Posts Tagged ‘日本美術史’

天平の麗しき淑女

2013年7月21日

   
 
天平の麗しき淑女


(shotoku06.jpg)


(yang103.jpg)

あぁ~♪~っらぁ、デンマンさん。。。 あたくしも「天平の麗しき淑女」のお仲間に入っているのでござ~♪~ますか?

。。。ん? 卑弥子さんが「天平の麗しき淑女」のお仲間?

だってぇ、上の画像の3番目に、あたくしが登場してますわよう。

うん、うん、うん。。。 確かに卑弥子さんの写真が貼ってあります。

だから、あたくしも「天平の麗しき淑女」のお仲間になっているのでしょう?

やだなあああァ~。。。 勘違いしないでくださいよう。 確かに卑弥子さんは十二単(ひとえ)を着ているけれど、でも、十二単は天平時代じゃなくて平安時代でしょう?

そうでござ~ますわ。

だったら、「天平の麗しき淑女」のお仲間には入らないでしょう!?

でも、あたくしの写真が貼りだしてござ~ますわ。

あのねぇ~、それには訳(わけ)があるのですよ。

だから、あたくしも「天平の麗しき淑女」の一人なのでござ~ますでしょう?

やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは天平時代に生きていたわけじゃないでしょう! 現在、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っている現代人なのですよ。 確かに上の写真の中に卑弥子さんが出てくるけれど、誰も卑弥子さんを「天平の麗しき淑女」だとは思いませんよう。

だったら、どうして、あたくしの写真を貼り出すような誤解を与える事をなさるのでござ~ますか?

だから言ったでしょう! これには深い訳があるのですよ。

分かりましたわ。 じゃあ、その深い訳を聞くことにいたしますわ。 早く話してくださいなァ。

あのねぇ~、ものには順序というモノがあるのですよ。 だから、すぐに深い訳が話せるわけじゃないのです。 まず次の小文を読んでください。

聖林寺
 

(shorin02.jpg)
 

(shorin05.jpg)
 
奈良県桜井市下692にある真言宗の単独寺院。
桜井市の南部、多武峯(とうのみね)街道の西側の高地に位置する。

 (中略)

十一面観音像


(11kanons3.jpg)

もと大神(おおみわ)神社の神宮寺であった大御輪寺にまつられていたが、明治の廃仏毀釈に際し、本寺に迎えられた。
一材から彫り出した心木に乾漆を厚く盛って塑形したもの。
頭体の比例が整い、肉づけや衣文の起伏に自然味があって、しかも荘重な気分に富んでいる。
天平時代後半、8世紀半ば過ぎから盛行した木心乾漆像の代表的な作品である。

 (117ページ)


法華寺


(hokke02.jpg)
 

(hokke03.jpg)
 
奈良県法華町882にある真言律宗の尼寺で、法華滅罪之寺とも称している。
門跡氷室御所。
法華滅罪之寺は、天平13年(741)、国ごとに僧寺として金光明四天王護国寺、すなわち国分寺建立の詔が出されたときに、同じく国ごとに尼寺として建立されたものである。 (略) 大和の法華寺は、もとは藤原不比等の旧邸を充て、はじめ皇后宮であったが、天平17年に宮寺となった。 (略) 藤原氏との関係で、本尊の十一面観音像(国宝)は光明皇后の姿を模したものとも伝えられ、その関係からも、藤原氏を背景として、平城京の東北にかなりの伽藍配置を示して、全国の尼寺の総国分尼寺的な性格を帯びていたものとも考えられるのである。

十一面観音像


(11kanonh2.jpg)

いま法華寺本堂本尊であるが、その造立に関する記録はない。
像高100センチ。
榧(かや)材の一木造り、頭髪・眉目・唇などに彩色するほかは素木のままで檀像風に仕上げているが、黒目、頭髪の一部、装身具などに銅板製のものを用いる。
反らせた手指先、踏み出した右足のはね上げた親指など細部に至るまで緊張感のある造形で、風に翻える天衣や裳裾とともにみごとな動きを表現している。
彫り口は鋭く鮮やかで、典型的な翻波式(ほんばしき)衣文が見られる。
平安時代初期木彫の一頂点を示す作例である。
台座も当初作。
面貌表現の観心寺如意輪(にょいりん)観音像との共通性から、9世紀前半、その半ば近くの製作と思われる。
光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる。

(254-256ページ)


(jiten110.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


『奈良古社寺辞典』
編者: 吉川弘文館編集部
2010年4月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館

先日、デンマンさんは『京都古社寺辞典』を読んだと思っていたら、今度は『奈良古社寺辞典』でござ~ますか?


