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チョー有名な三角関係

2014年5月29日

 

チョー有名な三角関係

 


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デンマンさん。。。 なんだか おもろい画像でござ~♪~ますわねぇ~。 おほほほほほ。。。 でも、どうしてベッドルームが日本間なのでござ~ますか?


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だから、日本のお話ですよう。

ムカついている女性は、日本人には見えませんわ。。。んで、最近のお話でござ~ますか?

いや。。。 ずいぶんと昔の話ですよ。 卑弥子さんは最近の“チョー有名な三角関係”を知っているのですか?

いいえ。。。 あたくしは、そのような事には興味がござ~ませんわァ。

あれっ。。。 マジで。。。? 女性は、けっこう そういう事には興味があるじゃありませんかァ! 女性週刊誌が売れるのも芸能界の乱れた関係やゴシップが たくさん書いてあるからじゃないのですかァ?

。。。んで、ずいぶん昔の“チョー有名な三角関係”というのは、いったい誰のことでござ~ますかァ~?

卑弥子さんも良く知っている人物ですよ。 ちょっと次の和歌を読んでください。

茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る

 

作者:

額田王(ぬかたのおおきみ)


現代語訳:

茜色の光に満ちている紫の野、

天智天皇御領地の野で、

あぁ、あなたはそんなに

袖を振ってらして、

野守が見るかもしれませんよ。

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あらっ。。。 このお歌は、あの有名な額田王(ぬかたのおおきみ)がお詠みになったものではござ~ませんかァ!

そうですよう。

懐かしいですわァ。 確か以前にデンマンさんは『日本で最も有名な三角関係』というタイトルで記事を書いていましたわね。


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『日本で最も有名な三角関係』

。。。んで、どう言う訳で、また額田王のお歌を取り上げたのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は夕べ本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。

「天智・天武」兄弟の争いか

『日本書紀』や『万葉集』はこの二人と額田王の関係を文芸的、映像的に描くが、歴史学者や文学研究者のなかにできすぎの話とする見解が増えてきた。

天智・天武兄弟説の矛盾には「大化の改新」でも触れたが、この二人をめぐる額田王の恋歌にしても早くから白川静、沢潟久治、池田弥三郎、山本健吉らによって否定されている。

短歌の文体も初期の漢詩体ではなく数十年後の文体であり、後世の造作の疑いが大きい。


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)


298ページ 『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治、伊ヶ崎淑彦、いき一郎
2012年8月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房

つまり、上の歌は額田王がお詠みになったのではなくて、誰か他の人が作ったというのでござ~ますか?

そうですよゥ。。。

。。。んで、デンマンさんも、そう思うのでござ~ますか?

そうです。。。 「大化の改新」だとか。。。 いろいろと考えてゆくと、この当時、不思議な謎が多すぎるのですよ。


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「大化の改新」はマジでなかったのでござ~ますかァ?

もちろん「乙巳の変(いっしのへん)」という大事件はあったのですよ。 つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼしたのですよ。 でもねぇ~、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行したことになっている。 でも、この一連の政治改革について、歴史研究者の間で、いろいろな疑問を投げかけている人がいるわけですよ。

上のビデオクリップは、その疑問についてのことでござ~ますか?

そういうことです。

。。。んで、額田王のお歌とされているものも、「大化の改新」と関係あるのでござ~ますか?

僕は関係していると思うのです。。。 だから、こうして また“チョー有名な三角関係”を取り上げたわけなのですよ。

分かりましたわ。。。 では、その訳をさっそく 伺いたく思いますわァ~。

あのねぇ~。。。 上の引用の中で次のように書いてあることに注目してください。


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『日本書紀』や『万葉集』は

この二人と額田王の関係を

文芸的、映像的に描くが、

歴史学者や文学研究者のなかに

できすぎの話とする見解が増えてきた。

できすぎの話というのは、いったい どういうことでござ~ますか?

つまり、あまりにも都合のいいような話ということですよ。

誰にとってでござ~ますか?

もちろん、天智天皇の後に政権の座につく天武天皇に都合のいい話になっているのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ、そうじゃありませんか!? 上の歌を読む限り額田王が 後に天武天皇になる大海人皇子に惹かれているのがよく解る。 この歌を後世の我々が読むと、どうやら人間的に見て天智天皇よりも天武天皇の方がすぐれているのではないか! だから、額田王も天武天皇の方に惹かれているのではないか! 僕は、初めて上の歌を読んだ時に、そのような印象を持ったのですよ。 ところで、この時大海人皇子(後の天武天皇)は額田王の上の歌に答えている。


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紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも

額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。

今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。

でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。

こんなに愛してしまっているんだよ。

もう、恥も外聞もないよ。

ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、

あのように手を振ってしまったんだよ。

分かるだろう?

こんな気持ちだと思うのですよね。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”で

あるにもかかわらず、

なぜ謎の女性なのか?


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額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。


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この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。


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上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたんですよ。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
つまり、幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。
このことについては、あとで詳しく書きたいと思います。

では、万葉集の中でこれだけ額田女王を輝かせたのは誰なのか?
それは、『万葉集』の編集長の大伴家持です。
ここで大伴家持の事を書くと長くなるので書きません。
すでに次の記事の中で詳しく書いたので関心のある人はぜひ読んでみてくださいね。

『性と愛と批判—万葉集の中の政治批判?』

大伴家持は反骨精神を持った人物です。
藤原不比等が横暴の限りを尽くしたことを苦々しく思っていた人です。
大伴家持自身も“藤原政権”に反抗して時の権力者によって“逮捕”され罰を受けたこともあります。
上の記事の中で、そのことも書きました。

つまり、持統天皇のごり押しによって、額田女王の記述が『日本書紀』の中にたった1行しか書いてないことも、大伴家持は苦々しく思っていたことでしょう。
『万葉集』は大和朝廷の正史ではありません。
だから、時の権力者は見逃してしまったのでしょうね。

「愛の歌を載せたんですよ。
政治とは関係ありませんからね。。。」

“発禁処分検閲官”が調べにやってきた時に、おそらく大伴家持はそう言ったでしょうね。

「まあ、そういうことならば、いいでしょう。。。」

馬鹿な検閲官は愛の歌と聞いて見逃してしまったのでしょうね。
でも、よく読めば、この相聞歌の裏には、生々しい政治的な“三角関係”が秘められている。
つまり、天智天皇が暗殺されて天武政権が出来上がって行く過程をこの相聞歌として万葉集に載せている。

