Posts Tagged ‘山上憶良’

額田王の歌

2017年10月9日

 

額田王の歌

 


(nukata14b.png)


(hashihi02b.png)


(pinkgal2e.png)

(lily.jpg+heartx.gif+spacer.png)

 


(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけで“額田王の歌”を取り上げるのでござ~♪~ますか?


(kato3.gif)

実は、僕は額田王の歌を取り上げようとは思ってなかったのですよ。。。

だから、どうして額田王の歌を話題にするのですか?

ちょっと次のリストを見てください。。。


(wp71007a.png)

『拡大する』

これはDenman Blog の日本時間で10月7日の午前2時8分現在の記録です。。。

バンクーバーでは何時だったのですか?

日本の方が16時間進んでいるので、10月6日の午前10時8分です。。。 この時間に上の記録を見て 額田王の歌を取り上げることにしたのですよ。。。 リファラ(リンク元URL) の赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのです。。。

これは中国の検索エンジンでしたよねぇ~。。。 そのリンクをクリックすると どのような検索結果が出てくるのでござ~ますか?

次のような結果が表示されます。


(so71007a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『愛憎と三輪山』

あらっ。。。 「額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王(ゐのへのおほきみ)の即ち和(こた)ふる歌」と入れて検索したネット市民がいたのですわねぇ~。。。 もしかして、また香港に住んでいるガーリンさんが検索したのでござ~ますかァ?

そうです。。。 どうして、ガーリンさんだと判ったのですか?

だってぇ~、上の検索結果のリストに 何度も登場したガーリンさんの写真が出ているではありませんかァ!


(ip7220b.png)

『拡大する』

卑弥子さんは記憶力が抜群ですねぇ~。。。 ガーリンさんは 上の検索結果の赤枠で囲んだ『愛憎と三輪山』を読んだのですよ。。。


(wp71007a2.png)

『愛憎と三輪山』

でも。。。、でも。。。、ガーリンさんは日本の古典が理解できるほど日本語に詳しいのですか?

あのねぇ~、以前にも書いたけれど、劉嘉玲(ラウ・ガーリン)さんは香港中文大学で英語と日本語を勉強したのですよ。。。 


(cuhk001.jpg)

だから、英語も日本語もかなり話せます。。。 で、将来 女優を目指しているのです。。。

マジで。。。?

現在、香港演芸学院で本格的に演劇を勉強しているのです。。。 


(hkapa44.jpg)

近い将来、香港ばかりでなく、日本とハリウッドでもデビューしようと頑張っているのです。。。


(pinkgal2g.jpg)

つまり、ガーリンさんは いずれ日本にもやって来るのでござ~ますか?

そのつもりなのですよ。。。 だから、日本のことにもマジで関心を持っている。。。

。。。で、どういうわけで額田王の歌をネットで探したのでござ~ますか?

ガーリンさんの友達が「額田王、近江国に下る時に作る歌」には、秘密がこめられている、と言ったらしいのです。。。

それで、その秘密を探るためにネットで検索したのですか?

そういうことです。。。

検索した結果、デンマンさんの記事に出くわしたというのですかァ?

その通りです。。。 で、次の箇所を読んで、謎が解けたとメールを寄越したのです。。。

僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。

大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。


(horse33.jpg)

金木(かなき)つけ

わが飼ふ駒は

引き出せず

わが飼ふ駒を

人見つらむか

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。

僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。

大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。

孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。

しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。


(horse33.jpg)

確かに事情はよく分かる。

しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。


(hashihi02.jpg)

人の世は、決してそういうものではないと私は思う。

だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。


(koutoku3.jpg)

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。

ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。

『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。

でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。

この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。
つまり、批判していたのです。

額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。


『性と愛と批判』より
(2006年5月8日)

あらっ。。。 デンマンさんは11年前に、こんな事を書いていたのでござ~ますかァ?

いけませんか? うししししし。。。

笑っている場合じゃござ~ませんわァ~。。。 つまり、額田王が詠んだ長歌と反歌は、実は、天智天皇が詠んだものだったのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 だから、『万葉集』の編纂者だった大友家持が わざわざ子供の頃の自分の家庭教師だった山上憶良が書いた『類聚歌林』を持ち出してきて、「近江国に遷都した時に、三輪山をご覧になって天智天皇がお作りになったお歌である」と引用したのですよ。。。 更に、『日本書紀』まで持ち出してきて、「天智天皇の6年3月19日」、つまり、653年に大和から近江に遷都したと確認している。

でも、デンマンさんが書いた上の記事では、大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立し… 孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまったのですわねぇ~。

そうです。。。 孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子(後の天智天皇)が握っていたのです。 つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇だったのですよ。 しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。 しかも中大兄皇子の母親の実の弟、つまり皇子の叔父さんです。 それなのに、孝徳天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。 しかも、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。

あらっ。。。 天智天皇は、ずいぶんと酷(ひど)い事をなさったのでござ~ますわねぇ~。。。 でも、それは653年の出来事で 上の三輪山のお歌は 667年に天智天皇が詠んだお歌でござ~ますわァ。

だから、大和から近江に都を移すにあたって、14年前の653年に、無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れてきたことを思い出しながら、三輪山を、つまり、大和の都を振り返って詠んだのが 上の長歌と反歌ですよ。 意味は次のようになります。


(miwa05.jpg)

三輪山には いろいろな思い出がある。

だから、こうして大和を去るにあたって、見えなくなるまで

幾たびも幾たびも眺めてゆきたい山だ……

しかし、つれなくも その三輪山を雲が 隠してしまった。

想えば、14年前に、私もつれないことをしたものだ。


(koutoku3.jpg)

無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、

叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れだしてきたのだ。


(hashihi02.jpg)

こうして、三輪山を 雲が隠しているのは、

その時の報(むく)いなのかもしれない。

でも、あの時は そうするより仕方がなかったのだ。

 


(miwa06.jpg)

ガーリンさんはここまで読んできて額田王の歌の秘密が理解できたとメールで書いて寄越したのですよ。。。

マジで。。。?

あれっ。。。 卑弥子さんは信じられないのですか?

だってぇ~、お話が余りにも とっぴでござ~ますわァ~。。。

あのねぇ~、昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのですよ。。。 だから、卑弥子さんも素直に信じて救われてねぇ~。。。


(laugh16.gif)

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あなたは信じることができましたか?

とにかく、デンマンさんがずいぶんと調べてお話をこじつけたようですわァ~。。。

ところで日本の古代にも、あるいは平安時代にも あなたの知らないミステリアスな面白いお話があるのですわよう。。。

あなたのために平安史、古代史の興味深い記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)



(spacer.png+betty5de.gif)
(hiroy2.png+betty5d.gif)
『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


(zurose2.jpg)

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


(hama10.jpg)

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』


(maria05.jpg)

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


(costa04b.jpg)

『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)

愛憎と三輪山

2016年5月4日

 

愛憎と三輪山

 


(miwa02.jpg)


(naragals2.jpg)


(hashihi02.jpg)


(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 愛と憎しみが三輪山と関係あるのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

関係ないように見えても関係あるのですよ。。。 関係なかったら、上のようなタイトルを書けませんからねぇ~。。。

。。。んで、どういうわけで“愛憎と三輪山”というタイトルにしたのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。

額田王が近江に下向する時の歌


(nukata14.jpg)

明日香や藤原で生活していた人びとは、円錐形の三輪山を東に望んで生活していた人びとであった。
その三輪のミモロ、カムナビ(土地の神様がおられる所: デンマン注)を、額田王(ぬかたのおおきみ)が、奈良盆地の北の遥か奈良山から歌っている歌がある。

題詞によれば、近江に下向する時に歌われた歌だという。
だとすれば、一時的な別れであるにせよ、永遠の別れであるにせよ、大和を去るにあたって歌われた歌ということになる。

額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌


(miwa03.jpg)

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に

い隠るまで 道の隅 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを

しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

反歌

三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや


上の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。
日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔(つきたち)の己卯(きぼう)に、都を近江に遷す」といふ。

[和ふる歌省略]    (巻1の17、18)

まさに、故郷を離れる人々の心情を読み取ることのできる歌である。

万葉ファンなら、一度は読んだことのある歌だろう。

(略) 訳すと、

額田王が近江国に下った時に作った歌、そして井戸王がすぐに唱和した歌


(miwa05.jpg)

うまい酒といえば三輪 その三輪山を 青土がよいという 奈良の山の 山の向こうに

隠れゆくまでに 道の曲がり角の 見えなくなるまでに 幾重にも幾重にも重なってゆくまでに

思う存分に 見続けながら旅立ってゆきたいのに…… 幾たびも幾たびも眺めてゆきたい山だのに……

つれなくも その三輪山を雲が 隠してよいものか

(そんなことが許されてたまるものか……)

反歌

三輪山を そんなにも隠してよいことか せめてせめて雲だけでも わが思いを察してほしい

隠してよいものか (私はいつまでも見ていたいのだ……)


