「柳黛」とは、柳の葉を眉に見立てた言い方で、柳の葉を引っ張って奈良の都に思いをはせた歌、というこよになる。 (中略)都大路には柳が街路樹として植えられていたからである。 ために、遠く越中で見た柳が、都大路を連想させたのであろう。 もちろん、家持は、その大路を歩く美男美女にも、思いをはせていたことであろう。 それは、越中に赴任して迎える4度目の春のことであった。


(kyogals.jpg)

1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。 平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。 これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。 つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。 物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社



(merange12.jpg)

デンマンさん。。。あんさんは「萌える恋歌」を持ち出してきよってぇ、またわたしが恋に狂っていると中傷しやはるのォ~?


(kato3.gif)

ん。。。? わてがめれちゃんを中傷する?

そうですう。 あんさんは、わたしが常に恋をしていないと、うつ病に取り付かれると信じ込んでおりますねん。

わてが。。。?

そうですう。 あんさんは、いつだってわたしの『即興の詩』サイトから萌え萌えの詩や短歌を持ち出してきよってぇ、わたしが恋に狂っていると日本語が分かる世界のネット市民の皆様に、さんざ広めてしまいましてん。

わてが。。。?

そないに惚(とぼ)けないでおくれましなア。

わては惚けておらんでぇ~。 何も、めれちゃんを中傷するために、この記事を書き始めたのとちゃうねん。

そないに言うなら、どうして「萌える恋歌」など持ち出してきやはったん?

あのなァ!~、わては、たまたまバンクーバー図書館から借りてきた『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』を読んでいたのやがなァ。 なかなか興味深い本なのや。

それで、その本の中に「萌える恋歌」がありはったん?

そうなのや。

。。。で、わたしを中傷する気持ちがないんやったら、どないなわけで「萌える恋歌」を取り上げはったん?

「萌える恋歌」というタイトルがついておるのやけれど、わては次の箇所を読んで思い当たることがあったのや。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど次の恋の歌は、どないに読んでも恋の歌ですやん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

めれちゃんにとって、上の歌は何が何でも恋の歌としか思えんのか?

そやかてぇ、恋の歌ですやん!?

そやけど、恋の歌にしては、あまりにも激しすぎるねん。 「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」。。。焼き滅ぼしてくれるような、という形容は相思相愛の恋の歌にはそぐわないねん。 むしろ相手を呪うような気持ちがあるように、わてには思えるのやァ。

わたしは、そないに思わへん。 焼き滅ぼしてくれるような、という形容は狭野弟上娘子の相手を思う気持ちの激しさを訴えているねん。 むしろ情熱の激しさを相手に知って欲しいねん。

でもなァ~、もし、わてがこの歌を相愛の相手からもらったとしたら、「焼き滅ぼ」すという語句を見て一瞬ギクリとするでぇ~。。。もし、恋の情熱を訴えるのやったら、次のような歌になるねん。


 

やわ肌の

あつき血汐に

ふれも見で

さびしからずや

道を説く君

 

by 与謝野晶子


『熱き肌』に掲載 
(2010年3月12日)

(yosa10.jpg+yosa22.jpg)

こないな歌が恋の情熱を訴える歌やと、あんさんは言わはるのォ?

そうや。。。これならば、女の身を焦がすような恋の情熱が男の胸にもひしひしと伝わってくるねん。

そうやろか?

そうに決まってるやん。 めれちゃんかて次のような萌え萌えで、ムンムン、ムレムレの歌を詠んでいたやんかア!

くちづけ

&nbap;


(kiss003.gif)

 

罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ

 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさんは、わたしの詠んだ歌なら何でも保存しておきはるのォ~?

そうやァ。。。あきまへんか? うししししし。。。

つまり、「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」なんて詠むと、男は身を引いてしまうの?

わてならば、「焼き滅ぼ」すという語句を見てドン引きしてしまうでぇ~。。。ちょっと怖(こわ)すぎるやん。。。

そうやろか?。。。ほんならば、狭野弟上娘子は、どないなつもりで上の歌を詠んだと、あんさんは言わはるのォ~?

そやから本文中にも次のように書いてあるやん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど、歴史的事実ってぇ何やのォ?