『天武天皇と天智天皇は

 同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

持統女帝は天智天皇の娘です。
しかし、崩壊家庭に生まれ育ったこの娘は、自分の母親とおじいさんがこの非情な父親のために死に追いやられたことを恨んでいました。
この娘は、父親に利用されて、腹違いの兄(弟ではない。実は兄)、大海人皇子の妻になるようにと言われて、実の姉と共に大海人皇子の妻になったのです。
でも、大海人皇子の心は上の歌でも明らかなように額田女王を愛している。

実の姉が亡くなり、名実ともに天武天皇の皇后になったけれど、夫の心は自分にはないと分かっている。
腹の中では夫に対しても、額田女王に対しても頭にきている!
天武天皇が亡くなる。
自分の血がつながっていない夫の子供たちには、何が何でも皇位を渡したくはない!
持統女帝として、自分で皇位を継ぐ。

同志の藤原不比等が『日本書紀』の編集長になる。
持統天皇は言ったはずす。

「あのね、史(ふひと)さん、額田女王のことは1行だけ書けばいいのよ。。。
あなたにも私の気持ちが分かっているわよね。。。」

「かしこまりました。そのように手配いたします。」

女帝と藤原不比等の会話はこのようなものだったでしょうね。

しかし、万葉集の編集長の大伴家持は反骨精神に燃えています。

おまえたちの思うようにはこの世界は動かんぞ!
読む人が読めば分かるように万葉集の中に真実を載せるだけさ!
いづれ、分かる時が来るさ!

僕は大伴家持のそのような呟(つぶや)きを聞きながら万葉集を読んでいます。 うへへへへ。。。。


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

古代史は遠い昔のことには違いありません。
でも、現代にも通じるような人間ドラマが秘められているように思うのでござ~ますわ。

そう考えながら読めば、新しい発見があるかもしれませんわ。
そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みください。

では。。。

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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軽井沢夫人@日本王国

2014年3月28日

 

軽井沢夫人@日本王国

 


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デンマンさん。。。 小百合さんが日本王国の軽井沢夫人なのでござ~♪~ますかァ~?


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あれっ。。。 ひょっとして卑弥子さんは不満なのですかァ~?

不満とか何とかと言うことよりも、史実に照らして間違っていることをネットで広めることは公共の利益と福祉に反しているのでござ~ますわア。

やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは急に堅苦しいことを言うのですねぇ~。。。 僕が卑弥子さんの顔を上の“軽井沢夫人”の顔に嵌め込まなかった事が不満なのですかァ~?

そうじゃありませんわア! 間違った史実をネットで広めることは青少年の教育上 良くないと申し上げているのでござ~ますう。 第一、“日本王国”などという いかがわしい名称は歴史の教科書には載っていませんわ。 それに、“軽井沢夫人”が“大和王権”があった時代に居たわけがないじゃござ~♪~ませんかァ!

あのねぇ~、卑弥子さんは思い込みが激しいのですよ。 古代日本史は、この20年の間に かなりの部分が塗り替えられようとしているのですよ。

つまり、大和王権よりも強大な“日本王国”が存在したと デンマンさんは、マジで信じているのでござ~ますか?

もちろんですよ。 卑弥子さんは知らなかったのですか?

何をでござ~ますか?

だから、大和王権よりも強大な“日本王国”が存在したことをテレビでやっていたのですよ。 ちょっと次のビデオ・クリップを見てください。


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【歴史ミステリー】謎の日本王国

あたくしは【歴史ミステリー】のようなものを信じておりませんので、こういうテレビ番組は見ないようにしているのでござ~ますわ。

あのねぇ~、卑弥子さんは 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授なのですよ。 まがりなりにも日本文化を教えている教育者が日本の歴史について無関心だということは許されないことですよゥ。

でも、【歴史ミステリー】という番組は、結局のところ 民放の“お馬鹿番組”に毛を2,3本生やしたようなものなのでしょう!?

確かに、僕も初めは馬鹿にして見ていたのですよ。 でもねぇ~、民放が作った番組で コマーシャルが入っているからといって、一概に馬鹿にできないのですよゥ。 けっこう、なるほどと思わせるような“発見”があるのですよ。

たとえば。。。?

次の「旧唐書(くとうじょ)」ですよ。


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古代史を勉強した人ならば、「旧唐書(くとうじょ)」を知らない人はいないのですよ。 しかも、「日本國者倭國之別種也」と確かに書いてある!

日本語に訳すと「日本國は倭國の別種なり」ということになるのでござ~ますか?

そう解釈する人もいるけれど、「日本國からやって来た者は倭國からやって来た人とは別種なり。 つまり、別々の2つの国からやって来たのだ」とも解釈できる。 いずれにしても「日本國」と「倭國」は違うと言っているのですよ。

でも、関東地方に日本国があったなんてぇ学校の歴史の時間に勉強しませんでしたわ。

あのねぇ~、日本史は時間と共に書き換えられているのですよ。 現在では『日本書紀』に書いてあることをそのまま史実として受け止めている歴史学者は皆無に近い。

つまり、『日本書紀』にはデタラメが書いてあるとデンマンさんは言うのですか?

いや。。。 僕が言っているのではありませんよ。 卑弥子さんは『源氏物語』を講義しているのでしょう! 紫式部も「蛍の段」で、“玉かづら”に対して光源氏に次のように言わせている。


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「にほん紀などはただ片そばぞかし」

(日本書紀はただの作り物です)

あらっ。。。 マジで そのようなことが書いてあるのでござ~ますか?

今夜、もう一度『源氏物語』を読み直してくださいよ。 それに、西園寺公望は貴族のトップにいて 第2次大戦まで昭和天皇の首相推薦にかかわっていた。 この要人中の要人が日記に次のように書いていたのですよ。


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西園寺公望(1849-1940)

「(古事記や日本書紀のような)

妄誕(もうたん)の書(でたらめの書)を

重んずるごときは大いに国に損あり」

あらっ。。。 日本を動かしていたような人物が、そのようなことを書いていたのでござ~ますか?

だから、最近では、『古事記』や『日本書紀』には、出鱈目な事も書いてあると疑って読まないといけないと、歴史家も考えるようになっているのですよ。

でも、倭國という名前が 蔑(さげす)まれているような名称だから “日の出る所” つまり、「日本國」に名前を変えたと歴史の時間に学びましたわ。


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だから、それが出鱈目な事の一つなのですよ。 倭國とは別に「日本國」、番組では「日本王国」があったと言うのですよ。

どこに。。。?

僕の実家の近くに。。。


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僕が生まれ育った行田市には「さきたま古墳群」という古墳がたくさんあるのですよ。


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しかも、古墳の数も大和王権よりも多い。


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さらに、60メートル以上の前方後円墳も日本王国の方が断然多いのですよ。


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。。。んで、どのようなわけで小百合さんが“軽井沢夫人@日本王国”として登場しなければならないのでござ~ますか?

