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大伴柴田臣の末裔

2012年3月26日

 
 
 
大伴柴田臣の末裔
 
 

(funaoka.jpg)

宮城県柴田郡柴田町の

船岡城址公園・四保山の丘上から

白石川の堤の桜並木を見下ろす


(shibatamap.gif)

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Date: Thu, Mar 22, 2012 9:20 pm
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日本時間: 3月23日午後1時20分
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Mar 22 2012 / 21:20:44

userid = barclay1720
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Comments:

初めまして、いろいろ文献を読んで、貴殿のサイトにたどり着きました。
私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。

藤原の由来は、安東将軍で、トウタン、トルファンであると思います。
近衛文麿が陸軍を先導して太平洋戦争まで持ち込み、強いては、天皇の座まで狙った。
それを知っている、昭和天皇は、愛知県にある東条秀樹の墓参りをして、これをわびた、と思っています。

現在ですら、NHKの作った大化改新は愚作の極みで下らない出来で日本人の恥と思える作品です。
あたかも、現代の中国、韓国の思想に近い、考えの人が作ったと解ります。
今ですら藤原が怖いと思っている人がいる。

我々は、法の元で平等で自由で公平な目で物事を判断できる。
我々は道徳を重んじ、恥を最も嫌う優秀な日本人である。
それが、現在の米国、英国、ロシア、イスラエル、中国、韓国人とは決定的に違う民族である、と思います。

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

あらっ。。。デンマンさん。。。珍しくコメントをいただいたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。

つまり、柴田さんは大伴柴田臣の末裔で現在、宮城県柴田郡柴田町に住んでおられるのですか?

僕も、そう思ったのです。

それで船岡城址公園から見おろした白石川堤の桜並木の写真をデンマンさんは貼り付けたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。 「大伴柴田臣の末裔」と聞いて、僕はすぐに宮城県柴田郡柴田町を思い出したのです。

どうして。。。?

あのねぇ~、この町は、1970(昭和40)年のNHKの大河ドラマ『樅ノ木は残った』で注目を浴びたのです。

どのようなお話なのでござ~♪~ますか?

原作は山本周五郎さんの作品です。 江戸時代の有名な伊達騒動の話ですよ。 柴田町は、その主要人物である原田甲斐こと原田宗輔の城下町として知られていたのです。 でも、この人物は寛文事件(伊達騒動)で斬死し、原田氏は断絶するのです。

1200年(正治2年)頃 – 芝田次郎が居城。同氏は宮城小四郎家業(宮城四郎)によって追討を受ける。

16世紀初頭 – 伊達氏の家臣で柴田家の祖四保但馬定朝の居城となった。

1593年(文禄2年)- 屋代景頼が居城。

1615年(元和元年) – 原田宗資が居城。

1671年(寛文11年)- 原田宗輔が寛文事件(伊達騒動)で斬死し、原田氏断絶。

1681年(天和元年) – 柴田宗意が5000石を拝領し居城。

1694年(元禄7年) – 柴田氏が三の丸に居館を築造し、居住した。

当時、『樅ノ木は残った』は、それほど有名だったのですか?

そうですよ。 しかも、僕は学生時代に仙台で6年近く暮らしたことがある。 実家の埼玉県行田市と仙台の間を東北本線で行ったり来たりする時には決まって船岡城のそばを通った。 桜の時期には車窓から白石川沿いの堤の桜がきれいに咲きほこっているのが見えたものです。 だから、上の写真の情景は僕の眼に焼きついていますよ。 1990年(平成2年)には一目千本桜とともに宮城県で唯一、日本さくら名所100選の地に選ばれ、毎年4月中旬には多くの花見客で賑わいます。

。。。で、柴田さんは、その桜並木のお近くに住んでおられるのですか?

ところが柴田さんの IPアドレスを調べたら、東京をはさんで宮城県とは反対方向の岐阜県に住んでいることが判った。

IPアドレス: 114.185.4*.**

ホスト名:
i114-185-4*-**.s02.a021.ap.plala.or.jp

IPアドレス割当国: 日本 ( jp )
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県

プロバイダー: PLALA
IPネットワークアドレス: 114.185.0.0/17
組織名: 株式会社NTTぷらら
ドメイン名: PLALA.OR.JP
Network Service Name: NTT Plala Inc.

つまり、デンマンさんの推測は全く的外れだったのでござ~♪~ますわね。

そうなのですよ。 

柴田さんは「藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています」と書いておられますが、藤原氏の捏造で柴田氏は宮城県と岐阜県に分断されてしまったのですか?

だから、僕も調べてみましたよ。 その結果を見てください。

○「柴田」という苗字は、ある統計によると現代日本のなかでは多い方から第63位となっており、その分布が最も多い県は愛知県で、茨城県は必ずしも多いとはいえない。
しかし、その県内分布はきわめて特徴的である。
具体的には、西茨城郡友部町と多賀郡十王町友部が分布の二大拠点をなしているようであり、後者は『和名抄』の多珂郡伴部郷の地であった。
同書には茨城郡の近隣、真壁郡にも伴部郷があげられるから、茨城郡の友部も同様に古代伴部の居住に由来か。
友部はもと伴部(←大伴部)であり、大伴連の部民に由来する地名であった。
かって、十王町を含む地域を仕事の管轄地としていたことがあったが、そのときはそうした問題意識を何ら有していなかったことが惜しまれる。

○大伴連とその部民の東国・陸奥における分布は、四世紀中葉の倭建命(日本武尊)の東征に由来する場合が多く、この遠征には大伴連の祖・武日命の子弟・配下が主力部隊として随行し功績を建てた。
この辺の伝承は、大伴宿禰家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」(『万葉集』歌番4094)に詠まれる。
すなわち、「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠われるが、この情景は、大王(オホキミ)すなわち倭建命の東征関連であったと考えられる。

常陸から陸奥、具体的には茨城県から宮城県にかけての地域には、靱大伴連、大伴行方連、大伴苅田臣、大伴柴田臣、大伴白河連、大伴亘理連、大伴安積連、大伴山田連、大伴宮城連という大伴□□連(臣)という形で「大伴」(のちに「伴」)を冠する姓氏が頻出する。
これらは大伴連一族かその配下・部民の出自という系譜をもつと推される。

○柴田氏については、これらのうち大伴柴田臣との関係に注目されるが、この氏は陸奥国柴田郡(現宮城県南部の柴田郡)の地名に因んだ郡司級の地方大族であった。
なぜ古代常陸の伴部郷の地に「柴田という氏」が多いのかは不明であるが、何らかの形で陸奥国柴田郡から常陸の先住地・縁故地に帰ったものか、柴田という地名の元が常陸国にあったか、そのいずれかではなかろうか。

○中世、三河の土豪・柴田氏は、その出自を秀郷流藤原氏の下河辺一族の出で、常陸国鹿島郡の柴田に因むと伝えるが、本来、同氏が三河古族の出だとみられ、この系譜自体は仮冒ではなかろうか。
なお、下河辺一族に柴田氏があったこと、鹿島郡の柴田という地名も確認できない。
しかし、中世の常陸の前掲地区にある程度の土豪として柴田氏があったことは認めてよかろう。

○なお、尾張の柴田氏については、今のところ全く手がかりがない。
有名な柴田権六勝家を出した柴田氏については、管領家斯波氏の庶流とも伝えるが、勝家の父くらいからしか知られず、明らかに系譜仮冒であろう。
尾張に分布が多いということは、古来海神族の地であったという性格から考えれば、その流れを汲むものか、その地域を何らかの縁由で知行したものか。
いずれにせよ、柴田氏に絡む謎は多く、資料が皆無に近い。

赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。)


出典:『常陸の柴田氏について(メモ)』

岐阜県だと尾張・名古屋に近いですわね。 大伴柴田臣は、あの有名な豊臣秀吉の家来の柴田勝家と関係がある氏族なのでござ~♪~ますか?