そやから、わては、その歴史的事実を突き止めようとしたのやがな。

そいでぇ、突き止めはったん?

そうや。

どないして。。。?

中臣宅守は738(天平10)年前後に罪を得て越前(現在の福井県)に流されたのや。 そやから、その時期の事件を調べたのやがな。

735(天平7)年

平城京にきた新羅からの使いに入国の目的を問うたところ新羅は国の名を改めて王城国といったので帰国させている。


737(天平9)年

遣新羅使が新羅に渡した国書を慣例を無視して受け取りを拒まれた事態が報告され、使節を送ってその理由を問うべきか兵を出して征伐するべきかという意見が奏上された。


738(天平10)年前後

中臣宅守(なかとみのやかもり)が罪を得て越前(現在の福井県)に流される。 配流の時期については明確でない。


740(天平12)年

藤原広嗣(ひろつぐ)の乱。 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。
遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。


744(天平16)年

安積親王が、藤原仲麻呂に暗殺される。


745(天平17)年

反藤原政権の一角を担っていた玄昉が九州に左遷させられた。 藤原仲麻呂は、次第に反藤原派を圧迫してゆく。


746(天平18)年

宮内少輔だった大伴家持は越中の守に任じられ越中国に向かった。


763(天平宝字18)年

藤原良嗣(よしつぐ)の乱。 藤原仲麻呂は息子3人を参議に任じ専横を極めた。
良嗣は冷遇され恨みを抱いた。
そこで佐伯毛人(けみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持と共謀し、藤原仲麻呂を殺そうと企てたという密告があって、みな捕まってしまった。
良嗣は取調べを受けて、首謀者は自分一人だけで他の者は関係ないと主張した。
この後、大伴家持は薩摩守に任じられ(左遷され)都から遠ざけられた。

このようにして調べていって気がついたのやけれど、情熱的な狭野弟上娘子の相手である中臣宅守が関係している事件というのは無いねん。 ところが万葉集の編者と言われる大伴家持が関係している事件があるのやがな。

それが藤原良嗣(よしつぐ)の乱やと、あんさんは言わはるの?

そうやァ。

そやかて、その事件は中臣宅守さんと関係あらへん。

あのなァ~、『万葉集』は実は、単なる文学の歌集やないねん。 政治的な告発の書やねん。

それは、あんさんが勝手に、そう信じているだけやん!

いや。。。わてが勝手にそう信じているだけやないねん。

他に誰が、そう言うてるん?

ちょっと次の文章を読んで欲しいねん。

ある朝、新聞をひろげると、三島由紀夫、阿部公房、石川淳、川端康成の四氏が、
—中国の文化大革命は学問の自由を侵す。
という声明文を発表したと報じていた。
昭和42年のことである。

 (中略)

日中両国の相違点の一つの例として、四氏の声明文に登場していただきたいのである。
—学問芸術を終局的に政治権力の道具とするような思考方法に一致して反対する。
という言葉で、四氏の声明文は結ばれている。
学問芸術、文化を、政治権力と対立するもの、すくなくとも離れたものとみる考え方は、きわめて日本的である。
中国の政治理念は、『礼楽(れいがく)の治』であり、礼楽はすなわち文化のことなのだ。
—郁々乎(いくいくこ)として文なる哉(かな)。
と孔子が言ったのは、周の政治をたたえたのであり、政治すなわち文化であるという前提に立つ。
どちらがどちらを道具にするという関係ではなく、ひきはがせない血肉の関係と認識されていた。

 (中略)

近代でもおびただしい数の文人が処刑されている。
魯迅の愛弟子で、『瘋人(ふうじん)』の著者であった柔石(じゅうせき)が銃殺されたのは1931年で、同年に『少年先鋒』によって文学者・李偉森(りいしん)も銃殺された。 『流亡』や『家信』など農村を舞台にした名作をかいた洪霊菲(こうれいひ)は1933年に北京で逮捕されて処刑された。 『乱弾』の著者である瞿秋白(くしゅうはく)が福建で銃殺されたのは1935年のことである。 終戦の翌年、昆明(こんめい)で暗殺された詩人・聞一多(ぶんいった)は、それが政治的な処刑であることを疑う者はいないだろう。
政治の体系はすなわち文化の体系であり、それだけに作家の活動は政治の核心にかかわり合っている。 どの作家も、命を賭けることぐらいは、ふだんから覚悟のうえなのだ。


