Posts Tagged ‘藤原氏’

海外飛躍遺伝子

2014年4月11日

 
 
 
海外飛躍遺伝子
 

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デンマンさん。。。 また奇抜な遺伝子を持ち出したのでござ~ますわねぇ。


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いけませんか?

だってぇ~、そのような遺伝子は遺伝子学会でも まだ認められていないのでしょう?

だから、仮説ですよ。 僕は、海外移住する人たちや 海外を放浪している人たちは この“海外飛躍遺伝子”を先祖から受け継いでいると思うのですよ。

それはデンマンさんの思い込みでござ~ますわ。

でもねぇ~、いつの日にか “海外飛躍遺伝子”が発見されると思うのですよ。

つまり、デンマンさんは百済に住んでいたご先祖様から “海外飛躍遺伝子”を受け継いでいると信じているのでござ~ますか?

その通りですよ。

デンマンの祖先は百済からやって来た


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僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


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それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。 うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


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。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?

そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


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バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


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この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


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この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


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これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。


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こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.

つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。


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『デンマンの祖先は百済からやって来た』より
(2010年8月4日)

どうですか、卑弥子さん。。。 ジューンさんの説明を聞いて納得がいったでしょう!

でも、科学的には、まだ“海外飛躍遺伝子”の存在が解明されていないのでござ~ますから ジューンさんのお話を伺っても あたくしには信じることができませんわァ。 第一、1400年前のご先祖様のことを現代人が知っているなんて考えられませんわ。

あのねぇ~、卑弥子さんだって、あの有名な橘三千代(県犬養三千代)を世に送り出した橘家の人間ではありませんか! 家系図がなくても、代々語り継がれてきたでしょう!?

確かに、あたくしも祖母から聞いたのですわ。 その祖母も“御祖母様から伺った話だよ”と言っておりましたわ。

。。。でしょう!? そのようにして遠い昔の出来事が代々語り継がれているものなのですよ。

そうでしょうか?

あのねぇ~、最近になって、僕もその思いを強くしたのですよ。

どういうことでござ~ますかァ~?

ちょっと次のメールを読んでください。


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 (前略)

たまたま母と話しをしていたら、“行田の伯母さん”、つまり、デンマンさんのお母さんが入院したという事を聞いたのです。
私が、「どのような人なの?」と尋ねたら、
母には、とても優しくしてくれた人だということで、とても感激して話していました。

デンマンさんに初めて電話した時に、偶然にも「お葬式まで準備していたのに、母親が奇跡的に助かって。。。」というお話を聞いて、なんだか私の心まで暖かくなるようなお話だと思いました。
デンマンさんのお母さんは 人に優しくしているので “神様”が奇跡を起こしたのではないだろうか?
私は、そんな風に考えることができました。

もともと子供の頃から、私は海外に行くことと語学に憧れを抱いていました。
それでも本当にやりたいことを自分から行動に移せず、甘えた環境でずっと生きてきた自分を、今になって改めて考えるようになりました。
やりたいことをやらないと、一生、この思いは引きずるんだろうな?

このような思いに捉(とら)われていた時に 母が“行田の伯母さん”の長男に デンマンさんという人がいて、20代でカナダに移住し、今でもカナダで暮らしているという話を初めて聞いたのです。
その時、私の中で一気に込み上げてくる思いがありました。

実際こうして、親戚の方と、海を越えて、何十年越しにコンタクトをとれるというのは、私にとって信じられないほど嬉しい事です。
デンマンさんの“海外飛躍遺伝子”の記事を読んで、なんとなく素直に信じることができました。

 (後略)

by まり

2014年3月25日 午後10時20分

あらっ。。。 まりちゃんはデンマンさんに騙されて信じてしまったのでござ~ますか?

やだなあああァ~。。。 僕はまりちゃんを騙したわけではないのですよ。 事実を事実として伝えただけですよう。

。。。んで、まりちゃんのメールを持ち出してきて 駄目押しをするつもりだったのでござ~ますかァ?

いや。。。 そうではありません。 実は、【歴史ミステリー】の次のビデオ・クリップを見たのですよ。


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驚愕の”王の館”の全貌!

この“王の館”がどうだと言うのでござ~ますか?

僕の母親の実家は南河原村(現在、行田市に編入)の犬塚という地区にある旧家なのですよ。 その本家筋に当たる家が南河原村の“西新井”という所にあって、僕の叔母(九条多佳子)が子供の頃に祖母に連れられてよく遊びに行ったと言うのです。

その本家がどうだと言うのですか?

その本家は、ものすごく大きな家で、塀に囲まれ、さらに堀を廻(めぐ)らしてあったと言うのです。 つまり、“王の館”にそっくりだったと言うのですよ。

デンマンさん! いい加減にしてくださいましなァ。。。 そのお話が本当だったとしても時代が違うではござ~ませんかア! “王の館”は6世紀から7世紀のお話ですわ。

もちろん、時代が違うことを僕は理解していますよ。 僕が言いたいのは、その本家の祖先は高句麗からやって来たということなんですよ。

マジで。。。?

もちろん、僕は大真面目ですよ。 このような時にウソやデマカセを言うことはできません。

でも、その証拠があるのですか?

あるのですよ。 あのねぇ~、埼玉県日高市に高麗神社(こまじんじゃ)というのがあるのです。


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この神社が証拠なのでござ~ますか?

そうですよ。 716年に武蔵国に高麗郡が設置されたのです。 現在では、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡にあたるのですよ。

その高麗神社がデンマンさんのお母様のご本家とどのような関係があるのでござ~ますか?

あのねぇ~、668年に唐・新羅の連合軍に高句麗は滅ぼされてしまったのです。 だから、高句麗の人は多くの人が難民となって日本に亡命したのです。

それで、その人たちが現在、埼玉県にある、昔の“高麗郡”に移住したというのでござ~ますか?

その通りですよ。 703年に 高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっているのです。 この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたのです。 そして、この高麗神社は、この高麗若光を祭っているのですよ。

つまり、デンマンさんのお母様の祖先は高麗若光なのですか?

いや。。。 直系の祖先でないとしても、高麗若光と同じ頃に高句麗から共にやって来た人たちの内の一人ということですよ。 だから、未だに高麗神社にお参りに行きます。

つまり、デンマンさんの体内には 百済からやって来た父系の血と 高句麗からやってきた母系の血が流れていると言いたいのですか?

そうですよ。 しかも、その血の中には“海外飛躍遺伝子”が息づいているのですよ。 それで、今の僕は歴史的に見れば百済と高句麗から埼玉県にたどり着き、さらにバンクーバーに流れ着いたと言うわけですよ。


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どうですか、卑弥子さん。。。 これで“海外飛躍遺伝子”が僕の家系に息づいていることを信じることができるでしょう?

イマイチでござ~ますわァ。

じゃあ、駄目押しに、もう一つのエピソードを。。。 僕の叔母(九条多佳子)の事は、僕の記事にもたびたび書いたのですよ。

『九条多佳子の出てくる記事』

その叔母様がどうだと言うのでござ~ますか?

その娘に加奈子という僕の従妹がいるのです。 この加奈子は埼玉県北本市の中学を卒業すると バンクーバーの私立高校に留学したのですよ。

それで。。。?

高校を卒業すると、日本のテンプル大学に入学したのだけれど、どうしても馴染めないと言うので、1年で退学。 アメリカのオハイオ大学に入りなおして、卒業してからは香港とシンガポールで重役秘書として働き、その後 日本の外資系の会社の副社長の秘書になって、その秘書に見初められて結婚して現在ではシアトルに住んでいるのですよ。

あらっ。。。 バンクーバーから車で2時間ほどの町ではありませんか!

そうですよ。 郊外にはマイクロソフトの本社があります。

つまり、デンマンさんの家系には“海外飛躍遺伝子”が流れていると言いたいのですわね。

それもあるけれど、叔母が嫁いだ九条家というのは、百済からやって来た藤原氏の家系なのですよ。

あらっ。。。 マジで。。。?

藤原北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とする家系ですよ。

つまり、加奈子さんの体内には百済からやって来た藤原氏の血も流れていると言いたいのでござ~ますか?

いや。。。 藤原氏の血はどうでもいいのです。 加奈子の体内には“海外飛躍遺伝子”が2重にも3重にも組み込まれていると言いたいのですよ。

信じられませんわ。

“信じる者は救われる!”と昔の人は言いましたからねぇ~。。。 卑弥子さんも信じた方がいいですよ。


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ですってぇ~。。。
あなたは 信じることができますか?
1400年も昔のことを穿(ほじく)り返しても、どうなることではありませんけれど。。。、

でも、たまには古代の日本について考えてくださいまし。
あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みください。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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日本の死海文書

2014年2月5日

 
 
 
日本の死海文書
 

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デンマンさん。。。 1月28日には『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を書いて、今日は『日本の死海文書』でざ~♪~ますか?

いけませんか?


