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オルフェと聖徳太子

2014年9月6日

 

オルフェと聖徳太子

 


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『黒いオルフェ』 主題歌

『黒いオルフェ』 (予告編)

『黒いオルフェ』 (全編 フルムービー)


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デンマンさん。。。 今日は マジでロマンチックな映画のテーマ音楽で始まりましたけれど、“聖徳太子”とは時代も何も全く関係ないじゃござ~♪~ませんかァ!


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あのねぇ~、全く関係ない事を僕が持ち出すはずがないでしょう!

つまり、“黒いオルフェ” と “聖徳太子” が関係あるのでござ~ますかァ~?

もちろんですよ。 あのねぇ~、もうずいぶん以前のことになるのだけれど、バンクーバー市立図書館の分館で Joe Fortes Library というのが僕のマンションの近くにあるのですよ。


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日本で言えば公民館の中にある図書館でござ~ますわねぇ~。。。

そうです。 その分館で もう古くなって要らなくなった本をダンボールの箱の中に詰めて“どうぞご自由にお持ち帰りください”という札をつけて入り口の近くに置いてあった。

そのダンボールごとデンマンさんはマンションに持ち帰ったのでござ~ますか?

いや。。。 それほどあつかましいことは僕にはできませんよ。 30冊ぐらい あったのだけれど、その内のいくつかを手にとって 興味のある本を5冊ほど持ち帰ったのですよ。 その内の一冊に“The Age of Fable”という本があった。


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“神話の時代” あるいは “おとぎ話の時代”とでも言うのですか?

そうです。 Thomas Bulfinch というおっさんが書いた本なのだけれど、初版が出たのが なんと 1855年。。。 今から 159年も前のことですよ。

そのタダの本をデンマンさんは読み始めたのでござ~ますか?

そうなのですよ。 10年ぐらいほったらかしにしておいたのだけれど、たまたま1週間ほど前に手にとって見たのですよ。 そしたら、けっこう面白い。 その話の中に“オルフェとユリディス(Orpheus and Eurydice)”の話が出てきたのです。 もう著作権が切れてパブリックドメインで公開されているようで、ネットで調べたら次のサイトで ほぼ全文が公開されていましたよ。

Orpheus and Eurydice


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ORPHEUS was the son of Apollo and the Muse Calliope.
He was presented by his father with a Lyre and taught to play upon it, which he did to such perfection that nothing could withstand the charm of his music.
Not only his fellow-mortals but wild beasts were softened by his strains, and gathering round him laid by their fierceness, and stood entranced with his lay.
Nay, the very trees and rocks were sensible to the charm.
The former crowded round him and the latter relaxed somewhat of their hardness, softened by his notes.

Hymen had been called to bless with his presence the nuptials of Orpheus with Eurydice; but though he attended, he brought no happy omens with him.
His very torch smoked and brought tears into their eyes.
In coincidence with such prognostics, Eurydice, shortly after her marriage, while wandering with the nymphs, her companions, was seen by the shepherd Aristæus, who was struck with her beauty and made advances to her.
She fled, and in flying trod upon a snake in the grass, was bitten in the foot, and died.
Orpheus sang his grief to all who breathed the upper air, both gods and men, and finding it all unavailing resolved to seek his wife in the regions of the dead.
He descended by a cave situated on the side of the promontory of Tænarus and arrived at the Stygian realm.
He passed through crowds of ghosts and presented himself before the throne of Pluto and Proserpine.


SOURCE: “Orpheus and Eurydice”

話の前半部を書き出したのだけれど、日本語に訳すと“あらすじ”は次のようになるのですよ。


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オルフェの妻ユリディスが毒蛇にかまれて死んだとき、オルフェは妻を取り戻すために冥府に入った。

彼の弾く竪琴の哀切な音色の前に、ステュクスの渡し守カローンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は魅了され、みな涙を流して聴き入った。

ついにオルフェは冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネーの王座の前に立ち、竪琴を奏でてユリディスの返還を求めた。

オルフェの悲しい琴の音に涙を流すペルセポネに説得され、ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、ユリディスをオルフェの後ろに従わせて送った。

目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルフェは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それが最後の別れとなった。

あらっ。。。 このお話は 日本の神話の“イザナギとイザナミ”のお話と瓜二つではござ~ませんかァ!

京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授も そう思いますか?

そうですわ。 そのお話を知らないネット市民の皆様のために あたくしが書き出しますから、知らない人は読んでくださいまし。

イザナギとイザナミ


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イザナギ神は、亡き妻に会いたい気持ちが募り、
とうとう死者の国である黄泉国(冥界)まで
イザナミ神を追って行きました。

そして、黄泉の国の御殿の内側にいる
妻のイザナミ神に向かって、言いました。

「いとしい妻よ。
私とオマエで作っている国は、
まだできあがっていない。
どうか、帰ってきておくれ。」

「残念です。あなたが なかなか来なかったので、
私は、黄泉の国で作った食べ物を
食べてしまいました。 だから、もう帰れません。
でも、いとしい夫のあなたが来てくれたので できたら帰りたい。
黄泉の国の神と相談しますわ。
その間、けっして私を見ないでください
そう言って、イザナミ神は御殿の奥に入ってゆきました。

イザナギは、ずいぶん長い間待ちましたが、
イザナミ神は現れません。

待っていられなくなったイザナギ神は、
ついに髪の左のみづらにさしていた、
くしの歯を一本折って火をともし、
御殿の中に入ってゆきました。

そこで見たイザナミ神の姿には、
なんと、イザナミの体にはうじ虫がたかり、
頭、胸、腹などには雷神がいました。

それを見たイザナギ神は恐れおののき、
黄泉の国から逃げ帰ろうとしました。

すると、イザナミ神は、
「よくも私に恥をかかせましたね。」
と言って追いかけてきました。

イザナギ神は、千人で引くほどの重い大きな岩で、
黄泉比良坂を塞ぎ、イザナミ神と、
その岩を間に置いて向かい合って立ちました。

イザナミ神は、言いました。
「いとしい私の夫よ。
あなたがこのようなことをするのなら、
あなたの国の人を一日千人、殺しましょう。」

イザナギ神が応えました。
「いとしい妻よ。
あなたが千人殺すなら、
私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」
こういうわけで、
一日に必ず千人死に、
千五百人が生まれるのです。

こうしてイザナミ神は、
黄泉津大神という名になりました。

この話に出てくる黄泉比良坂は、
出雲国の「伊賦夜坂」 のことであると言われています。


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どうして2つの話が これほど似ているのか? 卑弥子さんは どう思いますか?

偶然ですわ。

あのねぇ~、偶然にしてはできすぎているのですよ。

だってぇ~、“オルフェとユリディス(Orpheus and Eurydice)”のお話はギリシャの神話でしょう! 「イザナギとイザナミ」のお話は日本の古代の神話ですわ。 ギリシャと日本という距離を考えれば、偶然だとしか言いようがござ~ませんわァ。

あのねぇ~、よ~く考えてみてください。 時間も距離も越えて『黒いオルフェ』という映画か 1959年に作られた。 つまり、“オルフェとユリディス(Orpheus and Eurydice)”という話には、それほど人の心に訴えるものがある。

つまり、ギリシャ神話の“オルフェとユリディス”というお話が  「イザナギとイザナミ」のお話の出所だとデンマンさんは言うのですか?

もちろんですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。

なぜ厩戸王子なの?

母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本 書紀などに見られます。
これはキリストの生誕を彷佛とさせます。

実際、キリスト教の一派であるネストリウス派が中国に伝わったのは唐の時代ですから、後世それを拝借して太子の誕生を脚色したのではないか、という説があります。

確証はないけれど、面白い話ですね。

上のようなウェブページを見かけますが、果たして確証がないのだろうか?私が初めてこの話に出くわした時には、 「必ず関連があるはずだ」、という思いに駆られたものです。
なぜか?
すぐに正倉院の宝物が思い浮かびました。


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世界で最も古くガラスが作られたのは,紀元前2300年代以前にさかのぼると言われています。
また、カットによってガラス容器の表面を飾る技法は、 紀元前8世紀ごろ始められたと言われています。
バビロニアのサルゴン王(紀元前722-705)の時代に透明なガラスが出来、カットの技法により削り出し、容器に仕上げる方法が発達しました。
この技法はペルシャのアケネメス王朝(紀元前558-331)のガラス工芸にも受けつがれ、素晴らしいガラス器を生み出すことになります。

ペルシャのササーン王朝時代(226-651)には、アケネメス時代のカットグラスが更に発展し、盛んに製作されるようになりました。
私たちが訪れる奈良の正倉院に現存する、上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は、このササーングラスの一つです。
(現物はもう少し色が濃いです)


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正倉院というのは、ご存知のように聖武天皇の宝物などを収めた校倉(あぜくら)造りの建物です。
同天皇が没した756年にはすでに建立されていたということが、 最近の研究によって分かりました。
この上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は4世紀か5世紀に作られたらしいのです。
従って、もし、4世紀に作られていたとすれば、それが、何百人かの商人の手を経て300年から400年かかって、上のシルクロードをたどりながらペルシャから大和へもたらされたことになります。

ということは、もうこの当時から、ペルシャから大和に至る人の流れがあったわけです。
物が運ばれるということは、同時に珍しい話や面白い物語なども、商人の口を通して伝わってくるわけです。
キリストが生まれたのは、紺瑠璃杯が作られた時よりも更に300年程前です。
従って、キリスト生誕にまつわる話が商人の口を通して、聖徳太子が生まれるかなり以前に日本へ伝えられたとしても、時間的に十分考えられることです。

秦氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ)

日本書紀」応神天皇14年条に、弓月君(ゆづきのきみ)が百済より人夫120県を領(ひき)いて「帰化する」とあって、この弓月君を「新撰姓氏録」では秦氏の祖としています。
しかし、この弓月君とは、一体どういう人物だったのでしょう?
この人について調べてみたいと思います。

京都には太秦(うずまさ)と呼ばれる土地があります。
太秦(だいしん)とは中国語ではローマ帝国のことを、そう呼びます。
紀元前221年に始皇帝がうち立てた秦という国は、すでに述べたとおり、ペルシャ人を通して西アジアの文明をたっぷり取り入れています。
中国人の目には、西方にあると言う点で、太秦(だいしん)と秦は関連のある国として映っていたのかもしれません。

紀元前207年に、この秦が滅びます。
この滅亡の民の一部が朝鮮に逃れ、秦韓に住んだといわれます。
この人たちの長者が弓月君(ゆづきのきみ)で、応神天皇の時代に、この一族が大挙して日本へ渡来してきました。
弓月君は融通王とも呼ばれる秦氏の祖で、すでに述べたように、応神14年百済より帰化したと書紀に載っています。
秦の始皇帝の5世の孫ともいわれ、のち波多姓を賜っています。

秦氏は、ユダヤ人の景教徒だった?