(jiten100.jpg)

辞典を小説のように読んではいけませんか?

いいえ。。。 個人の自由ですから何をお読みになってもかまいませんけれど、ずいぶんと物好きですわねぇ~。。。 辞典などよりも小説の方が読み易いでしょうにィ~。。。

あのねぇ~、僕は歴史が好きだから『奈良古社寺辞典』ならば、必ずや日本史の面白いエピソードでも書いてあるのじゃないかと。。。 そう思いながら読んだのですよ。

それで上の十一面観音像に惹かれたのでござ~ますか?

そうですよ。 いけませんか?

仏像のどこがそれ程魅力的なのでござ~ますか?

あのねぇ~、「光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる」と書いてあるでしょう!?

ええ。。。 確かにそのように書いてござ~ますわ。

かつて、僕は興福寺の阿修羅像を見た時に、まるで“神のお告げ”を耳にしたように、「ああァ~。。。 この阿修羅像は、きっと仏師が称徳天皇の少女時代の姿(阿部内親王)をモデルにして造ったに違いない!」と感動に体がブルブル震えてきたことがあたのですよ。

マジで。。。?

このような時に嘘やデマカセを僕は言いませんよう。 信じてください。 「信じる者は救われる」とも言いますから。。。 (微笑)

つまり、上の小文を読んだら、十一面観音像は「光明皇后の作とも光明皇后の姿を写したものとも伝えられる」と書いてあったので、本を読みながらデンマンさんは感動で体がブルブル震えてきたのでござ~ますか?

そうですよう。 しかも、先日、僕は次のように書いていたのです。

和気清麻呂の心の底には常に後ろめたさがあったのですよ。 あらぬ罪状をかぶせられて下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された道鏡さんが亡くなると怨霊に祟(たた)られるのではないかと清麻呂さんは恐れた。

それで、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として和気清麻呂さんは薬師如来像を造って道鏡さんの怨霊を鎮(しず)めようとしたのでござ~ますか?

その通りですよ。 和気清麻呂さんが造らせた薬師如来像をもう一度じっくりと見てください。


(jingo05.jpg)

どう見たって、この姿は女性ですよ。


(jingo03.jpg)

胸・腹や大腿部を強く盛り上げた量感のある体軀、

鋭く深く彫った複雑な衣文など、

平安時代初期の木彫の中でもことに迫力がある。

だから本にも、このように書いてある。。。 僕は思うのだけれど、亡くなった称徳天皇(孝謙天皇)を極秘でモデルにして和気清麻呂は薬師如来像を造らせたと思うのですよ。

どうして。。。?

そうすれば、亡くなった道鏡さんも下野(しもつけ)の薬師寺の土の下で喜ぶだろうと思ったのでしょうね。 そうすれば和気清麻呂を呪(のそ)い殺すようなことはないだろうと。。。


『エロい道鏡と薬師如来』より
(2013年7月13日)

つまり、上の十一面観音像は、どなたかの怨霊の鎮魂のために、天平の麗しい淑女である光明皇后の姿を写して造らせたとデンマンさんは主張するのでござ~ますか?

その通りですよ。

。。。んで、いったいどなたの怨霊を鎮魂するためだったのでござ~ますか?

かつて僕が書いた次の小文を読んでください。

阿部内親王は、なぜ女帝になったのか?
 
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。

阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。

私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。

「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。

それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」

このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである

SOURCE: 『続日本紀』

つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。

一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。

天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。

聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。

それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。

僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘—当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?

長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。

本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。

上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。


『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

つまり、基親王を亡くしてから子供が生まれない光明皇后は、“長屋王の崇り”だと感じて心を痛め、それで長屋王の怨霊の鎮魂のために自分の姿に似せて十一面観音像を造らせたと言うのですか?

その通りですよ。

分かりましたわ。。。 んで、阿部内親王や光明皇后のような「天平の麗しき淑女」のお仲間に入らないのに、デンマンさんがあたくしの写真を貼り付けたという深い訳は、いったい何なのでござ~ますか?