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『日本へ、紀元前のメイフラワー号』


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あのねぇ~、上の記事は人気があるのですよ。

マジでござ~♪~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。


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これはアメブロの僕のブログの1月28日から2月2日までの1週間の「人気記事リスト」なのですよ。

あらっ。。。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』がダントツで読まれているではござ~ませんかア!

だから言ったでしょう! 「紀元前のメイフラワー号」が日本へやって来たということがネット市民の皆様には刺激的に聞こえたのでしょうね。

それで、今日は「日本の死海文書」という衝撃的なタイトルにすれば、またネット市民の皆様がワクワクしながら読みにやって来ると思って付けたのでござ~ますか?

いけませんか?

「同じ柳の木の下にドジョウはいない!」と申しますわァ。。。 うふふふふふ。。。 デンマンさんの思い通りにはなりませんわよ。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだネットサーファーの皆さんは きっとガッカリしているはずですわ。

どうしてガッカリするのですか?

だってぇ~、徐福さんがリーダーになって日本へやって来た人たちは 「メイフラワー号」とは全く関係ないではありませんかァ!

むしろ、「メイフラワー号」よりも衝撃的な出来事じゃありませんか! 船団を組んで 5、000人以上の人たちがやって来たのですよ。 だから、ダントツで読まれているのですよ。

。。。んで、今日の「日本の死海文書」というのは、 「紀元前のメイフラワー号」に劣らないほど衝撃的なのでござ~ますか?

僕は、そう思いますよ。 体が浮いてしまう“死海”に興味がある人はたくさんいると思うから、「日本の死海文書」というタイトルに興味を惹かれる人は多いと思うのですよ。


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死海で浮いてみた
 
 

でもねぇ~、“死海文書”がどういうものか? 全く知らずに読みにやって来た人も居ると思うので ちょっとばかりウィキペディアから概要を引用しますよ。

死海文書


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死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。
文書は大部分がヘブライ語で書かれており、二割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテや語の文書を含んでいる。
多くは羊皮紙であるが、一部パピルスもある。
文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている。
死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。


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1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟がヒベルト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で古代の巻物の入った壷を発見した。
最初の発見に関しては「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かはもはやわからない。


出典: 「死海文書」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、「死海文書」というのは、ヘブライ語聖書の最古の写本ということでござ~ますわね。。。つうことは、日本の最古の書物というのは『古事記』でござ~ますから、「日本の死海文書」は『古事記』のことですか?


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あのねぇ~、『古事記』が日本の最古の書物だということは中学生でも知っていますよ。

。。。つうことわあああァ~。。。、つまり、『古事記』よりも古い書物が見つかったのでござ~ますか?

いや。。。 そういう話は聞いたことがないですよ。

だったら、おもわせぶりな事を言わないで「日本の死海文書」とは何のことなのか? 端的に細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいましなァ!

あのねぇ~、実は、僕も「日本の死海文書」が具体的にどの書物を指しているのかは解らないのですよ。 でも、近い将来「日本の死海文書」が発見されるだろうと信じているのですよ。

要するに、ヘブライ語聖書の最古の写本ならぬ、日本古来の神道の聖書とも言うべき最古の写本が発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

いや。。。 日本古来の神道の聖書かどうかは解りませんよ。 むしろ、そんなものはないでしょう!?

だったら、どう言う訳で「日本の死海文書」としたのでござ~ますか?

あのねぇ~、“死海文書”は放射性炭素年代測定、あるいは質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間に書かれたものだと考えられている。

つまり、日本でも、その頃に書かれたものが発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも。。。、でも。。。、日本には紀元前250年ごろには文字の文化などないのですわ。

だから、僕はこのページの始めに『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を持ち出したのですよ。

あらっ。。。 つまり、徐福さんとそのグループが古代中国から持ち込んだ書物が日本のどこかの洞窟に眠っているということでござ~ますか?

死海の近くの洞窟で“死海文書”が発見されたのですよ。 日本でも、徐福さんたちが持ち込んだ書物が洞窟に隠されたということも充分に考えられるのですよ。

でも、日本では徐福さんの伝説でさえ歴史的事実とは考えられてきませんでしたわ。

その通りですよ。 藤原氏が歴史を捻じ曲げてしまいましたからね。

つまり、徐福さんたちが古代中国からやって来た事実は藤原氏によって緘口(かんこう)令がしかれて記録から抹殺されたのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも、どうして。。。?

藤原氏にとって徐福さんたちの存在は邪魔だったのですよ。  藤原氏は自分たちが日本古来から伝わる正統な家系の末裔で、政権の正当な担当者であることを後世に示したかったからですよ。

つまり、『古事記』、『日本書紀』を藤原氏が作るときに、他の書物をすべて焼き捨てさせたのでござ~ますか?

その通りですよ。 だから、徐福さんたちから引き継がれた書物を焼き捨てることは忍びないと思って有志が“死海文書”のように洞窟に隠すか? あるいは銅鐸のようなものと一緒に土中に埋めたということが充分に考えられるのですよ。

でも。。。、でも。。。、そのような事が記録に残っているのですか?

あのねぇ~、藤原氏が鵜の目、鷹の目のようにして警戒していたから、日本の書物には徐福さんたちが持ち込んだ書物が隠されたことは記録に出ていないのですよ。 でもねぇ、徐福さんたちがやって来たことは藤原氏の目を盗んで書かれている。

あらっ。。。 そのような書物があるのでござ~ますか? 

あるのですよ。 徐福さんの名前は書けなかったのだけれど、どうしても歴史に残さねばならないと考えた人がいて 9世紀に編纂された『新撰姓氏録』に書いてあるのですよ。 応神(ホムタワケ)天皇の時代に秦氏の長者が中国から127県の住民を率いて渡来したと書いてある。 つまり、『古事記』でも『日本書紀』でも藤原氏は意図的に徐福さんを無視したのですよ。 だから、当然、藤原氏に反発する人たちも出てくる。

。。。んで、どなたが『新撰姓氏録』に書き込んだのでござ~ますか?

だから、反藤原氏の歴史家ですよ。 でも、歴史に残そうとして徐福さんの名前を書くと藤原氏にイジメられるので、技術集団として秦氏の名前を記録に残したのですよ。

だけど、徐福さんたちがもたらした書物が どこかに隠されたということは記録に残ってないのでしょう?

確かに、日本にはそのような記録はない。

あらっ。。。 つうことわあああァ~。。。中国には記録に残されているのでござ~ますか?

あるのですよ。 11世紀に活躍した北宋の詩人で、欧陽脩(おうようしゅう)という人物が「日本刀歌」という詩の中で、「秦代に焚書坑儒を逃れた書が日本に残った」と書いているのですよ。

焚書坑儒


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秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちが古(いにし)えによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。
始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。
李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。
儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。

翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。

紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。
また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって議論されていた現実的な政策であった。
始皇帝はそれを採用したに過ぎず、劉邦政権が踏襲したことによっても、挟書律が少なくとも為政者にとっては現実的な政策であったことが分かる。


出典: 「焚書坑儒」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、徐福さんは、名目は「不老長寿の薬を求めるため」と言いながらも、実は、秦の始皇帝の圧制から逃れようと画策したのですよ。

それで、日本へ渡航する時に、ついでにたくさんの書物も船に運び入れたのでござ~ますか?

だから、それが巷の噂になって11世紀に欧陽脩さんの耳にも達したわけですよ。

。。。んで、その「日本の死海文書」はどこに隠されたのでござ~ますか?

実は、そのことで僕は以前に記事に書いたのですよ。 ちょっと読んでみてください。

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。
その集めたものがどうなったかというと、すべて焼き捨ててしまったのです。

ご存知のとおり、中国では、これ以前に、秦の始皇帝が焚書坑儒ということをやっているわけです。
つまり、民間に広まっている儒教の本を焼き捨て、多数の儒学者を殺しているわけです。
地方の歴史編纂者を殺せ、とは藤原不比等は言わなかったでしょう。
しかし、大和朝廷の正史、つまり、古事記と違ったことが書いてある、昔の地方王朝の歴史書が、地方に残っていることは、まずいわけです。

藤原不比等が、この点について、天武天皇に、いろいろと中国史を話して聞かせたことでしょう。
「六韜(りくとう)」を愛読している不比等にとって、そのような、大和朝廷に、邪魔になる地方の王朝の史書を焼き捨てるのは当然のことです。
したがって、古事記編纂の目的の一つに、地方に伝わる歴史書を焼き捨てるということがあったわけです。

地方の歴史研究者が、たまには、神社に伝わる古い史書などを発見することがありますが、古事記よりも古い時代のものだ、などと言うと、先ず歴史学会からは無視されているようです。
しかし私は、まだまだ未発見の、古事記よりも古い史書が、かなりの数,地下で眠っていると信じています。
というのは、当時の大和政権が、強制的に地方王朝の歴史書を差し出すように命令を発したとしても、必ず、反抗して、そういったものを隠してしまう者が居たはずだからです。
そんなわけで、地方へ行けば行くほど、つまり、大和朝廷の権威が届いていない地方ほど、そのような史書が残っている可能性があります。


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まだ遺跡発掘などがあまり活発に行われていない、日本海沿岸の新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているはずです。
上の地図からも分かるとおり、このあたりには、大陸からの難民がたくさん漂着していたはずだからです。


『古事記より古い書物がどうして残っていないの?』より
(2003年7月17日)


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(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
確かに、古代には大陸からの難民がたくさん日本海沿岸に漂着していたはずです。
だから、もしかすると島根県、富山県、新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているかもしれませんよね。
あなたも、お暇だったら、その辺を発掘してみてください。
古事記よりも古い書物の発見者として一躍有名になるかもしれませんわ。
うふふふふふ。。。

とにかく、あなたも真剣に考えてみてください。
もし興味があったら、ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
あなたも、きっと、このお話ならば、納得がゆくと思いますわァ。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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色男不比等

2012年12月2日

 

  
色男不比等

デンマンさん。。。「色男不比等」ってぇ、もしかして藤原不比等のことでござ~♪~ますか?