この「弓月」には、どのような意味があるかと調べてみると、「ユヅキ」は、「ユダ」のことで、太秦の「ウズ」も同じ意味ではないかと述べている研究者がいました。
太子の死後、腹心の秦河勝は追善のため太秦に広隆寺を興しました。
この秦氏の「ハタ」も、司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだ、と言います。

ハタとは、ネストリウス派では全教会の総主教のことをそう呼ぶそうです。
太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものだとも言われています。
このようなことから、秦氏は、ユダヤ人の景教徒だったのではないかと述べています。

また、広隆寺には「伊佐良井の井戸」がありますが、これはイスラエルのことだ、と言う説があります。
この寺域には、また、大酒神社という社(やしろ)があります。
もともとは大闢(だいびゃく)神社といい、この大闢とはダビデのことをいうそうです。
しかも、太秦には非常に珍しい三柱鳥居というのがあります。
ユダヤの「ダビデの星」を模したものだそうで、これは、また、キリスト教の三位一体を表すとも言われています。

なんとなく眉唾くさいと思いながら調べてゆくと、次のような記述に出くわしました。
世界中の神殿で、日本の神社に似たものは紀元前10世紀頃のイスラエル王国のものしかないそうです。

イスラエルの檜づくりの神殿には鳥居に似た二本の柱が立っていました。

神官は禊(みそぎ)をし、白の着物を着て、神に酒と初穂を捧げました。

また、柏手(かしわで)を打って拝みます。

しかも、清めに塩を使い、榊(さかき)に似た小枝でおはらいをしました。

こうしたことから、 日本神道は古代のユダヤ人が持ち込んだと、昭和初期、小谷部全一郎という人が言い出しました。


『なぜ厩戸王子なの?』より
(2003年8月3日)

どうですか、卑弥子さん。。。 古代のユダヤ人が“オルフェとユリディス”という話を持ち込んだとしても決して不思議じゃないでしょう!?

つまり、古事記を編纂させた藤原不比等が その話を基にして 「イザナギとイザナミ」の話を作らせたのでござ~ますか?

そうですよ。

でも、なぜ。。。?

だってぇ、考えてもみてください。 1959年に“オルフェとユリディス”を基にして『黒いオルフェ』を映画にした人が居るじゃないですかァ~! 藤原不比等も、この話を『古事記』に載せれば“ウケル”と思ったのですよ。

でも、それは ちょっと考えすぎではござ~ませんかァ~?

いや。。。 これまでの話を素直に読んでくれば 卑弥子さんだって なるほどと納得できるでしょう!? 


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは どう思いますか?

ところで、エジプトのギザのピラミッドは誰が何のために造ったのか?
知っていますか?
伝統的な歴史家の解釈では、古代エジプト人がファラオのお墓にするために造ったということになっています。

でも、最近、人類学者、地質学者、土木技術者、天文学者、地球物理学者、考古学者、自称歴史学者などによる、新たな発掘や、発見などから、ピラミッドがファラオのお墓であるという解釈は退(しりぞ)けられているのでござ~ますわ。
少なくとも、ギザのあの3つのピラミッドは墓ではないという見方が大勢を占めています。

それに、いつ頃 あのギザのピラミッドが造られたのか?
いわゆる“エジプトロジー学会”の言うところではピラミッドは 2575BC から 2150 BCにかけて造られたということになっています。

しかし、この考え方にも疑問を持っている研究者は多数いるのでござ~ますわ。
例えば、ギザの三大ピラミッドおよびナイル川の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は現在から1万500年前の天体の配置を模したものであるという説もあります。
すなわち、ナイルが天の川で、三大ピラミッドがオリオン座のベルト、即ち中央を横切る三つ星に相当、他のピラミッドも星の位置に対応しそれを反映しているということです。
三大ピラミッドのうち、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことについて説明する有力な説とも言われています。
ただし、この説はいわゆる“エジプトロジー学会”では認められていません。

ちなみに、聖書は地球の年齢を約6,000年と教えています。
おそらく一部の狂信的な聖書信奉者を除いて、地球の年齢が約6,000年だと考えている人は居ないでしょうね!
つまり、ダーウィンの『種の起源』が1859年に出版される以前は、多くの人が地球の年齢が約6,000年だと考えていたのでござ~ますわ。
それから、まだ200年経っていません!
驚きですわ。

要するに、“エジプトロジー学会”の定説は、言ってみれば“聖書の教え”のような教条主義に陥(おちい)っているようですわねぇ。
そのような教条主義から脱却して、意欲的で、自由な、創造的な発想でエジプトロジーを考える動きがすでに始まっています。
次に示すビデオ・クリップは3時間以上に渡る長いものですが、そのような人たちによる 新しいエジプトロジーの動きです。
英語ですが、映像がふんだんにあって、講義はありません。
実に興味深いビデオです。
3時間見る価値がありますわァ。

なぜ。。。?
かつて、戦争のない平和な世界を出現させた高度な文明を持った人たちが、この地球上にいたのですわ。
その人たちのことが次のビデオクリップには出てきます。


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どうでした?
上のビデオを見ると、最近のエジプトロジーの動向と未来が見えてくると思いますう。

ところで、エジプト文明も面白いですけれど、日本の古代も面白いですわよ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいね。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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チョー有名な三角関係

2014年5月29日

 

チョー有名な三角関係

 


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デンマンさん。。。 なんだか おもろい画像でござ~♪~ますわねぇ~。 おほほほほほ。。。 でも、どうしてベッドルームが日本間なのでござ~ますか?


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だから、日本のお話ですよう。

ムカついている女性は、日本人には見えませんわ。。。んで、最近のお話でござ~ますか?

いや。。。 ずいぶんと昔の話ですよ。 卑弥子さんは最近の“チョー有名な三角関係”を知っているのですか?

いいえ。。。 あたくしは、そのような事には興味がござ~ませんわァ。

あれっ。。。 マジで。。。? 女性は、けっこう そういう事には興味があるじゃありませんかァ! 女性週刊誌が売れるのも芸能界の乱れた関係やゴシップが たくさん書いてあるからじゃないのですかァ?

。。。んで、ずいぶん昔の“チョー有名な三角関係”というのは、いったい誰のことでござ~ますかァ~?

卑弥子さんも良く知っている人物ですよ。 ちょっと次の和歌を読んでください。

茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る

 

作者:

額田王(ぬかたのおおきみ)


現代語訳:

茜色の光に満ちている紫の野、

天智天皇御領地の野で、

あぁ、あなたはそんなに

袖を振ってらして、

野守が見るかもしれませんよ。

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あらっ。。。 このお歌は、あの有名な額田王(ぬかたのおおきみ)がお詠みになったものではござ~ませんかァ!

そうですよう。

懐かしいですわァ。 確か以前にデンマンさんは『日本で最も有名な三角関係』というタイトルで記事を書いていましたわね。


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『日本で最も有名な三角関係』

。。。んで、どう言う訳で、また額田王のお歌を取り上げたのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は夕べ本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。

「天智・天武」兄弟の争いか

『日本書紀』や『万葉集』はこの二人と額田王の関係を文芸的、映像的に描くが、歴史学者や文学研究者のなかにできすぎの話とする見解が増えてきた。

天智・天武兄弟説の矛盾には「大化の改新」でも触れたが、この二人をめぐる額田王の恋歌にしても早くから白川静、沢潟久治、池田弥三郎、山本健吉らによって否定されている。

短歌の文体も初期の漢詩体ではなく数十年後の文体であり、後世の造作の疑いが大きい。


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)


298ページ 『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治、伊ヶ崎淑彦、いき一郎
2012年8月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房

つまり、上の歌は額田王がお詠みになったのではなくて、誰か他の人が作ったというのでござ~ますか?

そうですよゥ。。。

。。。んで、デンマンさんも、そう思うのでござ~ますか?

そうです。。。 「大化の改新」だとか。。。 いろいろと考えてゆくと、この当時、不思議な謎が多すぎるのですよ。


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「大化の改新」はマジでなかったのでござ~ますかァ?

もちろん「乙巳の変(いっしのへん)」という大事件はあったのですよ。 つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼしたのですよ。 でもねぇ~、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行したことになっている。 でも、この一連の政治改革について、歴史研究者の間で、いろいろな疑問を投げかけている人がいるわけですよ。

上のビデオクリップは、その疑問についてのことでござ~ますか?

そういうことです。

。。。んで、額田王のお歌とされているものも、「大化の改新」と関係あるのでござ~ますか?

僕は関係していると思うのです。。。 だから、こうして また“チョー有名な三角関係”を取り上げたわけなのですよ。

分かりましたわ。。。 では、その訳をさっそく 伺いたく思いますわァ~。

あのねぇ~。。。 上の引用の中で次のように書いてあることに注目してください。


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『日本書紀』や『万葉集』は

この二人と額田王の関係を

文芸的、映像的に描くが、

歴史学者や文学研究者のなかに

できすぎの話とする見解が増えてきた。

できすぎの話というのは、いったい どういうことでござ~ますか?

つまり、あまりにも都合のいいような話ということですよ。

誰にとってでござ~ますか?