あれっ。。。 やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは、もう忘れてしまったのですか?

何をでござ~ますかァ~?

次の小百合さんからのメールですよ。 卑弥子さんも読んだでしょう!?


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Subj:ハッピー、バレンタイン!


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日本時間: 2014年2月14日(金)午前9時9分
Date: Thurs. 13/02/2014 16:09
(バンクーバー時間)
Pacific Standard Time
From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail.jp
CC: barclay1720@aol.com

デンマンさん、お元気ですか?
早いものですね。
去年の10月にお会いしたと思っていたら、もうバレンタインですね!

“ルート66の奇跡”でデンマンさんは死ぬほど驚いたようですが
ちょっとオーバーですよ。


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『ルート66の奇跡』

でも、デンマンさんのおかげで
日本では手に入らないアイリッシュ・クリーム・フレーバーの待望のコーヒーがいただけて
懐かしいバンクーバーを思い出しながら
香りと味を充分に楽しみましたわァ。


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デンマンさんが滞在した1ヶ月は
“光陰矢のごとし”
なんだか アッという間に過ぎてしまったような気がします。

「さきたま古墳公園」でのピクニックが昨日のように
思い出されます。

私が「ツナ缶のLemon味も忘れずに!」とメールに書いたので
デンマンさんが わざわざlemon-pepper味のツナ缶を
日本へ持ち帰ってくれました。
ありがとう!


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10月16日の水曜日は、とっても天気がよくて
まさに秋晴れの行楽日和でした。
デンマンさんが lemon-pepper 味のツナをのせた“カナペ”を作ったのには驚かされましたよ。


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私も ウキウキして白ワインなどを持ち出して
“とっても美味しいわァ! 素敵だわァ~!”なんちゃってぇ~。。。 
うふふふふふ。。。

。。。というわけで、お返しと言っては何ですけれど、
デンマンさんのためにバレンタインの小包を
船便で送りました。

ちょっと遅れるかもしれませんけど
近いうちにお手元に届くと思います。

\(*^_^*)/

では。。。


『失われたバレンタイン』より
(2014年3月23日)

どうして。。。、どうして、バレンタインが日本王国と関係あるのですかァ~?

いや。。。 バレンタインが関係あるんじゃなくて、「さきたま古墳公園」で小百合さんと僕が一緒にピクニックをしたということが関係あるのですよ。

どうしてで ござ~ますか? たまたま小百合さんとデンマンさんが去年の秋に「さきたま古墳公園」でピクニックをしたという偶然ではありませんか!

それが偶然ではない!

どういうことでござ~ますか?

次の記事を読んでみてください。

デンマンの祖先は百済からやって来た


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僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


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それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


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。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?

そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


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バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


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この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


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(house23.jpg)

この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


(room007.jpg)

これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。


(chiwawa5.gif)

こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.

つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。


(miroku3.jpg)


『デンマンの祖先は百済からやって来た』より
(2010年8月4日)

つまり“海外飛躍遺伝子”というようなバカバカしいものを信じろ!と、デンマンさんは言うのでござ~ますか?

違いますよ。 僕の先祖は唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だったのですよ。

その事と日本王国が関係しているのですか?

もちろんですよ。 あのねぇ~、古墳の中からは“馬冑(ばちゅう)”が出土するのですよ。


(japan105.jpg)

更に、馬の埴輪(はにわ)もみつかる。


(japan106.jpg)

要するに、日本王国には“騎馬軍団”が居たということですよ。

デンマンさんのご先祖様も その騎馬軍団の中に居たと言うのでござ~ますかァ~?

当然そうなるでしょうねぇ~! 次のクリップを見ると僕の先祖が出てきますよ。


(japan204.jpg)

お馬さんに乗っているのがデンマンさんのご先祖様でござ~ますか?

そうです。 卑弥子さんは信じられないのですか?

信じられませんわ。

“信じる者は救われる!”と昔の人は言ったでしょう!? 信じた方が幸せになれますよ。


(laugh16.gif)


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
あたくしは イマイチ信じられませんわ。

興味があったら次のビデオ・クリップもご覧になってくださいませぇ。

たまには、あなたも古代の日本の歴史について 覗いてみませんか?
平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)

外人に乗っ取られた日本?

2014年3月21日

 
 
 
外人に乗っ取られた日本?
 

(5men5.gif)


(hata5.gif)


(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 日本がアメリカ人に乗っ取られたと言うのでござ~♪~ますかァ~?


(kato3.gif)

あのねぇ~、確かに、この10年で 日本の大会社の社長の椅子には 外人社長がたくさん座っていますよねぇ~。。。 20年前には考えられなかったことですよう。

でも、財務省だとか、文部科学省だとか、防衛省。。。 日本の省庁の官僚には外人はいませんわ。

うん、うん、うん。。。 確かに、日本の官僚は日本人が占めていますよ。

だったら、日本が外人に乗っ取られたと言うのは言い過ぎではござ~ませんかァ?

あのねぇ~、僕は現在の日本のことを話そうとしているのではないのです。

じゃあ、いつの日本のことですかァ~?

たまたま ネットをサーフィンしていたら 次のビデオ・クリップにぶち当たったのですよ。


(fujiwa80.jpg)

【歴史ミステリー】大化の改新はなかった?

あらっ。。。 大化の改新はなかったというのは ホントでござ~ますか?

あのねぇ~。。。 何を以(も)って「大化の改新」と言うのか? それによって答えはイエスともノーともなるのじゃないか!?。。。と僕は思うのですよ。 645年に「乙巳(いっし)の変」という事件が起こった。 蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともできるのですよ。

でも、たいてい クーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」だと言われていると思いますわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは けっこう詳しいのですね。。。

だってぇ、その程度の事は学校で教わりましたわ。

とにかく、僕も いろいろと調べてみたのだけれど、この いわゆる「大化の改新」には謎が多いのですよ。 それで、上のテレビ番組でも【歴史ミステリー】として取り上げているわけですよ。

でも、当時の日本が外人に乗っ取られていたなんて、上のビデオ・クリップでは一言も触れてないでしょう!?

その通りです。 日本が外人に乗っ取られていたなんて言ってません。

それなのに、デンマンさんは当時の日本は外人に乗っ取られていたと主張するのですか?

そうですよ。 当然のことですよ!

でも。。。 でも。。。 そのような事を学校では教わりませんでしたわ。

でもねぇ~、証拠はたくさんあるのですよ。 ほとんどの人は知らないだけなのですよ。 あるいは、認めようとしないのですよ。

その証拠というのは。。。?