もしかしなくても藤原不比等のことですよ。 「不比等」という名前は彼しかいないでしょう!

でも、どうして急に藤原不比等が色男になってしまうのでざ~ますか?

いや。。。別に最近になって藤原不比等が色男だったと判明したのではありませんよ。

あらっ。。。歴史的にもに藤原不比等は色男だったのでござ~ますか?

もちろんですよ。

その証拠でもあるのですか?

あのねぇ~、何度も言うようだけれど僕は根拠の無い事は言わないように努力しているのですよ。

分かりましたわ。 前置きは結構でざ~ますから、その根拠とやらを見せてくださいましなァ。

卑弥子さんがそう言うのなら、まず次のYouTubeを見てください。

小鹿野こども歌舞伎編 

『妹背山婦女庭訓』

あらっ。。。可愛い子供たちが歌舞伎を演じているのではござ~ませんかア!

そうですよ。 卑弥子さんも上のビデオクリップを見てビックリしたでしょう!

かなり本格的でござ~ますわね。 小鹿野というのは町の名前でござ~ますか?

そうですよ。 僕のふるさとの埼玉県にある町ですよ。


(saitama2.jpg)

小鹿野歌舞伎について

約二百数十年前の江戸時代中頃に始められた。
町内には寛政4年(1793年)に歌舞伎を上演した記録も残る。
文化・文政期(1804~30年)に活躍した初代坂東彦五郎が一座芝居を組織し、その後”勇佐座””天王座””大和座”と引き継がれ、秩父地域はもとより群馬県まで興行を行っていた。
映画・テレビの影響を受け、昭和30年代以降は衰退の時期を迎えたが、旧大和座系の役者と町内各地で地芝居を続けてきた人たちが合同して昭和48年に小鹿野歌舞伎保存会を結成、昭和50年には埼玉県文化財の指定を受けている。

町内では、十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田・両神小森に伝承され、それぞれ地元の神社の祭に氏子が中心となって歌舞伎を演じている。
町内には常設舞台が10箇所程度残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もある。
近年は子ども歌舞伎、高校生の歌舞伎、奈倉女歌舞伎などの活躍も見られる。
衣装・かつら・下座・化粧・振り付けなどすべて町民でこなし、地芝居のデパートとも言われている。


出典: 「小鹿野町」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

。。。で、子供たちが演じた『妹背山婦女庭訓』が藤原不比等が色男だという証拠なのでござ~ますか?

その通りですよ。 この『妹背山婦女庭訓』は、あの有名な「大化の改新(645年)」を題材にして作られたのですよ。

そんな昔のことを題材にして作られたのでござ~ますか?

藤原不比等や彼の父親の藤原鎌足が登場するのだから、ずいぶん古い話なのです。

。。。で、史実に基づいて作られたのでござ~ますか?

いや。。。 『妹背山婦女庭訓』が作られたのは1770年頃ですよ。 「大化の改新」が進められたのは645年だから、1000年以上も前の歴史的事件を扱った演目なのです。 だから史実からは、かなり離れた脚色になっている。 神話や伝説なども取り入れられているのです。 蘇我入鹿を天皇の座に着こうとした「恐るべき怪物・大悪人」にしたてあげて、善玉が悪玉をやっつけるという現代のファンタジーアクションに通じる構成になっているのですよ。

。。。で、このお話が人気があったのですか?

作られたのが1770年頃です。 上のクリップで見たように現在でも、小鹿野町の子供歌舞伎で『妹背山婦女庭訓』が演じられている。 劇作家が作ってから、ほぼ20年後の寛政4(1793)年に歌舞伎を上演した記録が残っているということは、まず間違いなく、その時にも『妹背山婦女庭訓』が演じられたに違いない。

それ程『妹背山婦女庭訓』が、その当時の庶民に受けたのでござ~ますか?

今で言えば1000年前の夢とロマンの「時代劇」ですからねぇ、ロミオとジュリエットのような話まである。 だから、人気があったと思うのですよ。

。。。で、どのようなお話なのでござ~ますか?

ウィキペディから「あらすじ」を書き出すから、卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。

妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)


(imo02.gif)

人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目のひとつ。
全五段、明和8年(1771年)の1月28日より大坂竹本座にて初演。
近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛の合作。

大序

【大内の段】

天智天皇は病に侵され盲目となり、政務を執ることが適わない。
そのすきを狙った蘇我蝦夷は、中臣鎌足に謀反の濡れ衣を着せて失脚させる。

【春日野小松原の段】

大判事清澄と太宰の後室定高は領地争いで対立している。
だが清澄の子・久我之助と定高の娘・雛鳥は恋仲である。
二人が仲良く恋を語らっているところへ鎌足の娘・采女の局が逃げてくる。
采女の局は帝の寵を受けていたが、蝦夷が自分の娘・橘姫を帝の后に立てようと望んだことにより身に危険が及び、宮中を脱出したのである。
久我之助は采女の局を変装させて窮地を救う。

【蝦夷館の段】

蝦夷の子入鹿は、父の暴挙に怒り座禅をしているが、思いつめて父に意見する。
怒った蝦夷は妻を斬り、入鹿に謀反の連判状を渡すよう詰め寄るが、蝦夷謀反の取り調べに大判事清常と安倍中納言が来る。
入鹿は大判事に連判状を渡し、父を追い詰め切腹させる。
だがこれはすべて父に代わり帝位を握ろうとする入鹿の計略であった。
入鹿は父・蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたので超人的な力を持ち、日本の支配者たらんことを宣言し宮中に攻め入る。

二段目

【猿沢池の段】

盲目の帝は采女が猿沢池に身を投げたことを聞いて、池に行幸する。
そのとき凶事の知らせ。
入鹿が宮中に乱入し、帝位を称したというのだ。
鎌足の息子・藤原淡海(藤原不比等)は、帝を猟師・芝六、実は家臣・玄上太郎の家に匿う。

【つづら山の段】

芝六は入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と知り、禁を破って葛籠山で爪黒の神鹿を射殺す。

【芝六住家の段】

山中の芝六の家は帝が逃げ込んだことで、にわか仕込みの宮中に早変わり。
多数の官女や公家が詰め、そこに米屋が掛取りの催促に来るわ、帝の無聊を慰めるために芝六の子の三作が萬歳を披露するわで大騒ぎである。
芝六が神鹿を殺したことが露見し、その罪を三作が被って石子詰の刑を受けようとするが、鎌足の働きで助けられる。
采女と神鏡も見つかり、神鏡の力で帝の眼も治る。
こうして鎌足たちによる反撃が始まる。

三段目

【花渡しの段】

権力を手にした入鹿は暴政の限りを尽くす。
清澄と定高に久我之助をわが家臣に、雛鳥を我が側室にせよと無理難題を言い渡し、花の枝を渡しその返事として吉野川に流せと命令する。
だが入鹿は久我之助については采女の局の行方を知っていると見て、召抱えると称して拷問し白状させる魂胆だった。

【山の段】

「古は神代の昔山跡の、国は都の初めにて、妹背の初め山々の、中を渡るる吉野川、塵も芥も花の山、実に世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所」という格調高い浄瑠璃の詞で始まる。
吉野川を挟んで大判清澄と太宰家の後室・定高の両家は満開の桜の妹山、背山に住む。


(imo04.jpg)

雛鳥と久我之助は川越しに、両家の不和のために一緒にならない身の不幸を嘆く。
思いつめた雛鳥が「とても叶わぬ浮世なら、法度を破って此川の、早瀬の波も厭いはせぬ」の浄瑠璃の言葉通りに川に飛ぶ込もうとするのを「ヤレ短慮なり。雛鳥」と久我之助が咎める。

そこへ「打ちしおれ、登る坂さえ別れ路は、力難所を往く心、空に知られぬ花曇り」の浄瑠璃で清澄、定高が重い足取りでそれぞれの館に帰ってくる。
入鹿の命には従うことができないと決意した二人は、久我之助、雛鳥に事の顛末を語り、涙ながらに子を手にかける。
たがいに相手の子の命を救おうとするのだが、川越しに双方とも死んだことを知り、「嫁入り道具、行器、長持犬張子、小袖箪笥の幾棹も、命ながらへ居るならば、一世一度の送り物、五丁七丁続く程」の華やかにも悲しい床の浄瑠璃に合わせ、定高は雛鳥の首を雛人形とともに川に流し大判事に受け取らせる。(雛流し)