でも、上の記事によると、「柴田権六勝家を出した柴田氏については、…勝家の父くらいからしか知られず、明らかに系譜仮冒であろう」と書いてありますからね。。。

要するに、尾張の柴田氏は大伴柴田臣と関係ないのでござ~♪~ますか?

だから、その事を柴田さんは藤原の捏造と言っているのかもしれません。

。。。で、デンマンさんは柴田さんにお返事を書いたのですか?

書きましたよ。 読んでみてください。

Subj:柴田さん、古代史へのコメント

ありがとうございました。

バンクーバーの加藤です。

Date: Sun, Mar 25, 2012 9:17 am
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 3月26日 午前1時17分
From: denman12345@infoseek.jp
To: yasu60@******.plala.or.jp
CC: barclay1720@aol.com

 

柴田さん、コメントありがとうございます。
僕の記事には、めったにコメントが付かないのですよ。
コメントを書いてくれるのは、熱心な読者か? それとも底抜けの馬鹿か? そのどちらかです。 (爆笑)

柴田さんの場合は、もちろん、「熱心な読者」です。 (微笑)

私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。

そうですか。。。柴田さんの先祖は「大伴柴田臣」ですか!?
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて困りはてている、ということですが、藤原氏のやりそうなことなので僕には柴田さんの困り果てている様子が充分に理解できますよ。

実は、僕の先祖は藤原氏の先祖と同じく百済からやって来たのです。
つまり、藤原氏とは同郷なのですよ。
もし興味があったら次の記事に書きましたので読んでみてください。

『デンマンの祖先は百済からやってきた』

(2010年8月4日)

しかし、藤原氏が「勝ち組」だとすると僕の先祖は「負け組」でして、百済軍の親衛隊の一員として 663年に唐と新羅の連合軍と「白村江」で戦い、敗れると百済の貴族・官僚などと共に日本へ亡命したのでした。 
この人たちの中には大和朝廷の役職に付いて、現在の大臣に当たる役職に付く者まで出てきます。

藤原不比等が「養老律令」を作ろうとした時に集めた、唐から帰ってきた若い留学生たちの中に百済人成(くだらのひとなり)という人物が居ますが、この人物の祖先と僕の一族の祖先は同族だったのです。
しかし、僕の祖先は要領が悪くて大和朝廷で出世することはなかったのです。
戦争に嫌気がさした僕の祖先は開拓団の一員として関東を目指して移住したのでした。
でも、百姓になりきれなくて、やがては武蔵国の豪族である成田氏に仕えるようになります。
騎馬武者だったのですが、漢学の素養を買われ、城主の祐筆(記録係)に出世します。

1590年(天正18年)の小田原の役の際には 城主・成田氏長は小田原城にて籠城しました。
嫡男・成田長親を城主とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもったのです。

忍城

僕の14代前の加藤家当主である加藤兵庫介は、この時、農民たちと行動を共にし、豊臣方の忍城攻めの総大将・石田三成と対峙したのです。

三成は、忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定しました。
この時、あの有名な総延長28キロメートルに及ぶ「石田堤」を築いたのです。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになったのでした。


(ishida90.jpg)

石田堤(いしだづつみ)


(maruhak2.jpg)

丸墓山

明治になると廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれましたが、その後廃城となりました。
僕の曽祖父は手先が器用だったので武士を辞めて忍城下で「くりもの屋」になったのです。
祖父の加藤定吉は優秀な作品を作るという定評を得て、県展に出品して大正6年に県知事より2等の賞状を頂戴しました。
しかし僕の父親が7歳の時に癌で亡くなってしまいました。
まだ働き盛りの42歳でした。

そのような訳で大黒柱を亡くした加藤家は赤貧を洗うような貧乏になってしまったのです。
僕の父・加藤佐吉は小学校を卒業すると母校の給仕をしながら独学で教員検定試験を受けて18歳のときに助教師として母校の教壇に立つようになったのです。
しかし、まもなく太平洋戦争が始まり赤紙で戦地へ引っ張られたのでした。

同じ百済からやって来たのに、「勝ち組」の藤原氏の末裔は日本帝国総理大臣の近衛文麿になりました。

近衛文麿

「負け組」の加藤家の当主・佐吉は小学校の給仕を経て助教師です。
「勝ち組」と「負け組」の差は大きい! (苦笑)

しかし、“人間万事塞翁が馬”と申します。
近衛文麿氏には1945年(昭和20年)12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられました。
巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。
僕の父親は満州から最後は沖縄戦へ転戦しましたが、幸運にも沖縄本島ではなく宮古島に駐屯したので戦死を免れたのでした。


(miyako88.jpg)


(miyako87.gif)

運命のいたずらとでも申しましょうか。。。?
どのように栄達しようとも、人の命は、このように歴史の流れとともに変わってゆくのですね。

百済難民の末裔である僕は、さらに東を目指し、太平洋を越えてバンクーバーに移住したと言う訳です。
「白村江」の戦いに敗れてから、実に、今年で 1349年目になります。

約1350年の歴史をざっと語りましたが、柴田さん、僕の家系を信じることができますか?
僕の家族と親戚の一部だけが、この家系を信じているのですよ。

しかし、藤原氏は、百済からやって来たのにもかかわらず、日本古来から連綿として伝わっている中臣氏の出身だと主張し続けています。
それが学校で教えている日本史では信じられているわけですよね。

どうして。。。?

もちろん、それを可能にしたのが『古事記』と『日本書紀』の編纂です。
「勝ち組」の藤原不比等のやる事は日本史を書き換えるようなことまでしてしまうのですよね。

中央が藤原鎌足

左が次男の不比等

右の坊さん姿が

長男の定慧(じょうえ)

僕は別に日本史を書き換えるつもりはありませんが、ネット上に加藤家の家系を広めながら藤原氏の「六韜史観」とは、どういうものだったのかを語り続けようと思っているのです。
まだまだ語りたいことはたくさんありますが、この続きは次の記事で読んでください。

『大伴柴田臣の末裔』

(2012年3月26日)

日本時間で3月26日の午前8時までには投稿します。
とにかく、コメントありがとうございました。
おかげさまで、久しぶりに自分の書いた記事を読み返して、いろいろと考えることができました。
柴田さんも、日本史を紐解(ひもと)いて、日本人とはなにか? さらに突き詰めて考えてみてください。
では。。。

柴田さんがコメントを書いたというのは、一体どの記事なのですか?

実は柴田さんは、次の3つの記事をじっくりと読んでくれたのですよ。


『真理とは何か?』

『真理は作られた?』

『韓人(からひと)とは誰か?』

どうして上の3つの記事を読んだとデンマンさんには判るのですか?