例えば、上のビデオ・クリップでも次のように説明していますよ。


(fujiwa90.jpg)

「乙巳(いっし)の変」を決行した重要人物は二人。 後の天智天皇になる中大兄皇子と中臣鎌子(鎌足)ですよ。 この中臣鎌足は後に藤原氏の姓をもらうわけです。 この鎌足の次男が藤原不比等ですよ。 不比等の4人の子供たちが藤原四兄弟として、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となったわけですよ。 つまり、この時から藤原氏は 日本史の表に出たり裏に引っ込んだりしながら、日本を牽引(けんいん)してゆくのですよ。

でも、鎌倉幕府が出来てからは藤原氏は没落したのでしょう!?

表面的には没落したように見えるけれど、裏では影響力を現在まで持ち続けたのですよ。

マジで。。。?

あのねぇ~、藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を名乗ったけれど、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかったのですよ。 でもねぇ~、例えば戦前に総理大臣になった近衛文麿は、この「近衛」家の歴代の当主のひとりですよ。

あらっ。。。 そうだったのでござ~ますかァ~?

藤原氏は、日本では皇室に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系ですよ。 指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、徳川家正は従弟にあたる。 また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕や、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務める近衞忠煇は近衛文麿の孫にあたるのです。

でも。。。、でも。。。、この藤原氏の祖先は マジで外人だったのでござ~ますかァ?

当然でしょう!

当然でしょうってぇ~、学校ではそのようには教わりませんでしたわ。

もちろんですよ。 戦前の皇国史観が戦後もある分野では根強く残っていましたからね。 それに、大化の改新当時はどうであれ、今では近衛文麿を外人だと思う人は、この日本には誰もいないでしょう! でもねぇ、藤原鎌足は外人だった。

あらっ。。。 マジで。。。?

それに、卑弥子さんの祖先も外人だったのですよ。

あらっ。。。 そのような事は母からも父からも聞いてませんわア。

やだなあああァ~。。。 だってぇ、京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授の祖先は藤原不比等の妻になった橘三千代(県犬養三千代)なのですよ! それに、僕の祖先も百済からやって来ましたからね。 


(himiko40.gif)

『デンマンの祖先は

百済からやって来た』

やはり、僕の祖先も 元をただせば外人だったのですよ。

。。。で、藤原鎌足が外人だという証拠は。。。?

そのことなら、僕はかつて記事に書いたのですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。

『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。


(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。


『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)

でも、たとえ、藤原家の祖先が百済からやって来たとしても、それだけで当時の日本が外人に乗っ取られたと言うのは、言い過ぎぎだと思うのでござ~ますわァ。

あのねぇ~、他にも証拠があるのですよ。 藤原家の祖先だけが外人ではなかったのですよ。 当時の政府には大臣や官僚に多くの外人が就いたのです。 次の小文を読んでください。

人類学者 埴原和郎(1928-2004)は80年代に日本列島の古代の人口増が同じ農耕民族とくらべて著しく大きいことに気付き、つぎのような仮説を発表した。

人口推計は小山修三(国立民族学博物館)のコンピューターシミュレーションを使用し、縄文晩期から古墳時代終末期の700年ごろまでの千年間の人口が著しく増えたことを分析した。

75,800人から 5,399,800人 (人口千年間に 70倍)

世界農耕民は年 0.1%  日本は 0.427%

社会増がある — 移民(渡来人) 3,000,000人 ほど

7世紀住民構成 縄文直系 1 – 渡来 25

平均増加率 0.1 ~ 0.2 として 渡来系 1,500,000人以上

縄文系対渡来系 最終的に 1 対 8.6


(『科学朝日』 1988年2月号)

ここで近江政権をざっと見ておこう。
663年、白村江の敗戦の後に那津(博多)をへて近江に作られた新政権はきわめて百済色の濃いものであった。
(日本書)紀によれば、翌年に百済王善光らを難波に住ませたとあり、ここまでの百済渡来(亡命)要人と併せるとひとつの政府幹部を構成するほどで、近江国に移住させた例で神前郡に男女400人(665年)、蒲生郡に700人(669年)と記した。

 (中略)

彼らは軍参謀、法務官、文部大臣を占め、近江政府からの叙勲、任官は50人を超えている(671年)

中大兄は668年になって(天智天皇として)即位した。
四男十女があった。
後の持統、元明の両女性天皇、大友王子(明治になって弘文天皇と追称)をふくむ。
なお、中大兄は葛城王子と称したが、この通称は高句麗系か。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


40ページ、298-299ページ
『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治 伊ヶ崎淑彦 いき一郎
2012年8月10日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房

7世紀住民構成 を見てくださいよ。 縄文直系 1 – 渡来 25 ですよ。 渡来人が現日本人(アイヌの人たち)の 25倍ですよ。 当然のことながら、当時の首都圏に渡来人が集中して住んだでしょう! なぜなら、この人たちは文字を読んだり書いたりすることが出来る。 だから、多くの渡来人が小役人になった。 それで、都周辺には渡来人があふれていたのですよ。

つまり、アメリカ史で言えば、メイフラワー号に乗ってアメリカにやってきた英国人が やがて土着の原アメリカ人(インディアン)を西部に追いやって、東部に13州のアメリカ政府を作ったよなものだと、デンマンさんは言うのですか?

その通りですよ。 日本では渡来人が九州から関東に住むようになり アイヌ人たちを東北に追いやったのですよ。

要するに、歴史は繰り返すということですわね。

その通りですよ。


(laugh16.gif)


(himiko22.gif)

確かに、中大兄王子が668年に天智天皇として即位した頃は、
ジョージ・ワシントンが大統領になった頃と よく似ているかもしれませんわね。
その後、アメリカでは西部劇で見るように インディアンは西部に追いやられて、騎兵隊と戦いを続けることになります。

日本では、790年 「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、794年に「征夷大将軍」として節刀を授けられたのでござ~ます。
大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、796年に鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌年、征夷大将軍に昇格したのですわ。
坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為(アテルイ)を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定したことになっています。

朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれました。
平安時代前期(9世紀)になると、畿内朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止します。
その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったのです。
朝廷側に降伏しないアイヌ人たちは最期の地として北海道に移住しました。

たまには、あなたも古代の日本の歴史について 覗いてみてくださいませ。
平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

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とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
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『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

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『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

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『天平の麗しき淑女』

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『なぜ唐に留まったの?』

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『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

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『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


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兄妹の恋と大乱

2014年2月13日

 
 
 
兄妹の恋と大乱
 

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(kamata02.jpg)


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デンマンさん。。。 今日は なんだかメチャ悩ましい話題と残虐な話題のかけ合わせでござ~ますわねぇ~。。。


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京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授には極めてふさわしい話題だと思うのですが どうですかァ?