こうして二つの家は過去の行きがかりを捨てて和解し、二人は死して夫婦となる。

四段目

【杉酒屋の段】

三輪山のふもとの杉酒屋の娘お三輪は、隣に住む烏帽子折の美男子園原求女に一目ぼれする。
実は、求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であった。
だが求女には入鹿の妹・橘姫という恋人がいた。
求女は入鹿の館に潜入するため、姫の裾に赤糸をつけて跡を追う。
お三輪も求女の裾に白糸をつけて追跡する。


(imo06.jpg)

道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)

夜の布留(ふる)の社(石上神宮)で繰り広げられる、求女をめぐっての橘姫とお三輪の争いを見せる所作事。
最後は求女が橘姫を再び追いかけ、お三輪も求女のあとを追って行く。
平成15年(2003年)の歌舞伎座では人形振りで演じられた。

【三笠山御殿(金殿)の段】

「栄うる花も時しあらば、すがり嵐のあるぞとは いざ白雲の高座、新たに作る玉殿は、彼の唐国の阿房殿、茲に移して三笠山、月も入鹿が威光には覆われますぞ是非なけれ」の浄瑠璃で、三笠山の麓に作られた宮殿が舞台に現れ、家臣の宮越玄蕃、荒巻弥藤次が入鹿の栄光を称える。 入鹿は官女たちを侍らせて宴会をしている。そこへ難波の漁師鱶七という者が鎌足の使いと称してやってくる。いぶかる入鹿に鱶七は、入鹿の家臣になるという鎌足からの手紙を見せるが、納得しない入鹿は実否をただすまで鱶七を人質にせよと言い捨て奥に入る。豪胆な鱶七はさまざまな罠にもびくともせず、悠々と奥に入る(鱶七上使)。

「されば恋する身ぞつらや、出ずるも入るも、忍ぶ草、露踏み分けて橘姫」の床の浄瑠璃で、橘姫が帰ってくる。
そのあとを赤い糸をしるべに求女が追ってくる。
橘姫は求女に、妻になるため、命にかけて入鹿が所持する十握の宝剣を奪うことを誓う(姫戻り)。

「迷いはぐれし、かた鶉、草の靡くをしるべにて、いきせきお三輪は走り入り」の浄瑠璃になり、お三輪は求女に付けた糸が切れながらもようよう御殿にたどりつき、来かかった豆腐買いの女から求女と橘姫との祝言がおこなわれると聞いてあせる。
御殿の奥に入ろうとするが、官女たちに見つかりさんざんに嬲られる。
心傷つき帰ろうとするお三輪の耳に、花嫁花婿をはやす声が聞こえる。
ついに嫉妬に狂ったお三輪は、髪振り乱し奥へ駆け入ろうとすると、鱶七に刺される。
鱶七は実は鎌足の家臣金輪五郎であった。
五郎はお三輪に、「女悦べ。それでこそ天晴高家の北の方、命捨てたる故により、汝が思う御方の手柄となり入鹿を滅ぼす術の一つ、オゝ出かしたなあ」と声をかけ、主君の命を受け入鹿を討つべく来たのであるが、爪黒の鹿の血と嫉妬に狂う女の生血を鹿笛にかけて吹けば、入鹿の力が衰えることを知り、不憫ながらもお前を刺したと物語る。
お三輪は自己犠牲が恋人求女、実は藤原淡海のためになることを知り、嬉しげに死んでいく(竹雀)。

そして鹿笛の霊力で魔力の衰えた入鹿は、金輪五郎をはじめとする人々によってついに討たれるのであった。

五段目

【志賀都の段】

入鹿が討たれてめでたく帝は復位、平和が訪れる。
志賀の都で忠臣たちへ恩賞が授与され、久我之助と雛鳥の供養が行われる。


出典: 「妹背山婦女庭訓」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であると書いてありますわね。 歴史的にも藤原不比等は女性にもてたのでござ~ますか?

藤原不比等は日本史の上で藤原氏を立ち上げた人で政治的には、ずば抜けた才覚を表した人だけれど、女性問題でも政治以上に手腕を見せた人なのですよ。

マジで。。。?

だからこそ、「大化の改新」から1000年以上時間がたっているにもかかわらず、藤原不比等の評判は下々にまで伝わっていた。 それで1770年当時の劇作家の近松半二が藤原不比等を題材にして「求女」とダブらせて道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)という場面を作り上げた。

『道行恋苧環』

「妹背山婦女庭訓」のお三輪と求女

(近鉄奈良駅前にて)

。。。で、歴史的にも藤原不比等は女性に対して手腕を見せたのでござ~ますか?

そうなのですよ。 だからこそ現在にまで「妹背山婦女庭訓」という物語として語り継がれているのです。 かつて藤原不比等について書いたので卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。

僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘—当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?

長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。

本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。

上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。

でも、そればかりではないと僕は思います。
阿修羅像のまなざしの中に込められた奥深い苦悩は阿部内親王のものであると同時に光明皇后の感じてたものではなかったのか?

この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?

それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。

阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙女帝と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、光明皇太后は娘をないがしろにしていたわけです。
これでは孝謙女帝はおもしろくありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。
この野望さえなければ、阿部内親王はこれまでの他の内親王のように、すでに結婚し家庭を持ち子供も生まれて、ささやかな女の幸せに浸(ひた)っていたかもしれません。
しかし、阿部内親王には、それは許されなかった。
藤原一族の繁栄と栄光のために、阿部内親王は“犠牲”にならなければならない“宿命”を負わされていた。
他に藤原氏の血を持つ天皇後継者がいなかったから。。。

天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。
これは“むごい”と言えるかもしれませんよね。
生きていながらの“生贄(いけにえ)”—藤原氏のための“犠牲”

16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。
しかし、自分が結婚できない宿命にあることは、この時点ですでに十分に知り尽くしている。
この聡明な少女は、多難な将来を予感して苦悩している。
この表情に、僕はそのような聡明な少女の苦悩を見るのですが、僕の思い過ぎでしょうか?


『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

デンマンさん。。。橘三千代は、実は、あたくしのご先祖様なのでざ~♪~ますわ。

マジッすかあああァ~。。。?

あたくしのフルネームは橘卑弥子でござ~ますう。 しかも、あたくしの生まれも育ちも京都ですわ。 さらに、あたくしは京都の女子大学で腐女子のために「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますう。

じゃあ、卑弥子さんは日本の皇室とも血縁関係があるのではありませんかァ!

そうですわ。

マジッすかあああァ~♪~。。。

そのようにオーバーにビックリなさらないでくださいなァ。

なるほどォ~。。。 それで卑弥子さんの婚期が遅れ遅れて、未だに独身なのですねぇ~。

そうです。 あたくしの生まれがあまりにも高貴なのですわ。 おほほほほ。。。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。
卑弥子さんが皇室と血縁関係にあるとは知りませんでしたわ。

『妹背山婦女庭訓』には、ロミオとジュリエットのような話まである、とデンマンさんが言ってましたが、仲の悪い家の恋人たちが死によって結ばれる筋は、確かにシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に酷似しています。
それで、なかには『妹背山婦女庭訓』こそ『ロミオとジュリエット』に影響を与えたのではないかと言っている評論家もおります。

また、太平洋戦争後に『妹背山婦女庭訓』を観たアメリカ人は『ウエストサイドストーリー』のようだと言ったらしいのです。
当然のことですわ。
だってぇ、「ウエストサイドストーリー」は『ロミオとジュリエット』の翻案ですから。。。

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ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。

ィ~ハァ~♪~!

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2012年11月17日

 
  
蝦夷って悪い意味?
 