やだなあああァ~。。。 これまでの説明を聞いていて卑弥子さんにはまだ解らないのですか?

だってぇ~、上の小文の中に、あたくしのことはどこにも出てきませんでしたわ。

出てきましたよう! 卑弥子さんの御先祖が出てきたじゃありませんか!

あたくしの御先祖様でござ~ますか?

そうですよう! 橘卑弥子・准教授の遠い御先祖様ですよう! 美努王と離婚して、深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ藤原時代を導いた、したたかで男勝(まさ)りな橘三千代ですよ!

つまり、あたくしの御先祖様の代わりに、あたくしの写真を貼り出したのでござ~ますか?

そうですよう。。。 橘三千代は、まず間違いなく卑弥子さんのような容貌をしていたに違いないと僕には思えるのですよう。

【小百合の独り言】

ですってぇ~。。。
あなたは納得できますか?
さて、次の写真を見てください。

この女性は西暦734年当時16才でした。
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?

上の引用文の中にも出てきましたが、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。

この阿修羅像を造ろうと言い出したのは光明皇后(光明子)なんですってぇ。。。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘—当時16才の阿部内親王なのです。

この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。
2度女帝になった人です。

もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうとデンマンさんは思ったそうです。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『感じてストで和露他』

『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『笑わせる漢字でござ~ます』

『卑弥子@婚活』

『プロメテウスの第2の火』

『うむうむ、ふむふむ人間』

『コギャルと甘え』

『癒しと水墨画』

『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

 
メチャ面白い、

ためになる関連記事


■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に別荘を持つことを

夢見る小百合さんの物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

■ 『バンクーバーの寒中水泳』

『お受験と教育ママ(2009年9月8日)』

『四季桜(2009年9月14日)』

『熊校の思い出(2009年9月16日)』

『「田舎教師」と行田(2009年9月18日)』

『小百合さんの存在感(2009年9月20日)』

『大阪の歴史馬鹿(2009年9月22日)』
 
『「蒲団」と「田舎教師」(2009年9月24日)』

『卑弥子さんの存在感(2009年9月26日)』

『ロマンとデジャヴ(2009年9月28日)』

『夫婦風呂(2009年9月30日)』

『露悪趣味(2009年10月2日)』

『カプリ島と香水(2009年10月10日)』

『小百合さんの香水(2009年10月14日)』

エロい道鏡と薬師如来

2013年7月13日

   
 
エロい道鏡と薬師如来


(doukyou5.gif)


(jingo03.jpg)

デンマンさん。。。 今日はエロいお話でござ~♪~ますか?

。。。ん? 卑弥子さんはエロい話が好きなのですか?

やだわあああァ~。。。 あたくしは、ただ上のタイトルを見て、デンマンさんがエロいお話をするだろうと思っただけでござ~ますわ。 エロいお話が好きだと思われるのは心外でござ~ますう。 デンマンさんが“エロい道鏡”を持ち出したので、あたくしは素直にエロいお話を期待したまでですわァ~。 おほほほほほ。。。

つまり、卑弥子さんはエロい話を期待したわけですねぇ~?

デンマンさん! エロいお話にこだわらないでくださいなァ! 余計な事はどうでもよろしいですから、すぐに本題の“エロい道鏡”に入ってくださいまし。

あのねぇ~、実は、“エロい道鏡”は話の後から出てくるのですよ。 まず、薬師如来の話をしなければならないのです。

薬師如来ですか?

あれっ。。。 目をギラギラと輝かせていた卑弥子さんが急につまらなさそうな表情になりましたねぇ~。。。 薬師如来の話は興味がないのですか?

“つまらないわ”と言ったところで、どうせデンマンさんは薬師如来の話をするのでしょう! 手っ取り早く手短に済ませてくださいなァ。

あのねぇ~、たまたま僕はバンクーバー市立図書館から借りてきた本を夕べ読んでいたのですよ。 そしたら次の箇所に出くわした。

薬師如来像
 
 

(jingo02.jpg)
 
 
『神護寺略記』所引の『弘仁資材帳』に記す「薬師仏像脇菩薩像二軀」の中尊にあたり、宇佐八幡の神託により和気清麻呂が延暦12年(793)前後に造立した神護寺本尊と推定される。

 (中略)

本体は両手を除き台座蓮肉・蓮弁葺軸・心棒まで含めて檜一材より彫り出し、素地のままか、薄く彩色を施したもの。
畏怖感を与える面相、胸・腹や大腿部を強く盛り上げた量感のある体軀、鋭く深く彫った複雑な衣文など、平安時代初期の木彫の中でもことに迫力がある。
異様なほどの森厳な相好は、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として理解する説がある。
 
 

(jiten100.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


179ページ 『京都古社寺辞典』
編者: 吉川弘文館編集部
2010年5月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館

デンマンさんは辞典を読むのでござ~ますか?