上の3つの記事を読まない限り、柴田さんには上のコメントが書けないからですよ。 

あたくしも読んでみたいのですけれど、3つも読むのは大変ですわ。

卑弥子さんが、そう言うだろうと思ったので昨日、次の記事を書きました。

『真理とは狸とイタチの化かし合い』

(2012年3月25日)

これならば一度クリックしただけで3つの記事を読むことができます。 卑弥子さんもぜひ読んでみてください。

ところで、デンマンさんは次のように書いていましたわね。

僕は別に日本史を書き換えるつもりはありませんが、ネット上に加藤家の家系を広めながら藤原氏の「六韜史観」とは、どういうものだったのかを語り続けようと思っているのです。

確かに、このように書きました。 卑弥子さんは、この文章が気に喰わないのですか?

いいえ、気に喰わないわけではござ~♪~ません。。。それで、加藤家の家系がネットで広まっているのですか?

藤原不比等は『古事記』と『日本書紀』を使って藤原氏の家系を大和朝廷が支配している全国に広めましたからね。 僕はネットを使って実験してみたのですよ。 その結果を見てください。


(gog20325.gif)

あらっ。。。結構広まっていますわね。

でも、問題は、どれだけの人が信用するかですよ。 (微笑)

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
あたくしはすでにデンマンさんの説に洗脳されてしまっていますけれど、あなたは、どう思いますか?
デンマンさんの先祖が百済からやってきたと、あなたはマジで信じることができますか?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you はもともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。


(junew13.jpg)

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ


(junew12.jpg)

Wright and Japan

2011年12月1日

 
 
Wright and Japan
 
 

 


I wish I were in Japan and would like to see Mount Fuji just as you pasted my picture in the above.

Oh sure…you could in the near future.

Are you saying, you’ll take me to Japan some day?

Oh, yes…some day…some day.

Kato, you are NOT so dependable…whenever I tried to meet you, you used to show up too late.  You always disappointed me, didn’t you?

Well…I was quite busy, you know.

Yes, yes, yes,… I know that, but you could manage it somehow.

You’re telling me, Diane.

So, today, you’re talking about Frank Lloyd Wright and Japan, aren’t you?

Yes, I am.

Are you saying, Frank Wright loved Japan so much?

Oh yes, Japan is the only country outside of America in which Frank Wright lived, worked and loved.

How come you’re so sure about it?

‘Cause this is the historical fact.

I’ve never heard of it.

…’Cause you’ve been so busy, Diane, in submerging yourself in the West end lifestyle as well as Kitsilano’s. :)

I mean, I’ve never learned it.

…’Cause you once lived in Faro, Yukon Territory—up north in the extremely cold climate, which apparently erased your memory about Frank Lloyd. :) he, he, he, he, he,…

Kato, don’t be absurd!  I remember quite well what I’ve learned in my life.  Besides, you told me that Frank got involved in an extramarital affair.

Yes, He did.  What about it?

Well, … In 1903, Frank designed a house for Edwin Cheney, a neighbor in Oak Park, and immediately took a liking to Cheney’s wife, Mamah Borthwick Cheney.

Yes, that’s right.

Mamah Cheney was a modern woman with interests outside the home. She was an early feminist and Wright viewed her as his intellectual equal. The two fell in love, even though Wright had been married for almost 20 years.

Diane…you remember quite well, don’t you?

Yes, I do.  That love affair interested me greatly.  Often the two could be seen taking rides in Wright’s automobile through Oak Park, and they became the talk of the town.  Frank’s wife, Kitty, was sure that this attachment would fade as the others had, and refused to grant him a divorce.  Neither would Edwin Cheney grant one to Mamah.

Frank and Olga

You’re absolutely right, Diane.

So, in 1909, Frank Wright and Mamah Cheney went together to Europe, leaving their own spouses and children behind.  So, Japan isn’t the only country Frank went outside of America, is it?

You’re telling me, Diane.  But Europe is his refuge from the scandal.  On the contray, to Frank, Japan is his paradise.

Why is that?

‘Cause he was an enthusiastic dealer in the Japanese ukiyo-e art.

So, Frank loved woodblock prints of a salacious nature, didn’t he?  I wonder if he was a pornographic collector.

Oh, no.  Don’t jump to a hasty conclusion.  He also loved woodblock prints of the Japanese scenery like Mount Fuji in the above.  Though most famous as an architect, Wright was an active dealer in Japanese art—mostly ukiyo-e woodblock prints.  He frequently served as both architect and art dealer to the same clients. That is, he designed a home, then provided the art to fill it.

I see.  He had an acute business sense as well, I suppose.

Yes, I think so, too.  In fact, Wright made more from selling art than from his work as an architect.

Is that right?  So, he had some Japanese connections.

Yes, he did.

Now, I understand how come the creator of the theme park in Karuizawa also called his park “Karuizawa Taliesin” and wanted to make it as a base for new cultural power.

Karuizawa Taliesin
 
 

This person knew Frank Wright quite well, didn’t he?

You’re telling me, Diane.

So, Frank went to Japan, didn’t he?

Yes, he did.

What did he do over there?  Did he meet another Madame Taliesin by any chance?

Well…, Frank met some beautiful Japanese women, for sure, but he was invited by an old friend of his to build the prestigious Imperial Hotel.

Imperial Hotel in Meiji Village
 

 
Meiji Village Museum
 

I thought that Imperial Hotel was in Tokyo.

Yes, it still is.  Since the new hotel building was built, the part of the old building Frank Wright had designed was moved to Meiji Village, which is an open-air architectural museum/theme park in Inuyama, near Nagoya in Aichi prefecture.  It was opened on March 18, 1965.  The museum preserves historic buildings from Japan’s Meiji (1867-1912), Taisho (1912-1926), and early Shōwa (1926-1989) periods.  Over 60 historical buildings have been moved and reconstructed onto one square kilometre (250 acres) of rolling hills alongside Lake Iruka.  The most noteworthy building there is the reconstructed main entrance and lobby of Frank Lloyd Wright’s landmark Imperial Hotel, which originally stood in Tokyo from 1923 to 1967, when the main structure was demolished to make way for a new, larger version of the hotel.

I’m not particularly interested in the old hotel building.  I’d rather hear about some Japanese women Frank met in Japan.

So, you’re interested in his sizzling love affairs with some Japanese women, aren’t you?

Yes, I’m all ears for romance.

You’re probably expecting something like a story about Yuki Morgan, aren’t you?

Who is Yuki Morgan?

Yuki Morgan

Born in Kyoto as Yuki Kato (1881-1963), she was the daughter of a honorable samuri family, but one that was on the wane in the latter part of the 19th century.
Yuki and her sister were both sold to a certain geisha-house to help support the family.

By the time Yuki began her geisha training, her sister was already well-established in the business.
With her assistance Yuki became a popular Gion geisha.
This was how she met George Dennison Morgan, second son of George Hale Morgan and Sarah Spencer Morgan, builders of Ventfort Hall.
He pursued her for years before she agreed to marry him in 1903.

During her lifetime, Yuki never visited Ventfort Hall.
The Morgan family did not approve of their son’s interracial marriage and gave Yuki the cold shoulder from the start, making the early days of her marriage in American a misery.

Yuki was a notorious woman during her long life, especially in her native Japan where novels and a musical play were written about her scandals.
Her life was constant tabloid fodder.