もちろん、天智天皇の後に政権の座につく天武天皇に都合のいい話になっているのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ、そうじゃありませんか!? 上の歌を読む限り額田王が 後に天武天皇になる大海人皇子に惹かれているのがよく解る。 この歌を後世の我々が読むと、どうやら人間的に見て天智天皇よりも天武天皇の方がすぐれているのではないか! だから、額田王も天武天皇の方に惹かれているのではないか! 僕は、初めて上の歌を読んだ時に、そのような印象を持ったのですよ。 ところで、この時大海人皇子(後の天武天皇)は額田王の上の歌に答えている。


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紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも

額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。

今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。

でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。

こんなに愛してしまっているんだよ。

もう、恥も外聞もないよ。

ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、

あのように手を振ってしまったんだよ。

分かるだろう?

こんな気持ちだと思うのですよね。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”で

あるにもかかわらず、

なぜ謎の女性なのか?


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額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。


(keizu03.gif)

この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。


(keizu03.gif)

上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたんですよ。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
つまり、幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。
このことについては、あとで詳しく書きたいと思います。

では、万葉集の中でこれだけ額田女王を輝かせたのは誰なのか?
それは、『万葉集』の編集長の大伴家持です。
ここで大伴家持の事を書くと長くなるので書きません。
すでに次の記事の中で詳しく書いたので関心のある人はぜひ読んでみてくださいね。

『性と愛と批判—万葉集の中の政治批判?』

大伴家持は反骨精神を持った人物です。
藤原不比等が横暴の限りを尽くしたことを苦々しく思っていた人です。
大伴家持自身も“藤原政権”に反抗して時の権力者によって“逮捕”され罰を受けたこともあります。
上の記事の中で、そのことも書きました。

つまり、持統天皇のごり押しによって、額田女王の記述が『日本書紀』の中にたった1行しか書いてないことも、大伴家持は苦々しく思っていたことでしょう。
『万葉集』は大和朝廷の正史ではありません。
だから、時の権力者は見逃してしまったのでしょうね。

「愛の歌を載せたんですよ。
政治とは関係ありませんからね。。。」

“発禁処分検閲官”が調べにやってきた時に、おそらく大伴家持はそう言ったでしょうね。

「まあ、そういうことならば、いいでしょう。。。」

馬鹿な検閲官は愛の歌と聞いて見逃してしまったのでしょうね。
でも、よく読めば、この相聞歌の裏には、生々しい政治的な“三角関係”が秘められている。
つまり、天智天皇が暗殺されて天武政権が出来上がって行く過程をこの相聞歌として万葉集に載せている。

『天武天皇と天智天皇は

 同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

持統女帝は天智天皇の娘です。
しかし、崩壊家庭に生まれ育ったこの娘は、自分の母親とおじいさんがこの非情な父親のために死に追いやられたことを恨んでいました。
この娘は、父親に利用されて、腹違いの兄(弟ではない。実は兄)、大海人皇子の妻になるようにと言われて、実の姉と共に大海人皇子の妻になったのです。
でも、大海人皇子の心は上の歌でも明らかなように額田女王を愛している。

実の姉が亡くなり、名実ともに天武天皇の皇后になったけれど、夫の心は自分にはないと分かっている。
腹の中では夫に対しても、額田女王に対しても頭にきている!
天武天皇が亡くなる。
自分の血がつながっていない夫の子供たちには、何が何でも皇位を渡したくはない!
持統女帝として、自分で皇位を継ぐ。

同志の藤原不比等が『日本書紀』の編集長になる。
持統天皇は言ったはずす。

「あのね、史(ふひと)さん、額田女王のことは1行だけ書けばいいのよ。。。
あなたにも私の気持ちが分かっているわよね。。。」

「かしこまりました。そのように手配いたします。」

女帝と藤原不比等の会話はこのようなものだったでしょうね。

しかし、万葉集の編集長の大伴家持は反骨精神に燃えています。

おまえたちの思うようにはこの世界は動かんぞ!
読む人が読めば分かるように万葉集の中に真実を載せるだけさ!
いづれ、分かる時が来るさ!

僕は大伴家持のそのような呟(つぶや)きを聞きながら万葉集を読んでいます。 うへへへへ。。。。


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

古代史は遠い昔のことには違いありません。
でも、現代にも通じるような人間ドラマが秘められているように思うのでござ~ますわ。

そう考えながら読めば、新しい発見があるかもしれませんわ。
そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みください。

では。。。

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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外人に乗っ取られた日本?

2014年3月21日

 
 
 
外人に乗っ取られた日本?
 

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デンマンさん。。。 日本がアメリカ人に乗っ取られたと言うのでござ~♪~ますかァ~?


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あのねぇ~、確かに、この10年で 日本の大会社の社長の椅子には 外人社長がたくさん座っていますよねぇ~。。。 20年前には考えられなかったことですよう。

でも、財務省だとか、文部科学省だとか、防衛省。。。 日本の省庁の官僚には外人はいませんわ。

うん、うん、うん。。。 確かに、日本の官僚は日本人が占めていますよ。

だったら、日本が外人に乗っ取られたと言うのは言い過ぎではござ~ませんかァ?

あのねぇ~、僕は現在の日本のことを話そうとしているのではないのです。

じゃあ、いつの日本のことですかァ~?

たまたま ネットをサーフィンしていたら 次のビデオ・クリップにぶち当たったのですよ。


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【歴史ミステリー】大化の改新はなかった?

あらっ。。。 大化の改新はなかったというのは ホントでござ~ますか?

あのねぇ~。。。 何を以(も)って「大化の改新」と言うのか? それによって答えはイエスともノーともなるのじゃないか!?。。。と僕は思うのですよ。 645年に「乙巳(いっし)の変」という事件が起こった。 蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともできるのですよ。

でも、たいてい クーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」だと言われていると思いますわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは けっこう詳しいのですね。。。

だってぇ、その程度の事は学校で教わりましたわ。

とにかく、僕も いろいろと調べてみたのだけれど、この いわゆる「大化の改新」には謎が多いのですよ。 それで、上のテレビ番組でも【歴史ミステリー】として取り上げているわけですよ。

でも、当時の日本が外人に乗っ取られていたなんて、上のビデオ・クリップでは一言も触れてないでしょう!?

その通りです。 日本が外人に乗っ取られていたなんて言ってません。

それなのに、デンマンさんは当時の日本は外人に乗っ取られていたと主張するのですか?

そうですよ。 当然のことですよ!

でも。。。 でも。。。 そのような事を学校では教わりませんでしたわ。

でもねぇ~、証拠はたくさんあるのですよ。 ほとんどの人は知らないだけなのですよ。 あるいは、認めようとしないのですよ。

その証拠というのは。。。?

例えば、上のビデオ・クリップでも次のように説明していますよ。


(fujiwa90.jpg)

「乙巳(いっし)の変」を決行した重要人物は二人。 後の天智天皇になる中大兄皇子と中臣鎌子(鎌足)ですよ。 この中臣鎌足は後に藤原氏の姓をもらうわけです。 この鎌足の次男が藤原不比等ですよ。 不比等の4人の子供たちが藤原四兄弟として、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となったわけですよ。 つまり、この時から藤原氏は 日本史の表に出たり裏に引っ込んだりしながら、日本を牽引(けんいん)してゆくのですよ。

でも、鎌倉幕府が出来てからは藤原氏は没落したのでしょう!?

表面的には没落したように見えるけれど、裏では影響力を現在まで持ち続けたのですよ。

マジで。。。?

あのねぇ~、藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を名乗ったけれど、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかったのですよ。 でもねぇ~、例えば戦前に総理大臣になった近衛文麿は、この「近衛」家の歴代の当主のひとりですよ。

あらっ。。。 そうだったのでござ~ますかァ~?

藤原氏は、日本では皇室に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系ですよ。 指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、徳川家正は従弟にあたる。 また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕や、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務める近衞忠煇は近衛文麿の孫にあたるのです。

でも。。。、でも。。。、この藤原氏の祖先は マジで外人だったのでござ~ますかァ?

当然でしょう!

当然でしょうってぇ~、学校ではそのようには教わりませんでしたわ。

もちろんですよ。 戦前の皇国史観が戦後もある分野では根強く残っていましたからね。 それに、大化の改新当時はどうであれ、今では近衛文麿を外人だと思う人は、この日本には誰もいないでしょう! でもねぇ、藤原鎌足は外人だった。

あらっ。。。 マジで。。。?

それに、卑弥子さんの祖先も外人だったのですよ。

あらっ。。。 そのような事は母からも父からも聞いてませんわア。

やだなあああァ~。。。 だってぇ、京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授の祖先は藤原不比等の妻になった橘三千代(県犬養三千代)なのですよ! それに、僕の祖先も百済からやって来ましたからね。 


(himiko40.gif)

『デンマンの祖先は

百済からやって来た』

やはり、僕の祖先も 元をただせば外人だったのですよ。

。。。で、藤原鎌足が外人だという証拠は。。。?