(yukoku00.jpg)

東方の隣国の文人たちが、中国の文人をあわれんで声明文を出した。 遺憾ながら、大きな的はずれである。
中国では、文人が政治家であるということでも、文学は政治とつながっている。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


199 – 207ページ
『日本人と中国人』 著者: 陳舜臣
2005年8月20日 第1版第1刷発行
発行所: 株式会社 恒文社

つまり、中国人にとって文学は政治とつながっているとあんさんは言わはるの?

そうやァ。。。

そやけど、狭野弟上娘子さんは中国人ではあらへん。

その通りや。

それやのに、あんさんはどうして中国人のことなどを持ち出してきやはったん?

あのなァ~、よう考えてみィ~なァ。 狭野弟上娘子さんは、これだけ激しい恋の歌を詠みはったのや。 そうであるならば、その熱烈な恋歌の受取人であるはずの中臣宅守の関わっている事件が歴史上の有名な事件であるに違いない。 少なくとも歴史に記録されている事件やと、わては思うたのや。 ところが、どのように調べても中臣宅守の関わっている事件が見あたらへん。 それなのに事件とはまったく関わりがないと思われる狭野弟上娘子さんの熱烈な恋歌だけが万葉集に掲載されてるねん。 めれちゃんは、おかしいと思わへんか?

そうでんなァ~。。。 そう言われてみると確かに腑に落ちないところがありますわ。

そうやろう!?

。。。で、あんさんは、どうなってると思いはったん?

そやから、『万葉集』の編者である大伴家持が詠んだのやがな。

狭野弟上娘子さんの名前を借りて家持さんが詠みはったん?

わては、そう推断したのや。

そやかてぇ、大伴家持さんは中国人ではあらへん。

あのなァ~、この当時の役人や歌人には渡来人の子孫がようけい居るねん。

その根拠は。。。?

次の文章を読んでみィ~なァ。

平城京は人口の三分の一が

外国人の国際都市だった!?


(todaiji2.jpg)

現代は国際化社会とよくいわれるが、奈良時代の都だった平城京は、現代の東京も横浜も神戸もびっくりの国際都市だった。 なんと、人口の三分の一ほどが外国人だったというのだ。

平城京は、100万人の人口をかかえる国際都市だった唐の長安(ちょうあん)を手本につくられ、東西4.3キロメートル、南北4.8キロメートルの大きさがあった。

住民構成に関するはっきりとした資料はないが、平安時代の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、京都の平安京内に本籍を持つ氏のうち、三分の一近くが渡来系の氏族であったことがわかり、平城京の場合でも、その割合は似たようなものだったろうと推定される。

これら渡来人には、外交や貿易などのため、唐や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)からやってきた人々もいれば、もっと古い時代に百済や高句麗からやってきた人々の子孫もいたと思われる。

 (中略)


(kyogals.jpg)

渡来系氏族とはちょっと異なる外国人としては、唐からやってきて日本の役人になった李元環、波斯人(はしじん:ペルシャ人)だったといわれる李蜜翳のほかにも、ペルシャ人がシルクロードと唐を経由して日本に渡来したという話はいろいろ伝えられており、正倉院御物(ぎょぶつ)にペルシャの工芸品が多いのも、ペルシャ人が日本にやってきていたからではないかともいわれている。 また、僧侶たちも、唐はもとより、インドやインドシナ出身の者もいる。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


18 – 19ページ
『歴史で読み解く日本地理』
著者: 河合敦
1999(平成11)年9月8日 第1刷発行
発行所: 東京書籍株式会社


(merange12.jpg)

なるほどねぇ~。。。当時の都の平城京に住んでいる人には渡来人がようけい居りましたのやなァ~!? そやけど、大伴家持さんが中国人だったという確証はありまへんのやろう?


(kato3.gif)

もちろん、わては大伴家持さんが中国人だったと言うつもりはないねん。 そやけど、中国人の影響を強く受けとるねん。

どないなわけで。。。?

