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なぜ唐に留まったの?

2013年7月28日

   
 
なぜ唐に留まったの?


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高向漢人玄理 

(たかむくのあやひとげんり)


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608(推古16)年9月、小野妹子に従って、学問僧の旻(みん)や南渕漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)らと共に、学生(がくしょう)として隋に派遣され、640(舒明12)年10月、請安と共に、新羅を経て帰国した。
実に32年に及ぶ中国滞在であった。

645(大化元)年、乙巳の変が起こると、玄理は旻と共に国博士(くにのはかせ)に抜擢された。
国博士は中大兄(後の天智天皇)に直属する政治顧問である。
新知識を学び、隋の滅亡、唐の隆盛を目のあたりに体験した玄理の経歴に照らすなら、うってつけの任といえる。
以後、改新政府の内外の課題に対処すべく、玄理の活躍が始まる。

唐の高句麗侵攻に伴う朝鮮半島の情勢に対応し、646年、新羅にわたり、金春秋(きんしゅんじゅう: 後の武烈王)の来日を実現した。
また、649(大化5)年には、旻と共に新官制の案を起草したとみられている。


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654(白雉5)年、遣唐使の長官となり、唐の都長安に至った。
翌年、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


78ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改定11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社


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デンマンさん。。。 どうして高向漢人玄理を取り上げたのでござ~♪~ますか?


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あのねぇ~、僕はバンクーバー市立図書館から借りてきた『読める年表・日本史』という日本史の本を読んでいたのですよ。 1、231ページもある分厚い本で持ち歩くのにもちょっと重いのですよ。 量(はか)ったわけではないけれど2キロから3キロぐらいありますよ。

図書館のパソコンで記事を書くために、いちいちマンションから往復1時間かけて歩いてゆくのに、その本も持ってゆくのですか?

そうですよ。 持ち運ぶのも上の引用箇所を書くための一度限りですからね。 毎日持ち運ぶわけではないから、それほど苦にはならないのだけれど、寝ながら読むにはマジで不便な本ですよ。

デンマンさんは本を寝ながら読むのでござ~ますか?

寝ながら読むのが僕には一番落ち着いて読めるのですよ。

。。。んで、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した事実がデンマンさんは気になったのでござ~ますか?

そうですよ。。。僕はなぜかこの事実にずいぶんと考えさせられてしまったのですよ。

どうして。。。?

あのねぇ~、僕も海外での生活が20年以上にもなる。 その理由の一つには日本での暮らしが快適ではなかった。

つまり、日本では貧乏していて食うにも困るような青年時代をデンマンさんは送っっていたのでござ~ますか? それで海外に出れば暮らしが豊かになると。。。?

やだなあああァ~。。。 僕が青年時代を過ごしたのは日本が経済大国になりつつある、まさに黄金時代とも言えるような輝かしい時期だったのですよ。

つまり、貧乏して乞食のような生活をしていたのではないと言いたいのでござ~ますか?

もちろんですよ。 僕は経済的な問題を言っているのではなくて、政治的、思想的な社会環境のことを言っているのですよ。

要するに、当時の日本の政治的、思想的社会にあって、デンマンさんは御自分が異邦人であるような。。。 そのような疎外感を感じていて。。。 どうにも居心地が悪くて日本を飛び出したというわけでござ~ますか?

まあ。。。 簡単に言えばそういう漠然とした気持ちがあったのですよ。

それと高向漢人玄理さんと、どういう関係があるのでござ~ますか?

あのねぇ~、玄理さんの立場になって考えてみてください。 当時の政治の中枢にあって、天智天皇を助ける政治顧問なのですよ。 今で言えば、主席首相補佐官のような地位にあるのですよ。 その人が、今で言えばアメリカ政治・文化調査団の団長さんになって500人ぐらいのメンバーを引率してアメリカを訪問し1ヶ月ぐらいの期間いろいろと各地を回って調査してから、いざ帰国する時になって、帰国を断念してアメリカに留まってしまう。 そしてアメリカで亡くなって帰らぬ人となる。 現在ならば、そういうことです。 とても考えられないことですよ。

それを 655(白雉6)年に、実際にやってしまった人が高向漢人玄理さんだと言うわけですか?