 

 
 (蘇我入鹿の暗殺の場面)

平和を愛したアイヌ人

原日本人であるアイヌ人が好戦的でなかった。
これが和の精神として、理想主義の聖徳太子に引き継がれ、やがて、この波乱の時期を経て、平安時代へと持ち込まれてゆくわけです。
しかし、いわゆる平安時代になって、蘇我入鹿の暗殺に見るような血なまぐさい事件は少なくなるわけですが、それ以前のこの百年間という時期は、どう見ても、「日本的」ではありません。
どちらかといえば、大陸的、もっと正確に言うならば、中国的なのです。

しかし、よく考えてみれば、当然なことです。
この一連の事件のシナリオ・ライターは誰かといえば、中臣鎌足です。

中央が中臣鎌足 (藤原鎌足)

向かって右が長男の定慧、左が次男の藤原不比等

彼の生まれが、百済でないとしても、大陸の文化や六韜の強い影響を受けて、考え方や、やり方がすっかり大陸的になっているわけです。
従って、この一連の事件が、日本国内でなく、唐の長安のあたりで起こったとすると、ああそうか、というように自然と納得できます。
しかし、長安からは程遠い、見る人を威圧するような、町を取り囲む城壁もない、まだ草深い、今の感覚からすれば、片田舎で、このような血なまぐさい事件が起きている。
これは、異常としか思えません。

この百年の時期に起きた事件を見ると、戦争でもないのに、天皇は殺されるは、皇子は暗殺されるは、とにかく血のにおいと死臭がプンプンとただよっているわけです。

もう一つ見逃しにすることができないのは、この事件に登場する人物のことです。
皇極天皇も含めて、この事件に出てくる、すべての人物は、何代かさかのぼると、みな大陸や、朝鮮半島からやってきた人々とつながりを持っています。

ということは、感覚的に言って、この人たちは、原日本人的な考え方にどっぷりと、つかっていたというよりは、彼らの考え方や生活観が、どちらかといえば、渡来人的であったわけです。
したがって、蘇我入鹿の暗殺に見るような血なまぐさい事件は、彼らの耳目には、それほどめずらしいことではありません。
大陸や、朝鮮半島での、戦乱や悲惨な状況、あるいは難民となって逃げてきたその惨めな逃避行のことなど、渡来人の親戚や知人から話を聞いて知っています。
したがって、そのような血なまぐさい事件を、あまり抵抗なく実行してしまうような素地が出来上がっていたということが言えます。

この当時、原日本人と呼ばれるアイヌ人は、現在の福島県のあたりまで追いやられていました。
したがって、都にいる人々は、言葉の響きはよくありませんが、アイヌ人と渡来人の混血児の子孫です。
しかも半分以上は渡来人の血です。
したがって、現在日本に住んでいるほとんどの日本人も、多かれ、少なかれ、このような人たちの血を受け継いでいます。もちろん私もそのうちの一人です。
すでに書いたように、95パーセント以上が渡来人の血でしょう。

現在アイヌ人だと本人も、また日本政府も認めている人たちの数は、1986年に行われた政府の調査で約25,000人ということになっています。
ほとんどのアイヌ人たちは北海道の阿寒湖のあたりに住んでいるそうです。
しかし、Cultural Survivalという国際的な組織の推定では、200,000という数字を挙げています。
この程度の数字の違いが出てきても仕方がないでしょう。

アイヌ人とは何か?
日本人とは何か?という定義は非常にむずかしいからです。
現在、その25,000人の中に数えられている人たちでも、特に、子供たちの多くは、もうアイヌ語が話せないそうです。
この子供たちを写真で見る限り、日本人とまったく区別がつきません。
したがって、親から言われなければ、本人たちもアイヌ人だという自覚がないわけです。
そういうわけで、アイヌ人であっても、日本人だと信じている人たちが、たくさん居ます。
なぜかというと、アイヌ人だと言うと、差別されるので、親が黙っているそうです。

しかしこの差別の問題は、何も、つい最近になってから始まったというわけではありません。
すでにもう、聖徳太子の頃から差別がありました。
なぜ、そういうことが言えるのか?と疑問に思われるかもしれません。
しかし、今まで書いてきたことの中にちゃんと証拠があります。
それは、入鹿の父親の名前に現れています。
そうです。蝦夷という名前です。

蝦夷というのは、簡単に言ってしまえば、アイヌ人のことです。
でも、蘇我蝦夷はアイヌ人ではありません。
蘇我氏というのは、高句麗から渡来した氏族です。
そのことは、このページ(蘇我氏は高句麗からやってきた)で説明しています。

それなのにどうして、蘇我馬子は、自分の息子に、蝦夷という名前をつけたのでしょう?

そもそも、蝦夷とは何?

蝦夷とは、大和朝廷の勢力圏の外にある東日本・北日本の異文化の人達に対する、支配者たちの呼び方でした。

日本書紀に、斎明天皇五年(659)、「道奥(陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」とあって、唐に夷人を献上した、と解釈する学者も居ます。
このエミシについて三種があり、遠いのが「都加留(つがる)」、次が「アラ蝦夷(あらえびす)」、もっとも近いのが「熟蝦夷(にぎえびす)」と言われていました。

日本の律令国家の形成期にあたり、東北南部までが古代国家の版図に編入され、北東北の人々を区別して「蝦夷」と書き表すようになったようです。
以後、エミシは「王化に従わない、荒ぶれる民」「礼儀を知らない野蛮人」であり、天皇の威徳をもって、臣隷せしむべき対象となったわけです。

「礼儀を知らない野蛮人」という言い方を見ても分かるとおり、決して尊敬するような呼び方ではありません。
蔑称であり、現在なら、さしずめ、差別用語と呼ぶのにふさわしい言葉です。

日本書紀には更に、こうも書かれています。


  • 東の国の人々は性質が凶暴で乱暴ばかりしている。
  • 国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。
  • 山には悪い神、野には悪い鬼が住んで、道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。
  • 中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。
  • 冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。
  • 獣の皮を着て動物の血を好み、兄弟は中が悪くて争ってばかりいる。
  • 山を登るときは鳥のように速く、獣のように野原を駈けまわっている。
  • 人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。
  • 自分の身を守ったり、仕返しをするためいつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。
  • 仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。
  • 征伐するため兵士を差し向けると、草に隠れたり、山に逃げたりして、なかなか討つことができない。

要するに、良いことは一つも書かれていません。
こういう書き方には注意する必要があります。
大体、どの民族について見ても、全部が全部悪いとか、全部が全部良いとか、そういうことはありえません。
悪いところがあれば、良いところもあるわけです。

では、どうしてこういう書き方をするのか?
これは太平洋戦争中の、鬼畜米英的なスローガンと同じことだと考えればいいわけです。
戦時中、当時の小学校の先生は、子供たちに、アメリカ人や英国人は畜生だ!鬼だ!と教え込んだわけです。
そういう教育をほどこすことによって、男の子を日本帝国陸軍や海軍の兵隊さんに仕立て上げ、女の子は軍国の母になるようにしつけていったわけです。
つまり、上の日本書紀の記述は蝦夷討伐を正当化しているわけです。

いずれにしても、上の記述を読めば、誰もが蝦夷というのは悪い奴らだ、という印象を持つことでしょう。
それにもかかわらず、入鹿の父親の名前は、間違いなく、蝦夷です。

どうして、蘇我馬子は、

自分の息子に、

蝦夷という名前をつけたの?

ここで、日本書紀を編纂したのが誰かをもう一度確認する必要があります。
もちろん、天武天皇が音頭をとったということになっていますが、実際に編集の責任者として編纂に当たったのは藤原氏です。
おそらく、アイデアそのものを、鎌足が天武天皇に吹き込んだに違いありません。

上の、蝦夷についての記述を見れば分かるとおり、「蝦夷討伐を正当化するためならば、手段を選ぶな。なんでもいいから、蝦夷を悪者にしたてあげろ!」そういう六韜の精神が、この記述の裏に読み取れます。
六韜がどういう書物か、もし、よく分からないのでしたら、このぺージ(マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)をごらんください。
新しいウィンドーが開きます。

裏を返せば、蝦夷と呼ばれる人たちは、日本書紀が記述しているほど、悪い人たちではなかったということです。
このことはすでに何度か触れましたが、アイヌ人というのは、もともと好戦的ではなかった民族です。
戦乱を避けて、大陸の端までたどり着いたわけですから、もともと、町を、大陸的な、分厚い城壁で囲むというような習慣を持たなかった民族です。

したがって、この人たちが、万里の長城を見たとしたら、驚くよりも、あきれ返ってしまうでしょう。
「何であんな長い無用の長物を作ったのだろうか」、と。。。
このアイヌ人というのは、とにかく、戦乱や、争いというものを非常に嫌っていた。
だから、しいて戦いを選ぶよりも、争いのない土地へ移って行くという方法を採ったわけです。
しかも、大きな集団を作らずに、せいぜい村というような単位で生活していたようです。
だから、中国の町に見るように、馬鹿でかい城壁などというものを作る気持ちなど、ハナからありません。
それよりも、「みんな仲良くして、お互いに干渉しないで暮らそうじゃないか」、というような人たちです。

このような気質の民族であるがために、現在見るように、25,000人という少数民族になってしまったわけです。
アイヌ人のうちで順応性のある人たちは、もう遠い昔に、日本人に同化していました。
そういうわけで、昔ながらの生活様式に固執する人は、だんだんと少なくなってゆく。
信じられないかもしれませんが、アイヌ人は話し言葉を持っていても、書き言葉を持ちません。
ユーカラ(yukar)というのをご存知でしょうか?
アイヌに伝わる長編の民族叙事詩です。
神々や英雄に関する物語で、これに簡単な旋律をつけて歌うものです。
しかし、このようなユーカラが、広く日本人に知られるようになったのは、明治になってからのことです。
日本へやってきた、アメリカ人や、ヨーロッパ人が、北海道へ行き、日本人とは違う民族が生活していることに気づいて、アイヌの文化を研究するようになったのが始まりです。