そのことなら、僕はかつて記事に書いたのですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。

『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。


(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。


『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)

でも、たとえ、藤原家の祖先が百済からやって来たとしても、それだけで当時の日本が外人に乗っ取られたと言うのは、言い過ぎぎだと思うのでござ~ますわァ。

あのねぇ~、他にも証拠があるのですよ。 藤原家の祖先だけが外人ではなかったのですよ。 当時の政府には大臣や官僚に多くの外人が就いたのです。 次の小文を読んでください。

人類学者 埴原和郎(1928-2004)は80年代に日本列島の古代の人口増が同じ農耕民族とくらべて著しく大きいことに気付き、つぎのような仮説を発表した。

人口推計は小山修三(国立民族学博物館)のコンピューターシミュレーションを使用し、縄文晩期から古墳時代終末期の700年ごろまでの千年間の人口が著しく増えたことを分析した。

75,800人から 5,399,800人 (人口千年間に 70倍)

世界農耕民は年 0.1%  日本は 0.427%

社会増がある — 移民(渡来人) 3,000,000人 ほど

7世紀住民構成 縄文直系 1 – 渡来 25

平均増加率 0.1 ~ 0.2 として 渡来系 1,500,000人以上

縄文系対渡来系 最終的に 1 対 8.6


(『科学朝日』 1988年2月号)

ここで近江政権をざっと見ておこう。
663年、白村江の敗戦の後に那津(博多)をへて近江に作られた新政権はきわめて百済色の濃いものであった。
(日本書)紀によれば、翌年に百済王善光らを難波に住ませたとあり、ここまでの百済渡来(亡命)要人と併せるとひとつの政府幹部を構成するほどで、近江国に移住させた例で神前郡に男女400人(665年)、蒲生郡に700人(669年)と記した。

 (中略)

彼らは軍参謀、法務官、文部大臣を占め、近江政府からの叙勲、任官は50人を超えている(671年)

中大兄は668年になって(天智天皇として)即位した。
四男十女があった。
後の持統、元明の両女性天皇、大友王子(明治になって弘文天皇と追称)をふくむ。
なお、中大兄は葛城王子と称したが、この通称は高句麗系か。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


40ページ、298-299ページ
『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治 伊ヶ崎淑彦 いき一郎
2012年8月10日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房

7世紀住民構成 を見てくださいよ。 縄文直系 1 – 渡来 25 ですよ。 渡来人が現日本人(アイヌの人たち)の 25倍ですよ。 当然のことながら、当時の首都圏に渡来人が集中して住んだでしょう! なぜなら、この人たちは文字を読んだり書いたりすることが出来る。 だから、多くの渡来人が小役人になった。 それで、都周辺には渡来人があふれていたのですよ。

つまり、アメリカ史で言えば、メイフラワー号に乗ってアメリカにやってきた英国人が やがて土着の原アメリカ人(インディアン)を西部に追いやって、東部に13州のアメリカ政府を作ったよなものだと、デンマンさんは言うのですか?

その通りですよ。 日本では渡来人が九州から関東に住むようになり アイヌ人たちを東北に追いやったのですよ。

要するに、歴史は繰り返すということですわね。

その通りですよ。


(laugh16.gif)


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確かに、中大兄王子が668年に天智天皇として即位した頃は、
ジョージ・ワシントンが大統領になった頃と よく似ているかもしれませんわね。
その後、アメリカでは西部劇で見るように インディアンは西部に追いやられて、騎兵隊と戦いを続けることになります。

日本では、790年 「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、794年に「征夷大将軍」として節刀を授けられたのでござ~ます。
大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、796年に鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌年、征夷大将軍に昇格したのですわ。
坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為(アテルイ)を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定したことになっています。

朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれました。
平安時代前期(9世紀)になると、畿内朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止します。
その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったのです。
朝廷側に降伏しないアイヌ人たちは最期の地として北海道に移住しました。

たまには、あなたも古代の日本の歴史について 覗いてみてくださいませ。
平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
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『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

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『紫式部と皇国史観』

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『天平の麗しき淑女』

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『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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かぎろいの謎

2013年3月26日

 

かぎろいの謎

 


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デンマンさん。。。どうして「かぎろい」を持ち出してきたのですか?


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あのねぇ~、夕べ、たまたま『なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか』という本を読んだのですよ。

それが「かぎろい」と関係あるのですか?

もちろんですよ。 その本の中で柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌が出てきたのですよ。

それで、今日「かぎろい」を取り上げる気になったのですか?

そうですよ。。。 小百合さんは忘れてしまったのですか?

何をですかァ~?

やだなあああァ! 。。。 小百合さんと「かぎろい」について語り合ったのですよ。

まさかァ~。。。!?  覚えていませんわ。

次の記事ですよ。


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『怒りの柿本人麻呂』

(2011年6月23日)

もう2年も前の記事ではありませんか!

小百合さんは忘れてしまったのですか?

すぐには思い出せませんわ。

じゃあ、次の小文を読んでみてくださいよう。

人麿が見た「かぎろい」とは何か

『万葉集』巻(まき)1の48番に柿本人麿(かきのもとひとまろ)の有名な「かぎろい」の歌がある。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

歌意は「東方の野には曙(あけぼの)の光がさしそめるのが見えて西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている」(『万葉集』日本古典文学大系、岩波書店)というものだ。 ここで「かぎろひ」は「曙の光」とあるが、人麿が見たのはどんな現象なのだろうか。


(shoko05.jpg)

「かぎろい」は『古語辞典』(岩波書店)では、まず「揺れて光る意。 ヒは火。 炎」とあり、また「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光がゆらめいて見えるもの」とし、「陽炎(かげろう)、地面が熱せられたときに見られる」の意をあげている。

さて日の出前には日中われわれがよく見る陽炎のようなものは出現しないので、「陽炎説」は成立しない。 「かぎろい」は万葉集では「炎」という字があてられていることに注目したい。 「かぎろい」にはこれまで天文学的に意味のある説が二つある。

その一つは、戦前、中山正実画伯が「かぎろい」にちなむ大作「阿騎野(あきの)の朝」を描くにあたってなされた考証にもとづくものである(中山説)。 それによれば柿本人麿の「かぎろひ体験」は、場所(東経135°.9、北緯34°.4)だけでなく、日時をも特定できるという驚くべき説で、持統天皇の朱鳥(しゅちょう)6年11月17日(ユリウス暦ではA.D.692年12月31日)、午前5時50分(日本標準時、日の出前約1時間)、月は望(満月)をわずかに過ぎて西の地平線の上10°の高さにあったという。 中山説はこのときの東の空の現象が「かぎろい」だとするものである。

もう一つは黄道光(こうどうこう)説である。 黄道光とは、太陽系の地球の公転軌道の付近に分布している固体微粒子が太陽光を受けて散乱しているものである。 この説を提唱している斉藤国治氏によれば、古天文学にもとづき、「かぎろひ」とは、季節は黄道光がもっとも見えやすい秋の朝とし、東の空に「舌」のような形で、日の出約1時間前に「立って見える炎状の光体」という形であらわれるというものである。

この二つの説はどちらも、主要点として「かぎろひ」は日の出前1時間の東の空の現象としているが、この日の出現象という一連の過程からみると、つぎのような疑問がわいてくる。 日の出前1時間というのは、日本列島の地理的位置を考慮すると、平均して太陽が地平線下12°にあるときということになる。 そのころ、東の空では薄明がはじまってはいるものの、よほど暗く、その色もせいぜい薄く青白いという程度で、当然ながら空全体が静かで何らの動きも感じられない。 また、黄道光も実際にはぼうっとした白っぽいもので、じっとしたまま動きもなく、日本のようにしめっぽい空ではそれを見分けることさえたやすくない。 まして「炎」ないしは「炎が立つ」というような強烈な印象には欠けるように思われる。

ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。 その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。 「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


17 – 19ページ 『空の色と光の図鑑』
著者: 斉藤文一・武田康男
2002年8月1日 第8刷発行
発行所: 株式会社 草思社

どうですか、小百合さん。。。 この上の文章を読んで思い出しましたか?

確かに、上の写真を見たら読んだような記憶がありますわ。

やだなあああァ~。。。 まだ鮮明に思い出せないようですね。 次の写真を見てくださいよ。


(kaki104.jpg->shoko07.jpg)

柿本のおっさんは、こうして「かぎろい」を見ながら歌を詠んだのですよ。

。。。で、ムカついたのですか?

いや。。。 顔に出してムカついたわけではないけれど、心の中ではムカついていたのですよ。


(judge12.gif)

顔に出さなくても柿本人麻呂は心の中ではこうしてムカついていたのですか?

その通りですよ。

でも、どうして。。。?

やだなあああァ~。。。 その事で小百合さんと上の記事の中で語り合ったのですよ。 夕べ、本を読みながら、それを僕は思い出して今日こうして小百合さんと話し始めたというわけですよ。

デンマンさんは記憶力がいいのですわね。

あのねぇ~、2年前のことですよ。 10年前ならば忘れてしまうこともあるかもしれないけれど、2年前ぐらいではそう簡単に忘れないでしょう!?

そうかしら。。。? デンマンさんは歴史に興味があるから覚えているのでしょうけれど、私は歴史は。。。

興味がないのですか?

どちらかと言えば歴史よりも食べ物の方がいいですわ。 おほほほほ。。。

あのねぇ~、小百合さんは「軽井沢タリアセン夫人」としてネットでは有名になりつつあるのですよ。 まず、2011年6月18日当時の検索結果を見てください。


(gog10618.jpg->gog40430.gif)

『軽井沢タリアセン夫人』の現在の検索結果

デンマンさんがムキになって「軽井沢タリアセン夫人」の記事を書いたから 5、050件もの記事がヒットするのですわ。 でも、最近ではデンマンさんもへたばっているのでヒットの数が落ちているのでしょう?

そんなことはありませんよ。 ついさっき調べたので最新の記録を見てくださいよ。


(gog30326.gif)

最近でも僕は「軽井沢タリアセン夫人」の記事を書いているのですよ。 だから、相変わらず 18,900件もヒットしますよ。

だから、どうだと言うのですか?

だから、小百合さんが僕と語り合った話題ぐらい2年前でも覚えていて欲しいのですよ。

分かりましたわ。 忘れないように心がけますわ。 それで、デンマンさんは何が言いたいのですか?

だから、タイトルにも書いたように今日は「かぎろいの謎」に迫るのですよ。

ネット市民の皆様は関心を持つかしら?

ここまで書いてくれば「かぎろいの謎」とは、いったいどのようなものなのか? 絶対に興味を持つと思いますよ。

でも、私が忘れてしまうくらいですから。。。 おほほほほ。。。

あのねぇ~、ネット市民の皆様が「柿本人麻呂」にも「かぎろい」にも関心が無いと、小百合さんが言うと身も蓋もなくなってしまうのですよ。 僕の立場も無くなってしまうのですよ。

分かりましたわ。 じゃあ、予定通りにお話を進めてくださいな。

次の画像を見てください。


(shoko06.jpg->shoko05)

これが僕がイメージしている「かぎろい」ですよ。

つまり、この事が言いたくて、これまでクダクダと御託を並べてきたのですか?

いや。。。もちろん、それだけではありませんよ。 次の歌ですよ。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

この歌が、どうだとおっしゃるのですか?

『万葉集』日本古典文学大系によると、上の歌の意味は次のようだと書いてある。


(shoko04.jpg->shoko07)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている

デンマンさんは、この歌の解釈が気に喰わないのですか?