その通りですよ。

なぜでござ~ますか?

ほらっ。。。 卑弥子さんだって不思議に思うでしょう?

そうですわ。。。 考えてみれば日本の主席首相補佐官がアメリカに亡命したようなものですわね?

その通りですよ。

。。。んで、デンマンさんは、いろいろ調べてみて結論が出たのでござ~ますか?

大体、見当がついたのですよ。

もったいぶらないで、その結論とやらを話してくださいましなァ。

あのねぇ~、玄理さんは天智天皇が放つ刺客に殺されるかもしれないと心配して唐に留まったと思うのですよ。

まさかァ~。。。 主席首相補佐官がどうして首相の放つ刺客に殺されねばならないのですか?

かつて小泉純一郎首相が刺客を放ったことがあるでしょう!

それは選挙の時のことですわ。 実際に刺客を放って選挙の対抗相手を殺そうとしたわけではござ~ませんわア!

でもねぇ~、655(白雉6)年当時は、実際に刺客を放って対抗相手、もしくは邪魔者は殺したのですよ。 592年には蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を刺客に雇って崇峻天皇を実際に暗殺してますからね。

マジで。。。? でも、玄理さんは、どうして自分が天智天皇に殺されるかもしれないと思ったのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は、似たような事件があったのですよ。 かつて僕が書いた『定慧の暗殺事件』を読んでみてください。

定慧の暗殺
 

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定慧は藤原鎌足の長男です。上の写真で大きな人がもちろん、鎌足です。
小さい方の右が定慧、左が不比等です。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
わずか11歳の時の事でした。

遣唐使はまもなく帰ってきますが、定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。
彼は、唐を発っても、途中百済に立ち寄り、そこに長いこと滞在したといわれています。
少年にして、懐かしい故郷から千里も離れたところにいるわけですから、彼の心のうちは、どんなだったでしょうか?

定慧がまだ百済に滞在していた654年に彼の実の父親である孝徳天皇が亡くなります。
『定慧出生の秘密』

病死となっていますが、私は、中大兄皇子の謀略によって殺されたと見ています。
孝徳帝の死には謎がたくさんあります。

すでに述べたとおり、孝徳帝は、大化の改新の8年後の653年に、中大兄皇子と遷都問題で対立して、当時の都・難波に置き去りにされています。
この事件については『軽皇子と中大兄皇子』で説明しています。
この時、中大兄皇子は叔父を殺害するつもりだったと思います。
ところが鎌足に止められたのでしょう。やめています。

孝徳帝は、甥の中大兄皇子とは全く正反対な性格で、決断力も、勇気も乏しいし、政治的手腕にも見るべきものがありません。
いわば負け犬になるために生まれてきたような人です。
しかし、甥と比べて一つだけ決定的に秀でたものを持っています。
それは、人を見る目があって、人間的な温かみを持っているということです。
もしくは、人情の機微に通じていると言い換えることができるかと思います。このことについては、『藤原鎌足と軽皇子』で説明しています。

もし、軽皇子が人としての良さを何一つ持っていなかったとしたら、鎌足から、とっくの昔に見放されていたでしょう。
事実、鎌足は、蘇我入鹿を暗殺するとき、初めは、孝徳帝(軽皇子)と一緒にやろうとしますが、決断力と勇気に欠けているのを見抜いて、彼に見切りをつけて、中大兄皇子と組んで実行しました。
詳しいことは『藤原鎌足と六韜』で説明しています。

しかしその一方で、鎌足は、この軽皇子の使い道を知っており、決して見捨てませんでした。
中大兄皇子には、決断力、勇気、政治的手腕というように、見るべきものがあります。
しかし、彼の性格的な欠陥から、敵も多かったようです。
そのような理由から、中大兄皇子が皇位につくことを良く思わずに、反対するものが多かったのです。
こういう時に、まさに、お飾り天皇に、もってこいなのが軽皇子と言うわけです。
彼は人情の機微を知り尽くしていますから、人事において、その才覚を発揮できます。
不満を聞いたり、人事のごたごたをまとめたり、そのような役にはぴったりの人だったようです。