したがって、アイヌ人は、明治になってから日本語や、英語を使ってユーカラを書き残すようになったわけです。
しかし本当に、アイヌ人の文化や人権が認められるようになったのは、もうごく最近のことです。
Barbara Aoki Poissonという日系アメリカ人の書いた “First Peoples The Ainu of Japan” を読むと、1979年には、アイヌ語を話せる人が、たったの10人程度だったそうです。
やっと、アイヌ文化に興味を持つ人が現れてアイヌ語がまた息を吹き返してきたということが書かれています。
1994年に初めてアイヌ人の中から国会議員がでました。
アイヌ進歩法ができたのが1997年です。

遅まきながら、日本政府がやっと腰を上げて、アイヌ人を、またアイヌ文化を保護しようとし始めたわけです。
したがって、これまで、アイヌ人がいかに不当な扱いをされてきたかということが、よく分かると思います。
歴史に残る、その最古の具体例が、上に書いた、日本書紀の記述です。
しかし、大和朝廷の不当な扱いに対して、立ち上がったアイヌ人がいないわけではなかったのです。

1200年前の古代東北に、大和朝廷から獣と蔑まれ、忌み嫌われた蝦夷(エミシ)の族長、アテルイ(阿弓流為)がその人です。


(aterui.gif)

紀元8世紀、東北地方に自然と共存し平和に暮らす狩猟採集民がいました。
大和朝廷は彼らを「蝦夷」と蔑称で呼び、豊かな黄金を求め百数十年間にわたって侵略征服を企てたわけです。

エミシ最大の拠点であったイサワ(胆沢=岩手県水沢市周辺)の族長アテルイは、卓越した戦略と勇気で12年間その攻撃を食い止め続けました。
801年、和睦を前提に殺さぬとの約束を信じて征夷大将軍、坂上田村麻呂と共に京へ向かいます。


(tamuramaro.gif)

 坂上田村麻呂

しかし当然のことながら、朝廷を牛耳っているのは六韜をバイブルとしている藤原氏です。
とにかく、この当時は、うそを言ったり、人をあざむくのは、むしろあたりまえでした。
現代人のように、それを嘘だとか、欺くとか、そのような悪い意味では受け止めていなかったと思います。 

いづれにしても、暗殺や陰謀が渦を巻いているような状況です。
殺すか殺されるかという殺伐とした100年間でした。
天皇といえども殺される時代です。
古事記と日本書紀を考えてみてください。
ちょっと読んでみればわかりますが、今の感覚で読めば、嘘の塊のような歴史書です。(ちょっと言い過ぎたかもしれません)

藤原氏がアテルイを恐れるあまり約束を反故にしたと書いている歴史家がいますが、そんなことはありません。
六韜を読めば分かるように、始めから殺すつもりで坂上田村麻呂に命令を出していたはずです。
おそらく、坂上将軍はその命令の真意を疑わなかったでしょう。
「敵を欺く前に、先ず味方を欺け」これが六韜の極意ですから。
そういうわけで、朝廷は、アテルイを京の都から外れた河内(大阪府枚方市)へ連れ出して、まんまと斬首してしまったわけです。
蘇我入鹿の首は、御簾に喰らいついて離れようとしませんでしたが、アテルイの首は空を飛び、宙を走って故郷に向かったということです。
彼の無念な気持ちが分かるというものです。

それで蝦夷の名前の方は

どうなりました?

そうです。それを語るのがアテルイを引き合いに出した目的なんです。
ページが長くなりましたので、次のページに譲りたいと思います。

『なぜ、蝦夷という名前なの?』


『平和を愛したアイヌ人』より
(2003年7月17日)


デンマンさん。。。どうして急に蝦夷を取り上げたのでござ~♪~ますか?

実は、上の記事にコメントをもらったのですよ。

どのような。。。?

次のようなコメントです。

From: servicemail@bravenet.com
To: barclay1720@aol.com
Date: Thu, Nov 15, 2012 1:01 am

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Nov 15 2012 / 01:01:34
userid = barclay1720
Your_Name =
Your_Email_Address =

Comment:

蝦夷なんて名前を親がつけるわけないという思いがかいけつされました。
もっと早くここを見ればよかった。
今度本を買ってよく読みます。

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

たったこれだけのコメントでござ~ますか?

あのねぇ~、僕の記事にはコメントがつかないのですよ。

デンマンさんが口汚く反論するからですわよう。 だから、その事を知っている人は敬遠してしまうのですわ。

とにかく、コメントを貰うのは珍しいことなので僕としては感謝の気持ちを込めて、こうして取り上げているわけです。 

ただそれだけの理由でコメントを紹介したのですか?

いや。。。実は、IPアドレスなどを調べながら、いろいろな事実が解(わか)ったのですよう。

どのような。。。?

コメントを書いてくれた読者のIPアドレスを調べたら次のようなことが解ったのです。

IPアドレス: 219.102.88.***

ホスト名:
pl***.nas934.p-gifu.nttpc.ne.jp

接続回線: 光
都道府県: 岐阜県

プロバイダー

ネットワーク名: INFOSPHERE
組織名: InfoSphere (株式会社NTTPCコミュニケーションズ)
ドメイン名: NTTPC.NE.JP

あらっ。。。岐阜県にお住まいなのですわね?

そうです。 「デンマン・シンジケート」全体の記録を見ると岐阜県からアクセスした人は少ないけれど居るのですよ。


(hg21115.gif)

ところが上のコメントがついた記事が掲載されている Beaverland Web の記録を見ると岐阜県からアクセスした人は一人も居ないということになっている。


(hg21115b.gif)

この上の地図で見ると岐阜県は黒いのですよ。 「黒」はアクセスした人が一人も居ない県なのです。

つまり、アクセス解析のプログラムがコメントを書いた人を記録するのを忘れてしまったということですか? プログラムのミスなのでござ~ますか?

結論から言えば、そういうことになりますよ。 念のために11月15日の記録を調べてみたのですよ。 次のような結果が得られました。


(hg21115c.gif)

あらっ。。。一人見つかりましたわね。

でもねぇ、この人は岐阜県からアクセスしたのではなく、IPアドレスを調べると大阪府からアクセスしているのですよ。

IPアドレス: 223.217.17.***

ホスト名:
i223-217-17-***.s41.a027.ap.plala.or.jp

接続回線: 光
都道府県: 大阪府

プロバイダー

ネットワーク名: PLALA
組織名: 株式会社NTTぷらら
上位情報: エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ株式会社
(NTT COMMUNICATIONS CORPORATION)

ドメイン名: PLALA.OR.JP
ネットワークサービス名: 株式会社 NTTぷらら
ネームサーバ: dns-sa1.plala.or.jp

つまり、アクセス解析プログラムが間違えてしまったのですわね。

いや。。。間違えたのではなく、岐阜県からアクセスしたネットサーファーを見落としたのですよ。

どうして見落としたと判るのでござ~ますか?

アクセスした時間を見てください。 岐阜県からアクセスしてコメントを書いた人は11月15日の午前1時1分に投稿を書き終えて終了ボタンをクリックしたのですよ。 大阪からアクセスした人は午前10時6分にアクセスしている。 しかも、この人物はアイヌ人や蝦夷の記事を読んだのではなく天武天皇と天智天皇の記事を読んだのですよ。

どうして天武天皇と天智天皇の記事を読んだと判るのですか?


(hg21115c3.gif)

上の記録を見ると http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu.html と書いてあるでしょう。 つまり、このURLをクリックして『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』を読んだのですよ。

要するにアクセス解析プログラムがマジで岐阜県の人を見落としたのでござ~ますか? でも、どうしてそうだとデンマンさんは断定なさるのですか?

次の記録を見てください。


(hg21115d.gif)

この記録は11月6日から11月15日までの10日間に Beaverland Web にアクセスした人のIPアドレスをすべて記録したことになっているのですよ。 この記録を見ると大阪府の人は掲載されているけれど、岐阜県の人は漏れている。

そういうことがあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、プログラマーは完璧なプログラムを目指しているけれど、人間の書くものですよ。 たまには間違いをしでかします。 卑弥子さんだって、ついつい大切な物を見落としてしまうことだってあるでしょう?

そうですわね。 考えてみれば完璧な人は居ないのですもの。。。 それに故障しない物もまずありませんわ。 思えば、あたくしが未だに独身なのはあたくしに相応(ふさわ)しい素敵な殿方を見落としているからですわ。 うふふふふふふ。。。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。
確かに卑弥子さんのような素晴らしい女性が独身で居るということは、彼女を見落としている男性もたくさん居るということですわよね。
だから、アクセス解析のプログラムに見落としのミスが起こることも考えられないことではありませんわ。
そう思いませんか?