辞典を小説のように読んではいけませんか?

いいえ。。。 個人の自由ですから何をお読みになってもかまいませんけれど、ずいぶんと物好きですわねぇ~。。。 辞典などよりも小説の方が読み易いでしょうにィ~。。。

あのねぇ~、僕は歴史が好きだから『京都古社寺辞典』ならば、必ずや日本史の面白いエピソードでも書いてあるのじゃないかと。。。 そう思いながら読んだのですよ。

それで上の赤字の部分が面白いと感じたのでござ~ますか?

そうです。

どのように面白いのですか?

あのねぇ~、僕は“エロい道鏡”にはずいぶん前から関心があって、次のような記事を書いたこともあるのですよ。

 
道鏡は本当にエロい悪者だったのか?


(doukyou5.gif)

当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。

道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。

道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。

しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。

なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?

称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。

もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。

こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。

なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?

それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。

この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。


(shotoku06.jpg)

この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。

のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。
この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。


(machiavelli.jpg)

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。

伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。


『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)

分かりましたわ。 つまり、道鏡さんは藤原氏の主流派に睨(にら)まれて必要以上に悪者にされてしまったとデンマンさんは考えたのですわね。

その通りですよ。

。。。で、薬師如来がどのような関係にあるのでござ~ますか?

つまり、道鏡さんが下野(しもつけ)の薬師寺に左遷されたという事件には和気清麻呂が主要人物として絡(から)んでいるのです。 主流派の藤原永手にそそのかされて和気清麻呂は大芝居をしたのですよ。

大芝居ってぇ。。。?

要するに、「道鏡を皇位につかせるべきではない」という神託を宇佐八幡宮から持ち帰ったのです。 これを聞いて孝謙天皇は激怒して和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪となってしまった。

それで、どうなったのでござ~ますか?

でもねぇ~、藤原永手らは、いろいろと画策して称徳天皇を病気という表向きの理由をでっちあげて暗殺してしまった。 道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された。 このあとで、和気清麻呂は出世しているのですよ。 1851年(嘉永4年)3月15日には、孝明天皇が和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈っている。 昔の10円札にも和気清麻呂の肖像画が印刷されたほどです。


(wake01.jpg)

今でも、皇居のそばに和気清麻呂の銅像がたっていますよ。


(wake03.jpg)

実際には藤原氏の主流派に唆(そそのか)されて道鏡さんを貶(おとし)める計画に参加したのに、“エロい道鏡”さんが“天皇になる”という野望をくじいたということで和気清麻呂さんは尊敬されるようになったわけですわね。

そうです。。。

。。。で、薬師如来は。。。?

だから、和気清麻呂の心の底には常に後ろめたさがあったのですよ。 あらぬ罪状をかぶせられて下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された道鏡さんが亡くなると怨霊に祟(たた)られるのではないかと清麻呂さんは恐れた。

それで、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として和気清麻呂さんは薬師如来像を造って道鏡さんの怨霊を鎮(しず)めようとしたのでござ~ますか?

その通りですよ。 和気清麻呂さんが造らせた薬師如来像をもう一度じっくりと見てください。


(jingo05.jpg)

どう見たって、この姿は女性ですよ。


(jingo03.jpg)

胸・腹や大腿部を強く盛り上げた量感のある体軀、

鋭く深く彫った複雑な衣文など、

平安時代初期の木彫の中でもことに迫力がある。

だから本にも、このように書いてある。。。 僕は思うのだけれど、亡くなった称徳天皇(孝謙天皇)を極秘でモデルにして和気清麻呂は薬師如来像を造らせたと思うのですよ。

どうして。。。?