孝徳帝は、人並み以上の権力欲があるとは思われませんが、しかし、いつまでもお飾りでいることに満足しているとも、思えません。
おそらく、アヒルの水かきではありませんが、甥に隠れて、見えないところで人脈を形成していたことでしょう。
この辺のやり方は、軽皇子当時、鎌足に寵妃・小足媛をあてがったやり方で見るとおり、実にうまい。
しかし、これが、中大兄皇子には我慢ならなかったようです。

旧都で、間人(はしひと)皇后にも家臣にも見放された状態で、孤独のうちに病死したことになっています。
もちろん、そんな単純なことではなかったはずです。
この時、おそらく誰もが、中大兄皇子の即位を予測したことでしょう。
しかし、実際には、孝徳帝が病死したのではなく、殺害されていますから、中大兄皇子も考えたようです。
そこで即位すると、邪魔者を消して皇位についたと見られはしないか?
孝徳帝の謀殺と中大兄皇子の関係が見え見えになってしまいます。

そこで、皇極天皇であった彼の母親を説得して、もう一度天皇になってもらったわけです。
これが斉明天皇です。
したがって、この時もし中大兄皇子が皇位についていたら、鎌足は、定慧を百済から呼び寄せることができました。
しかし、そうなっていない以上、孝徳帝の息子を日本へ呼び戻すわけには行きません。
それこそ新たな政争の種をまくことになります。
それどころか、中大兄皇子の猜疑の目が鎌足に向けられないとも限りません。
定慧を還俗させて新たな政権を打ち立てるのではないかと。。。

そのような事情で、定慧は更に百済で足止めを喰らいます。
しかし、もちろんその間、無為に過ごしていたわけではありません。
では一体何をしていたのか?定慧が、高句麗でなく、また新羅でもなく、百済に滞在していたというには訳があります。
鎌足の父親の御食子(みけこ)が百済からやって来たからです。
詳しいことは『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』で説明しています。
したがって、定慧は、御食子の実家の世話になっていたわけです。

定慧の情報収集活動

定慧は出家して坊さんになっていました。
この当時の坊さんというのは、現在の坊さんと違って、権力を握る人たちと交際を持つ機会に恵まれています。
仏教を国教にするという時代です。
仏教を政治の手段として利用していたという事実を忘れることができません。

したがって、坊さんになると情報をつかみやすいわけです。
端的に言ってしまえば、頭を丸めたスパイです。
この良い例が、聖徳太子の若い頃からの個人教授を勤めた僧の慧慈(えじ)です。
高句麗からやってきましたが、後に、呼び戻されて、祖国へ帰ってゆきます。
もちろ時の高句麗王に、日本情勢をこと細かく報告するためです。
この人については『朝鮮三国の緊張関係―聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)』で説明しています。

この当時の朝鮮半島は、非常な緊張状態にありました。
663年に百済が滅びます。その5年後には高句麗も滅びます。
そのようなわけで、定慧はのんびりと、百済で息抜きしていたというわけではありません。
鎌足とは彼の手下を通じて、連絡を取っていたでしょう。
したがって、いろいろな面で御食子の実家の援助を受けながら、できうる限りのツテを頼って情報を収集していたはずです。
得られた情報は、手下を通じて、鎌足に送られていたでしょう。
これらの情報は、やがて始まる、本格的な戦争のための資料として、鎌足と中大兄皇子の元へ達したはずです。

やがて、日本と百済の連盟軍は、唐と新羅の連合軍と白村江で戦闘状態に突入します。
しかし、百済と日本の水軍は致命的な痛手を負って敗れます。
そして百済は滅びます。
パニック状態になった敗戦国からは、貴族から庶民にいたるまで、ぞくぞくと難民が日本へやってきます。
百済朝廷の実力者たちも、天智帝を頼りにやってきて、彼の回りに、新百済派と呼ばれる派閥が形成されてゆきます。
天智天皇は、背水の陣を引きます。
この次は、唐と新羅の連合軍が日本へ攻めてくるという想定の元に、大防衛網計画を立てます。

663年の白村江の戦いで敗れたことは、天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手でした。
先ず人望を失いました。これとは反対に、多くの人が、大海人皇子になびいてゆきます。
この当時、大海人皇子は、新羅派の統領として天智帝と対立していました。
百済に援軍を送ることなど、もともと反対でした。