大伴家持の家庭教師が山上憶良(やまのうえのおくら)やったからやァ。 この事について、わてはすでに記事を書いておるねん。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)


(yakamo3.jpg)

養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


(kiyomasa.gif)

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)


(okura2.jpg)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。


(sail30.jpg)

702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

歴史家の中には山上憶良が百済系帰化人である可能性も強い、と言っている人もおるくらいなのや。

つまり、大伴家持は唐から帰ってきた山上憶良の影響を受けて当時の藤原氏を告発するために、狭野弟上娘子に成り代わって告発のための歌を詠んだと。。。?

そう言う事になるねん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

判りましたわ。 そやけど、その“歴史的事実”って何やのォ~?

757(天平宝字元)年4月

群臣が集められ皇太子を決める会議が開かれた。
この中で藤原豊成や藤原永手(ながて)は道祖王の兄・塩焼王を推し、反藤原派は舎人親王の子・池田王を推した。
これに対し藤原仲麻呂一人が「天皇がお決めになればよろしいのでは」と発言した。 すると天皇は、大炊王(おおいおう)を立てたいと思う、と述べられた。
実は、大炊王は藤原仲麻呂が自宅で養子のように飼い慣らしていた皇族であった。

つまり、すべて藤原仲麻呂の仕組んだ筋書き通り、聖武天皇の影響を排除して藤原仲麻呂の言いなりになる皇太子を誕生させたのである。


757(天平宝字元)年6月16日

藤原仲麻呂は橘奈良麻呂ら、反藤原派の主だった者を左遷した。


764(天平宝字8)年

藤原永手は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位・大納言に叙任、勲二等を叙勲される。
その後、道鏡政権が成立し右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、藤原永手は薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。


766(天平神護2)年

藤原永手は右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。


770(神護景雲4)年

称徳天皇崩御。 これに伴う皇嗣問題では、藤原永手は天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。
なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文浄三・大市を推した吉備真備に対して、藤原永手は式家の藤原良継・百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。
また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。
なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、藤原永手は井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている。


771(宝亀2)年

藤原永手が病により薨去。享年58。
即日太政大臣の官職を贈られた。

つまり、藤原氏の専横を後代の日本人に知ってもらおうとして大伴家持が狭野弟上娘子に成り代わって詠んだと、あんさんは言わはるの?

そうや。 大伴家持の父・旅人(たびと)は729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」では涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならへんかった。 家持も、藤原良嗣(よしつぐ)の乱では、藤原氏に疑われて左遷されたのやァ。 彼は薩摩守に任じられて都から遠ざけられてしもうた。 要するに親子2代の屈辱が骨身に沁みてるねん。 そやから、次の歌には、藤原良嗣の乱で受けた屈辱と、藤原氏に対する専横の恨みが滲(にじ)み出ておるねん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

つまり、「長手」とは「藤原永手(ながて)」のことやの?

そういうことになるわなァ~。

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の恋歌の解釈は、なんだかデンマンさんのこじつけのようにも思えますけれど、藤原氏の専横があったことは歴史的に見て誰も疑いをさしはさめません。

あなただって平安時代の歴史を読めばわかるでしょう!
あの有名な藤原道長が藤原氏でない者は人にあらずと言ったのですから。。。
実は、藤原氏の世の中って大変な世の中だったのですわよねぇ。
デンマンさんが書いた次の記事を読めば良く分かりますわ。

『平安時代は決して平安ではなかった』

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


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こんにちはジューンです。

藤原氏の時代も大変な世の中だったようですが、

ナチスの時代も酷かったのですよね。

その時代の状況を最もよく伝えているのは

なんと言っても『アンネの日記』ではないでしょうか?

感動的な作品ですよね?

この作品を読めば、

ナチズムがどういうものであったかが

伝わってきますよね。

あなたは読んだことがありますか?


(anne12.jpg)

いつでも、こんな風に写ってたらいいなぁ。

私のお気に入りの写真ですよ。

これだったらハリウッドも夢じゃないと思う。

1942年10月10日 アンネ・フランク

【ジューン意訳】

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


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