いや。。。人麿の歌の意味を表面的に解釈すれば、確かに上のような意味になるでしょう。 でもねぇ、はっきり言って、このような和歌ならば誰にだって詠めるのですよ。 僕は初めて上の歌を見たときから、この歌が『万葉集』に取り上げられる程に素晴らしい和歌だとはどうしても思えなかった。 小百合さんはどうですか?

私はもともと和歌には関心が極めて薄いので『万葉集』のことはほとんど知らないのですわ。 うふふふふふ。。。

やだなあああァ~。。。このような時に「うふふふふふ。。。」と言って笑って済まさないでくださいよ。 日本人のミーちゃん、ハーちゃんが国際的に一番嫌われる悪い癖ですよ。

でも、マジで上の和歌が良いものとも、ダサいものとも私には分かりませんわ。

あのねぇ~。。。、冷静になって考えてみてくださいよ。 上の和歌が素晴らしいなんて思う人は、まず居ないと思うのですよ。 もう一度上の和歌の意味を読んでみてください。


(shoko05.jpg->kaki005)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている

何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。

それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。

あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。

でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのですよ。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。

高市皇子(たけちのみこ)

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。

7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。
皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


(kaki004.jpg->kaki199.jpg)

ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?

もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのですよ。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのですよ。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのですよ。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのですよ。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 現在で言えばクリントン夫人のようなものです。

クリントン夫人って、それほど実力があるのですか?

クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかった。

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

そのとおりですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。

柿本人麻呂


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660年頃 – 720年頃

柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の略歴に手がかりがあるのですか?

そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのですよ。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。


(temple53.jpg)

『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)


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つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?


(kato3.gif)

そうですよ。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのですよ。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのですよ。 ぜひ読んでみてくださいよ。


(bond010.gif)

『古代のある女の悲劇』

 (2006年7月3日)

『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)

『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)

。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんはおっしゃるのですか?

その通りですよ。


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東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?

どうしてですか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

そうですよ。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。


(shoko07.jpg->shoko05.jpg)

実にきれいな日の出です。
この太陽が天照大神(あまてらすおおみかみ)のシンボルです。
そしてまた女帝・持統天皇のシンボルでもある。

どうして。。。?

あなたは、きっとそう思うでしょうね。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
なぜ、この説話を持ち出してきたのか?と言えば、持統天皇がちょうど同じようにして孫に皇位を継がせている。
その事を正当化するために「天孫降臨」を『古事記』や『日本書紀』に書かせたことも十分に考えられます。

政治家としての持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子、そして孫の珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)に皇位を伝えることに拘(こだわ)った。
持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣(つ)ぐことを望み、夫に働きかけて草壁皇子を皇太子に就け、夫の死後に草壁皇子のライバルであった大津皇子を陰謀によって排除した。

天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだった。
しかし、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自分が即位して孫の珂瑠皇子が文武(もんむ)天皇として皇位につくまでの時間稼ぎをした。

系図で見ると次のようになります。


(keizu03.gif)

つまり、珂瑠(軽)皇子が文武(もんむ)天皇として輝く。
それが上の日の出の光景です。

でも、「壬申の乱」を見れば、誰でも高市皇子の活躍を無視するわけにはゆかない。
だから、天武天皇の長男であり、実力もナンバーワンの高市皇子が次期天皇になるのが当然だと思った人が居たとしても不思議じゃない!
その一人が柿本人麻呂だった。
高市皇子が次期天皇になるように支援し協力したのです。
だから持統天皇に睨(にら)まれて左遷されてしまった。


(kaki105.jpg->shoko07.jpg)

「かぎろい」とは太陽が昇る前の上のような光景です。

ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。

その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。

「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調)


19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社

火のように揺れ、燃え輝いている「かぎろい」こそ、人麻呂の眼には、持統天皇の野心と陰謀に映る。
当然、人麻呂はムカついているのです。

そして、西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている。
つまり、高市皇子が次期天皇になるという望みは完全に絶たれてしまった。
やがて沈んでしまう月のように。。。
要するに歌の意味は次のようになるのですよ。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 

ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。

確かに持統天皇は野望を実現させたけれど、
まさか自分が死んだあとに、天皇の実権が藤原氏に移るとは想像もしていなかったに違いない。

庇を貸して母屋を取られる

藤原不比等は持統天皇以上の野望を胸に秘めていた。
持統天皇に協力していると見せかけて、
実は、藤原氏は天皇から実権を奪い取ろうと着々とその計画を進めていた。

天皇にはなれなかったけれど、高市皇子は実際に実力を持った人物だった。
その実力は長男の長屋王に引き継がれてゆく。


(keizu901.png)

藤原氏に対抗して天皇を中心とした政治を行おうとした長屋王は、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀に遭って自殺しなければならなかった。
これが世に言う「長屋王の変」である。

高市皇子は持統天皇の野望に破れ
その子の長屋王は藤原氏の陰謀によって自滅しなければならなかった。
このようにして藤原氏の政権は確立されていった。

ずいぶんと長ったらしい説明ですわ。 柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?

ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。


(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)

 

新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。

これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。

どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうですよ。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが小百合さんにも分かるでしょう?

もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?

あのねぇ~、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして小百合さんと話した甲斐があるのですよ。

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは上のデンマンさんの説明を読んで信じることができますか?
信じられないでしょう?
ええっ。。。そのような事は、どうでもよいのでござ~♪~ますか?

だったら、どうしてここまで読んできたのよう?
ええっ。。。他に何もすることがなかったのォ~?
あなたも暇人なのねぇ。
だったら、下に面白い記事のリンクをたくさん貼っておいたから、どれでも好きなものを読んでみてね。

とにかく、また、あさっても面白くなりそうですわ。
だから、あなたも暇があったら読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。


(hand.gif)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(june09b.jpg)

こんにちは。ジューンです。

確かに『万葉集』には歴史的な事実が

隠されている歌がたくさんあるようですわ。

次の歌もデンマンさんが興味深い解釈をしています。


(kaguyama2.jpg)

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、

ただ単に四季の移り変わりに

感興を催(もよお)して詠んだのではないのですって…。

持統天皇の波乱に満ちた人生が

込められているそうですわ。

讃良皇女として少女時代をすごしてきた

持統天皇は幼い頃から愛してくれる人、

愛している人を奪われ続けてきたのですって…。

ある意味で“家庭崩壊”の中で

生きてこなければならなかったのですわ。

つまり、“愛”を奪われる人生だったのですね。

幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基で

近親者が亡くなってゆく。

父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、

大海人皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは

我が子の草壁皇子だけだったのです。

この我が子の将来を脅かす存在になったのが

姉から預かった子、大津皇子だったのですね。

大津皇子は実力も人気もあり、

草壁皇子の皇太子としての地位を

脅かす最大の存在になっていたのですわ。

天武天皇亡き後、讃良皇女が最初に行なったことが

大津皇子を謀反の疑いで逮捕して、

刑死にさせることだったのです。

つまり、デンマンさんによると

上の和歌は次のような意味になるというのです。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


(iware01.jpg)

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から

香具山を見て詠んだのです。


(fujiwara3.gif)

この地図で見れば分かるように、

香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。

この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。

現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は

持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。

つまり、持統天皇は結果として

自分と血のつながりがある甥の大津皇子と

腹違いの妹を死に追いやったわけです。

この当時は怨霊ということが

マジで信じられていたようです。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば

“テポドンで攻撃を受ける”程度に

怖いこととして考えられていたのです。

持統天皇だって、テポドンを

宮殿に打ち込まれたくないので

怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのです。

あなたは、どう思いますか?

ところで、これまで書いた小百合さんの記事を集めて

デンマンさんが一つにまとめました。

もし、小百合さんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

『小百合物語 特集』


(sayuri5.gif)

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしてくださいね。

じゃあね。


(sync.gif)

色男不比等

2012年12月2日

 

  
色男不比等

デンマンさん。。。「色男不比等」ってぇ、もしかして藤原不比等のことでござ~♪~ますか?

もしかしなくても藤原不比等のことですよ。 「不比等」という名前は彼しかいないでしょう!

でも、どうして急に藤原不比等が色男になってしまうのでざ~ますか?

いや。。。別に最近になって藤原不比等が色男だったと判明したのではありませんよ。

あらっ。。。歴史的にもに藤原不比等は色男だったのでござ~ますか?

もちろんですよ。

その証拠でもあるのですか?

あのねぇ~、何度も言うようだけれど僕は根拠の無い事は言わないように努力しているのですよ。

分かりましたわ。 前置きは結構でざ~ますから、その根拠とやらを見せてくださいましなァ。

卑弥子さんがそう言うのなら、まず次のYouTubeを見てください。

小鹿野こども歌舞伎編 

『妹背山婦女庭訓』

あらっ。。。可愛い子供たちが歌舞伎を演じているのではござ~ませんかア!

そうですよ。 卑弥子さんも上のビデオクリップを見てビックリしたでしょう!

かなり本格的でござ~ますわね。 小鹿野というのは町の名前でござ~ますか?

そうですよ。 僕のふるさとの埼玉県にある町ですよ。


(saitama2.jpg)

小鹿野歌舞伎について

約二百数十年前の江戸時代中頃に始められた。
町内には寛政4年(1793年)に歌舞伎を上演した記録も残る。
文化・文政期(1804~30年)に活躍した初代坂東彦五郎が一座芝居を組織し、その後”勇佐座””天王座””大和座”と引き継がれ、秩父地域はもとより群馬県まで興行を行っていた。
映画・テレビの影響を受け、昭和30年代以降は衰退の時期を迎えたが、旧大和座系の役者と町内各地で地芝居を続けてきた人たちが合同して昭和48年に小鹿野歌舞伎保存会を結成、昭和50年には埼玉県文化財の指定を受けている。

町内では、十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田・両神小森に伝承され、それぞれ地元の神社の祭に氏子が中心となって歌舞伎を演じている。
町内には常設舞台が10箇所程度残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もある。
近年は子ども歌舞伎、高校生の歌舞伎、奈倉女歌舞伎などの活躍も見られる。
衣装・かつら・下座・化粧・振り付けなどすべて町民でこなし、地芝居のデパートとも言われている。


出典: 「小鹿野町」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

。。。で、子供たちが演じた『妹背山婦女庭訓』が藤原不比等が色男だという証拠なのでござ~ますか?