白村江で敗れたとはいえ、当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという一大ニュースです。
おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。
それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

天智帝は、国を滅ぼされて続々と難民として日本へやってきた百済人に援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。


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天智王朝に対する不満

天智天皇は大きな間違いを犯します。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
そのために、何十万人の人々が動員されました。
天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。
「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」大多数の人は理解に苦しんだと思います。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。 これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です。
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです、このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。つまり自費で帰国しなければなりません。
したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

新羅派(天武派)の暗躍

こういう状況の中で、新羅派が暗躍し始めます。
天智天皇はすでに豪族の支持はもちろん、民衆の支持さえ失っています。
こういう状況の中で何も起こらなかったなら、起こらないほうが不思議でしょう?

ところで、新羅派と言われる人たちが、なぜ反天智運動を展開する必要があるのか?
それは、伝統的に中国王朝がとってきた『近攻遠交』と呼ばれる戦略に関係しています。
これは、どういうものかというと、読んで字のごとく、近い国を攻めるために、遠い国と親しく交際し、この近い国を挟み撃ちにして攻略する、と言うものです。
唐・新羅連合と言う結びつきは決して永続的なものではありませんでした。
お互いが相手を利用すすために、一時的に結束しているに過ぎません。
どちらかが、相手の利用価値を認めなくなった時が、縁の切れ目です。
百済が滅び、高句麗が滅びます。
次は、自分たちが唐に飲み込まれてしまうということを、新羅人はよく知っています。
縁の切れ目が見え見えです。

そういうわけですから、新羅人は文字通り背水の陣をしきます。背後は海です。しかし海の向こうには日本がある。
今度は、新羅を攻めるために、唐が『近攻遠交』戦略を採るとしたら日本と組む以外にありません。
もし先を越されでもしたら、新羅の命は風前の灯となります。
したがって、新羅人は、もう何とかして、日本に親新羅派の政権を打ち立てなければなりません。
そうでもしないと、唐が必ず日本と組んで自分たちを滅ぼします。
すでに、述べたように、天智と天武は百済派・新羅派に別れて、対立している状態でした。
このようなことをスパイ網を通して知っている唐は、この当時しきりに使者を送って、天智政権を懐柔しようとしています。
しかも悪いことに、天智帝は、すでに述べたように、豪族にも、民衆からも見放されています。
したがって、四面楚歌の天智政権は、唐と仲良くしてゆく以外にありません。

新百済派(旧百済朝廷遺臣)と

旧百済派(鎌足派)の対立

定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。
しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。
しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。

上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。
これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。
それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。
しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。
「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」


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定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。
そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。
天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。
しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。
「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」

それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。

定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。

懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。

この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。


『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)

つまり、玄理さんも唐と日本が連合することを勧めたので天智帝や新百済派の人たちに憎まれて暗殺されるかもしれないと思ったのでござ~ますか?

いや。。。 それだけじゃない。 実は、天智帝の首席補佐官の立場にいたので知りすぎていたのですよ。

何を出ござ~ますか?

645年9月12日に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が謀反を企てているということで殺されたのですよ。

マジで。。。?

あのねぇ~、古人大兄皇子は中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄なのですよ。 蘇我馬子の娘である法提郎媛(ほていのいらつめ)と舒明天皇との間に生まれた。 だから有力な皇位継承候補だった。 ところが「乙巳の変」で蘇我入鹿と、その父親の蘇我蝦夷が死んで後ろ盾を失ってしまった。 だから天皇になる野望を捨てて古人大兄皇子は出家して吉野に隠棲していたのです。

それなのに中大兄皇子は謀反を企てているということで古人大兄皇子を死に追いやったのでござ~ますか?

その通りですよ。 中大兄皇子の反対派が古人大兄皇子を担(かつ)ぎ出そうという動きもあった。 玄理さんは天智帝の首席補佐官だから、そういう事も知る立場にあった。 また、649年3月25日には蘇我石川麻呂が中大兄皇子の陰謀にかかって自殺に追いやられたのですよ。

事件の真相を玄理さんは知っていたのでござ~ますか?

もちろんです。 その内、653年6月に玄理さんと同じように国博士として政治顧問に任命されていた僧の旻(みん)さんが亡くなった。

刺客に毒殺されたのでござ~ますか?