Yuki lost her citizenship when she married Morgan.
Shunned in both Japan and America, the couple found a happy home in France, although they lived the jet-set lifestyle long before the jet was invented and were frequently separated by travel.

Morgan was alone in Spain when he died of a heart attack in 1915.
Yuki became a woman without a country with many financial and legal battles ahead of her.

Yuki stayed in France until 1938 when she returned to Japan.

After Morgan’s death she had converted to Catholicism and was baptized at the age of 73, taking the Christian name of Theresa in honor of her favorite Saint.
Yuki spent her remaining years as a devout Catholic in Kyoto’s Murasakino.

So, you are saying, Frank Wright also found a nice geisha girl in Kyoto, aren’t you?

Yes, of course, he did.

Did he secretly marry her?

Oh, no…he was fed up with the scandal at the time, and got himself busy in designing Imperial Hotel.  No time for geisha girls, although he enjoyed geisha parties once in a while.

By the way, Kato, Yuki’s family name is the same as your first name, isn’t it?

Yes and no.  Actually, her family name and mine are the same, pronounced in Japan as “Kaato.”  My first name, Kato, has been adopted here in Canada after the famous Green Hornet character.   My full name is Kato Akira Kaato.

I see…I wonder if your family and Yuki’s family are related.

Yes, indeed, our family is related to hers.  My grandma once told me about the story of my ancestors, who had origiginally come from Paekche (百済)—part the the ancient Korea.

From part of the ancient Korea?…no kidding!

Once upon a time—in 663 to be exact—there happened the Battle of Baekgang-gu (白村江), which was fought between Baekche (百済) restoration forces and their ally, Yamato Japan, against the allied forces of Silla (新羅) and the Tang (唐) Dynasty of ancient China.  The battle took place in the lower reaches of the Geum River in Jeollabuk-do province, Korea.  The Silla (新羅) – Tang (唐) forces won a decisive victory, forced Yamato Japan to withdraw completely from Korean affairs and crushed the Baekche restoration movement.

Are you serious about this, Kato?

Yes, of course, I am.

You’re telling me about the 7th-centry battle in the Far East, aren’t you?

Yes, I am.  My ancestor was one of the guards for the imperial palace in Baekche (百済).  Since the battle was lost, he and his family fled to Japan, and later setteled in Nara—the ancient capital of Japan.  One of the family was married into the Kato clan in Kyoto.  Yuki’s family and my family had descended from this branch.  Yuki’s family had remained in Kyoto while my ancestoral family had moved toward the present Tokyo some hundred years later, and eventually settled in Gyoda—my home town.

Interesting! … But do you really want me to belive all this?

Well… I wrote this story in Japanese quite a while ago.  If you’re interested in, please translate the following article using the Google translator and read it.

“Kato’s ancestors came from Baekche”

(デンマンの祖先は百済からやって来た)

【Himiko’s Monologue】

Wow! … Amazing!
Can you belive that Kato’s ancestor came from the ancient Korea?
In any cace, Yuki Morgan’s story is quite fascinating, isn’t it?

Come to think of it, I’ve never met my “Morgan”—a decent man in my life.
I’m living in Kyoto, you know.
How come I’m always a loner?
I wish I could meet a nice gentleman at the library in my town as Diane met Kato.
Well, they say, there is a way where there is a will.

Have a nice day!
Bye bye …

If you’ve got some time,

Please read one of the following artciles:


“Cleopatra”

“Queen Nefertiti”

“Catherine de Medici”

“Catherine the Great”

“Mata Hari”

“Sidonie Colette”

“Marilyn Monroe”

“Hello Diane!”

“I wish you were there!”

“Jane Eyre”

“Jane Eyre Again”

“Jane Eyre in Vancouver”

“Jane Eyre Special”

“Love & Death of Cleopatra”

“Nice Story”

“Scrumdiddlyumptious”

“Spiritual Work or What?”

“What a coincidence!”

“Wind and Water”

“Yoga and Happiness”

“You’re in a good shape”

“Hellelujah!”

“Ecclesiophobia”

“Uncorruptible”

“Net Travel & Jane”

“Net Love”

“Complicated Love”

“Electra Complex”

“Net Début”

“Inner World”

“Madame Riviera and Burger”

“Roly-poly in the North”

“Amazing Grace”

“Diane in Paris”

“Diane in Montmartre”

“Diane Well Read”

“Wantirna South”

“Maiden’s Prayer”

“Bandwidth”

“Squaw House and Melbourne Hotel”

“Tulips and Diane”

“Diane in Bustle Skirt”

“Diane and Beauty”

“Lady Chatterley and Beauty”

“Victoria Prudery”

“Diane Chatterley”

“From Canada to Japan”

“From Gyoda to Vancouver”

“Film Festival”

“Madame Taliesin”

“Happy Days”

“Vancouver Again”

“Swansea”

“Midnight in Vancouver”

“Madame Lindbergh”

“Dead Poets Society”

“Letters to Diane”

“Taliesin Studio”

Hi, I’m June Adames.

In 1940, Frank Lloyd Wright and his third wife, Olgivanna (December 27, 1898 – March 1, 1985), formed the Frank Lloyd Wright Foundation, which still exists.

Even before this organization, Taliesin Fellowship went along very well. You can see various activities in the following video clip:

Taliesin Fellowship in 1933

Birthday Celebration at Taliesin

Upon Wright’s death in 1959, ownership of the Taliesin estate in Spring Green, as well as Taliesin West, passed into the hands of the foundation.

The foundation also owns Frank Lloyd Wright’s archives and runs a school, the Frank Lloyd Wright School of Architecture.

Nowadays, computers have come to Taliesin, and you can see some activities in the following clip:

Charles Montooth

on the advent of computers

at Taliesin

ところで、愛とロマンに満ちた

レンゲさんのお話をまとめて

『レンゲ物語』を作りました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

『愛とロマンのレンゲ物語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

藤原鎌足の長男

2011年9月4日

 
藤原鎌足の長男

あなたも知らない日本の悲劇

        

こんにちは。。。
デンマンです。

ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。

写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。

その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。

藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。

実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?

ところで、どのような悲劇なの?

それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。

定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。

この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。

ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。

しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。

要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。

実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。

僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。

しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。

馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。

とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。

当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

それほど危険な船旅に、

なぜ定慧を出したのか?

ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。

もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。

したがってどういうことが言えるでしょう?
初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。
定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。
それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。
要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。

これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。
11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。
だから、出家させて、唐に追いやってしまう。
運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。
運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。

おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。
このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。
鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。
この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。

なぜか?

それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。

太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。
なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。
命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。

したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。
それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。
鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。

鎌足とは、一体どういう人なの?

鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。
彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。
しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。
その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。
鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。

問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。
たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。
詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。

端的に言うと、非常に頭のいい人でした。
視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。
おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。
このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。
朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。
しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。
もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。
しかし、その規模が違います。

『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。

要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。
はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。
つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。
それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。

したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。
古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。
しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。
しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。
したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。
そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。

『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。

現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。

しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。

つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。

しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。

藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。

『定慧の出生の秘密』

どうですか?
ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?
上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。
涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。
残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。

定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。
こんな事が実際に起こったのだろうか?
あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 


『あなたも知らない日本の悲劇』より
(2007年4月2日)

デンマンさん。。。このお話は前にも読みましてん。

うん?。。。そうやろなァ。。。

どうして、またこのお話を持ち出してきやはったん?