「兄妹の恋」なんてぇ~、なんだか胸騒ぎがしてきましたわァ。 うふふふふふ。。。

卑弥子さんにも そのような経験があるのですか?

残念ながら、あたくしは女ばかり3人で育ちましたから、そのようなワクワクする経験はござ~ませんわァ。。。んで、今日の“兄と妹の恋”というのはデンマンさんと妹さんの恋でござ~ますかァ?

いや。。。 僕も残念ながら、男ばかり3人の兄弟で育ちましたからねぇ、“兄と妹の恋”というのは望んでもかなえられない恋なのですよ。

じゃあ、いったいどなたの禁断の恋なのでござ~ますかァ?

卑弥子さんも、実は、知っているはずですよ。

あらっ。。。 あたくしが知っているはずの禁断の恋ざ~ますかァ?

あの有名な木梨軽皇子と実の妹の軽大娘皇女の恋ですよ。

兄妹の恋


(karu013.jpg)

木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。

『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。


(tokuko05.jpg)

その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)

『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。

四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。


出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

でも、“大乱”というのは どういうことでござ~ますか?

あのねぇ~、たいていの人が“兄妹の恋”に気をとられて、その裏事情を全く忘れさっているのですよ。

その裏事情というのが“大乱”なのでござ~ますか?

そうですよ。。。 実は、僕も最近まで知ってはいたけれど、それほど大きな大乱だとは思っていなかった。 やっぱり、“兄妹の恋”の方に気をとられていたのですよ。

。。。んで、その大乱というのはどういうことでござ~ますか?

ちょっと次の図を見てください。


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これは木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の家族関係を図示したものですよ。

あらっ。。。 自殺した人と殺された人がたくさんいるではござ~ませんかア! 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)には どうして自殺マークと他殺マークが付いているのでござ~ますか?

『古事記』によると木梨軽皇子は伊予国へ流されて、あとからやって来た軽大娘皇女と心中したことになっているのですよ。 でもねぇ、『日本書紀』では、伊予国で弟の穴穂皇子によって殺されたことになっている。

どちらが正しいのでござ~ますか?

僕の考えでは木梨軽皇子は穴穂皇子によって殺されたと思いますねぇ~。。。

デンマンさんはどうして、そう思うのでござ~ますかァ?

上の殺人事件を見てゆくと権力闘争に絡んで、お互いが不信と猜疑にかられて、殺し合いに発展して行ったのが手に取るように解るのですよ。 まず、安康天皇というのが問題な男なのです。

どのように問題なのでござ~ますか?

安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令したのですよ。

上の図で見ると安康天皇は仁徳天皇の孫ですから、大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母にあたりますわね。

その通りですよ。

つまり、安康天皇は叔父さんに命令して叔母さんを雄略天皇の妃に差し出すように言ったということでござ~ますかァ?

その通りですよ。

それも現在では近親相姦ですわよねぇ!?

そうです。  

仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら)を横取りするために、安康天皇に「大草香皇子は拒否した」とウソついたのです。 それで、安康天皇は怒って大草香皇子を殺してしまった。

あらっ。。。 叔父さんを殺してしまったのでござ~ますか?

そうなのですよ。 しかも、叔父さんの妃である中蒂姫命を奪って自分の皇后にしてしまった。 ところが、中蒂姫には大草香皇子との間に産まれた眉輪王(まよわのおおきみ)という子供があった。 この子を連れて安康天皇の所へ行ったのです。

つまり、連れ子ですわね。

そうですよ。

お父さんを殺された眉輪王は安康天皇を憎んでいたでしょうね!?

その通りですよ。 案の定、眉輪王は安康天皇を殺してしまったのですよ。

あらっ。。。 マジで。。。?

当時は、まだ大泊瀬稚武皇子と呼ばれていた後の雄略天皇は この暗殺事件を聞いて驚いた。 もしかすると自分も殺されるのではないか? そう思ったのですよ。 それで眉輪王は、まだ幼かったから一人では殺さなかっただろうと。。。 兄たちを疑ったのですよ。

それでどうしたのでござ~ますか?

後に天皇になる大泊瀬稚武皇子は八釣白彦皇子が暗殺の黒幕だと疑い、まず八釣白彦皇子を生き埋めにして、殺した。 『古事記』の表現では、腰のところまで土をかけて埋められる途中で、両目が飛び出して死んだらしい。 

そういうことがマジであるのでござ~ましょうか?

現代医学的では説明できない不思議な現象だそうです。

それで、その後 大泊瀬稚武皇子はどうしたのでござ~ますか?

めんどうなので、境黒彦皇子と眉輪王も殺そうとしたのですよ。 殺されてはたまらないから、この2人は葛城氏の葛城円大臣宅に逃げ込んだ。

それで。。。?

後の雄略天皇になる大泊瀬稚武皇子は、ついでだと思ったのか、3人とも焼き殺してしまった。

あらっ。。。 雄略天皇というのは、ずいぶんとむごい人なのでござ~ますわねぇ~!

この時点で、自分が天皇になろうという野望を持っていたらしい。 さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子と その弟の御馬皇子(みまのみこ)をも殺して、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのですよ。

それで、叔母さんはどうなったのでござ~ますか?

大王に即位すると、叔母さんの草香幡梭姫皇女を皇后にしたのです。 つまり、このような血なまぐさい事件が“兄と妹の恋”の裏に隠されているわけなのですよう。

あらっ。。。 何人も殺した挙句に近親相姦で叔母さんと結婚した雄略天皇は オナラのツッパリにもならないような“兄と妹の恋”にカモフラージュされていたのですわねぇ!?

そういうことなのですよ。


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ですってよう!
大変な歴史が日本にはあったのですわねぇ。
あなたも驚いてしまうでしょう?

草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)は履中天皇の皇后だとも言われていますわァ。
古事記には幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ)とでていますう。
父は応神天皇、母は日向泉長媛。
中蒂姫命(大草香皇子の妃・眉輪王の母、後に安康天皇の皇后)の母です。

履中天皇元年7月4日(400年8月9日)、草香幡梭皇女は葛城黒媛(磐坂市辺押磐皇子・青海皇女を産む)と共に履中天皇の妃となりました。
それから 同5年9月19日(404年11月7日)の皇妃黒媛の死を受け、翌同6年1月6日(405年2月20日)に履中天皇の皇后に立てられましたわ。

古来より、雄略天皇の皇后である草香幡梭姫皇女と同一人物であるとする説もあるのですう。

血なまぐさい事件は古代の日本には結構 頻繁に起こっていますわ。
もっと知りたかったら、ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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日本の死海文書

2014年2月5日

 
 
 
日本の死海文書
 

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デンマンさん。。。 1月28日には『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を書いて、今日は『日本の死海文書』でざ~♪~ますか?