そうすれば、亡くなった道鏡さんも下野(しもつけ)の薬師寺の土の下で喜ぶだろうと思ったのでしょうね。 そうすれば和気清麻呂を呪(のそ)い殺すようなことはないだろうと。。。

【小百合の独り言】

ですってぇ~。。。
あなたは納得できますか?
さて、次の写真を見てください。

この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?

。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
この仏像のモデルは誰だと思いますか?

この阿修羅像を造ろうと言い出したのは光明皇后(光明子)なんですってぇ。。。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘—当時16才の阿部内親王なのです。

この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。
2度女帝になった人です。

もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうとデンマンさんは思ったそうです。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『感じてストで和露他』

『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『笑わせる漢字でござ~ます』

『卑弥子@婚活』

『プロメテウスの第2の火』

『うむうむ、ふむふむ人間』

『コギャルと甘え』

『癒しと水墨画』

『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

 
メチャ面白い、

ためになる関連記事


■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に別荘を持つことを

夢見る小百合さんの物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

■ 『バンクーバーの寒中水泳』

『お受験と教育ママ(2009年9月8日)』

『四季桜(2009年9月14日)』

『熊校の思い出(2009年9月16日)』

『「田舎教師」と行田(2009年9月18日)』

『小百合さんの存在感(2009年9月20日)』

『大阪の歴史馬鹿(2009年9月22日)』
 
『「蒲団」と「田舎教師」(2009年9月24日)』

『卑弥子さんの存在感(2009年9月26日)』

『ロマンとデジャヴ(2009年9月28日)』

『夫婦風呂(2009年9月30日)』

『露悪趣味(2009年10月2日)』

『カプリ島と香水(2009年10月10日)』

『小百合さんの香水(2009年10月14日)』

かわゆらしそう

2012年12月31日

 
 
かわゆらしそう
 


(muma07.jpg)

デンマンさん。。。 あんさんは浮世絵などを持ち出してきて何をしようとしやはるのォ~?

めれちゃん。。。 上の浮世絵をじっくりと見てみィ~なァ。

母親が赤ちゃんをいかにも愛(いと)おしそうに抱っこしてはりますやん。

そうやァ。。。 右上の隅を見て欲しいねん。

何やらぼんやりとしてよう分からへんわ。

次のように書いてあるねん。


(muma07b.gif)

「かわゆらしさう」と書いてありますやん。 それで、あんさんは「かわゆらしそう」というタイトルにしやはってんなァ。

そうやァ。。。 旧仮名遣いで書くと「かわゆらしそう」は「かわゆらしさう」と書くねん。

現代仮名遣いでは「かわいらしそう」と書くのとちゃうのォ~?

わても、実は、そう思ったのやがなァ。 「内室」とは身分の高い奥さんのことをそう呼ぶねん。 つまり、身分の高い母親が赤ん坊を可愛くてたまらんようにして抱っこしているのが上の浮世絵やがなァ~。

どないなわけで上の浮世絵には「かわゆらしさう」と書いてあるん?

あのなァ~、上の浮世絵を描いたんは月岡芳年という人やねん。

月岡 芳年(つきおか よしとし)


(muma09.jpg)

生年: 1839年4月30日(天保10年3月17日)
没年: 1892年(明治25年)6月9日

日本の画家。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師である。
姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。
画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた。

河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。
また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている。

歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。
多数の作品があるなかで決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。
浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。

昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。


出典: 「月岡芳年」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師やのね。

そうやァ。。。 そやから当然、旧仮名遣いで説明が書いてあるというわけやァ。

。。。んで、どないなわけで、あんさんは「かわゆらしそう」を取り上げはったん?

現在生きている日本人は「かわいらしそう」と言う人がほとんどやと思うねん。

そうですう。 「かわゆらしそう」なんて言う人はまずおまへん。

そうやろう?。。。 そやから、幕末から明治前期にかけて生きていた日本人は、どないなわけで「かわゆらしそう」と言うたのか気になったのやがなァ。

それで、こうして記事に取りあげはったん?

あきませんか?

かめへんけど、あんさんはその理由を突き止めはったん?

そうやァ。

もったいぶらないで教えてくれへん。

あのなァ~、天照大神と関係あるねん。

てんしょうだいじんって何。。。?

めれちゃん、笑ってもらおうとして、そないに無理して読まんでもええねん。 わてのブログを読みはる人は、ほとんどすべての人が「あまてらすおおみかみ」と読むことを知っておるねん。

。。。んで、その神さんがどないしやはったん?