次のコメントをもらったのやがなァ~。。。

Beaverland Net Form Processor
From: servicemail
(servicemail@bravenet.com)
To: barclay1720@aol.com
Date: Tue, Aug 16, 2011 12:40 pm.

MESSAGE SENT
THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Aug 16 2011 / 12:40:19

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-joe01-superb
Your_Name = 国枝○○
Your_Email_Address = hk

読まれた記事:
『藤原鎌足と長男・定慧』

Comments :

とっても良いと思います。
。。。で、新しい古代日本史?
現在 そして これからの日本史は?

藤原不比等・・・↑

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

これってぇ、マジなコメントやのォ~?

宣伝のためのURLや、落書きのようなことを書いているわけではあらへん。 しかも、コメントを実際に書いてみれば分かるけど、英語のサイトに飛んでゆくねん。 英語に親しんでない人が書いたら、多分、きしょくわるうのうて、コメントを投稿するのを止めてしまうと思うのやァ。 そやから、わざわざ書いたということは、記事を読んでかなりのインパクトを受けたことは確かなことやねん。

どうして、そないな事が、あんさんに判りはるのォ~?

あのなァ~、『藤原鎌足と長男・定慧』という記事には、これまでにもコメントをもろうておるねん。 そやから、わての経験から判るねん。 IPアドレスを調べたら岐阜県に住んでいる人やと分かった。

IPアドレス: 221.30.1.xxx
ホスト名:
softbank221030001xxx.bbtec.net

IPアドレス割当国: 日本
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県

つまり、上のけったいなコメントをもろうたので「藤原鎌足の長男」というタイトルにしやはったん?

ちゃうねん。。。実は、偶然とは言いながら不思議な事が起こったのやァ。

「藤原鎌足の長男」が、あんさんの見やはった悪夢にでも現れはったん?

そないなアホな事が起こるかいな! 実はなァ、コメントをもらった頃に『温泉維新』という本を読んでいたのやァ。 そいで、次のような箇所に出会(でお)うたのやないかいなァ。

西山温泉

JR身延線身延駅から“南アルプス街道”をバスに揺られること1時間半。 やはり遠い。 それだけに、三千メートル級の山々が屹立する南アルプスの沢水を集めた早川の渓谷が一段とせばまったころ、忽然と現れる建物にだれしも安堵のため息をつくに違いない。 と同時に、山峡の宿とは思えない土壁風のシックで気品すら感じられる外観に驚くのである。

深山幽谷にたたずむ西山温泉の老舗旅館「慶雲館」。
館内に入ると、総檜造りの日本建築の粋を結集した落ち着いた雰囲気に包まれる。
その白眉は、壁面にパノラマガラスがはめられたロビーだ。
眼下の早川と渓谷に迫った幾重にも重なり合う南アルプスの山々のダイナミックなこと。
これぞ本物の自然である。

 (中略)

城崎温泉「千年の湯 古まん」(兵庫県豊岡市)、粟津温泉「法師」(石川県小松市)と共に、慶雲館の創業は奈良時代にまでさかのぼる。
慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見し、深澤さんで52代目とか。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


111 – 112ページ 『温泉維新』
著者: 松田忠徳
2010年4月22日 初版第1刷発行
発行所: 日本経済新聞出版社

あらっ。。。藤原鎌足の長男である定慧さんが西山温泉を発見しやはったん?

藤原鎌足の長男である藤原真人さんが坊さんになって“定慧”と名乗ったのやがなァ。 でもなァ、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたのや。

新百済派(旧百済朝廷遺臣)と

旧百済派(鎌足派)の対立

定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。

上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。 これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。 それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。 しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。 「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」

定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。 そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。 天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。 しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。 「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」

それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。

定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。

懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。

この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。


『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)

あんさんが読みはった本の中には慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見したと書いてありますやん。 可笑しいですやんかァ! 著者が日付を間違ったんとちゃうん?

そうかも知れへんと思って、わては調べてみたのや。

西山温泉の起源についての伝説

その昔、藤原真人がこの地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。
真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。
名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。
試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。
その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造るなどして、「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。
文武天皇の慶雲二年(西暦七○五年)三月のことでありました。

これが、西山温泉の起源と伝えられています。

医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていきました。


出典: 『山梨県 西山温泉 慶雲館』

旅館のホームページにも、こないに書いてあるねん。

やっぱり、705年と書いてますねんなァ。 そやけど、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたと、あんさんは断定しているやおまへんかァ!

そうやァ。。。

そうやァではおまへんがなァ! あんさんは出鱈目を書きはったん?

アホな事をいいないなア! 出鱈目など書くかいなァ!

そやけど、どちらかが出鱈目を書いてるということやんか。

そうや。。。そやから、わてはさらに調べてみたのやァ。

慶雲館

日本の甲斐国(現・山梨県)で西山温泉の宿として慶雲2年(703年)に開湯・創業。
2011年2月中旬、「世界で一番古いホテル・旅館」として、それまで認定されていた後述の「法師」に替わってギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)に認定された。
「創業者一族が経営を続ける現存企業」として世界最古ともされる(ギネス認定時の当主は、開湯・創業者である藤原真人から数えて52代目にあたる)。
もっとも、ここで言う藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であり、703年には開湯できない。


出典: 「世界最古の一覧」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こないに書いてあるねん。

つまり、藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であると言うてますやん。

そうやろう! つまり、藤原鎌足の長男は665年か666年に亡くなっておるねん。 当時の状況から考えて暗殺されたという事が最も妥当やと、わてには思えるのやァ。

そやかて藤原真人が「慶雲館」の創業者とういことになってますやん。

あのなァ~、めれちゃんも知っていると思うけど。。。源義経は頼朝の手勢から逃れて東北の地で死んだのやァ。 そやけど、そう思わん人もたくさんおった。 その人たちは、義経はその後、中国大陸に渡って蒙古人を組織して、やがてジンギスカンになり、世界を制覇したという事を真面目に信じておるねん。 そやから、藤原鎌足の長男である定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されたのではなくて、実は、関東に移住して「慶雲館」の創業者になったと言う事を真面目に考えている人がいるのも決して可笑しなことではあらへん。

でも、歴史的事実を変えてしもうたら、アカンとわたしは思うねん。

でもなァ、伝説というものは歴史的な事実とは関わりなく人の心の中に残ってゆくねん。 源義経がジンギスカンになったというのもその例やがなァ。 義経の悲劇はあまりにも可哀想やったのやァ。 そやから、日本人の間に義経に同情する「判官びいき」が生まれる。 定慧さんも、あまりにも可哀想な事件に巻き込まれてしもうたのや。 そやから、定慧さんが「慶雲館」の創業者になって生き延びたというのも、わてには十分に分かるのや。

そやけど、歴史と判官びいきは区別せんとアカンと、わたしは思うわ。

ええねん。。。その伝説が人を殺したり不幸せにするものでない限り、「慶雲館」の温泉に浸かって癒されれば、それでええねん。

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
そうかもしれませんよね。
伝説は伝説として後世に伝えられてゆくのかもしれません。
定慧さんが「慶雲館」の創業者になったというのも、ロマンがあって良いことだと思いますわ。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、興味深い話題がさらに続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