いけませんか?


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『日本へ、紀元前のメイフラワー号』


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あのねぇ~、上の記事は人気があるのですよ。

マジでござ~♪~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。


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これはアメブロの僕のブログの1月28日から2月2日までの1週間の「人気記事リスト」なのですよ。

あらっ。。。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』がダントツで読まれているではござ~ませんかア!

だから言ったでしょう! 「紀元前のメイフラワー号」が日本へやって来たということがネット市民の皆様には刺激的に聞こえたのでしょうね。

それで、今日は「日本の死海文書」という衝撃的なタイトルにすれば、またネット市民の皆様がワクワクしながら読みにやって来ると思って付けたのでござ~ますか?

いけませんか?

「同じ柳の木の下にドジョウはいない!」と申しますわァ。。。 うふふふふふ。。。 デンマンさんの思い通りにはなりませんわよ。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだネットサーファーの皆さんは きっとガッカリしているはずですわ。

どうしてガッカリするのですか?

だってぇ~、徐福さんがリーダーになって日本へやって来た人たちは 「メイフラワー号」とは全く関係ないではありませんかァ!

むしろ、「メイフラワー号」よりも衝撃的な出来事じゃありませんか! 船団を組んで 5、000人以上の人たちがやって来たのですよ。 だから、ダントツで読まれているのですよ。

。。。んで、今日の「日本の死海文書」というのは、 「紀元前のメイフラワー号」に劣らないほど衝撃的なのでござ~ますか?

僕は、そう思いますよ。 体が浮いてしまう“死海”に興味がある人はたくさんいると思うから、「日本の死海文書」というタイトルに興味を惹かれる人は多いと思うのですよ。


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死海で浮いてみた
 
 

でもねぇ~、“死海文書”がどういうものか? 全く知らずに読みにやって来た人も居ると思うので ちょっとばかりウィキペディアから概要を引用しますよ。

死海文書


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死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。
文書は大部分がヘブライ語で書かれており、二割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテや語の文書を含んでいる。
多くは羊皮紙であるが、一部パピルスもある。
文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている。
死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。


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1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟がヒベルト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で古代の巻物の入った壷を発見した。
最初の発見に関しては「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かはもはやわからない。


出典: 「死海文書」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、「死海文書」というのは、ヘブライ語聖書の最古の写本ということでござ~ますわね。。。つうことは、日本の最古の書物というのは『古事記』でござ~ますから、「日本の死海文書」は『古事記』のことですか?


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あのねぇ~、『古事記』が日本の最古の書物だということは中学生でも知っていますよ。

。。。つうことわあああァ~。。。、つまり、『古事記』よりも古い書物が見つかったのでござ~ますか?

いや。。。 そういう話は聞いたことがないですよ。

だったら、おもわせぶりな事を言わないで「日本の死海文書」とは何のことなのか? 端的に細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいましなァ!

あのねぇ~、実は、僕も「日本の死海文書」が具体的にどの書物を指しているのかは解らないのですよ。 でも、近い将来「日本の死海文書」が発見されるだろうと信じているのですよ。

要するに、ヘブライ語聖書の最古の写本ならぬ、日本古来の神道の聖書とも言うべき最古の写本が発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

いや。。。 日本古来の神道の聖書かどうかは解りませんよ。 むしろ、そんなものはないでしょう!?

だったら、どう言う訳で「日本の死海文書」としたのでござ~ますか?

あのねぇ~、“死海文書”は放射性炭素年代測定、あるいは質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間に書かれたものだと考えられている。

つまり、日本でも、その頃に書かれたものが発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも。。。、でも。。。、日本には紀元前250年ごろには文字の文化などないのですわ。

だから、僕はこのページの始めに『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を持ち出したのですよ。

あらっ。。。 つまり、徐福さんとそのグループが古代中国から持ち込んだ書物が日本のどこかの洞窟に眠っているということでござ~ますか?

死海の近くの洞窟で“死海文書”が発見されたのですよ。 日本でも、徐福さんたちが持ち込んだ書物が洞窟に隠されたということも充分に考えられるのですよ。

でも、日本では徐福さんの伝説でさえ歴史的事実とは考えられてきませんでしたわ。

その通りですよ。 藤原氏が歴史を捻じ曲げてしまいましたからね。

つまり、徐福さんたちが古代中国からやって来た事実は藤原氏によって緘口(かんこう)令がしかれて記録から抹殺されたのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも、どうして。。。?

藤原氏にとって徐福さんたちの存在は邪魔だったのですよ。  藤原氏は自分たちが日本古来から伝わる正統な家系の末裔で、政権の正当な担当者であることを後世に示したかったからですよ。

つまり、『古事記』、『日本書紀』を藤原氏が作るときに、他の書物をすべて焼き捨てさせたのでござ~ますか?

その通りですよ。 だから、徐福さんたちから引き継がれた書物を焼き捨てることは忍びないと思って有志が“死海文書”のように洞窟に隠すか? あるいは銅鐸のようなものと一緒に土中に埋めたということが充分に考えられるのですよ。

でも。。。、でも。。。、そのような事が記録に残っているのですか?

あのねぇ~、藤原氏が鵜の目、鷹の目のようにして警戒していたから、日本の書物には徐福さんたちが持ち込んだ書物が隠されたことは記録に出ていないのですよ。 でもねぇ、徐福さんたちがやって来たことは藤原氏の目を盗んで書かれている。

あらっ。。。 そのような書物があるのでござ~ますか? 

あるのですよ。 徐福さんの名前は書けなかったのだけれど、どうしても歴史に残さねばならないと考えた人がいて 9世紀に編纂された『新撰姓氏録』に書いてあるのですよ。 応神(ホムタワケ)天皇の時代に秦氏の長者が中国から127県の住民を率いて渡来したと書いてある。 つまり、『古事記』でも『日本書紀』でも藤原氏は意図的に徐福さんを無視したのですよ。 だから、当然、藤原氏に反発する人たちも出てくる。

。。。んで、どなたが『新撰姓氏録』に書き込んだのでござ~ますか?

だから、反藤原氏の歴史家ですよ。 でも、歴史に残そうとして徐福さんの名前を書くと藤原氏にイジメられるので、技術集団として秦氏の名前を記録に残したのですよ。

だけど、徐福さんたちがもたらした書物が どこかに隠されたということは記録に残ってないのでしょう?

確かに、日本にはそのような記録はない。

あらっ。。。 つうことわあああァ~。。。中国には記録に残されているのでござ~ますか?