上の二首の歌については、山上憶良大夫の『類聚歌林』に、「近江国に遷都した時に、三輪山をご覧になって天智天皇がお作りになったお歌である」と記されている。

『日本書紀』には、「天智天皇の6年3月19日」、近江に遷都したと記されている。

[和ふる歌省略]

。。。となろうか。
奈良山から見る三輪山は、遥か南に望むことができる小さな山だ。

しかも、竜王山などの山影に隠れ、その全体が見えるわけでもない。
山並みの一つで、よほど注意深く見なくては、あれが三輪山だと気づくことはない。

だから、わざわざ奈良山に登って三輪山を見ようとする人などいない。
いるとすれば、『万葉集』の愛好家だけだ。

 (中略)


(okura40.jpg)

この歌の左注は、山上憶良大夫の『類聚歌林』という書物と『日本書紀』を引用して、歌が歌われた事情について、編纂者の考えを述べている。
『類聚歌林』は、今日、残念ながら現存しないのだが、『万葉集』の編纂にあたって中心的に用いられていた資料と異なる伝えもあった。
その場合、編纂者は、『類聚歌林』をみますと、別の伝えもあるのですよ、と引き合いに出すのである。

この歌の場合、天智天皇が都を近江に遷した時に作った歌との伝えもあったようだ。
この『類聚歌林』の伝えを確認せんがために、編纂者は『日本書紀』を引用して、年月日を確認しているのである。
『類聚歌林』の伝えを信じれば、当該歌は額田王の作ではなく、遷都にあたっての、天智天皇の御製歌ということになる。


(tenchi20.jpg)

 (中略)

なぜ、作者は、繰り返し繰り返し、三輪山を見たいと歌ったのだろうか?
私は、故郷の山たる三輪山への哀惜の念と、三輪山に対する畏敬の念があったからだろう、と信じる。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


190-195ページ
『日本人にとって聖なるものとは何か』
著者: 上野誠
2015年1月25日 初版第1刷発行
発行所: 中央公論新社

あらっ。。。 額田王(ぬかたのおおきみ)の長歌と反歌でござ~ますわねぇ~。。。 とっても素敵なお歌でござ~ますわァ~。。。

あれっ。。。 卑弥子さんは、この長歌と反歌の素晴らしさが解るのですかァ~?

デンマンさん! 失礼でござ~ますわよう! こう見えても、あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を教えているのですわァ~。。。 この程度のお歌は、あたくしにとって朝ご飯の前なのですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。

それを言うなら“朝メシ前”と言ってくださいよ。

つまり、額田王(ぬかたのおおきみ)の長歌と反歌を持ち出してきて、デンマンさんは あたくしの古代文学の素養を試そうとしたのですわねぇ~。。。?

卑弥子さんは、そのようカングッタのですかァ~?

それ以外に考えられないじゃござ~ませんかア!

。。。で、上の歌のどこに卑弥子さんは感銘を受けたのですか?

本の著者が書いてるではござ~ませんかア! 額田王(ぬかたのおおきみ)は故郷の山たる三輪山への哀惜の念と、三輪山に対する畏敬の念があったために、繰り返し繰り返し、三輪山を見たいと歌ったのでござ~ますわァ。。。 誰が上のお歌を読んでも、そのようなところに感動するものですわァ~。。。 おほほほほほ。。。

卑弥子さんはマジでそう思うのですかァ~?

デンマンさんは、そうじゃないとおっしゃるのでござ~ますかァ。。。!?

あのねぇ~、僕は他の記事の中で次のように書いたことがある。


(think20.jpg)


私たちが生きてゆく過程で必要なのは、

すでに分かりやすい形に

加工されている情報を摂取し、

頭を太らすことだけでなく、

情報という形になっていない情報を、

どのくらい自分の力で噛み砕き、

吸収していくかということなのである。

それは、うまく世の中を渡れる知識を

手っ取り早く獲得することとは一線を画し、

いかに自分が人間として、

生き生きした時間を開拓するか

ということにつながっているのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


257ぺージ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

『愛の擬人法』に掲載
(2016年4月28日)

なるほどォ~。。。 情報という形になっていない情報を、どのくらい自分の力で噛み砕き、吸収していくか? そのことが大切だとおっしゃるのでござ~ますわねぇ~。。。

その通りですよ。。。 生前、司馬遼太郎さんも、次のように言ってたのです。。。


(shiba3.gif)

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思います。。。 つまり、卑弥子さんが読者として、上の額田王の長歌と反歌をどれほど理解できるか? 要するに、残りの50%の分を どれほど読みつくすことができるか? それが問題だということですよ。

あらっ。。。 デンマンさんは、あたくしの読みが足りないと言うのでござ~ますかァ?

だってぇ、そうでしょう! 卑弥子さんは本の著者が言うままに 額田王の長歌と反歌の良さをオウムのように繰り返しただけですよ。。。 卑弥子さんは京都の女子大学で橘卑弥子・准教授として教鞭をとっているのですよ。。。 当然の事だけれど、卑弥子さんの これまでの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で 全身全霊の力を込めて理解すべきなのですよ。。。

つまり。。。、つまり。。。、あたくしの理解力が足りないとデンマンさんは主張するのでござ~ますかァ~?

そうです。。。 本の著者の言っていることは通り一遍の解釈に過ぎない! 卑弥子さんは、僕をうならせるような解釈をして欲しかったのですよ。

。。。ということは、デンマンさんには あたくしを うならせるような解釈ができると言うことでござ~ますわねぇ~?

そうです。。。

分かりましたわァ。。。 デンマンさんが そのように言うのでしたら、さっそく その あたくしを“うならせるような解釈”とやらを聞かせてくださいましなァ~。。。

じゃあ、まず次の記事を読んでみてください。

僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。

大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。


(horse33.jpg)

金木(かなき)つけ

わが飼ふ駒は

引き出せず

わが飼ふ駒を

人見つらむか

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。

僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。

大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。

孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。

しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。


(horse33.jpg)

確かに事情はよく分かる。

しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。


(hashihi02.jpg)

人の世は、決してそういうものではないと私は思う。

だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。


(koutoku3.jpg)

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。

ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。

『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。

でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。

この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。
つまり、批判していたのです。

額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。


『性と愛と批判』より
(2006年5月8日)

あらっ。。。 デンマンさんは10年前に、こんな事を書いていたのでござ~ますかァ?

いけませんか? うししししし。。。

笑っている場合じゃござ~ませんわァ~。。。 つまり、額田王が詠んだ長歌と反歌は、実は、天智天皇が詠んだものだったのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 だから、『万葉集』の編纂者だった大友家持が わざわざ子供の頃の自分の家庭教師だった山上憶良が書いた『類聚歌林』を持ち出してきて、「近江国に遷都した時に、三輪山をご覧になって天智天皇がお作りになったお歌である」と引用したのですよ。。。 更に、『日本書紀』まで持ち出してきて、「天智天皇の6年3月19日」、つまり、653年に大和から近江に遷都したと確認している。

でも、デンマンさんが書いた上の記事では、大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立し… 孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまったのですわねぇ~。

そうです。。。 孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子(後の天智天皇)が握っていたのです。 つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇だったのですよ。 しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。 しかも中大兄皇子の母親の実の弟、つまり皇子の叔父さんです。 それなのに、孝徳天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。 しかも、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。

あらっ。。。 天智天皇は、ずいぶんと酷(ひど)い事をなさったのでござ~ますわねぇ~。。。 でも、それは653年の出来事で 上の三輪山のお歌は 667年に天智天皇が詠んだお歌でござ~ますわァ。

だから、大和から近江に都を移すにあたって、14年前の653年に、無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れてきたことを思い出しながら、三輪山を、つまり、大和の都を振り返って詠んだのが 上の長歌と反歌ですよ。 意味は次のようになります。


(miwa05.jpg)

三輪山には いろいろな思い出がある。

だから、こうして大和を去るにあたって、見えなくなるまで

幾たびも幾たびも眺めてゆきたい山だ……

しかし、つれなくも その三輪山を雲が 隠してしまった。

想えば、14年前に、私もつれないことをしたものだ。


(koutoku3.jpg)

無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、

叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れだしてきたのだ。


(hashihi02.jpg)

こうして、三輪山を 雲が隠しているのは、

その時の報(むく)いなのかもしれない。

でも、あの時は そうするより仕方がなかったのだ。

 


(miwa06.jpg)

だから、こういう思いを込めて 天智天皇は詠んだのですよ。


(foolw.gif)


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますかァ~?

天智天皇は、もうずいぶん昔にお亡くなりになりました。

でも、本当のところは、天地天皇に訊いてみないと解りませんわよねぇ~。。。

ところで、話は変わりますけれど、
実は、あたくしは毎日ジムに通って女の魅力を鍛えたのでござ~ますわ。

ええっ。。。 どんな女の魅力かってぇ~。。。?

“ヴィーナスのえくぼ”でござ~ますわよう!

うふふふふふ。。。

あなたは信じられないでしょう?

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

天智天皇のお話は、大変興味深いでしょう?

他にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

だから、あなたのために古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいまし。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)


(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』

『兄妹の恋のつづき』

『源氏物語エロいの?』

『酒が行って着物目変境』

『日本は外人に乗っ取られたの?』

『ん?ヒトラーはベジタリアン?』

『ふるさとの選挙と黒い霧』


(hama10.jpg)

『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)

焼き滅ぼさむ

2015年6月18日

 

焼き滅ぼさむ

 


(hell100.jpg)


(hell104.jpg)


(rengfire.jpg)


(merange12.jpg)

デンマンさん。。。 あんさんは、どないなわけで“焼き滅ぼさむ”という けったいなタイトルを付けはったん?


(kato3.gif)

あきまへんか?

そやかてぇ、なんやァ古臭い文語調ですやん。。。

あのなァ~、上のタイトルは わてが思いついたものやあらへん。。。

あんさんでないとしたら、卑弥子さんが付けはったん?

卑弥子さんでもあらへん。。。 実は、わても知らん人が 次のような検索ワードを入れて検索して わての Denman Blog を読みにやって来たのやがなァ~。。。


(wp50616c.png)

『拡大する』

これは、Denman Blog の6月16日の「人気検索キーワード」のリストやねん。

あらっ。。。 “君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索して あんさんの Denman Blog へやって来たのやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

。。。で、どの記事を読みはったん?

そやから、わても それを知りたかったさかいに、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて GOOGLE で検索してみたのやがなァ。。。 その検索結果を見て欲しい。


(gog50616a.png)

『現時点での検索結果』

1,890 件ヒットしてますやん。。。

そうやァ~。。。 赤枠で囲んだ“長屋王の変”というリンクをクリックして次のページを読んだのやがなァ~。。。


(wp50616m.png)

『実際のページ』

あらっ。。。 『道教伝説の謎』を読みはったのやねぇ~。。。

いや、ちゃうねん。。。 『道教伝説の謎』を読みはったかもしれへんけど、この記事には“君が行く道の。。。”和歌は出てこんのやァ~。。。

そやけど、検索結果によれば、上のページを読みはったということですやん。。。

そうやァ~。。。、実は、上のページは“長屋王の変”というタグが付いた記事を表示してるねん。。。 『道教伝説の謎』という記事の他に、もう一つ、『萌える恋歌の裏に』という記事が上のページに出てくるねん。

つまり、『萌える恋歌の裏に』という記事に上の和歌が出てくるのォ~?

そういうこっちゃがなァ~。。。


(rajomon1.jpg)


(bigroad.jpg)

1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。

平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。

それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。

これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。

つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。

物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社

なるほどォ~。。。 あんさんが『別冊太陽』から、引用しやはったのやねぇ~。。。

あきまへんか?

かまへんけど、わたしには、一つだけ大きな疑問がありますねん。

どないな疑問やねん?

あんさんも もう一度 検索結果を見て欲しい。


(gog50616a.png)

『現時点での検索結果』

上の検索結果が どうやと言うねん?

あんさんの Denman Blog へのリンクは 4番目に出てきよる。。。 ということは、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索しやはった人は、当然のことやけど、1番から3番のリンクをクリックして3つの記事を読みはったに違いあらへん。

そうやろなァ~。。。

それやのに、どうして4番目に出てきよる あんさんの Denman Blog を読む必要があるのやろか? つまり、わたしが言いたいことは 1番から3番の記事の中に、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”の和歌の意味がちゃんと書いてありますやん。 わたしやったら、トップの記事を読んで意味が書いてあれば、他の記事など読まへん。。。 それやのに、どうして Denman Blog のあんさんの記事を読む必要があるのやろかァ?

あのなァ~、めれちゃん。。。 ニーチェのおっさんが かつて次のように言うたのやァ~。。。

読むべき書物


(nietzsche9.jpg)

わたしたちが読むべき本とは、次のようなものだ。

読む前と読んだあとでは世界がまったくちがって見えるような本。

わたしたちをこの世の彼方へと連れさってくれる本。

読んだことでわたしたちの心が洗われたことに気づかせるような本。

新しい知恵と勇気を与えてくれる本。

愛や美について新しい認識、新しい眼を与えてくれる本。

 

『悦ばしい知識』 — ニーチェ


183 『超訳 ニーチェの言葉』
訳者: 白取春彦
2010年3月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社ディスカバー・トゥエンティワン

つまり、“君が行く道のながてを繰くり畳たたね焼き滅ぼさん天あめの火もがも”を入れて検索しやはった人は、次のような記事を読もうと思いはったん?


■ 読む前と読んだあとでは
  世界がまったくちがって見えるような記事。

■ わたしたちをこの世の彼方へと
  連れさってくれる記事。

■ 読んだことで
  わたしたちの心が洗われたことに
  気づかせるような記事。

■ 新しい知恵と勇気を与えてくれる記事。

■ 愛や美について新しい認識、
  新しい眼を与えてくれる記事。

その通りやがなァ~。。。 要するに、常識的な、誰もが思いつくような意味だけでは満足できへんかったのやがなァ~。。。

それで、あんさんの Denman Blog の記事を読んで、ようやく満足できる解釈に巡りあったわけやのォ~。。。?

そういうこっちゃがなァ~。。。 その人は、わての解釈を読んで読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになったのやァ。。。

。。。で、上の和歌の意味は。。。?

次のような意味やねん。。。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


文字通りに解釈すれば
「あなたの行く長い長いその道のりを
手繰り寄せ、そして重ねて
焼き滅ぼしてくれるような
天の火が欲しい」という意味になるけれど、
そんな事を言うために上の和歌を詠んだわけじゃない。

私の父・旅人(たびと)は
729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」で
涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならなかった。

しかし、藤原氏の専横がいつまで続くわけではない。
いつか 必ずや 天の火が天罰のように
藤原氏を見舞うことになるだろう。

(巻15の3724)

そやけど、そないな解釈をこれまでに 見たことあらへんわァ~。。。

そやから、次の記事を読むと、上のように解釈した理由が書いてあるねん。 それで読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになるねん。


(rengfire.jpg)

『萌える恋歌の裏に』


(laugh16.gif)

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
あなたも、上の記事を読めば
もしかすると、読む前と読んだあとでは 世界がまったくちがって見えるようになるかもしれません。
うふふふふふ。。。

ところで、めれんげさんはボダを克服して
健康も回復して元気になりました。
これからも、『即興の詩』を更新して欲しいですよね。

あなたも、めれんげさんの日記と“即興の詩”に興味があったら、ぜひ読んでみてくださいね。

めれんげさんは 2013年の6月に『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよね。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。
でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

でも、現在は、6位です。

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


(hand.gif)


(surfing9.gif)

メチャ面白い、

ためになる関連記事


(linger49.gif)


■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


(ebay5.jpg)

『夏目漱石と南方熊楠』

『めれちゃん、どうちたのォ~?』

『めれちゃんの悦び』

『性愛サイトとめれちゃん』

『Myぬこが便秘で…』

『Myぬこの愛と恋愛』

『寂しがり屋のめれちゃん』

『くだる本とくだらない本』

『腑に落ちる話』

『めれちゃん、落ち込んでるの?』

『フルトヴェングラーの愛』

『忘れられない愛の言葉』

『死に向かう心の旅路』


(vanc700.jpg)

『イメージの魅惑と衝撃』

『フルトヴェングラーと芭蕉』

『愛という名の心の旅路』

『永遠の愛と世界』

『世界に広がる愛』

『かわいい@ネット』

『愛の絆・永久の絆』

『すごいネット』

『表現者 めれちゃん』

『めれちゃんとすごいネット』

『下つき上つき』

『愛の現実@ネット』

『すべてを解き放って』

『みたよの喜びとムカツキ』


(sayuri201.jpg)

『2億年後の愛』

『赤ちょうちんとそば湯』

『猫と裸エプロン』

『肥後ずいき人気』

『愛と夢の即興の詩』

『偶然の愛の出会い』

『AV女優と東日本大震災』

『めれちゃん@GOO』

『めれちゃん@日記』

『わたしは死刑囚』

『素敵なビキニを買います』


(rengfire.jpg)

『禁じられた恋愛に惹かれて』

『不幸を求める理由』

『信頼の天才になりたい』

『サビーナを探して』

『女装男がムカつく』

『真剣なお願いです』

『忌々しい生命力』

『出会えてよかった』

『めれちゃんの熱烈なファン』

『鶴橋のおばちゃん』

『特別な愛を捧げる人』

『「詩」で検索して見に来てくれた』


(renge62e.jpg)

『えっちなんです』

『エロマンガ島』

『マカオのおかま』

『わたしの生きる意味』

『愛と信頼と絶望』

『天平の裸婦もビックリ』

『愛の真実を探して』

『最大限の本音で…』

『こわ~い話』

『道鏡伝説の謎』

『市長選挙とおばさんパンツ』

『夢みるわたし』

『あげまん女』

『日本で一番長い五月』

『5月だよ!全員集合!』

『また、スパイ?』

『わたしと詩』

『かわゆいベビードールワンピ』

『ああ、さびしい』

『恋する女でありたい』

『生きてることが気持ち悪い』


(june24b.jpg)

こんにちはジューンです。

卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ


(beach02.jpg)


(byebye.gif)

かぎろいの謎

2013年3月26日

 

かぎろいの謎

 


(shoko07.jpg)


(question.gif)


(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。どうして「かぎろい」を持ち出してきたのですか?