ところで、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉です。
もともとは自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称の「カムイ」に対する概念としての「人間」という意味であったとされています。

7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれましたが、これは当時の日本人が自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説があります。

アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われました。
丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言ったそうです。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされています。
理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされています。
当時の内地人の耳には「アイヌ」と聞こえたようです。
なぜかというと、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるためです。
「アイヌ」という呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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萌える恋歌の裏に

2011年5月7日

 

萌える恋歌の裏に

 


(rengfire.jpg)

萌える恋歌

平城京に住む人びとは、何を自分たちの住む都の代表的な「景」として想起していたのか。 それを知る手がかりが、『万葉集』の卷15にある。 熱烈な恋歌で知られる中臣宅守(なかとみのやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌である。 罪を得て、越前(現在の福井県)に流される途中に宅守が娘子に送った歌に、次のような歌がある。 配流の時期については明確ではないが、738(天平10)年前後のことだと考えられる。


(rajomon1.jpg)

 

あをによし

奈良の大路は

行き良けど

この山道は

行き悪(あ)しけりかり



(todaiji2.jpg)

 

(あをによし: 枕詞)

奈良の大路は

歩きやすいけれど

この山道は

行きづらい

(巻15の3728)

 (中略)


(bigroad.jpg)

望郷の念にかられた宅守の脳裏にあったのは、整然と南北に延びる平城京の直線道路だったのだろう。 地方の官道が整備されていった時代とはいえ、それは都以外には存在し得ない光景だったからである。 だからこそ、流罪となった宅守が望郷の思いのなかで、都大路を想起したのであろう。 (中略) さて、もう一人、遠く鄙(ひな)の地にあって、望郷の思いから都大路に思いを馳せた歌人がいた。 大伴家持(おおとものやかもち)である。 国司として越中に赴任していた家持は、750(天平勝宝2)年の春3月に、次のような歌を残している。

2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首


(yanagi2.jpg)

春の日に

萌(は)れる柳を

取り持ちて

見れば都の

大路し思ほゆ


春の日に

芽吹いた柳を

手に取り持って

見ると都の

大路のことが思い出される

(巻19の4142)

「柳黛」とは、柳の葉を眉に見立てた言い方で、柳の葉を引っ張って奈良の都に思いをはせた歌、というこよになる。 (中略)都大路には柳が街路樹として植えられていたからである。 ために、遠く越中で見た柳が、都大路を連想させたのであろう。 もちろん、家持は、その大路を歩く美男美女にも、思いをはせていたことであろう。 それは、越中に赴任して迎える4度目の春のことであった。


(kyogals.jpg)

1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。 平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。 これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。 つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。 物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社



(merange12.jpg)

デンマンさん。。。あんさんは「萌える恋歌」を持ち出してきよってぇ、またわたしが恋に狂っていると中傷しやはるのォ~?


(kato3.gif)

ん。。。? わてがめれちゃんを中傷する?

そうですう。 あんさんは、わたしが常に恋をしていないと、うつ病に取り付かれると信じ込んでおりますねん。

わてが。。。?

そうですう。 あんさんは、いつだってわたしの『即興の詩』サイトから萌え萌えの詩や短歌を持ち出してきよってぇ、わたしが恋に狂っていると日本語が分かる世界のネット市民の皆様に、さんざ広めてしまいましてん。

わてが。。。?

そないに惚(とぼ)けないでおくれましなア。

わては惚けておらんでぇ~。 何も、めれちゃんを中傷するために、この記事を書き始めたのとちゃうねん。

そないに言うなら、どうして「萌える恋歌」など持ち出してきやはったん?

あのなァ!~、わては、たまたまバンクーバー図書館から借りてきた『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』を読んでいたのやがなァ。 なかなか興味深い本なのや。

それで、その本の中に「萌える恋歌」がありはったん?

そうなのや。

。。。で、わたしを中傷する気持ちがないんやったら、どないなわけで「萌える恋歌」を取り上げはったん?

「萌える恋歌」というタイトルがついておるのやけれど、わては次の箇所を読んで思い当たることがあったのや。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど次の恋の歌は、どないに読んでも恋の歌ですやん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

めれちゃんにとって、上の歌は何が何でも恋の歌としか思えんのか?

そやかてぇ、恋の歌ですやん!?

そやけど、恋の歌にしては、あまりにも激しすぎるねん。 「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」。。。焼き滅ぼしてくれるような、という形容は相思相愛の恋の歌にはそぐわないねん。 むしろ相手を呪うような気持ちがあるように、わてには思えるのやァ。

わたしは、そないに思わへん。 焼き滅ぼしてくれるような、という形容は狭野弟上娘子の相手を思う気持ちの激しさを訴えているねん。 むしろ情熱の激しさを相手に知って欲しいねん。

でもなァ~、もし、わてがこの歌を相愛の相手からもらったとしたら、「焼き滅ぼ」すという語句を見て一瞬ギクリとするでぇ~。。。もし、恋の情熱を訴えるのやったら、次のような歌になるねん。


 

やわ肌の

あつき血汐に

ふれも見で

さびしからずや

道を説く君

 

by 与謝野晶子


『熱き肌』に掲載 
(2010年3月12日)

(yosa10.jpg+yosa22.jpg)

こないな歌が恋の情熱を訴える歌やと、あんさんは言わはるのォ?

そうや。。。これならば、女の身を焦がすような恋の情熱が男の胸にもひしひしと伝わってくるねん。

そうやろか?

そうに決まってるやん。 めれちゃんかて次のような萌え萌えで、ムンムン、ムレムレの歌を詠んでいたやんかア!

くちづけ

&nbap;


(kiss003.gif)

 

罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ

 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさんは、わたしの詠んだ歌なら何でも保存しておきはるのォ~?

そうやァ。。。あきまへんか? うししししし。。。

つまり、「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」なんて詠むと、男は身を引いてしまうの?

わてならば、「焼き滅ぼ」すという語句を見てドン引きしてしまうでぇ~。。。ちょっと怖(こわ)すぎるやん。。。

そうやろか?。。。ほんならば、狭野弟上娘子は、どないなつもりで上の歌を詠んだと、あんさんは言わはるのォ~?

そやから本文中にも次のように書いてあるやん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど、歴史的事実ってぇ何やのォ?

そやから、わては、その歴史的事実を突き止めようとしたのやがな。

そいでぇ、突き止めはったん?

そうや。

どないして。。。?

中臣宅守は738(天平10)年前後に罪を得て越前(現在の福井県)に流されたのや。 そやから、その時期の事件を調べたのやがな。

735(天平7)年

平城京にきた新羅からの使いに入国の目的を問うたところ新羅は国の名を改めて王城国といったので帰国させている。


737(天平9)年

遣新羅使が新羅に渡した国書を慣例を無視して受け取りを拒まれた事態が報告され、使節を送ってその理由を問うべきか兵を出して征伐するべきかという意見が奏上された。


738(天平10)年前後

中臣宅守(なかとみのやかもり)が罪を得て越前(現在の福井県)に流される。 配流の時期については明確でない。


740(天平12)年

藤原広嗣(ひろつぐ)の乱。 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。
遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。


744(天平16)年

安積親王が、藤原仲麻呂に暗殺される。


745(天平17)年

反藤原政権の一角を担っていた玄昉が九州に左遷させられた。 藤原仲麻呂は、次第に反藤原派を圧迫してゆく。


746(天平18)年

宮内少輔だった大伴家持は越中の守に任じられ越中国に向かった。


763(天平宝字18)年

藤原良嗣(よしつぐ)の乱。 藤原仲麻呂は息子3人を参議に任じ専横を極めた。
良嗣は冷遇され恨みを抱いた。
そこで佐伯毛人(けみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持と共謀し、藤原仲麻呂を殺そうと企てたという密告があって、みな捕まってしまった。
良嗣は取調べを受けて、首謀者は自分一人だけで他の者は関係ないと主張した。
この後、大伴家持は薩摩守に任じられ(左遷され)都から遠ざけられた。

このようにして調べていって気がついたのやけれど、情熱的な狭野弟上娘子の相手である中臣宅守が関係している事件というのは無いねん。 ところが万葉集の編者と言われる大伴家持が関係している事件があるのやがな。

それが藤原良嗣(よしつぐ)の乱やと、あんさんは言わはるの?

そうやァ。

そやかて、その事件は中臣宅守さんと関係あらへん。

あのなァ~、『万葉集』は実は、単なる文学の歌集やないねん。 政治的な告発の書やねん。

それは、あんさんが勝手に、そう信じているだけやん!

いや。。。わてが勝手にそう信じているだけやないねん。

他に誰が、そう言うてるん?