その通りですよ。 この『妹背山婦女庭訓』は、あの有名な「大化の改新(645年)」を題材にして作られたのですよ。

そんな昔のことを題材にして作られたのでござ~ますか?

藤原不比等や彼の父親の藤原鎌足が登場するのだから、ずいぶん古い話なのです。

。。。で、史実に基づいて作られたのでござ~ますか?

いや。。。 『妹背山婦女庭訓』が作られたのは1770年頃ですよ。 「大化の改新」が進められたのは645年だから、1000年以上も前の歴史的事件を扱った演目なのです。 だから史実からは、かなり離れた脚色になっている。 神話や伝説なども取り入れられているのです。 蘇我入鹿を天皇の座に着こうとした「恐るべき怪物・大悪人」にしたてあげて、善玉が悪玉をやっつけるという現代のファンタジーアクションに通じる構成になっているのですよ。

。。。で、このお話が人気があったのですか?

作られたのが1770年頃です。 上のクリップで見たように現在でも、小鹿野町の子供歌舞伎で『妹背山婦女庭訓』が演じられている。 劇作家が作ってから、ほぼ20年後の寛政4(1793)年に歌舞伎を上演した記録が残っているということは、まず間違いなく、その時にも『妹背山婦女庭訓』が演じられたに違いない。

それ程『妹背山婦女庭訓』が、その当時の庶民に受けたのでござ~ますか?

今で言えば1000年前の夢とロマンの「時代劇」ですからねぇ、ロミオとジュリエットのような話まである。 だから、人気があったと思うのですよ。

。。。で、どのようなお話なのでござ~ますか?

ウィキペディから「あらすじ」を書き出すから、卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。

妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)


(imo02.gif)

人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目のひとつ。
全五段、明和8年(1771年)の1月28日より大坂竹本座にて初演。
近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛の合作。

大序

【大内の段】

天智天皇は病に侵され盲目となり、政務を執ることが適わない。
そのすきを狙った蘇我蝦夷は、中臣鎌足に謀反の濡れ衣を着せて失脚させる。

【春日野小松原の段】

大判事清澄と太宰の後室定高は領地争いで対立している。
だが清澄の子・久我之助と定高の娘・雛鳥は恋仲である。
二人が仲良く恋を語らっているところへ鎌足の娘・采女の局が逃げてくる。
采女の局は帝の寵を受けていたが、蝦夷が自分の娘・橘姫を帝の后に立てようと望んだことにより身に危険が及び、宮中を脱出したのである。
久我之助は采女の局を変装させて窮地を救う。

【蝦夷館の段】

蝦夷の子入鹿は、父の暴挙に怒り座禅をしているが、思いつめて父に意見する。
怒った蝦夷は妻を斬り、入鹿に謀反の連判状を渡すよう詰め寄るが、蝦夷謀反の取り調べに大判事清常と安倍中納言が来る。
入鹿は大判事に連判状を渡し、父を追い詰め切腹させる。
だがこれはすべて父に代わり帝位を握ろうとする入鹿の計略であった。
入鹿は父・蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたので超人的な力を持ち、日本の支配者たらんことを宣言し宮中に攻め入る。

二段目

【猿沢池の段】

盲目の帝は采女が猿沢池に身を投げたことを聞いて、池に行幸する。
そのとき凶事の知らせ。
入鹿が宮中に乱入し、帝位を称したというのだ。
鎌足の息子・藤原淡海(藤原不比等)は、帝を猟師・芝六、実は家臣・玄上太郎の家に匿う。

【つづら山の段】

芝六は入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と知り、禁を破って葛籠山で爪黒の神鹿を射殺す。

【芝六住家の段】

山中の芝六の家は帝が逃げ込んだことで、にわか仕込みの宮中に早変わり。
多数の官女や公家が詰め、そこに米屋が掛取りの催促に来るわ、帝の無聊を慰めるために芝六の子の三作が萬歳を披露するわで大騒ぎである。
芝六が神鹿を殺したことが露見し、その罪を三作が被って石子詰の刑を受けようとするが、鎌足の働きで助けられる。
采女と神鏡も見つかり、神鏡の力で帝の眼も治る。
こうして鎌足たちによる反撃が始まる。

三段目

【花渡しの段】

権力を手にした入鹿は暴政の限りを尽くす。
清澄と定高に久我之助をわが家臣に、雛鳥を我が側室にせよと無理難題を言い渡し、花の枝を渡しその返事として吉野川に流せと命令する。
だが入鹿は久我之助については采女の局の行方を知っていると見て、召抱えると称して拷問し白状させる魂胆だった。

【山の段】

「古は神代の昔山跡の、国は都の初めにて、妹背の初め山々の、中を渡るる吉野川、塵も芥も花の山、実に世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所」という格調高い浄瑠璃の詞で始まる。
吉野川を挟んで大判清澄と太宰家の後室・定高の両家は満開の桜の妹山、背山に住む。


(imo04.jpg)

雛鳥と久我之助は川越しに、両家の不和のために一緒にならない身の不幸を嘆く。
思いつめた雛鳥が「とても叶わぬ浮世なら、法度を破って此川の、早瀬の波も厭いはせぬ」の浄瑠璃の言葉通りに川に飛ぶ込もうとするのを「ヤレ短慮なり。雛鳥」と久我之助が咎める。

そこへ「打ちしおれ、登る坂さえ別れ路は、力難所を往く心、空に知られぬ花曇り」の浄瑠璃で清澄、定高が重い足取りでそれぞれの館に帰ってくる。
入鹿の命には従うことができないと決意した二人は、久我之助、雛鳥に事の顛末を語り、涙ながらに子を手にかける。
たがいに相手の子の命を救おうとするのだが、川越しに双方とも死んだことを知り、「嫁入り道具、行器、長持犬張子、小袖箪笥の幾棹も、命ながらへ居るならば、一世一度の送り物、五丁七丁続く程」の華やかにも悲しい床の浄瑠璃に合わせ、定高は雛鳥の首を雛人形とともに川に流し大判事に受け取らせる。(雛流し)

こうして二つの家は過去の行きがかりを捨てて和解し、二人は死して夫婦となる。

四段目

【杉酒屋の段】

三輪山のふもとの杉酒屋の娘お三輪は、隣に住む烏帽子折の美男子園原求女に一目ぼれする。
実は、求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であった。
だが求女には入鹿の妹・橘姫という恋人がいた。
求女は入鹿の館に潜入するため、姫の裾に赤糸をつけて跡を追う。
お三輪も求女の裾に白糸をつけて追跡する。


(imo06.jpg)

道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)

夜の布留(ふる)の社(石上神宮)で繰り広げられる、求女をめぐっての橘姫とお三輪の争いを見せる所作事。
最後は求女が橘姫を再び追いかけ、お三輪も求女のあとを追って行く。
平成15年(2003年)の歌舞伎座では人形振りで演じられた。

【三笠山御殿(金殿)の段】

「栄うる花も時しあらば、すがり嵐のあるぞとは いざ白雲の高座、新たに作る玉殿は、彼の唐国の阿房殿、茲に移して三笠山、月も入鹿が威光には覆われますぞ是非なけれ」の浄瑠璃で、三笠山の麓に作られた宮殿が舞台に現れ、家臣の宮越玄蕃、荒巻弥藤次が入鹿の栄光を称える。 入鹿は官女たちを侍らせて宴会をしている。そこへ難波の漁師鱶七という者が鎌足の使いと称してやってくる。いぶかる入鹿に鱶七は、入鹿の家臣になるという鎌足からの手紙を見せるが、納得しない入鹿は実否をただすまで鱶七を人質にせよと言い捨て奥に入る。豪胆な鱶七はさまざまな罠にもびくともせず、悠々と奥に入る(鱶七上使)。

「されば恋する身ぞつらや、出ずるも入るも、忍ぶ草、露踏み分けて橘姫」の床の浄瑠璃で、橘姫が帰ってくる。
そのあとを赤い糸をしるべに求女が追ってくる。
橘姫は求女に、妻になるため、命にかけて入鹿が所持する十握の宝剣を奪うことを誓う(姫戻り)。

「迷いはぐれし、かた鶉、草の靡くをしるべにて、いきせきお三輪は走り入り」の浄瑠璃になり、お三輪は求女に付けた糸が切れながらもようよう御殿にたどりつき、来かかった豆腐買いの女から求女と橘姫との祝言がおこなわれると聞いてあせる。
御殿の奥に入ろうとするが、官女たちに見つかりさんざんに嬲られる。
心傷つき帰ろうとするお三輪の耳に、花嫁花婿をはやす声が聞こえる。
ついに嫉妬に狂ったお三輪は、髪振り乱し奥へ駆け入ろうとすると、鱶七に刺される。
鱶七は実は鎌足の家臣金輪五郎であった。
五郎はお三輪に、「女悦べ。それでこそ天晴高家の北の方、命捨てたる故により、汝が思う御方の手柄となり入鹿を滅ぼす術の一つ、オゝ出かしたなあ」と声をかけ、主君の命を受け入鹿を討つべく来たのであるが、爪黒の鹿の血と嫉妬に狂う女の生血を鹿笛にかけて吹けば、入鹿の力が衰えることを知り、不憫ながらもお前を刺したと物語る。
お三輪は自己犠牲が恋人求女、実は藤原淡海のためになることを知り、嬉しげに死んでいく(竹雀)。

そして鹿笛の霊力で魔力の衰えた入鹿は、金輪五郎をはじめとする人々によってついに討たれるのであった。

五段目

【志賀都の段】

入鹿が討たれてめでたく帝は復位、平和が訪れる。
志賀の都で忠臣たちへ恩賞が授与され、久我之助と雛鳥の供養が行われる。


出典: 「妹背山婦女庭訓」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であると書いてありますわね。 歴史的にも藤原不比等は女性にもてたのでござ~ますか?