奈良時代から、たくさんの帰化人や大陸からの難民が

関東地方に移住してゆきました。

デンマンさんの祖先も百済からやって来て

奈良の都に行ったのでしたけれど、

なかなか思うような官職に就けずに

関東に移住することを決めたそうです。

歴史を紐解(ひもと)いてみると

奈良時代の初めから次のような移住が記録されています。

天智天皇5年(666年)
百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。 この集団の殆どは出家者とはならなかった。


天武天皇13年(684年)
百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。


持統天皇元年(687年)
投化した高麗五十六人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。 又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。 いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。


持統天皇2年(688年)
百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。


持統天皇3年(689年)
投化した新羅人を、下毛野に居住させる。


持統天皇4年(690年)
帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。 又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。


霊亀元年(715年)
尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。


霊亀2年(716年)
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。


天平5年(733年)
武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。


天平宝字2年(758年)
日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。


天平宝字4年(760年)
帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。


天平神護2年(766年)
上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。


延暦18年(799年)
百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。


弘仁5年(814年)
化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。


弘仁11年(820年)
遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)


天長元年(824年)
新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。 法により復を給し、乗田を口分田に充てる。


貞観12年(870年)
新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。

これを見ると、ずいぶんたくさんの百済人や

新羅人が関東に下っていったのが分かります。

デンマンさんも小百合さんも

そのような百済人の子孫だそうです。

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

定慧と小百合の物語

2011年6月8日

 
定慧と小百合の物語

あなたも知らない日本の悲劇

        

こんにちは。。。
デンマンです。

ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。

写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。

その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。

藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。

実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?

ところで、どのような悲劇なの?

それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。

定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。

この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。

ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。

しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。

要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。

実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。

僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。

しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。

馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。

とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。

当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

それほど危険な船旅に、

なぜ定慧を出したのか?

ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。

もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。

したがってどういうことが言えるでしょう?
初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。
定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。
それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。
要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。

これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。
11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。
だから、出家させて、唐に追いやってしまう。
運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。
運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。

おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。
このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。
鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。
この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。

なぜか?

それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。

太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。
なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。
命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。

したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。
それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。
鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。

鎌足とは、一体どういう人なの?

鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。
彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。
しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。
その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。
鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。

問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。
たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。
詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。

端的に言うと、非常に頭のいい人でした。
視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。
おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。
このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。
朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。
しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。
もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。
しかし、その規模が違います。

『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。

要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。
はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。
つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。
それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。

したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。
古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。
しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。
しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。
したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。
そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。

『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。

現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。

しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。

つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。

しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。

藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。

『定慧の出生の秘密』

どうですか?
ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?
上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。
涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。
残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。

定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。
こんな事が実際に起こったのだろうか?
あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 


『あなたも知らない日本の悲劇』より
(2007年4月2日)

あらっ。。。デンマンさん。。。また定慧さんの話を持ち出してきたのですわね。 ちょっとしつこいとは思いませんか?

うん。。。確かに僕のブログを毎日読んでいる人は、そう思うかもしれません。 でもねぇ、毎日読みにやって来る人はそれほど多くはないのですよ。 だから、同じ話を2度読まされてウンザリしている人は少ないと思いますよ。

ところで、どうして私の名前を持ち出してきたのですか? 私と定慧さんがまるで関係ありそうではありませんか?

関係ありますよ。

でも、私の知る限り「定慧」という名前は私の家に伝わる家系図の中にありませんわ。

それは最近の家系図だけしか小百合さんの家には伝わってないからですよ。

デンマンさんは私の家の古い家系図を見たことがあるのですか?

いや。。。見たことはありません。 でもねぇ、僕の家の遠い祖先と小百合さんの家の遠い祖先は、百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた時に避難民として日本へ逃げて来たのですよ。

そのような事をおっしゃっても誰も信じませんわ。

初めてこの記事を読む人は信じられないかもしれません。 でもねぇ、かつて僕の記事を読んだ人には理解できると思うのですよ。

その記事ってぇいつ頃の記事ですか?

2年前に書いたのですよ。 小百合さんのために関連する部分をここに書き出しますから読んでみてください。

デンマンの祖先は百済からやって来た

僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。

それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。

。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?

そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。

バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。

この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。

この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。

これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。

こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.

つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。


『出会い系の悪魔』より
(2008年9月10日)

僕と小百合さんの出会いは、偶然の出会いのように見えて偶然ではないのですよう。つまり、小百合さんと僕に共通するモノが実にたくさんあるのですよう。

“海外飛躍遺伝子”でござ~♪~ますか?

それも一つですよう。まず、車で30分も走れば会える距離に住んでいたのに、僕と小百合さんが初めて出会ったのは、何千キロも離れたバーナビーだった。僕の祖先と小百合さんの祖先が1400年程前に百済から日本に一緒に渡ってきた事が分かるような気がしますよう。小百合さんの祖先の娘は、やがて武蔵国から現在の栃木県の栗山村へ嫁にゆき、上の昔話を伝える事になったのですよう。どうですか?

確かに、そのような可能性があったかもしれませんわ。だってぇ~、デンマンさんの祖先の中には、きっとお話に出てくるような「ばか息子」が居たでしょうからねぇ~。。。うしししし。。。

一人ぐらい変わり者が居たかもしれませんよう。。。とにかく、このように見てゆくと、すべての話がここで丸く収まるのですよう。卑弥子さんも、そう思いませんか?


『歴史を散歩させる食べ物』より
(2009年5月1日)

でも、ずいぶんとお話には飛躍があると思うのですわ。 おそらく誰もまともには信じないと思うのです。

うん。。。そうかもしれません。 でもねぇ、歴史なんてそのようなものですよ。 『古事記』にしろ『日本書紀』にしろ、この2つの歴史書は言ってみれば藤原氏が自分たちが日本古来からの氏族だということを当時の人々に、また後世の我々に伝えるために書かせたものですよ。

何のためにですか?

要するに、藤原氏が権力の座に着いたことを正当化するためですよ。 勝てば官軍ですからね。 勝ち組の都合の良いように書いたものが『古事記』であり、『日本書紀』なのですよ。

でも、どうして定慧さんと私とデンマンさんの祖先を結び付けなければならないのですか?

あのねぇ、定慧さんの祖先、つまり、藤原氏の祖先と僕と小百合さんの祖先は同郷なのですよ。

あらっ。。。定慧さんの祖先と、私とデンマンさんの祖先は百済に住んでいたのですか?

その通りですよ。

そのような事を言っても誰も信じませんわ。

あのねぇ、これまでの話をじっくりと読めば、定慧さんと小百合さんと僕には共通するものがあるのですよ。

何が。。。?

何がってぇ、小百合さんもこれまでの話をじっくりと読んだのでしょう?

もちろんですわ。

だったら、3人のDNAに“海外飛躍遺伝子”が焼きついている事が分かるでしょう?