あのなァ~、わては、たまたまバンクーバー図書館から『平家物語』を借りて読んだのやがなァ。


(lib21228.gif)

(■『女に溺れる清盛』より)

そう言えば『女に溺れる清盛』の記事の中で、そないな事を書いてましたなァ。。。で、『平家物語』にどないな事が書いてありましてん?

ここに書き出すよってに、めれちゃんも読んでみィ~なァ。


(amate03.jpg)

ところで内侍所(ないしどころ)の神鏡というのは、むかし天照大神が天岩戸に閉じこもろうとなされた節、どうぞして自分の姿かたちを写しておき、子孫に見せてやりたいという御心から、御鏡を鋳造された。
最初のものは気にいらないというので、さらに二つめの物を造りかえられた。
最初にできた御鏡は、紀伊国日前(きいのくにひのまえ)、国懸(くにかかす: 和歌山市秋口)の社(やしろ)にまつられた。
二番目の御鏡を、御子(みこ)の天忍穂耳尊(あまのにいほみのみこと)に授けられ、「同じ御殿のうちに置きなさい」と仰(おお)せられた。

さて天照大神が天岩戸に閉じこもられ、天下がくら闇となったので、八百万代(やおよろずよ)の神々がより集まり、岩戸の口で御神楽(みかぐら)を奏したところ、天照大神が感心され、岩戸を細めにひらいて見物なされた時、神々の顔が互いにほの白く見えたことからして、面白いという言葉がはじまったと聞いている。


(uzume07.jpg)

(デンマン注:読み易いように改行を加えました。
イラストはデンマン・ライブラリーより)


187ページ 『平家物語(下)』
2004年10月20日 初版発行
現代語訳: 中山義秀
発行所: 河出書房新社

『平家物語』は鎌倉時代に書かれましたのやろう?

そうやァ。

。。。つうことわァ~、鎌倉時代にも天照大神の天岩戸(あまのいわと)伝説は広く知られておりましたのやねぇ?

そういうことになるなァ~。。。 そやけど、不思議なことに天宇受売命(あめのうずめのみこと)が出てきよらん。 天下がくら闇となったので、八百万代(やおよろずよ)の神々がより集まり、その時、人気者の天宇受売命がやって来たのやがなァ。 天の香久山のひかげのかづらをたすきにかけ、まさきのかづらを髪飾りにし、魔よけの笹の葉を手に持って、ステージがわりの大きなおけを伏せてその上に乗り、とんとんリズムをとりながら面白おかしく踊り始めたのやがなァ。

あんさんは見てきたようなことを言うけれどホンマかいなァ~?

あのなァ~、この場面はチョー有名なんやでぇ~。。。そやから、たいていの人が天照大神の岩戸の伝説といえば、天宇受売命を思い出すねん。

それで、あめのうずめのみことは、どうしやはりましてん?

ドンちゃん騒ぎが始まったのやがなァ。。。 調子に乗った天宇受売命は、しだいしだいに神がかり状態になり、踊り狂い出しはった。 しかも、オッパイは左へ右へ、上へ下へと揺れ動き、裾はめくれて大切な物があらわに見え隠れしたのやがなァ。。。


(uzume05b.jpg)

あらっ。。。 この天宇受売命(あめのうずめのみこと)は卑弥子さんに似てますやん。。。

うん、うん、うん。。。 たぶん、天宇受売命は卑弥子さんのような陽気な人だったのやがなァ。 とにかく、これが日本初のストリップということになってるねん。

。。。で、そのことが「かわゆらしそう」と関係あるのォ~?

もちろんやがなァ。 関係ない事をこれほどクドクド話すかいなァ。 要するに、神々の顔が互いにほの白く見えたことからして、面白いという言葉がはじまったのやがなァ。 つまり、「面」とは顔のことやんかァ。 それに「面映い」という言葉があるねん。 めれちゃんも聞いたことがあるやろう?

おますう。

この「面映い」と言うのんは、そやから「面」は顔、「映い」は照り輝いてまぶしいと言うことやんかァ。 「面」と「顔」は同じ意味やから、「顔映い(かおはゆい)」とも言えるねん。 それが転じて「かわゆらしい」→「かわいらしい」になったということやがなァ。

ホンマかいなァ?