藤原不比等は日本史の上で藤原氏を立ち上げた人で政治的には、ずば抜けた才覚を表した人だけれど、女性問題でも政治以上に手腕を見せた人なのですよ。

マジで。。。?

だからこそ、「大化の改新」から1000年以上時間がたっているにもかかわらず、藤原不比等の評判は下々にまで伝わっていた。 それで1770年当時の劇作家の近松半二が藤原不比等を題材にして「求女」とダブらせて道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)という場面を作り上げた。

『道行恋苧環』

「妹背山婦女庭訓」のお三輪と求女

(近鉄奈良駅前にて)

。。。で、歴史的にも藤原不比等は女性に対して手腕を見せたのでござ~ますか?

そうなのですよ。 だからこそ現在にまで「妹背山婦女庭訓」という物語として語り継がれているのです。 かつて藤原不比等について書いたので卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。

僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘—当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?

長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。

本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。

上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。

でも、そればかりではないと僕は思います。
阿修羅像のまなざしの中に込められた奥深い苦悩は阿部内親王のものであると同時に光明皇后の感じてたものではなかったのか?

この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?

それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。

阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙女帝と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、光明皇太后は娘をないがしろにしていたわけです。
これでは孝謙女帝はおもしろくありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。
この野望さえなければ、阿部内親王はこれまでの他の内親王のように、すでに結婚し家庭を持ち子供も生まれて、ささやかな女の幸せに浸(ひた)っていたかもしれません。
しかし、阿部内親王には、それは許されなかった。
藤原一族の繁栄と栄光のために、阿部内親王は“犠牲”にならなければならない“宿命”を負わされていた。
他に藤原氏の血を持つ天皇後継者がいなかったから。。。

天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。
これは“むごい”と言えるかもしれませんよね。
生きていながらの“生贄(いけにえ)”—藤原氏のための“犠牲”

16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。
しかし、自分が結婚できない宿命にあることは、この時点ですでに十分に知り尽くしている。
この聡明な少女は、多難な将来を予感して苦悩している。
この表情に、僕はそのような聡明な少女の苦悩を見るのですが、僕の思い過ぎでしょうか?


『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

デンマンさん。。。橘三千代は、実は、あたくしのご先祖様なのでざ~♪~ますわ。

マジッすかあああァ~。。。?

あたくしのフルネームは橘卑弥子でござ~ますう。 しかも、あたくしの生まれも育ちも京都ですわ。 さらに、あたくしは京都の女子大学で腐女子のために「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますう。

じゃあ、卑弥子さんは日本の皇室とも血縁関係があるのではありませんかァ!

そうですわ。

マジッすかあああァ~♪~。。。

そのようにオーバーにビックリなさらないでくださいなァ。

なるほどォ~。。。 それで卑弥子さんの婚期が遅れ遅れて、未だに独身なのですねぇ~。

そうです。 あたくしの生まれがあまりにも高貴なのですわ。 おほほほほ。。。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。
卑弥子さんが皇室と血縁関係にあるとは知りませんでしたわ。

『妹背山婦女庭訓』には、ロミオとジュリエットのような話まである、とデンマンさんが言ってましたが、仲の悪い家の恋人たちが死によって結ばれる筋は、確かにシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に酷似しています。
それで、なかには『妹背山婦女庭訓』こそ『ロミオとジュリエット』に影響を与えたのではないかと言っている評論家もおります。

また、太平洋戦争後に『妹背山婦女庭訓』を観たアメリカ人は『ウエストサイドストーリー』のようだと言ったらしいのです。
当然のことですわ。
だってぇ、「ウエストサイドストーリー」は『ロミオとジュリエット』の翻案ですから。。。

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。

ィ~ハァ~♪~!

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かぐや姫異聞

2011年11月19日

  
 
かぐや姫異聞
 
 

 
 

デンマンさん。。。あんさんは意外に少女趣味的なところがおまますのやなァ~?

どないなわけで、めれちゃんはそないな事を言うねん?

そやかてぇ、今どき「かぐや姫」なんて大人の男が口にするもんとちゃいますやん。

めれちゃんともあろう知能指数が140もある知的な女性が、そのような非文学的な事を言うのんかァ~?

IQには関係あらへん。

いや。。。知能指数が140もある女性が「かぐや姫は少女趣味的やん」、と言うのは可笑しいでぇ~。。。

わたしは、あんさんのレベルまで知性を落として言うてるねん。 うしししし。。。

さよかァ~。。。?

。。。んで、あんさんは、どないな訳で「かぐや姫」などを取り上げる気になりはったん?

あのなァ~、「かぐや姫」と入れてYouTubeで検索してみィ~なァ。。。ぎょうさんヒットするでぇ~。。。まず、わては実物の俳優が出てきて劇的なドラマを演じるFSじみたビデオクリップをゲットしたのやァ。 めれちゃんも、じっくりと腰をすえて観たらええやん。

かぐや姫の別れ

あらっ。。。マジですごいやん。。。ホンマに平安時代のサイエンス・フィクションになってますやん。

そうやろう? 20世紀になって月に人間が着地したのやけど、平安時代にも現代の世の中を先取りして物語を考え出した人が居(お)るねん。

単なる空想やと思いますわ。

めれちゃんのような文学的、詩的な才能のある女性が「竹取物語」を「単なる空想の産物」だと言って欲しくないねん。

どうして。。。?

どうしてもこうしても「かぐや姫」は平安の昔から未だに世界の文学界ならずアニメ世界にも大きな影響を与えているのやでぇ~。。。

それはオーバーとちゃうの?

いや。。。決してオーバーなことはあらへん。。。実際に次のビデオクリップを観れば判るように素晴らしいアニメもできておるねん。

アニメ竹取物語

あらっ。。。ホンマに幻想的で素晴らしいアニメやんかァ!

そうやろう? めれちゃんかて、そう思うやろう?

そやけど、世界の文学界とアニメ界に影響を与えていると言うのは、どう考えてもオーバーやと、わたしは思うねん。 日本だけとちゃうん?

それは、めれちゃんが大阪という日本の限られた世界に住んでいるからやでぇ~。。。わてのように人生の半分以上を海外で暮らしている者にとって、「竹取物語」は世界的な傑作やという事がしみじみと実感できるねん。

そのように言う事がオーバーやと、わたしは言うてるねん。

そやから、めれちゃんが大阪という小さな世界に住んでいるからやでぇ~。。。

あんさんは、そないに言うけれど何か証拠でもおますのォ~?

わては根拠のない事は、よう言わん。。。証拠が欲しいのならば次のアニメを観たらええやん。 ちゃんと国際語である英語を使ってアニメが作られておるねん。 めれちゃんも目の玉をムキムキしてじっくりと観たらええやん。

「かぐや姫」アニメ in English

あらっ。。。ホンマに英語で面白く作られてますやん。

めれちゃんにも英語が分かるんかァ~?

この程度の英語なら、わたしでも分かりますう。

さよかァ~。。。さすがに知能指数が140やなァ~。。。

あんさん!。。。いい加減にしいいやあああァ~。。。IQは関係ないと言うてますやん。

そう謙遜しなくてもええがなァ!

謙遜しているのではおまへん。 あんさんは、少しくどいのですねん。 そんなことよりも、あんさんはYouTubeを観やはって「かぐや姫」を取り上げる気になりはったん?

ちゃうねん。 わてはバンクーバー図書館から『葬られた王朝』という梅原猛さんが書いた本を借りてきたのや。

その本の中に「かぐや姫」が出てきたん?

そうなのや。 引用するから、めれちゃんもじっくりと読んでみたらええやん。

『古事記』は、神話の名において諸氏の勤務評定をしたようなものである。 そしてその勤務評定において百点を取ったのは藤原氏のみである。 このような勤務評定を行い、かつ藤原氏に百点を付けるのは、権力者、藤原不比等以外にはあり得ず、(稗田)阿礼像と不比等像は全く重なり、稗田阿礼すなわち藤原不比等と断定して差し支えないと私は思う。

中央が父親の鎌足、

左が次男の藤原不比等

右が長男の定慧(じょうえ)

以上の推論から、稗田阿礼が不比等である可能性ははなはだ大であることが明らかになったわけである。 最後に、不比等がそのように手の込んだ容易には発見されない詐術を行う人間であったことを照明する物語を紹介しよう。 それは『竹取物語』である。

…前半は五人の「色好み」の貴公子たちがかぐや姫に「世にも珍しい宝物」をとって来てほしいいと頼まれ、いずれも失敗する話であり、滑稽な喜劇といえよう。 後半は、かぐや姫の昇天の話であり、悲劇と言えよう。
この前半部に注目してみたい。

前半部に登場する五人の「色好み」の貴公子とは、「石つくりの御子」「くらもちの皇子」「右大臣あべのみむらじ」「大納言大伴のみゆき」「中納言いそのかみのまろたり」である。
実は、この五人の登場人物はそれぞれ、持統朝から文武朝にかけての実在の重臣をモデルにしている。
「石つくりの御子」が丹比島(たじひのしま)、「右大臣あべのみむらじ」が阿部御主人、「大納言大伴のみゆき」が大伴御行、「中納言いそのかみのまろたり」が石上麻呂、

そして「くらもちの皇子」が藤原不比等である。 なぜ「くらもちの皇子」かというと、不比等の母は車持(くるまもち)氏の出自で、彼は車持の皇子と呼ばれていた。 皇子とよばれているのは、彼が天智天皇の子であるという噂によるものであろう。
車持が「くらもち」になったのは、彼が金持ちであったことを示そうとしたのであると思われる。

かぐや姫は自分に求婚してくるこの五人に、聞いたこともないような「宝物」をとってくるようにと、無理難題を押し付けるのである。 まず石つくりの御子には「仏の石の鉢」を、阿部みむらじには「火鼠(ひねずみ)の皮衣」を、大伴のみゆきには「龍の頸(くび)の珠(たま)」を、いそのかみのまろたりには「燕の子安貝」を、くらもちの皇子には「蓬莱(ほうらい)の白珠(しろたま)の枝」を取ってきてほしいという。 もちろん取ってきたら、その男の求婚を受けるとの暗黙の了解があった。

(注: 赤字はデンマンが強調
読み易いように改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


279 – 280 『葬られた王朝』
著者: 梅原猛
2010年6月20日 第9刷発行
発行所: 株式会社 新潮社

あらっ。。。面白い解釈やんかァ。

そうやろう!? 「竹取物語」を平安時代の政治的批判の書だと言うてるねん。

そやけど、何を批判してるん?