でも、海外に行く日本人のDNAに“海外飛躍遺伝子”が焼きついているとするならば、そのような人は日本にも何千万人と居ますわ。

あのねぇ、単なる海外旅行者と、定慧さんと小百合さんと僕を一緒にしないでくださいよ。 定慧さんは11歳の時に遣唐使船に乗って生きるか死ぬかの怖い思いをしながら唐に渡ったのですよ。 それから10年近い歳月を唐と百済で過ごしたのです。 小百合さんも生きるか死ぬかは別として20年ほど前にカナダにやって来た。 そこで人生の転機を迎えたのですよ。

Subj:長い電話お疲れ様でした。

Date: 01/10/2007 1:52:14 AM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 10月1日 午後5時52分 
From: fuji@adagio.ocn.ne.jp
To: barclay1720@aol.com

長い電話お疲れ様でした。
良くわかりました。

経理をしなくてはいけない。
それも13年分。
誰にたのもうか?
レシートもなくてと迷って朝方まで寝られない夜が毎晩だった時、
デンマンさんと話して、ここまで経理が進んだことをホットしてます。

いくら 請求がきても カナダに納めるのならいいやと思いはじめました。 
バーナビーで夏休みを過ごすことは
毎年私の支えの時間でした。

あの古い家は、夏休みで休むというより
ペンキ、芝のクローバむしり、
りんごの木の手入れ、
玄関まで高く長い階段のペンキはがしや、
しばらくみがかないガラス、
シミだらけのじゅうたん、
BASEMENTはランドリーのホコリとくもの巣、
行けば、掃除ばかりの家に大変でしたが
また戻りたいと思っていました。

実父の病気に、もう自分勝手にしていては駄目だ。
と今年決意しました。

こんな私でも欲しい物があります。
別荘です。
場所は長野です。
買ったら元家主の藤田桃子さん夫婦も招きたいです。
よかったらデンマンさんも。

日本だったら、親をおいていくことなく、ゆけます。

でも、29才からバーナビーで夏休みを過ごすことができた事は
私の人生にとって良かったと思います。

ではまた。。。

小百合より

『カナダのバーナビー』より
(2008年11月18日)

13年間借りていた“山の家”で小百合さんは定慧さんのように人生を深く考えながら生活したのですよ。

デンマンさんは、マジで私が定慧さんのように13年間人生を深く考えながら生活したと信じているのですか?

もちろんですよ。

。。。で、デンマンさんの場合は。。。?

僕の場合は人生の半分以上を海外で暮らしていますからね。 34カ国に及ぶ国々を放浪してバンクーバーに安住の地を見つけたのですよ。 もちろん、生きるか死ぬかの怖い思いをしたのは5度や6度ではなかった。 暗殺されるようなことはなかったけれど、現在こうして生きているのが不思議なくらいですよ。

私とデンマンさんの生活は、確かに平均的な日本人と比べれば、定慧さんのような波乱に飛んでいる生活かもしれません。 でも、ただそれだけで定慧さんと結びつけるのは飛躍のし過ぎだと思いますわ。

あのねぇ、そこですよ。 確かに、これだけでは誰だって信じないでしょうね。

だから、他にどのような強烈に説得できる材料があるのですか?

ジューンさんの話ですよ。 

袖触れ合うも他生の縁

これですよ。 僕と小百合さんの出会いも「袖触れ合うも他生の縁」なのですよ。

。。。で、デンマンさんと私と定慧さんの出会いも「袖触れ合うも他生の縁」なのですよ。

そうですよ。

どういうわけで。。。?

やだなあああァ~。。。ここまで話してきて、小百合さんには、まだ分からないのですか?

分かりませんわ。

ロマンですよ。 小百合さんにもロマンがあったのですよ。 13年間も海外に別荘を借りる人なんて、日本人の中には、そうざらには居ません。 また、僕のように34カ国も放浪する人だって、日本人にはあまり居ないでしょう。

。。。で、定慧さんもロマンを持って唐に出かけたのですか? いや、11歳の当時はロマンもヘチマも持っていなかったでしょうね。 うししししし。。。でもねぇ、 あとで藤原鎌足から大切な使命を聞かされたのですよ。

どのような使命だったのですか?

あのねぇ、定慧さんは天智天皇が放った刺客の手によって暗殺されたのですよ。

マジで。。。?

当然です。

どうして。。。?

唐と新羅の連合軍のスパイになって日本へ帰ってきたと天智天皇は疑ってしまったのですよ。 天智天皇は疑り深い人だった。 その性格のために、彼の猜疑心のために何人もの人がこの人によって殺された。

。。。で定慧さんのロマンとは、どのようなものだったのですか?

定慧さんは唐と新羅の連合軍のスパイなどではなかった。 父親である鎌足の要請を受けて唐と新羅と百済の情勢をつぶさに見て調べてきた。 もし無事に生きていたら、藤原鎌足の長男として次男の藤原不比等を凌(しの)ぐような素晴らしい政治を行っていたに違いないのですよ。

だから、定慧さんのロマンとは何なのですか?

もちろん、歴史ロマンですよ。 “海外飛躍遺伝子”が織り成す歴史ロマンですよ。 定慧さんの短い生涯にも十分に歴史ロマンを感じさせるものがある。 そして小百合さんの半生にもロマンが感じられる。 もちろん、僕も歴史ロマンを意識しながら生活している。

要するに“海外飛躍遺伝子”とロマンを無理やり結びつけたのですわね?

僕が無理やり結びつけたように小百合さんには見えるのですか?

多分、この記事を読んでいる人も、そう感じると思いますわ。

でもねぇ、海外で10年以上暮らせば、僕が言おうとしていることが理解できるはずです。 (微笑)

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
確かに飛躍したお話でござ~♪~ますわ。
でも、これほどまでにこじつけると、もう呆れて何も言う気が起こりませんよね。
あなただってぇ、そう思うでしょう?

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』

こんにちは。ジューンです。

定慧さんは子供のときに出家したのです。

長男なのにどうして出家しなければならなかったのか?

それには複雑な家庭の事情があったのです。

出家しないと命の危険さえあったのです。

つまり出家するということは

人間にある全ての欲を絶つことでした。

色欲、物欲、権力欲を捨てることです。

こうすることによって定慧さんは

世俗の権力欲がないことを世間に示したのです。

そうでない限り天智天皇の猜疑心は

たとえ子供であろうとも

殺してしまいかねないほどだったのです。

当時、僧を目指すということは、

言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。

相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が

必要だったのですわ。

生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。

ちなみに、江戸時代になってから

ずいぶんと笑い者にされた道鏡さんは

実は優秀な人だったそうです。

語学にも才能があったと見え、

留学僧でもない道鏡さんが兄弟子・良弁に付き添って

唐招提寺に居る鑑真さんを訪れた時、

二人の会話が理解できたと言います。

道鏡さんはさらに難解なサンスクリット語にも

精通していたのです。

辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に

異国語を習得することは大変なことでした。

あなただって、想像がつくでしょう?

だから、道鏡さんが相当の頭脳の持ち主であったことは

まず間違いないようです。

でも当時、悪い僧侶も確かに居ました。

仏教が隆盛するに伴い、

様々な問題も現れ始めていたのです。

まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。

生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、

勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える

“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決めました。

それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて

日本にやって来たというわけです。

以来、僧侶として認められるためには、

“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を

持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、

そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の

3カ所と定められました。

これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡さんのレベルの僧侶になると、

セックスにむちゃくちゃをするような僧は

まずその地位を保つことが出来ません。

この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。

とにかく鑑真和上が居た頃の話ですから。。。

ところで、卑弥子さんにもちょっと信じがたいような

恋物語がありますわ。

関心があったらぜひ次のリンクをクリックして

じっくりと読んでみてくださいね。

『平助さんが卑弥子さんに

恋をしたのがウンのつき』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

韓国からようこそ!