(kato3.gif)

あのねぇ~、夕べ、たまたま『なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか』という本を読んだのですよ。

それが「かぎろい」と関係あるのですか?

もちろんですよ。 その本の中で柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌が出てきたのですよ。

それで、今日「かぎろい」を取り上げる気になったのですか?

そうですよ。。。 小百合さんは忘れてしまったのですか?

何をですかァ~?

やだなあああァ! 。。。 小百合さんと「かぎろい」について語り合ったのですよ。

まさかァ~。。。!?  覚えていませんわ。

次の記事ですよ。


(kaki003.jpg)

『怒りの柿本人麻呂』

(2011年6月23日)

もう2年も前の記事ではありませんか!

小百合さんは忘れてしまったのですか?

すぐには思い出せませんわ。

じゃあ、次の小文を読んでみてくださいよう。

人麿が見た「かぎろい」とは何か

『万葉集』巻(まき)1の48番に柿本人麿(かきのもとひとまろ)の有名な「かぎろい」の歌がある。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

歌意は「東方の野には曙(あけぼの)の光がさしそめるのが見えて西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている」(『万葉集』日本古典文学大系、岩波書店)というものだ。 ここで「かぎろひ」は「曙の光」とあるが、人麿が見たのはどんな現象なのだろうか。


(shoko05.jpg)

「かぎろい」は『古語辞典』(岩波書店)では、まず「揺れて光る意。 ヒは火。 炎」とあり、また「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光がゆらめいて見えるもの」とし、「陽炎(かげろう)、地面が熱せられたときに見られる」の意をあげている。

さて日の出前には日中われわれがよく見る陽炎のようなものは出現しないので、「陽炎説」は成立しない。 「かぎろい」は万葉集では「炎」という字があてられていることに注目したい。 「かぎろい」にはこれまで天文学的に意味のある説が二つある。

その一つは、戦前、中山正実画伯が「かぎろい」にちなむ大作「阿騎野(あきの)の朝」を描くにあたってなされた考証にもとづくものである(中山説)。 それによれば柿本人麿の「かぎろひ体験」は、場所(東経135°.9、北緯34°.4)だけでなく、日時をも特定できるという驚くべき説で、持統天皇の朱鳥(しゅちょう)6年11月17日(ユリウス暦ではA.D.692年12月31日)、午前5時50分(日本標準時、日の出前約1時間)、月は望(満月)をわずかに過ぎて西の地平線の上10°の高さにあったという。 中山説はこのときの東の空の現象が「かぎろい」だとするものである。

もう一つは黄道光(こうどうこう)説である。 黄道光とは、太陽系の地球の公転軌道の付近に分布している固体微粒子が太陽光を受けて散乱しているものである。 この説を提唱している斉藤国治氏によれば、古天文学にもとづき、「かぎろひ」とは、季節は黄道光がもっとも見えやすい秋の朝とし、東の空に「舌」のような形で、日の出約1時間前に「立って見える炎状の光体」という形であらわれるというものである。

この二つの説はどちらも、主要点として「かぎろひ」は日の出前1時間の東の空の現象としているが、この日の出現象という一連の過程からみると、つぎのような疑問がわいてくる。 日の出前1時間というのは、日本列島の地理的位置を考慮すると、平均して太陽が地平線下12°にあるときということになる。 そのころ、東の空では薄明がはじまってはいるものの、よほど暗く、その色もせいぜい薄く青白いという程度で、当然ながら空全体が静かで何らの動きも感じられない。 また、黄道光も実際にはぼうっとした白っぽいもので、じっとしたまま動きもなく、日本のようにしめっぽい空ではそれを見分けることさえたやすくない。 まして「炎」ないしは「炎が立つ」というような強烈な印象には欠けるように思われる。

ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。 その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。 「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


17 – 19ページ 『空の色と光の図鑑』
著者: 斉藤文一・武田康男
2002年8月1日 第8刷発行
発行所: 株式会社 草思社

どうですか、小百合さん。。。 この上の文章を読んで思い出しましたか?

確かに、上の写真を見たら読んだような記憶がありますわ。

やだなあああァ~。。。 まだ鮮明に思い出せないようですね。 次の写真を見てくださいよ。


(kaki104.jpg->shoko07.jpg)

柿本のおっさんは、こうして「かぎろい」を見ながら歌を詠んだのですよ。

。。。で、ムカついたのですか?

いや。。。 顔に出してムカついたわけではないけれど、心の中ではムカついていたのですよ。


(judge12.gif)

顔に出さなくても柿本人麻呂は心の中ではこうしてムカついていたのですか?

その通りですよ。

でも、どうして。。。?

やだなあああァ~。。。 その事で小百合さんと上の記事の中で語り合ったのですよ。 夕べ、本を読みながら、それを僕は思い出して今日こうして小百合さんと話し始めたというわけですよ。

デンマンさんは記憶力がいいのですわね。

あのねぇ~、2年前のことですよ。 10年前ならば忘れてしまうこともあるかもしれないけれど、2年前ぐらいではそう簡単に忘れないでしょう!?

そうかしら。。。? デンマンさんは歴史に興味があるから覚えているのでしょうけれど、私は歴史は。。。

興味がないのですか?

どちらかと言えば歴史よりも食べ物の方がいいですわ。 おほほほほ。。。

あのねぇ~、小百合さんは「軽井沢タリアセン夫人」としてネットでは有名になりつつあるのですよ。 まず、2011年6月18日当時の検索結果を見てください。


(gog10618.jpg->gog40430.gif)

『軽井沢タリアセン夫人』の現在の検索結果

デンマンさんがムキになって「軽井沢タリアセン夫人」の記事を書いたから 5、050件もの記事がヒットするのですわ。 でも、最近ではデンマンさんもへたばっているのでヒットの数が落ちているのでしょう?

そんなことはありませんよ。 ついさっき調べたので最新の記録を見てくださいよ。


(gog30326.gif)

最近でも僕は「軽井沢タリアセン夫人」の記事を書いているのですよ。 だから、相変わらず 18,900件もヒットしますよ。

だから、どうだと言うのですか?

だから、小百合さんが僕と語り合った話題ぐらい2年前でも覚えていて欲しいのですよ。

分かりましたわ。 忘れないように心がけますわ。 それで、デンマンさんは何が言いたいのですか?

だから、タイトルにも書いたように今日は「かぎろいの謎」に迫るのですよ。

ネット市民の皆様は関心を持つかしら?

ここまで書いてくれば「かぎろいの謎」とは、いったいどのようなものなのか? 絶対に興味を持つと思いますよ。

でも、私が忘れてしまうくらいですから。。。 おほほほほ。。。

あのねぇ~、ネット市民の皆様が「柿本人麻呂」にも「かぎろい」にも関心が無いと、小百合さんが言うと身も蓋もなくなってしまうのですよ。 僕の立場も無くなってしまうのですよ。

分かりましたわ。 じゃあ、予定通りにお話を進めてくださいな。

次の画像を見てください。


(shoko06.jpg->shoko05)

これが僕がイメージしている「かぎろい」ですよ。

つまり、この事が言いたくて、これまでクダクダと御託を並べてきたのですか?

いや。。。もちろん、それだけではありませんよ。 次の歌ですよ。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

この歌が、どうだとおっしゃるのですか?

『万葉集』日本古典文学大系によると、上の歌の意味は次のようだと書いてある。


(shoko04.jpg->shoko07)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている

デンマンさんは、この歌の解釈が気に喰わないのですか?

いや。。。人麿の歌の意味を表面的に解釈すれば、確かに上のような意味になるでしょう。 でもねぇ、はっきり言って、このような和歌ならば誰にだって詠めるのですよ。 僕は初めて上の歌を見たときから、この歌が『万葉集』に取り上げられる程に素晴らしい和歌だとはどうしても思えなかった。 小百合さんはどうですか?

私はもともと和歌には関心が極めて薄いので『万葉集』のことはほとんど知らないのですわ。 うふふふふふ。。。

やだなあああァ~。。。このような時に「うふふふふふ。。。」と言って笑って済まさないでくださいよ。 日本人のミーちゃん、ハーちゃんが国際的に一番嫌われる悪い癖ですよ。

でも、マジで上の和歌が良いものとも、ダサいものとも私には分かりませんわ。

あのねぇ~。。。、冷静になって考えてみてくださいよ。 上の和歌が素晴らしいなんて思う人は、まず居ないと思うのですよ。 もう一度上の和歌の意味を読んでみてください。


(shoko05.jpg->kaki005)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている

何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。

それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。

あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。

でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのですよ。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。

高市皇子(たけちのみこ)

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。

7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。
皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


(kaki004.jpg->kaki199.jpg)

ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?

もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのですよ。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのですよ。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのですよ。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのですよ。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 現在で言えばクリントン夫人のようなものです。

クリントン夫人って、それほど実力があるのですか?

クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかった。

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

そのとおりですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。

柿本人麻呂


(kaki003.jpg)

660年頃 – 720年頃

柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の略歴に手がかりがあるのですか?

そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのですよ。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。


(temple53.jpg)

『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)


(sayuri55.gif)

つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?


(kato3.gif)

そうですよ。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのですよ。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのですよ。 ぜひ読んでみてくださいよ。


(bond010.gif)

『古代のある女の悲劇』

 (2006年7月3日)

『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)

『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)

。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんはおっしゃるのですか?

その通りですよ。


(kaki104.jpg->shoko07.jpg”)

 

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?

どうしてですか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

そうですよ。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。


(shoko07.jpg->shoko05.jpg)

実にきれいな日の出です。
この太陽が天照大神(あまてらすおおみかみ)のシンボルです。
そしてまた女帝・持統天皇のシンボルでもある。

どうして。。。?

あなたは、きっとそう思うでしょうね。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
なぜ、この説話を持ち出してきたのか?と言えば、持統天皇がちょうど同じようにして孫に皇位を継がせている。
その事を正当化するために「天孫降臨」を『古事記』や『日本書紀』に書かせたことも十分に考えられます。

政治家としての持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子、そして孫の珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)に皇位を伝えることに拘(こだわ)った。
持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣(つ)ぐことを望み、夫に働きかけて草壁皇子を皇太子に就け、夫の死後に草壁皇子のライバルであった大津皇子を陰謀によって排除した。

天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだった。
しかし、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自分が即位して孫の珂瑠皇子が文武(もんむ)天皇として皇位につくまでの時間稼ぎをした。

系図で見ると次のようになります。


(keizu03.gif)

つまり、珂瑠(軽)皇子が文武(もんむ)天皇として輝く。
それが上の日の出の光景です。

でも、「壬申の乱」を見れば、誰でも高市皇子の活躍を無視するわけにはゆかない。
だから、天武天皇の長男であり、実力もナンバーワンの高市皇子が次期天皇になるのが当然だと思った人が居たとしても不思議じゃない!
その一人が柿本人麻呂だった。
高市皇子が次期天皇になるように支援し協力したのです。
だから持統天皇に睨(にら)まれて左遷されてしまった。


(kaki105.jpg->shoko07.jpg)

「かぎろい」とは太陽が昇る前の上のような光景です。

ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。

その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。

「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調)


19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社

火のように揺れ、燃え輝いている「かぎろい」こそ、人麻呂の眼には、持統天皇の野心と陰謀に映る。
当然、人麻呂はムカついているのです。

そして、西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている。
つまり、高市皇子が次期天皇になるという望みは完全に絶たれてしまった。
やがて沈んでしまう月のように。。。
要するに歌の意味は次のようになるのですよ。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ

 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 

ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。

確かに持統天皇は野望を実現させたけれど、
まさか自分が死んだあとに、天皇の実権が藤原氏に移るとは想像もしていなかったに違いない。

庇を貸して母屋を取られる

藤原不比等は持統天皇以上の野望を胸に秘めていた。
持統天皇に協力していると見せかけて、
実は、藤原氏は天皇から実権を奪い取ろうと着々とその計画を進めていた。

天皇にはなれなかったけれど、高市皇子は実際に実力を持った人物だった。
その実力は長男の長屋王に引き継がれてゆく。


(keizu901.png)

藤原氏に対抗して天皇を中心とした政治を行おうとした長屋王は、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀に遭って自殺しなければならなかった。
これが世に言う「長屋王の変」である。

高市皇子は持統天皇の野望に破れ
その子の長屋王は藤原氏の陰謀によって自滅しなければならなかった。
このようにして藤原氏の政権は確立されていった。

ずいぶんと長ったらしい説明ですわ。 柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?

ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。


(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)

 

新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。

これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。

どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうですよ。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが小百合さんにも分かるでしょう?

もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?

あのねぇ~、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして小百合さんと話した甲斐があるのですよ。

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは上のデンマンさんの説明を読んで信じることができますか?
信じられないでしょう?
ええっ。。。そのような事は、どうでもよいのでござ~♪~ますか?

だったら、どうしてここまで読んできたのよう?
ええっ。。。他に何もすることがなかったのォ~?
あなたも暇人なのねぇ。
だったら、下に面白い記事のリンクをたくさん貼っておいたから、どれでも好きなものを読んでみてね。

とにかく、また、あさっても面白くなりそうですわ。
だから、あなたも暇があったら読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。


(hand.gif)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事



(linger65.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』


(house22.jpg)

■ 『小百合さんの香り』

■ 『桜と名女優』

■ 『小さな親切』

■ 『病院を批判する意味ある?』

■ 『おいしいぬくもり』

■ 『ひねくれた大人』

■ 『虹のかなたの奇跡』

■ 『虹のかなたから生還』

■ 『義理チョコと十三夜』

■ 『愛のゼフィルス』

■ 『軽井沢タリアセン夫人とバレンタイン』

■ 『バレンタイン届いた?』

■ 『味もめん』

■ 『福豆と軽井沢タリアセン夫人』


(june09b.jpg)

こんにちは。ジューンです。

確かに『万葉集』には歴史的な事実が

隠されている歌がたくさんあるようですわ。

次の歌もデンマンさんが興味深い解釈をしています。


(kaguyama2.jpg)

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、

ただ単に四季の移り変わりに

感興を催(もよお)して詠んだのではないのですって…。

持統天皇の波乱に満ちた人生が

込められているそうですわ。

讃良皇女として少女時代をすごしてきた

持統天皇は幼い頃から愛してくれる人、

愛している人を奪われ続けてきたのですって…。

ある意味で“家庭崩壊”の中で

生きてこなければならなかったのですわ。

つまり、“愛”を奪われる人生だったのですね。

幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基で

近親者が亡くなってゆく。

父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、

大海人皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは

我が子の草壁皇子だけだったのです。

この我が子の将来を脅かす存在になったのが

姉から預かった子、大津皇子だったのですね。

大津皇子は実力も人気もあり、

草壁皇子の皇太子としての地位を

脅かす最大の存在になっていたのですわ。

天武天皇亡き後、讃良皇女が最初に行なったことが

大津皇子を謀反の疑いで逮捕して、

刑死にさせることだったのです。

つまり、デンマンさんによると

上の和歌は次のような意味になるというのです。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


(iware01.jpg)

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から

香具山を見て詠んだのです。


(fujiwara3.gif)

この地図で見れば分かるように、

香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。

この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。

現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は

持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。

つまり、持統天皇は結果として

自分と血のつながりがある甥の大津皇子と

腹違いの妹を死に追いやったわけです。

この当時は怨霊ということが

マジで信じられていたようです。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば

“テポドンで攻撃を受ける”程度に

怖いこととして考えられていたのです。

持統天皇だって、テポドンを

宮殿に打ち込まれたくないので

怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのです。

あなたは、どう思いますか?

ところで、これまで書いた小百合さんの記事を集めて

デンマンさんが一つにまとめました。

もし、小百合さんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

『小百合物語 特集』


(sayuri5.gif)

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしてくださいね。

じゃあね。


(sync.gif)

ブス 家持 本音

2013年1月12日

 

ブス 家持 本音
 



(arci09b.gif)

デンマンさん。。。 あんさんは、またけったいなタイトルを付けはりましたなァ~? まるで三題噺やんかァ~。。。

あきまへんか?

ネット市民の皆様の目を引きつけようとする下心が見え見えですやん!

めれちゃんは、そないに思うのかァ~?

それ以外に考えられしまへん。

あのなァ~、実はバンクーバー図書館から借りてきた次の2冊の本を読んだのやがなァ~。。。


(lib30111.gif)

赤枠で囲みはった『美人の日本語』と青枠で囲みはった『日本の空をみつめて』を読みはったん?

そうやねん。

。。。で、その中にブスと大伴家持(やかもち)はんが出てきましたん?

そういうことやねん。

そやけど、ブスって誰のことやのォ~?

次の小文を読めば、めれちゃんにも想像がつくと思うねん。

恋忘れ草


(nokanzo2.jpg)

萱草(かんぞう)の異称です。
初夏から夏にかけて咲く、百合のような美しい花で、昔から、つらい恋を忘れさせてくれる花として、和歌にも詠まれてきました。

漢方薬で使われる甘草(かんぞう)と同じ音ですが、甘草はマメ科、萱草はユリ科の植物です。

忘れ草 我が下紐(したひも)に つけたれど

醜(しこ)の醜草(しこくさ) 言(こと)にしありけり

『万葉集』 大伴家持


忘れ草を下着の紐につけたれど、ひどい草だ。 全然違うじゃないか。

醜の醜草とは、よほど腹に据えかねたのでしょう。
つらい恋を忘れさせる効きめはなかったようです。
恋忘れ貝というのもあります。
昔は、恋を忘れたい人が多かったのでしょうね。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)


6月15日のページ 『美人の日本語』
著者: 山下景子
2005年7月20日 第16刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎

ブスは出てきまへんでぇ~。。。

醜の醜草という響きから、わてはブスを想い浮かべたのやがなァ~。。。


(arci09b.gif)

それは、あんさんの思い違いですやん。 この歌は家持はんが、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ですやんかァ。 つまり、忘れることができへん。。。 そないに思い焦がれている女性が坂上大嬢はんですやん。 そやさかいに、醜の醜草は ブスとは関係あらへん。

あれっ。。。 めれちゃんは、この歌を知っておったのかァ~?