ちょっと次の文章を読んで欲しいねん。

ある朝、新聞をひろげると、三島由紀夫、阿部公房、石川淳、川端康成の四氏が、
—中国の文化大革命は学問の自由を侵す。
という声明文を発表したと報じていた。
昭和42年のことである。

 (中略)

日中両国の相違点の一つの例として、四氏の声明文に登場していただきたいのである。
—学問芸術を終局的に政治権力の道具とするような思考方法に一致して反対する。
という言葉で、四氏の声明文は結ばれている。
学問芸術、文化を、政治権力と対立するもの、すくなくとも離れたものとみる考え方は、きわめて日本的である。
中国の政治理念は、『礼楽(れいがく)の治』であり、礼楽はすなわち文化のことなのだ。
—郁々乎(いくいくこ)として文なる哉(かな)。
と孔子が言ったのは、周の政治をたたえたのであり、政治すなわち文化であるという前提に立つ。
どちらがどちらを道具にするという関係ではなく、ひきはがせない血肉の関係と認識されていた。

 (中略)

近代でもおびただしい数の文人が処刑されている。
魯迅の愛弟子で、『瘋人(ふうじん)』の著者であった柔石(じゅうせき)が銃殺されたのは1931年で、同年に『少年先鋒』によって文学者・李偉森(りいしん)も銃殺された。 『流亡』や『家信』など農村を舞台にした名作をかいた洪霊菲(こうれいひ)は1933年に北京で逮捕されて処刑された。 『乱弾』の著者である瞿秋白(くしゅうはく)が福建で銃殺されたのは1935年のことである。 終戦の翌年、昆明(こんめい)で暗殺された詩人・聞一多(ぶんいった)は、それが政治的な処刑であることを疑う者はいないだろう。
政治の体系はすなわち文化の体系であり、それだけに作家の活動は政治の核心にかかわり合っている。 どの作家も、命を賭けることぐらいは、ふだんから覚悟のうえなのだ。


(yukoku00.jpg)

東方の隣国の文人たちが、中国の文人をあわれんで声明文を出した。 遺憾ながら、大きな的はずれである。
中国では、文人が政治家であるということでも、文学は政治とつながっている。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


199 – 207ページ
『日本人と中国人』 著者: 陳舜臣
2005年8月20日 第1版第1刷発行
発行所: 株式会社 恒文社

つまり、中国人にとって文学は政治とつながっているとあんさんは言わはるの?

そうやァ。。。

そやけど、狭野弟上娘子さんは中国人ではあらへん。

その通りや。

それやのに、あんさんはどうして中国人のことなどを持ち出してきやはったん?

あのなァ~、よう考えてみィ~なァ。 狭野弟上娘子さんは、これだけ激しい恋の歌を詠みはったのや。 そうであるならば、その熱烈な恋歌の受取人であるはずの中臣宅守の関わっている事件が歴史上の有名な事件であるに違いない。 少なくとも歴史に記録されている事件やと、わては思うたのや。 ところが、どのように調べても中臣宅守の関わっている事件が見あたらへん。 それなのに事件とはまったく関わりがないと思われる狭野弟上娘子さんの熱烈な恋歌だけが万葉集に掲載されてるねん。 めれちゃんは、おかしいと思わへんか?

そうでんなァ~。。。 そう言われてみると確かに腑に落ちないところがありますわ。

そうやろう!?

。。。で、あんさんは、どうなってると思いはったん?

そやから、『万葉集』の編者である大伴家持が詠んだのやがな。

狭野弟上娘子さんの名前を借りて家持さんが詠みはったん?

わては、そう推断したのや。

そやかてぇ、大伴家持さんは中国人ではあらへん。

あのなァ~、この当時の役人や歌人には渡来人の子孫がようけい居るねん。

その根拠は。。。?

次の文章を読んでみィ~なァ。

平城京は人口の三分の一が

外国人の国際都市だった!?


(todaiji2.jpg)

現代は国際化社会とよくいわれるが、奈良時代の都だった平城京は、現代の東京も横浜も神戸もびっくりの国際都市だった。 なんと、人口の三分の一ほどが外国人だったというのだ。

平城京は、100万人の人口をかかえる国際都市だった唐の長安(ちょうあん)を手本につくられ、東西4.3キロメートル、南北4.8キロメートルの大きさがあった。

住民構成に関するはっきりとした資料はないが、平安時代の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、京都の平安京内に本籍を持つ氏のうち、三分の一近くが渡来系の氏族であったことがわかり、平城京の場合でも、その割合は似たようなものだったろうと推定される。

これら渡来人には、外交や貿易などのため、唐や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)からやってきた人々もいれば、もっと古い時代に百済や高句麗からやってきた人々の子孫もいたと思われる。

 (中略)


(kyogals.jpg)

渡来系氏族とはちょっと異なる外国人としては、唐からやってきて日本の役人になった李元環、波斯人(はしじん:ペルシャ人)だったといわれる李蜜翳のほかにも、ペルシャ人がシルクロードと唐を経由して日本に渡来したという話はいろいろ伝えられており、正倉院御物(ぎょぶつ)にペルシャの工芸品が多いのも、ペルシャ人が日本にやってきていたからではないかともいわれている。 また、僧侶たちも、唐はもとより、インドやインドシナ出身の者もいる。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


18 – 19ページ
『歴史で読み解く日本地理』
著者: 河合敦
1999(平成11)年9月8日 第1刷発行
発行所: 東京書籍株式会社


(merange12.jpg)

なるほどねぇ~。。。当時の都の平城京に住んでいる人には渡来人がようけい居りましたのやなァ~!? そやけど、大伴家持さんが中国人だったという確証はありまへんのやろう?


(kato3.gif)

もちろん、わては大伴家持さんが中国人だったと言うつもりはないねん。 そやけど、中国人の影響を強く受けとるねん。

どないなわけで。。。?

大伴家持の家庭教師が山上憶良(やまのうえのおくら)やったからやァ。 この事について、わてはすでに記事を書いておるねん。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)


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養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


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橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)


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斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。


(sail30.jpg)

702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

歴史家の中には山上憶良が百済系帰化人である可能性も強い、と言っている人もおるくらいなのや。

つまり、大伴家持は唐から帰ってきた山上憶良の影響を受けて当時の藤原氏を告発するために、狭野弟上娘子に成り代わって告発のための歌を詠んだと。。。?

そう言う事になるねん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

判りましたわ。 そやけど、その“歴史的事実”って何やのォ~?

757(天平宝字元)年4月

群臣が集められ皇太子を決める会議が開かれた。
この中で藤原豊成や藤原永手(ながて)は道祖王の兄・塩焼王を推し、反藤原派は舎人親王の子・池田王を推した。
これに対し藤原仲麻呂一人が「天皇がお決めになればよろしいのでは」と発言した。 すると天皇は、大炊王(おおいおう)を立てたいと思う、と述べられた。
実は、大炊王は藤原仲麻呂が自宅で養子のように飼い慣らしていた皇族であった。

つまり、すべて藤原仲麻呂の仕組んだ筋書き通り、聖武天皇の影響を排除して藤原仲麻呂の言いなりになる皇太子を誕生させたのである。


757(天平宝字元)年6月16日

藤原仲麻呂は橘奈良麻呂ら、反藤原派の主だった者を左遷した。


764(天平宝字8)年

藤原永手は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位・大納言に叙任、勲二等を叙勲される。
その後、道鏡政権が成立し右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、藤原永手は薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。


766(天平神護2)年

藤原永手は右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。


770(神護景雲4)年

称徳天皇崩御。 これに伴う皇嗣問題では、藤原永手は天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。
なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文浄三・大市を推した吉備真備に対して、藤原永手は式家の藤原良継・百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。
また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。
なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、藤原永手は井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている。


771(宝亀2)年

藤原永手が病により薨去。享年58。
即日太政大臣の官職を贈られた。

つまり、藤原氏の専横を後代の日本人に知ってもらおうとして大伴家持が狭野弟上娘子に成り代わって詠んだと、あんさんは言わはるの?

そうや。 大伴家持の父・旅人(たびと)は729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」では涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならへんかった。 家持も、藤原良嗣(よしつぐ)の乱では、藤原氏に疑われて左遷されたのやァ。 彼は薩摩守に任じられて都から遠ざけられてしもうた。 要するに親子2代の屈辱が骨身に沁みてるねん。 そやから、次の歌には、藤原良嗣の乱で受けた屈辱と、藤原氏に対する専横の恨みが滲(にじ)み出ておるねん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

つまり、「長手」とは「藤原永手(ながて)」のことやの?

そういうことになるわなァ~。

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の恋歌の解釈は、なんだかデンマンさんのこじつけのようにも思えますけれど、藤原氏の専横があったことは歴史的に見て誰も疑いをさしはさめません。

あなただって平安時代の歴史を読めばわかるでしょう!
あの有名な藤原道長が藤原氏でない者は人にあらずと言ったのですから。。。
実は、藤原氏の世の中って大変な世の中だったのですわよねぇ。
デンマンさんが書いた次の記事を読めば良く分かりますわ。

『平安時代は決して平安ではなかった』

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


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こんにちはジューンです。

藤原氏の時代も大変な世の中だったようですが、

ナチスの時代も酷かったのですよね。

その時代の状況を最もよく伝えているのは

なんと言っても『アンネの日記』ではないでしょうか?

感動的な作品ですよね?

この作品を読めば、

ナチズムがどういうものであったかが

伝わってきますよね。

あなたは読んだことがありますか?


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いつでも、こんな風に写ってたらいいなぁ。

私のお気に入りの写真ですよ。

これだったらハリウッドも夢じゃないと思う。

1942年10月10日 アンネ・フランク

【ジューン意訳】

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


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