あるのですよ。 11世紀に活躍した北宋の詩人で、欧陽脩(おうようしゅう)という人物が「日本刀歌」という詩の中で、「秦代に焚書坑儒を逃れた書が日本に残った」と書いているのですよ。

焚書坑儒


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秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちが古(いにし)えによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。
始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。
李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。
儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。

翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。

紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。
また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって議論されていた現実的な政策であった。
始皇帝はそれを採用したに過ぎず、劉邦政権が踏襲したことによっても、挟書律が少なくとも為政者にとっては現実的な政策であったことが分かる。


出典: 「焚書坑儒」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、徐福さんは、名目は「不老長寿の薬を求めるため」と言いながらも、実は、秦の始皇帝の圧制から逃れようと画策したのですよ。

それで、日本へ渡航する時に、ついでにたくさんの書物も船に運び入れたのでござ~ますか?

だから、それが巷の噂になって11世紀に欧陽脩さんの耳にも達したわけですよ。

。。。んで、その「日本の死海文書」はどこに隠されたのでござ~ますか?

実は、そのことで僕は以前に記事に書いたのですよ。 ちょっと読んでみてください。

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。
その集めたものがどうなったかというと、すべて焼き捨ててしまったのです。

ご存知のとおり、中国では、これ以前に、秦の始皇帝が焚書坑儒ということをやっているわけです。
つまり、民間に広まっている儒教の本を焼き捨て、多数の儒学者を殺しているわけです。
地方の歴史編纂者を殺せ、とは藤原不比等は言わなかったでしょう。
しかし、大和朝廷の正史、つまり、古事記と違ったことが書いてある、昔の地方王朝の歴史書が、地方に残っていることは、まずいわけです。

藤原不比等が、この点について、天武天皇に、いろいろと中国史を話して聞かせたことでしょう。
「六韜(りくとう)」を愛読している不比等にとって、そのような、大和朝廷に、邪魔になる地方の王朝の史書を焼き捨てるのは当然のことです。
したがって、古事記編纂の目的の一つに、地方に伝わる歴史書を焼き捨てるということがあったわけです。

地方の歴史研究者が、たまには、神社に伝わる古い史書などを発見することがありますが、古事記よりも古い時代のものだ、などと言うと、先ず歴史学会からは無視されているようです。
しかし私は、まだまだ未発見の、古事記よりも古い史書が、かなりの数,地下で眠っていると信じています。
というのは、当時の大和政権が、強制的に地方王朝の歴史書を差し出すように命令を発したとしても、必ず、反抗して、そういったものを隠してしまう者が居たはずだからです。
そんなわけで、地方へ行けば行くほど、つまり、大和朝廷の権威が届いていない地方ほど、そのような史書が残っている可能性があります。


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まだ遺跡発掘などがあまり活発に行われていない、日本海沿岸の新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているはずです。
上の地図からも分かるとおり、このあたりには、大陸からの難民がたくさん漂着していたはずだからです。


『古事記より古い書物がどうして残っていないの?』より
(2003年7月17日)


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ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
確かに、古代には大陸からの難民がたくさん日本海沿岸に漂着していたはずです。
だから、もしかすると島根県、富山県、新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているかもしれませんよね。
あなたも、お暇だったら、その辺を発掘してみてください。
古事記よりも古い書物の発見者として一躍有名になるかもしれませんわ。
うふふふふふ。。。

とにかく、あなたも真剣に考えてみてください。
もし興味があったら、ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
あなたも、きっと、このお話ならば、納得がゆくと思いますわァ。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

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『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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吉田兼好とアレクサンダー

2014年1月21日

 
 
 
吉田兼好とアレクサンダー
 

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デンマンさん。。。 吉田兼好というのは『徒然草』の作者でござ~ますか?


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それ以外にはちょっと考えられないでしょう!?

でも、アレクサンダーがあの有名なアレクサンダー大王だとすると、二人の間には何も接点がないじゃござ~ませんかァ~!

一見、何も接点がないように見えて実はあるのですよ。

でも、二人の生きていた時代が全く違うではござ~ませんかァ!

あのねぇ~、生きていた時代が違っていても思想的に、あるいは観念的に接点がある場合もありますよ。 例えば、仏教の開祖・ガウタマ・シッダールタと聖徳太子は生きていた時代は違っていても、聖徳太子がガウタマ・シッダールタを篤(あつ)く敬(うやま)っていたという点で二人には接点があるのですよ。

つまり、吉田兼好はアレキサンダー大王を篤く敬っていたとデンマンさんは言うのですか?

いや。。。 そのような事実はないと思いますよ。 まず間違いなく、吉田兼好はアレクサンダー大王が歴史的人物であったことも知らなかったと思うのですよ。

それなのに、どうして「吉田兼好とアレクサンダー」というタイトルのしたのでござ~ますか?

だから、二人の間には観念的に接点があるからですよ。

その観念的に接点があるというのは一体どういうことでござ~ますか?

あのねぇ~、実は、バンクーバー市立図書館から本を借りて読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。

一芸の極みは慎重にあり


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兼好法師は、道を究めた人の話が好きで、40歳過ぎになって書かれた後半部分にその記載が多いのは、齢をとるにしたがって見えてくるものを伝えたかったのであろう。
達人・名人話は王道へつながる。

まず、第185段に乗馬の達人の話が出てくる。
城陸奥守泰盛(じょうのむつのかみやすもり)という馬乗りの名人がいた。
馬を引き出させたときに、足を揃えて門のしきいをひらりと飛び越えるのを見て、「これは気の荒い馬だ」と言って乗らなかった。
また、馬が足を伸ばしたままで、しきいに蹴あてると、「これは鈍感な馬で、こんな馬に乗ったら失敗するだろう」と言って乗らなかった。
というエピソードを紹介して、次のような感想を述べている。

道を知らざらん人、かばかり恐れなんや

(乗馬の道に通じていないような人は、どうしてこれほどまでに用心するだろうか)

物をよく知っているからこそ、慎重になる。
ごく当たり前のことでありながら、われわれが実生活の中で見過ごしてしまいがちなことを、兼好はここでも説いている。


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NHK まんがで読む古典

徒然草 19段前半

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


36-37 ページ 
『転ばぬ先の転んだ後の 「徒然草」の知恵』
著者: 嵐山光三郎
2012年4月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 集英社

つまり、上の文章を読んで、このエピソードこそ王道へつながる達人・名人話だと思ってデンマンさんは感動したのでござ~ますか?

いや。。。 違うのですよ。 吉田兼好は上のエピソードを紹介するような人物だから“王道”から外れた人生を歩んだと思ったのですよ。

“王道”から外れた人生とは、一体どういうことでござ~ますか?