あたりまえやんかァ!

。。。ん? あたりまえ。。。? どないなわけで、そないに言うねん?

あんさんは忘れてしまいはったん?

何を。。。?

何をってぇ~、かつてあんさんは次の記事の中で大伴家持はんを取り上げておりましたのやでぇ~。。。

『萌える恋歌の裏に』

(2011年5月7日)

おおおォ~。。。 めれちゃんの萌え萌えの姿を見て思い出したでぇ~。。。 そう言えば、めれちゃんと次の萌え萌えの短歌について語りおうたのやなァ~。。。

くちづけ
 
 

 
 
罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ
 
  

 
 
by めれんげ
 
2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさん。。。 やっと思い出してくれはったん? うふふふふふ。。。

めれちゃん。。。 もし万葉時代に住んでおったら、大変なことになっておったでぇ~。。。

どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ~?

めれちゃんが家持の上の歌を盗み聞きしたら、間違いなく家持のおっさんに近づいて「きみのくちづけ もとめて止まぬ」と言いながら関係を迫ったに違いないねん。

あんさん! いい加減にしいやあああァ~。。。 わたしが、そないなハシタナい真似をするわけないやろう! そないな事よりも「忘れ草 我が下紐に… 」がどないしたと言うねん?

あのなァ~、家持はんが詠んだ上の歌は、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ではないと、わては思うねん。

そやけど、どの参考書を見ても。。。 それにネットで調べても上の歌は家持はんが坂上 大嬢はんに贈った歌やと書いてありますやん。

確かにそうやァ。。。 そやけど、わては違うと思うねん。

どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ~?

それを説明する前に次の小文も読んで欲しいねん。

このような悲秋感覚が普遍化するのは中国では漢の時代、日本では古今和歌集(平安時代)あたりからで、中国最古の詩集『詩経』や日本の万葉集には「秋は悲しい」と詠んだものは少ないという(『唐詩歳時記』植木久行)。
最も喜ばしい収穫の季節の秋が悲しくなったのは、農業の生産現場から離れた宮廷の文人たちが詩歌を詠むようになってからであり、物心両面にある程度の余裕ができはじめて、「洗練」とか「優美」といったものとともに、秋の感傷が生まれたのかもしれない。

もっとも『大漢和辞典』では、春傷、春恨、春慮、春心など春の物思いを表した言葉もたくさん載っている。

春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し

この夕影に うぐいす鳴くも

(万葉集・大伴家持)

この歌が詠まれたのは現行暦(グレゴリオ暦)では753年4月5日、清明のころ。
奈良の都は、花の梢(こずえ)に晩春の風が光る季節だった。


(ezokanzo2.jpg)

前年、東大寺の大仏開眼供養が行われたが、造営の財源確保の功績を自負する家持の名は、叙位の名簿から洩(も)れていた。
この歌の背景には、その後の彼の人生の波乱の予感があったに違いない。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)


176ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店

家持はんが詠んだ上の歌がどうやと言うのォ~?

あのなァ~。。。 家持はんは、うららかな春の日に鶯が鳴いているにもかかわらず「悲しい」と言ってるねん。 春のうららかな日に鶯が鳴いていたら、普通の人ならば、なんとなく心が癒されて、ウキウキしてくるねん。 それなのに「悲しい」と言っているのは、実は、差し障りのないように霞と鶯を持ち出して歌を詠んでいるけど、それは建前(たてまえ)で、本音は「東大寺の大仏開眼供養にあたって、私には造営の財源確保の功績があるはずだ。 それなのに、わざと私の名前を名簿からはずしている。 このような陰険な事が朝廷でまかり通っているのは、なんとも悲しいことだ」と詠んでいるねん。

そうやろか?

めれちゃん! 思い出して欲しいねん。 わては、かつて次のように書いたのやでぇ~。。。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろう、この山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。

702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。

SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

つまり、「忘れ草 我が下紐に …」の歌も、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌に見せかけて、実は藤原氏の政治批判をしていると、あんさんは言わはるのォ~?

もちろんやがなァ~。。。 それ以外に考えられへん。

。。。で、いったいどのような出来事に対して家持はんは批判したん?

『ウィキペディア』にも書いてあるように、宝亀11年(780年)、家持は参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されてるねん。

つまり、その事を忘れようとしているのに、なかなか忘れる事ができへん。 それで「忘れ草」を取り上げ、どうしてもムカつくので「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」というようなヤらしい言葉を持ち出してきやはって、藤原氏を批判したと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ~。。。 第一、将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんにマジで贈った歌やとしたら、「醜の醜草」というような嫌気を催(もよお)すような言葉など絶対に使いよらん!

そうやろか?

めれちゃんかて、「醜の醜草」なんて言葉が入った歌などもらいたくないやろう?

確かに、ロマンチックな気分が消えてしまうかも。。。

【レンゲの独り言】

ですってぇ。。。
確かにそうですよね。
「醜の醜草」なんて言葉が入った歌をもらったら「オマエはブスだ!」と言われているような気がしてきますわ。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も面白い話題が続きます。
あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

メチャ面白い、

ためになる関連記事

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

■ 『バンクーバーの寒中水泳』

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』

『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『夢の中華パン』

『愛の進化論』

『漫画家と平和(2011年3月6日)』

『漫画家の壁(2011年3月10日)』

『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』

『後白河上皇とポルノ』

『真夜中の甘い電話』

『コーヒー茶漬け』

『めれちゃん、ホイ』

『めれちゃん、トップですよ』

『めれちゃんにノーベル賞』

『私の国では火あぶりです』

『ひまわりとピアニスト』

『1リットルのお尻流出』

『異邦人と他人』

『処女の値打ち』

『ハロウィン』

『オッパイとアクセス数』

『めれちゃんとなつみさん』

『トイレのないマンション』

『自殺の名所』

『マジで自殺したいの?』

こんにちはジューンです。

かつてデンマンさんが小泉八雲を紹介していました。

八雲(ラフカディオ・ハーン)は

次のように言っていたのです。

日本女性を道徳的、宗教的信念を持った

愛らしい倫理的創造物である

明治時代の日本の女性は、

そうであったのかもしれません。

でも、最近になって日本の女性も変わったようですね。

一つの事件を取り上げて、そう言うのも

独断過ぎると思いますけれど、

「苫小牧子殺し事件」は象徴的な事件だったと

思いますわ。そして痛ましい事件でした。

母親は自殺をしない代わりに

我が子を殺してしまったのです。

北海道・苫小牧の何処かで、3歳の長男と

1歳の三男の兄弟が鍵の掛かったアパートに

閉じ込められ放置されのですわ。

長男は生米や冷蔵庫のマヨネーズやケチャップで

飢えをしのいだのです。

三男は飢餓と低体温症で亡くなってしまいました。

昼間に自動的に入る暖房で、餓死した弟が

無残に腐食する横で、お兄ちゃんは

必死で飢えを凌ぎ生き抜いて、

ママの帰りを待ち続けたというのです。

でも、ママは新しいボーイフレンドの部屋に住み着いて

1ヶ月以上、子供たちの養育を拒み、

ボーイフレンドと遊んで暮らしていたのです。

もう、死んでいるのではないかと思って、

アパートに戻ると、長男は生きていた。

「何で生きてるの?」

冷血女性のママは長男を見て

まず、そう感じたと言うのです。

人間は、それほどまでに非情に

冷血になれるものでしょうか?!