2010年8月4日

 
韓国からようこそ!

デンマンの祖先は百済からやって来た

僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。

それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。

。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?

そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。

バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。

この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。

この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。

これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。

こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.

つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。


『出会い系の悪魔』より
(2008年9月10日)

僕と小百合さんの出会いは、偶然の出会いのように見えて偶然ではないのですよう。つまり、小百合さんと僕に共通するモノが実にたくさんあるのですよう。

“海外飛躍遺伝子”でござ~♪~ますか?

それも一つですよう。まず、車で30分も走れば会える距離に住んでいたのに、僕と小百合さんが初めて出会ったのは、何千キロも離れたバーナビーだった。僕の祖先と小百合さんの祖先が1400年程前に百済から日本に一緒に渡ってきた事が分かるような気がしますよう。小百合さんの祖先の娘は、やがて武蔵国から現在の栃木県の栗山村へ嫁にゆき、上の昔話を伝える事になったのですよう。どうですか?

確かに、そのような可能性があったかもしれませんわ。だってぇ~、デンマンさんの祖先の中には、きっとお話に出てくるような「ばか息子」が居たでしょうからねぇ~。。。うしししし。。。

一人ぐらい変わり者が居たかもしれませんよう。。。とにかく、このように見てゆくと、すべての話がここで丸く収まるのですよう。卑弥子さんも、そう思いませんか?


『歴史を散歩させる食べ物』より
(2009年5月1日)

小百合さん、どうですか?。。。なかなか味わい深い話でしょう?

でも、海外飛躍遺伝子なんて誰も信じませんわ。

確かに遺伝学的には、まだ「海外飛躍遺伝子」は発見されていません。でもねぇ、僕は時間の問題だと思いますよう。いずれ「海外飛躍遺伝子」は発見されるはずですよう。

。。。で、上の長いお話と今日のタイトルは関係あるのですか?

もちろんですよう。上の話を持ち出さないと、これから話すことに説得力がないのですよう。

つまり、韓国の人がデンマンさんのブログを読みにやって来たのですか?

そうなのですよう。まず、昨日のライブドアのページを見てください。

あらっ。。。バレンシアの人が出てきましたわね。


そうなのですよう。毎日のようにやって来て熱心に記事を読んでくれるので僕はマジで幸せな気分になっているのですよう。うししししし。。。

でも、韓国の国旗が上のリストには見えませんわね。

そうです。上のリストには出てない。Real-time view をクリックしてリアルタイムの表示を見たら出ていたのですよう。その時のリストをソフトカメラで撮ったので見てください。

あらっ。。。ホントに韓国の国旗がありますわ。でも、韓国に駐在している日本人の商社マンか?その奥様かもしれませんわ。

いや、日本人ではありません。

どうして、日本人ではないと断定できるのですか?

なぜなら、日本語を韓国語に翻訳して読んでいるからですよう。

翻訳していることがどうしてデンマンさんには分かるのですか?

もう一度リストを見てください。

あらっ。。。infoseek のトランスレーター(translation)を使っているのですわね。

その通りですよう。

でも、日本語がよく読めないのに、デンマンさんのブログをどうやって探したのですか?

上の表示をよく見てください。書いてありますよう。shiori_smile さんの happy feeling♪ のページからやって来たのですよう。

shiori_smile さんがデンマンさんのページを紹介しているのですか?

実は、初め、僕もそう思ったのですよう。それで shiori_smile さんのブログへ飛んでいったのですよう。

。。。で、デンマンさんのページを紹介している記事が見つかったのですか?

いや。。。残念ながら僕のページを紹介している記事はなかった。でもねぇ、shiori_smile さんのブログにも僕のブログと同じように FEEDJIT が貼り付けてあるのですよう。

この上の画面はデンマンさんが shiori_smile さんのブログのページを開いた時に撮ったものですか?

そうです。

つまり、FEEDJIT のリストに表示されたデンマンさんのアバターについているリンクをクリックしてやって来たのですか?

僕も初め、そう思ったのですよう。でもねぇ、韓国の人が僕のブログにやって来た時間に、僕のアバターはリストの中には無かったのですよう。

では、いったい、どのようにしてデンマンさんのブログを見つけたのですか?

あのねぇ、答えは意外に簡単でしたよう。。。上のリストにも書いてある通り、韓国の人は shiori_smile さんの happy feeling♪ のページからやって来たのですよう。つまり、happy feeling で検索して shiori_smile さんのブログを見つけたのではないか?

つまり、同じ検索結果にデンマンさんのブログも表示されるのですか?

そうなのですよ。実際に検索してみました。その結果を見てください。

上の結果に表れたページは、韓国の人が検索した時にも表示されたはずですよう。

でも、いったいデンマンさんのブログのどのページを読んだのですか?

だから、『デンマンの祖先は百済からやって来た』という上の話を読んだのですよう。

でも、2009年5月1日の記事を読むでしょうか?

あのねぇ~、次のアメーバ・ブログの統計を見てください。

7月23日には 2005年に書いた記事が4ページも読まれたのですよう。2005年の記事に比べたら2009年の5月に書いた記事は、ごく最近の記事ですよう。うへへへへへ。。。

でも、どうして『デンマンの祖先は百済からやって来た』という、夢のような話を読んだのですか?

やだなあああァ~。。。僕が妄想を書いたように言わないでくださいよう。。。韓国の人は僕の上の話を読んでジューンさんの言った言葉をしみじみと噛み締めたはずですよう。

ジューンさんが言った言葉ですか?

そうですよう。次の言葉ですよう。

袖触れ合うも他生の縁

つまりねぇ、僕の祖先と、小百合さんの祖先と、その韓国人の祖先の人が1400年前に、一つの釜をかこんで一緒にご飯を食べたかもしれないと言う事をしみじみと考えたのですよう。うししししし。。。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
かなり飛躍がありますわよね。
あなただってぇ、そう思うでしょう?

いつものように、デンマンさんのこじつけでござ~♪~ますわよう。
それにしても、よく考えますわ。
うふふふふふ。。。

とにかく、あさっては、もっと興味深い話題が続きますわ。
だから、あなたも明後日、読みに戻ってきてくださいましねぇ。
では。。。

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

外国語を学ぶのは本当に難しいですよね。

特に日本語は難しいと思います。

なぜならば読み方が一つとは

限らないからです。

また、同じ物を言い表す場合でも

一つの漢字とは限らないからです。

たとえば、「ふとん」には

2つの漢字の書き方がありますよね。

私は知りませんでした。

「布団」は知っていましたが、

「蒲団」は知りませんでした。

だから、わたしは「蒲団」を“うらだん”と読んだのです。

デンマンさんに笑われてしまいました。

うふふふふふ。。。

「布団」の「布」は当て字なんだそうです。

そう言われてみると、

田山花袋の「蒲団」は

必ず「蒲団」と書いてあります。

「布団」とは書いてありません。

それにしても「団子」の「団」は“だん”と読むのに、

「布団」の「団」は“とん”と読むのですよね。

どうして。。。?

デンマンさんに尋ねたら、

“だん”は呉音で

“とん”は唐音ですって。。。

日本語って難しいですよね。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

時間があったらぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。