昔の人は、恥ずかしがっている様子を「かわいい」と思ったのやァ。

そやけど天宇受売命(あめのうずめのみこと)はんは、恥ずかしそうに踊ってえ~へんでぇ~。。。

あのなァ~、天宇受売命はんは卑弥子さんに似ておったさかいに、得意になって踊ってしもうたけど、天宇受売命はんが平安時代に生まれておったら「恥ずかしい」そうに踊るねん。 つまり、「かわいい」という感じになるわけやがなァ。

つまり、恥ずかしそうにしてへんと、「かわいい」と言ってもらえへんかったのォ~?

昔はそうらしかったでぇ~。。。 そやけど、現在では恥ずかしそうにすると「ぶりっ子」に見られてしまうので恥ずかしそうにせ~へんようになったまでやァ。

ホンマかいなァ~。。。?

【ジューンの独り言】

ですってぇ。。。
あなたも、そう思うでしょう?

ところで、月岡芳年(つきおか よしとし)は、歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せた絵師です。
衝撃的な無惨絵もたくさん描いたので、「血まみれ芳年」としても知られていました。
それでも、浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師です。
そのようなわけで、「最後の浮世絵師」と評価されることもあります。

また次のように奇妙な絵を描く絵師でもありました。


(muma08.jpg)

これは月岡芳年の「幽霊画」です。
奇妙でありながら面白い発想で「幽霊」を描いています。

さらに、次のように陰惨な場面も好んで描いています。


(muma05.jpg)

そのようなわけで、陰惨な絵を描く絵師というイメージが勝っており、
江戸時代後半の他の有名な浮世絵師と比べると一般的人気は振るわなかたようです。

でも、最近になって、月岡芳年の画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっています。

とにかく、次回も面白い話題が続きます。
あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

メチャ面白い、

ためになる関連記事

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

■ 『バンクーバーの寒中水泳』

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』

『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『夢の中華パン』

『愛の進化論』

『漫画家と平和(2011年3月6日)』

『漫画家の壁(2011年3月10日)』

『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』

『後白河上皇とポルノ』

『真夜中の甘い電話』

『コーヒー茶漬け』

『めれちゃん、ホイ』

『めれちゃん、トップですよ』

『めれちゃんにノーベル賞』

『私の国では火あぶりです』

『ひまわりとピアニスト』

『1リットルのお尻流出』

『異邦人と他人』

『処女の値打ち』

『ハロウィン』


(uzume06b.jpg)

『オッパイとアクセス数』

『めれちゃんとなつみさん』

『トイレのないマンション』

『自殺の名所』

『マジで自殺したいの?』

こんにちはジューンです。

かつてデンマンさんが小泉八雲を紹介していました。

八雲(ラフカディオ・ハーン)は

次のように言っていたのです。

日本女性を道徳的、宗教的信念を持った

愛らしい倫理的創造物である

明治時代の日本の女性は、

そうであったのかもしれません。

でも、最近になって日本の女性も変わったようですね。

一つの事件を取り上げて、そう言うのも

独断過ぎると思いますけれど、

「苫小牧子殺し事件」は象徴的な事件だったと

思いますわ。そして痛ましい事件でした。

北海道・苫小牧の何処かで、3歳の長男と

1歳の三男の兄弟が鍵の掛かったアパートに

閉じ込められ放置されのですわ。

長男は生米や冷蔵庫のマヨネーズやケチャップで

飢えをしのいだのです。

三男は飢餓と低体温症で亡くなってしまいました。

昼間に自動的に入る暖房で、餓死した弟が

無残に腐食する横で、お兄ちゃんは

必死で飢えを凌ぎ生き抜いて、

ママの帰りを待ち続けたというのです。

でも、ママは新しいボーイフレンドの部屋に住み着いて

1ヶ月以上、子供たちの養育を拒み、

ボーイフレンドと遊んで暮らしていたのです。

もう、死んでいるのではないかと思って、

アパートに戻ると、長男は生きていた。

「何で生きてるの?」

冷血女性のママは長男を見て

まず、そう感じたと言うのです。

人間は、それほどまでに非情に

冷血になれるものでしょうか?!

何度読んでみても、亡くなった子供のために

涙が流れてきますわ。(めそめそ。。。)

「苫小牧子殺し事件」のことは

次の記事の中で引用されています。

『愛の進化論』

ところで、卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