何度読んでみても、亡くなった子供のために

涙が流れてきますわ。(めそめそ。。。)

「苫小牧子殺し事件」のことは

次の記事の中で引用されています。

『愛の進化論』

ところで、卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

萌える恋歌の裏に

2011年5月7日

 

萌える恋歌の裏に

 


(rengfire.jpg)

萌える恋歌

平城京に住む人びとは、何を自分たちの住む都の代表的な「景」として想起していたのか。 それを知る手がかりが、『万葉集』の卷15にある。 熱烈な恋歌で知られる中臣宅守(なかとみのやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌である。 罪を得て、越前(現在の福井県)に流される途中に宅守が娘子に送った歌に、次のような歌がある。 配流の時期については明確ではないが、738(天平10)年前後のことだと考えられる。


(rajomon1.jpg)

 

あをによし

奈良の大路は

行き良けど

この山道は

行き悪(あ)しけりかり



(todaiji2.jpg)

 

(あをによし: 枕詞)

奈良の大路は

歩きやすいけれど

この山道は

行きづらい

(巻15の3728)

 (中略)


(bigroad.jpg)

望郷の念にかられた宅守の脳裏にあったのは、整然と南北に延びる平城京の直線道路だったのだろう。 地方の官道が整備されていった時代とはいえ、それは都以外には存在し得ない光景だったからである。 だからこそ、流罪となった宅守が望郷の思いのなかで、都大路を想起したのであろう。 (中略) さて、もう一人、遠く鄙(ひな)の地にあって、望郷の思いから都大路に思いを馳せた歌人がいた。 大伴家持(おおとものやかもち)である。 国司として越中に赴任していた家持は、750(天平勝宝2)年の春3月に、次のような歌を残している。

2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首


(yanagi2.jpg)

春の日に

萌(は)れる柳を

取り持ちて

見れば都の

大路し思ほゆ


春の日に

芽吹いた柳を

手に取り持って

見ると都の

大路のことが思い出される

(巻19の4142)

「柳黛」とは、柳の葉を眉に見立てた言い方で、柳の葉を引っ張って奈良の都に思いをはせた歌、というこよになる。 (中略)都大路には柳が街路樹として植えられていたからである。 ために、遠く越中で見た柳が、都大路を連想させたのであろう。 もちろん、家持は、その大路を歩く美男美女にも、思いをはせていたことであろう。 それは、越中に赴任して迎える4度目の春のことであった。


(kyogals.jpg)

1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。 平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。 これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。 つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。 物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社



(merange12.jpg)

デンマンさん。。。あんさんは「萌える恋歌」を持ち出してきよってぇ、またわたしが恋に狂っていると中傷しやはるのォ~?


(kato3.gif)

ん。。。? わてがめれちゃんを中傷する?

そうですう。 あんさんは、わたしが常に恋をしていないと、うつ病に取り付かれると信じ込んでおりますねん。

わてが。。。?

そうですう。 あんさんは、いつだってわたしの『即興の詩』サイトから萌え萌えの詩や短歌を持ち出してきよってぇ、わたしが恋に狂っていると日本語が分かる世界のネット市民の皆様に、さんざ広めてしまいましてん。

わてが。。。?

そないに惚(とぼ)けないでおくれましなア。

わては惚けておらんでぇ~。 何も、めれちゃんを中傷するために、この記事を書き始めたのとちゃうねん。

そないに言うなら、どうして「萌える恋歌」など持ち出してきやはったん?

あのなァ!~、わては、たまたまバンクーバー図書館から借りてきた『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』を読んでいたのやがなァ。 なかなか興味深い本なのや。

それで、その本の中に「萌える恋歌」がありはったん?

そうなのや。

。。。で、わたしを中傷する気持ちがないんやったら、どないなわけで「萌える恋歌」を取り上げはったん?

「萌える恋歌」というタイトルがついておるのやけれど、わては次の箇所を読んで思い当たることがあったのや。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど次の恋の歌は、どないに読んでも恋の歌ですやん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

めれちゃんにとって、上の歌は何が何でも恋の歌としか思えんのか?

そやかてぇ、恋の歌ですやん!?

そやけど、恋の歌にしては、あまりにも激しすぎるねん。 「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」。。。焼き滅ぼしてくれるような、という形容は相思相愛の恋の歌にはそぐわないねん。 むしろ相手を呪うような気持ちがあるように、わてには思えるのやァ。

わたしは、そないに思わへん。 焼き滅ぼしてくれるような、という形容は狭野弟上娘子の相手を思う気持ちの激しさを訴えているねん。 むしろ情熱の激しさを相手に知って欲しいねん。

でもなァ~、もし、わてがこの歌を相愛の相手からもらったとしたら、「焼き滅ぼ」すという語句を見て一瞬ギクリとするでぇ~。。。もし、恋の情熱を訴えるのやったら、次のような歌になるねん。


 

やわ肌の

あつき血汐に

ふれも見で

さびしからずや

道を説く君

 

by 与謝野晶子


『熱き肌』に掲載 
(2010年3月12日)

(yosa10.jpg+yosa22.jpg)

こないな歌が恋の情熱を訴える歌やと、あんさんは言わはるのォ?

そうや。。。これならば、女の身を焦がすような恋の情熱が男の胸にもひしひしと伝わってくるねん。

そうやろか?

そうに決まってるやん。 めれちゃんかて次のような萌え萌えで、ムンムン、ムレムレの歌を詠んでいたやんかア!

くちづけ

&nbap;


(kiss003.gif)

 

罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ

 


(merange52.jpg)

 

by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさんは、わたしの詠んだ歌なら何でも保存しておきはるのォ~?

そうやァ。。。あきまへんか? うししししし。。。

つまり、「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」なんて詠むと、男は身を引いてしまうの?

わてならば、「焼き滅ぼ」すという語句を見てドン引きしてしまうでぇ~。。。ちょっと怖(こわ)すぎるやん。。。

そうやろか?。。。ほんならば、狭野弟上娘子は、どないなつもりで上の歌を詠んだと、あんさんは言わはるのォ~?

そやから本文中にも次のように書いてあるやん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど、歴史的事実ってぇ何やのォ?

そやから、わては、その歴史的事実を突き止めようとしたのやがな。

そいでぇ、突き止めはったん?

そうや。

どないして。。。?

中臣宅守は738(天平10)年前後に罪を得て越前(現在の福井県)に流されたのや。 そやから、その時期の事件を調べたのやがな。

735(天平7)年

平城京にきた新羅からの使いに入国の目的を問うたところ新羅は国の名を改めて王城国といったので帰国させている。


737(天平9)年

遣新羅使が新羅に渡した国書を慣例を無視して受け取りを拒まれた事態が報告され、使節を送ってその理由を問うべきか兵を出して征伐するべきかという意見が奏上された。


738(天平10)年前後

中臣宅守(なかとみのやかもり)が罪を得て越前(現在の福井県)に流される。 配流の時期については明確でない。


740(天平12)年

藤原広嗣(ひろつぐ)の乱。 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。
遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。


744(天平16)年

安積親王が、藤原仲麻呂に暗殺される。


745(天平17)年

反藤原政権の一角を担っていた玄昉が九州に左遷させられた。 藤原仲麻呂は、次第に反藤原派を圧迫してゆく。


746(天平18)年

宮内少輔だった大伴家持は越中の守に任じられ越中国に向かった。


763(天平宝字18)年

藤原良嗣(よしつぐ)の乱。 藤原仲麻呂は息子3人を参議に任じ専横を極めた。
良嗣は冷遇され恨みを抱いた。
そこで佐伯毛人(けみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持と共謀し、藤原仲麻呂を殺そうと企てたという密告があって、みな捕まってしまった。
良嗣は取調べを受けて、首謀者は自分一人だけで他の者は関係ないと主張した。
この後、大伴家持は薩摩守に任じられ(左遷され)都から遠ざけられた。

このようにして調べていって気がついたのやけれど、情熱的な狭野弟上娘子の相手である中臣宅守が関係している事件というのは無いねん。 ところが万葉集の編者と言われる大伴家持が関係している事件があるのやがな。

それが藤原良嗣(よしつぐ)の乱やと、あんさんは言わはるの?

そうやァ。

そやかて、その事件は中臣宅守さんと関係あらへん。

あのなァ~、『万葉集』は実は、単なる文学の歌集やないねん。 政治的な告発の書やねん。

それは、あんさんが勝手に、そう信じているだけやん!

いや。。。わてが勝手にそう信じているだけやないねん。

他に誰が、そう言うてるん?

ちょっと次の文章を読んで欲しいねん。

ある朝、新聞をひろげると、三島由紀夫、阿部公房、石川淳、川端康成の四氏が、
—中国の文化大革命は学問の自由を侵す。
という声明文を発表したと報じていた。
昭和42年のことである。

 (中略)

日中両国の相違点の一つの例として、四氏の声明文に登場していただきたいのである。
—学問芸術を終局的に政治権力の道具とするような思考方法に一致して反対する。
という言葉で、四氏の声明文は結ばれている。
学問芸術、文化を、政治権力と対立するもの、すくなくとも離れたものとみる考え方は、きわめて日本的である。
中国の政治理念は、『礼楽(れいがく)の治』であり、礼楽はすなわち文化のことなのだ。
—郁々乎(いくいくこ)として文なる哉(かな)。
と孔子が言ったのは、周の政治をたたえたのであり、政治すなわち文化であるという前提に立つ。
どちらがどちらを道具にするという関係ではなく、ひきはがせない血肉の関係と認識されていた。

 (中略)

近代でもおびただしい数の文人が処刑されている。
魯迅の愛弟子で、『瘋人(ふうじん)』の著者であった柔石(じゅうせき)が銃殺されたのは1931年で、同年に『少年先鋒』によって文学者・李偉森(りいしん)も銃殺された。 『流亡』や『家信』など農村を舞台にした名作をかいた洪霊菲(こうれいひ)は1933年に北京で逮捕されて処刑された。 『乱弾』の著者である瞿秋白(くしゅうはく)が福建で銃殺されたのは1935年のことである。 終戦の翌年、昆明(こんめい)で暗殺された詩人・聞一多(ぶんいった)は、それが政治的な処刑であることを疑う者はいないだろう。
政治の体系はすなわち文化の体系であり、それだけに作家の活動は政治の核心にかかわり合っている。 どの作家も、命を賭けることぐらいは、ふだんから覚悟のうえなのだ。


(yukoku00.jpg)

東方の隣国の文人たちが、中国の文人をあわれんで声明文を出した。 遺憾ながら、大きな的はずれである。
中国では、文人が政治家であるということでも、文学は政治とつながっている。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


199 – 207ページ
『日本人と中国人』 著者: 陳舜臣
2005年8月20日 第1版第1刷発行
発行所: 株式会社 恒文社

つまり、中国人にとって文学は政治とつながっているとあんさんは言わはるの?