あのねぇ~、吉田兼好はウィキペディア(Wikipedia)には次のように書かれている。

吉田 兼好


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弘安6年(1283年)頃-文和元年/正平7年(1352年)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。
治部少輔卜部兼顕の子。
本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。

卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。
また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。

経歴

卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。
母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年ごろの出生と考えられている。
堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。
従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。

『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか以前、1313年以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。
法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。

出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。
鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。
その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。

二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。
その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。
また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、
当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。

室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。
また晩年は、当時の足利氏の執事高師直に接近したとされる。

逸話

『太平記』巻二十一の艶書(ラブレター)を代筆した話が知られる。
足利幕府の執事高師直は、侍従という女房から塩冶高貞(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従に取り持ちを頼むが上手くいかない。
いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。
しかし判官の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったのだという。
この話は真偽はともかく、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』を代表として芝居や小説などの素材に数多く採り上げられ、兼好の恋の道もわきまえた「粋法師」としてのイメージを形成する上で大きな影響を与えている。


出典: 「吉田兼好」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、兼好法師は30歳前後に出家遁世するのですよ。 要するに、京都修学院や小野の辺りの山里に隠棲し、30代後半には比叡山・横川に庵(いおり)を構えて世捨人(よすてびと)になったのです。

要するに冒険を好まず、危険を回避して慎重過ぎる生活態度が兼好さんに“世捨人”の道を選ばせたとデンマンさんは言うのでござ~ますか?

その通りですよ。 兼好法師は物をよく知っているからこそ、慎重になる性格だったと僕は思うのです。 少なくとも人生を慎重に歩みたいと願っていたのでしょうね。 だから、上の乗馬の名人・エピソードを敢(あ)えて『徒然草』の中に書き入れたのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ、上のエピソードに感動しない限り吉田兼好は『徒然草』に取り上げませんよう。

。。。んで、兼好法師さんはマジで足利幕府の執事・高師直さんのラブレターを代筆したのでござ~ますか?

いや。。。 僕はそうは思いませんね。 兼好法師が感動した上のエピソードを読めば「君子危うきに近寄らず」というのが兼好法師の生活信条だと思うのですよ。 だから、あとで面倒なことになりそうなラブレターの代筆など兼好法師は絶対にしなかったというのが僕の考えですよ。

じゃあ、ラブレターの代筆は後世の作り話でござ~ますか?

僕はそうだと思いますね。 吉田兼好が恋の道もわきまえた「粋法師」として語りたいための作り話だと思うのですよ。

そうだとしても、アレクサンダー大王がどこにも出てきませんわ。 一体、吉田兼好さんとアレクサンダー大王がどのように関係しているのでござ~ますか?

あのねぇ~、ちょっと次の映画を見てください。


(alex08.jpg)

Alexander the Great

アレクサンダー大王

ドキュメンタリー(2時間15分)

あらっ。。。 すべて英語ではござ~ませんかァ! あたくしは英語は苦手なのでござ~ますわァ。

じゃあ、日本語の次のクリップでも見てください。

アレクサンダー大王が生きた世界

上の日本語のクリップを見ても、吉田兼好さんとアレクサンダー大王がどのように関係しているのか? あたくしには理解できませんわァ。

あのねぇ~、アレクサンダー大王には愛馬・ブケパロス(Bucephalus)との間に有名なエピソードがあるのですよ。

ブケパロス


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紀元前355年? – 紀元前326年6月

アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が愛馬とした1頭の軍馬。
その名はラテン語形では Bucephalas(ブーケパラース/現羅:ブケファラス)もしくは Bucephalus(ブーケパルス/現羅:ブケファルス)と表記される。
日本語ではブケファロスとの表記も多い。

大きな黒い馬で、額の星(ウマの額にある毛模様)が牛の角の形であったことから「ブーケパロス(雄牛の頭)」と呼ばれた。
牡馬であったとされているが、語尾変化を論拠に牝馬であったという説もある。
また、伝説では星ではなく角が生えていたともいわれ、ポンペイ遺跡から出土した壁画にも角が描かれている。
また、偽カリステネスの『マケドニア人アレクサンドロスの生涯』系統伝説は、人食い(英語版)馬であったと記している。

プルタルコスの『プルターク英雄伝』によると、ブケパロスはペラスギティス産(テッサリアの馬の産地)でアレクサンドロスの父ピリッポス2世への貢物であったが、暴れ馬で誰も乗りこなすことはできなかったという。
若きアレクサンドロス王子(のち、アレクサンドロス3世)はブケパロスが彼自身の影に怯えていることに気付き、父と賭けをし、馬の視線を太陽の方向へ向かせることで落ち着かせ、見事に騎乗馴致してみせたという。

以来、ブケパロスはアレクサンドロスの愛馬となる。


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Alexander & Bucephalus

紀元前326年、アレクサンドロス3世軍とポロス王の軍がぶつかったヒュダスペス河畔の戦いにて、ブケパロスは戦死した。
戦いに勝利したアレクサンドロス3世は、愛馬を丁寧に埋葬し、この地に築いた新都市(アレクサンドリア都市)をブケパロスにちなんで「アレクサンドリア・ブケパロス」と名付けた。


出典: 「ブケパロス」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上のYouTube のクリップを見れば解るように暴れ馬で誰も(ブケパロスを)乗りこなすことはできなかった。 しかし、若きアレクサンダーはブケパロスが彼自身の影に怯えていることに気付き、父と賭けをし、馬の視線を太陽の方向へ向かせることで落ち着かせ、見事に騎乗馴致してみせたのですよ。 つまり、『徒然草』に出てくる乗馬の名人は慎重すぎてブケパロスには乗らなかったでしょうね。

つまり、本当の“王道”は慎重過ぎてはダメだと言うことでござ~ますか?

そうですよ。 アレクサンダー王子が『徒然草』の中に出てくる乗馬の名人だったら、アレクサンダー大王にな成れかったと思うのですよ。 だから、事実、城陸奥守泰盛(じょうのむつのかみやすもり)という馬乗りの名人は織田信長や豊臣秀吉のような男にはなれなかった。


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ですってぇ~。。。
確かに、そうかもしれませんわ。
織田信長ならば、まず間違いなくブケパロスを乗りこなそうとしたでしょうね。
でも、振り落とされて殺してしまったかも知れませんわ。

ホトトギス 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

。。。ですものねぇ。

だから。。。

ブケパロス おとなしく乗せろブケパロス
俺を乗せぬなら 殺してしまうぞブケパロス

。。。ですよね。

とにかく、あなたも吉田兼好さんとアレクサンダー大王の違いを今夜じっくりと考えてくださいまし。

ところで、吉田兼好さんもアレクサンダー大王も それなりに面白いのですけれど、
ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


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『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

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『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

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『伎楽は呉の音楽?』

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『床上手な女になりたい』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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