そやから藤原不比等の詐欺的政治手法を批判してはるわけやァ。

そう言えば、あんさんは「新しい古代史」サイトで、マキアベリもビックリするような政治的策略の書『六韜(りくとう)』を藤原氏が代々受け継いで読んできやはった“聖書”やと言うてましたなァ。

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

(2006年2月11日)

めれちゃんは、よう覚えておるなァ~。。。?

そやかてぇ、この事では、あんさんがくどくどとブログにも書いてましたやんかァ!

そうやァ。 藤原不比等が権勢を欲しいままにして影で暗躍し、藤原氏の基礎固めをしたと、わても思うてるねん。 その過程で、権力の座から追いやられてしまった人たちの恨みを買ったのや。 そやから文学書と言われている作品の中に、藤原氏のあくどいやり方をその人たちが書き残したという事も十分に考えられるわけやなァ。

そやけど、それは仮説とちゃうん?

あのなァ~、アインシュタインの特殊相対性理論かて、初めは仮説やったのやでぇ~、そやけど太陽の後ろにある星が太陽の影になって地球から見えんはずやのに見えている。 どうしてか? それは太陽の重力によって光が曲げられている。 そやから見えないはずの星が見えるという事実を他の学者が相対性理論を使って証明した。 それによってアインシュタインの理論が真理として広く認められるようになったのやでぇ~。

あんさんは、そのような事まで知ってはるのォ~?

物理学の本に書いてあるがなァ。 そやけど現在では、そのアインシュタインの理論も真理ではあらへん。

ウソやということォ~?

いや。。。ウソではないねん。 真理に極めて近い仮説やけど、アインシュタインの理論では説明つかない事実がいろいろと発見されてるねん。 それで最近ではアインシュタインの理論も含めた、もっと真理に近い「統一理論」があるはずやということになって、理論物理学者がやっきになって新しい理論を構築しようと頑張ってるねん。

つまり、絶対真理はあらへん、とあんさんは言わはるの?

そうやァ。。。限りのう真理に近づくけど、絶対真理はあらへん。 そういう考え方が現在広まってるねん。

。。。で、藤原不比等が悪賢い人間であったということが「竹取物語」の中で、どないに書かれてはるねん?

次のように書いてある。

「蓬莱(ほうらい)の白珠(しろたま)の枝」を求められた彼は、他の二人とは全く違う方法で宝物を手に入れる。 ここでくらもちの皇子は「心たばかりある人」であると書かれている。 その言葉どおり、彼は甚だ手の込んだ詐術を見事に行うのである。

まず彼は、宮中には「筑紫の国に温泉に入りに行く」といい、またかぐや姫の家には「珠の枝をとりに行く」といって、家来全てに船の出発する難波まで送らせた。 そして近臣の者を少し連れて彼は船に乗るには乗ったが、二日ばかりで家に帰ってきてしまう。 その後、彼は当時随一の鋳物師六人を召して、彼らと共に容易に人の来ないような家に閉じこもって、かぐや姫の言うような「珠の枝」を作らせたのである。 ようやくそれを作り終えると、彼はそっとその家を出て、難波に取って返し、彼の留守宅に「今帰った」と知らせた。 知らせを聞いた大勢の人が迎えに来て、「くらもちの皇子が優曇華(うどんぐゑ)の花をもって帰った」と大声でいい広めた。

そしてくらもちの皇子は、その珠の枝を長櫃(ながびつ)に入れ、旅姿のままかぐや姫の家に来て、「命を捨てて、かの珠の枝を持ってきました。 かぐや姫に見せてください」と竹取の翁に献上した。

見れば、立派な珠の枝である。 翁は「この上はこの人柄もよい皇子と結婚してください」と床入りの用意まで整えた。 その様子を見て、くらもちの皇子に嫁ぎたくなかったかぐや姫は深く嘆く。 

(中略) 彼は宝の島を見つけた喜びを語り、目前に迫った絶世の美人、かぐや姫との逢瀬をよだれをたらして期待していたのである。

ところが、しばらくしてどんでん返しが待っていた。 「くもん司(づかさ)の匠、あやべのうち麿」という者がある文を持ってかぐや姫の家に訪ねて来た。 そして、いうことには「私ども六人は五穀を絶って珠の枝を作りました。 皇子は官位をも下さるといわれましたのに、お給金もいただいていません。 かぐや姫がくらもちの皇子の妻妾ということを聞いたので、お給金をもらいにきました」と、その証拠を突き出したのである。 それを聞いて、かぐや姫の顔が、思わず明るくなった。 くらもちの皇子の嘘がばれたからである。 そして、喜んで匠らに給金を遣わした。 だが、我慢ならなかったのは、くらもちの皇子である。 匠らを帰る道で待ち構え、血の出るまで打ち懲らしめたのであった。 そして皇子は、恥をかいたと深い山に身を隠したという。

くらもちの皇子は、嘘を本当に見せかけることに天才的な才能を持っていた。 そしてまた金をたくさん持ち、官位を出すような権力も持っていたのである。 しかしどこかケチでかつ残酷でもあった。 これは不比等という政治家のまことに辛辣な風刺である。


281 – 284 『葬られた王朝』
著者: 梅原猛
2010年6月20日 第9刷発行
発行所: 株式会社 新潮社

。。。で、この「竹取物語」はどなたはんが書きはったん?

いろんな学者が好き勝手な事を言うてるねん。

学界の定説ではどうなってるん?

作者については不詳である、ということになってるでぇ。 そやけどなァ、当時の推定識字率から考えて庶民が書いたとは思えん。 作者は貴族階級に属しており、情報がゲットし易い平安京に住んでいたと考えられる。 しかも、物語には反体制的な要素があるよってに、当時権力を握っていた藤原氏の者ではあらへん。

。。。となると、権力の座から追い落とされた人やね?

そう言う事になるがなァ。 しかも、作者は漢学や仏教や民間伝承にも詳しい人やァ。 和歌の才能もあり、貴重であった紙もゲットできるような経済的にもさほど困ってない人物やと思われる。

すると、どのような人が考えられるん?

候補者に上がっているのは源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄。。。というところやなァ。

その中で誰が一番「竹取物語」を書いた可能性が高いん?

最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高いと言われてるねん。 文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っている。

どのような訳で紀貫之は藤原氏に恨みを持ってるん?

あのなァ~、紀氏は「応天門の変(貞観8年、866年)」により藤原氏の謀略で失脚してしもうたのやァ。 以後、政界から遠ざかって紀氏は文人の道へと進んだのやがなァ。

あんさんも、そう思うてるん?

いや、わては大伴家持(718年頃-785年)やと思うてるねん。 通説では、平安時代前期の貞観年間 – 延喜年間、特に890年代後半に書かれたと言われておるねん。

大伴家持は『万葉集』を編纂した人ですやろう?

その通りや。 『万葉集』も政治批判の書だと、わては思うねん。 この事で、わては記事を書いたこともある。

『万葉集は政治批判の書か?』

(万葉集の謎と山上憶良)

【2006年7月1日】

つまり、大伴家持は藤原氏に紀貫之以上に恨みを持っていると、あんさんは言わはるの?

もちろんやァ! 大伴家持は天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したと藤原氏から睨まれた事があるねん。 暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に家持を含めて4人は逮捕されてしまう。

それど、どうなったん?

藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったのや。 そやけど、翌年、薩摩守への転任と言う報復人事を受けてしもうた。

それで大伴家持は藤原氏に恨みを持ちはったん?

そうや。。。そればかりではあらへん。 桓武天皇の時代、つまり天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われてしもうたのやァ。

それで、どうなったん?

一時的に解官されて都を追放されてしもうた。 でもなァ、同年4月には罪を赦され参議に復帰したのやァ。 3年後(延暦4年8月28日)に家持は亡くなってしまうねん。 そやけど災難は死亡後にもやってきた。

どないな災難やのォ~?

家持が亡くなってまもなく、9月23日の夜に藤原種継暗殺事件が起きたのや。 造営中の長岡京で発生、家持も関与していたと疑われてしもうた。 そのため、家持の死体の埋葬も許されぬままに除名されてしもうた。 子供の大伴永主も隠岐国に配流になってしもうたのや。 家持は大同3年(806年)に、死後20年近くたってから一応、罪を赦されて従三位に復帰したけど、これだけの事件を見ても家持が政治家として藤原氏に対する反骨精神を持っていたことがよう判るねん。 そうでもなければ、藤原氏に、これほどまでに事件の関与を疑われることはなかったのやァ。

つまり、文学の書だと思わせながら大伴家持は『万葉集』にも『竹取物語』にも藤原氏の批判を込めたと、あんさんは言わはるのォ~?

その通りやァ。 中国の歴史を見ても文学は政治とは切っても切れないものなんやァ。

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
デンマンさんの独特の史観ですわ。
あなたは、どう思いますか?
かぐや姫のお話に、このような政治批判が込められていたと考えてみたことがありますか?

ところで、紅葉(もみじ)狩りに出かけましたか?
もう見ごろを過ぎているでしょうか?
あなたの地方ではいかがですか?
紅葉を見て癒されてくださいね。

あたしは久しぶりに京都の法然院を訪ねてみました。

紅葉が見ごろでしたわ。
あなたもお近くの森に紅葉狩りに出向いてはいかがですか?

とにかく、次回も興味深い話題が続くと思います。
あなたも、また戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

おばさんパンツを穿かせられて

何度となくデンマンさんのブログに

登場していますけれど、

すべてコラージュですわ。

これもコラージュです。

実物のわたしは、もう少し

太っているのですわ。

うふふふふふ。。。

写真を撮ってお見せできるような

スタイルではありません。

減量してスマートになったら、

実物のわたしをお見せできると思います。

期待しないで待っててくださいね。

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてくださいね。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