そうやァ。。。

そやけど、狭野弟上娘子さんは中国人ではあらへん。

その通りや。

それやのに、あんさんはどうして中国人のことなどを持ち出してきやはったん?

あのなァ~、よう考えてみィ~なァ。 狭野弟上娘子さんは、これだけ激しい恋の歌を詠みはったのや。 そうであるならば、その熱烈な恋歌の受取人であるはずの中臣宅守の関わっている事件が歴史上の有名な事件であるに違いない。 少なくとも歴史に記録されている事件やと、わては思うたのや。 ところが、どのように調べても中臣宅守の関わっている事件が見あたらへん。 それなのに事件とはまったく関わりがないと思われる狭野弟上娘子さんの熱烈な恋歌だけが万葉集に掲載されてるねん。 めれちゃんは、おかしいと思わへんか?

そうでんなァ~。。。 そう言われてみると確かに腑に落ちないところがありますわ。

そうやろう!?

。。。で、あんさんは、どうなってると思いはったん?

そやから、『万葉集』の編者である大伴家持が詠んだのやがな。

狭野弟上娘子さんの名前を借りて家持さんが詠みはったん?

わては、そう推断したのや。

そやかてぇ、大伴家持さんは中国人ではあらへん。

あのなァ~、この当時の役人や歌人には渡来人の子孫がようけい居るねん。

その根拠は。。。?

次の文章を読んでみィ~なァ。

平城京は人口の三分の一が

外国人の国際都市だった!?


(todaiji2.jpg)

現代は国際化社会とよくいわれるが、奈良時代の都だった平城京は、現代の東京も横浜も神戸もびっくりの国際都市だった。 なんと、人口の三分の一ほどが外国人だったというのだ。

平城京は、100万人の人口をかかえる国際都市だった唐の長安(ちょうあん)を手本につくられ、東西4.3キロメートル、南北4.8キロメートルの大きさがあった。

住民構成に関するはっきりとした資料はないが、平安時代の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、京都の平安京内に本籍を持つ氏のうち、三分の一近くが渡来系の氏族であったことがわかり、平城京の場合でも、その割合は似たようなものだったろうと推定される。

これら渡来人には、外交や貿易などのため、唐や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)からやってきた人々もいれば、もっと古い時代に百済や高句麗からやってきた人々の子孫もいたと思われる。

 (中略)


(kyogals.jpg)

渡来系氏族とはちょっと異なる外国人としては、唐からやってきて日本の役人になった李元環、波斯人(はしじん:ペルシャ人)だったといわれる李蜜翳のほかにも、ペルシャ人がシルクロードと唐を経由して日本に渡来したという話はいろいろ伝えられており、正倉院御物(ぎょぶつ)にペルシャの工芸品が多いのも、ペルシャ人が日本にやってきていたからではないかともいわれている。 また、僧侶たちも、唐はもとより、インドやインドシナ出身の者もいる。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


18 – 19ページ
『歴史で読み解く日本地理』
著者: 河合敦
1999(平成11)年9月8日 第1刷発行
発行所: 東京書籍株式会社


(merange12.jpg)

なるほどねぇ~。。。当時の都の平城京に住んでいる人には渡来人がようけい居りましたのやなァ~!? そやけど、大伴家持さんが中国人だったという確証はありまへんのやろう?


(kato3.gif)

もちろん、わては大伴家持さんが中国人だったと言うつもりはないねん。 そやけど、中国人の影響を強く受けとるねん。

どないなわけで。。。?

大伴家持の家庭教師が山上憶良(やまのうえのおくら)やったからやァ。 この事について、わてはすでに記事を書いておるねん。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)


(yakamo3.jpg)

養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


(kiyomasa.gif)

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)


(okura2.jpg)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。


(sail30.jpg)

702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

歴史家の中には山上憶良が百済系帰化人である可能性も強い、と言っている人もおるくらいなのや。

つまり、大伴家持は唐から帰ってきた山上憶良の影響を受けて当時の藤原氏を告発するために、狭野弟上娘子に成り代わって告発のための歌を詠んだと。。。?

そう言う事になるねん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

判りましたわ。 そやけど、その“歴史的事実”って何やのォ~?

757(天平宝字元)年4月

群臣が集められ皇太子を決める会議が開かれた。
この中で藤原豊成や藤原永手(ながて)は道祖王の兄・塩焼王を推し、反藤原派は舎人親王の子・池田王を推した。
これに対し藤原仲麻呂一人が「天皇がお決めになればよろしいのでは」と発言した。 すると天皇は、大炊王(おおいおう)を立てたいと思う、と述べられた。
実は、大炊王は藤原仲麻呂が自宅で養子のように飼い慣らしていた皇族であった。

つまり、すべて藤原仲麻呂の仕組んだ筋書き通り、聖武天皇の影響を排除して藤原仲麻呂の言いなりになる皇太子を誕生させたのである。


757(天平宝字元)年6月16日

藤原仲麻呂は橘奈良麻呂ら、反藤原派の主だった者を左遷した。


764(天平宝字8)年

藤原永手は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位・大納言に叙任、勲二等を叙勲される。
その後、道鏡政権が成立し右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、藤原永手は薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。


766(天平神護2)年

藤原永手は右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。


770(神護景雲4)年

称徳天皇崩御。 これに伴う皇嗣問題では、藤原永手は天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。
なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文浄三・大市を推した吉備真備に対して、藤原永手は式家の藤原良継・百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。
また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。
なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、藤原永手は井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている。


771(宝亀2)年

藤原永手が病により薨去。享年58。
即日太政大臣の官職を贈られた。

つまり、藤原氏の専横を後代の日本人に知ってもらおうとして大伴家持が狭野弟上娘子に成り代わって詠んだと、あんさんは言わはるの?

そうや。 大伴家持の父・旅人(たびと)は729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」では涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならへんかった。 家持も、藤原良嗣(よしつぐ)の乱では、藤原氏に疑われて左遷されたのやァ。 彼は薩摩守に任じられて都から遠ざけられてしもうた。 要するに親子2代の屈辱が骨身に沁みてるねん。 そやから、次の歌には、藤原良嗣の乱で受けた屈辱と、藤原氏に対する専横の恨みが滲(にじ)み出ておるねん。


(yamayaki.jpg)

 

君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

つまり、「長手」とは「藤原永手(ながて)」のことやの?

そういうことになるわなァ~。

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の恋歌の解釈は、なんだかデンマンさんのこじつけのようにも思えますけれど、藤原氏の専横があったことは歴史的に見て誰も疑いをさしはさめません。

あなただって平安時代の歴史を読めばわかるでしょう!
あの有名な藤原道長が藤原氏でない者は人にあらずと言ったのですから。。。
実は、藤原氏の世の中って大変な世の中だったのですわよねぇ。
デンマンさんが書いた次の記事を読めば良く分かりますわ。

『平安時代は決して平安ではなかった』

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


(byebye.gif)

メチャ面白い、

ためになる関連記事



(linger49.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(vansnow2.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に別荘を持つことを

夢見る小百合さんの物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


(june888.jpg)

■ 『バンクーバーの寒中水泳』

『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』


(hara16.jpg)

『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『夢の中華パン』

『愛の進化論』

『漫画家と平和(2011年3月6日)』

『漫画家の壁(2011年3月10日)』

『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』


(eiffel15.jpg)

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』


(chiwawa5.gif)

こんにちはジューンです。

藤原氏の時代も大変な世の中だったようですが、

ナチスの時代も酷かったのですよね。

その時代の状況を最もよく伝えているのは

なんと言っても『アンネの日記』ではないでしょうか?

感動的な作品ですよね?

この作品を読めば、

ナチズムがどういうものであったかが

伝わってきますよね。

あなたは読んだことがありますか?


(anne12.jpg)

いつでも、こんな風に写ってたらいいなぁ。

私のお気に入りの写真ですよ。

これだったらハリウッドも夢じゃないと思う。

1942年10月10日 アンネ・フランク

【ジューン意訳】

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


(karuswan3.jpg)


(kissx.gif)