いや。。。 病死したことになっている。 孝徳天皇は旻(みん)さんを厚く信頼し、病床に就いた時には、わざわざ見舞に行ったというのですよ。 そして、その孝徳天皇は654年の10月10日に亡くなっているのですよ。

中大兄皇子の謀略によって孝徳天皇は殺されたとデンマンさんは上に引用した記事の中で書いていましたわね。

僕はそう見ているのですよ。

つまり、中大兄皇子は権力欲と猜疑心の塊なのでござ~ますわね!?

そう思われても仕方がないのですよ。 それで、知りすぎている玄理さんは、もしかすると。。。と心配になってきたわけですよ。 同僚の旻(みん)さんは亡くなってしまった。 知りすぎている者は自分一人になってしまったわけですよ。 もしかすると自分もやられてしまうのではないか? そういう時に。。。654年に遣唐使の話が持ち上がったわけですよ。

それで遣唐使の長官になって唐に逃げたというわけでござ~ますか?

そうですよ。 本来ならば、天智帝の首席補佐官の立場にあるのだから、退職してからも悠々自適な生活が待っているはずなのですよ。 でもねぇ、天智帝の権力欲と猜疑心を考えると、玄理さんは日本に戻るよりも唐に留まる事を選んだようです。 日本での悠々自適な生活も、命あってのものだねですからね。。。


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【小百合の独り言】


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ですってぇ~。。。
どうですか?
天智天皇は権力欲と猜疑心の塊だと思いますか?
人間的には、あまり好まれなかったようですわね。

ええっ。。。 どうしてかってぇ~。。。?

額田王(ぬかたのおおきみ)は後に天武天皇となる大海人皇子(おおあまのおうじ)の妻でした。
十市皇女を生んでから、大海人皇子の兄である中大兄皇子の妻になったと言われています。

その後、額田王と大海人皇子は次のような歌のやり取りをしているのですわ。

•茜指す 紫野行き 標野行き 
 野守は見ずや 君が袖振る
 (巻1・20・額田王)

•紫の 匂へる妹を 憎くあらば
 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
 (巻1・21・大海人皇子)

つまり、人妻になった後でも 額田王は大海人皇子に心惹かれている様子なのですわよね。
要するに、万葉集の編者が 天智天皇は権力欲と猜疑心の塊だと言わせているようなものですわ。
そう思いませんか?

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蝦夷って悪い意味?

2012年11月17日

 
  
蝦夷って悪い意味?
 
 

 
 (蘇我入鹿の暗殺の場面)

平和を愛したアイヌ人

原日本人であるアイヌ人が好戦的でなかった。
これが和の精神として、理想主義の聖徳太子に引き継がれ、やがて、この波乱の時期を経て、平安時代へと持ち込まれてゆくわけです。
しかし、いわゆる平安時代になって、蘇我入鹿の暗殺に見るような血なまぐさい事件は少なくなるわけですが、それ以前のこの百年間という時期は、どう見ても、「日本的」ではありません。
どちらかといえば、大陸的、もっと正確に言うならば、中国的なのです。

しかし、よく考えてみれば、当然なことです。
この一連の事件のシナリオ・ライターは誰かといえば、中臣鎌足です。

中央が中臣鎌足 (藤原鎌足)

向かって右が長男の定慧、左が次男の藤原不比等

彼の生まれが、百済でないとしても、大陸の文化や六韜の強い影響を受けて、考え方や、やり方がすっかり大陸的になっているわけです。
従って、この一連の事件が、日本国内でなく、唐の長安のあたりで起こったとすると、ああそうか、というように自然と納得できます。
しかし、長安からは程遠い、見る人を威圧するような、町を取り囲む城壁もない、まだ草深い、今の感覚からすれば、片田舎で、このような血なまぐさい事件が起きている。
これは、異常としか思えません。

この百年の時期に起きた事件を見ると、戦争でもないのに、天皇は殺されるは、皇子は暗殺されるは、とにかく血のにおいと死臭がプンプンとただよっているわけです。

もう一つ見逃しにすることができないのは、この事件に登場する人物のことです。
皇極天皇も含めて、この事件に出てくる、すべての人物は、何代かさかのぼると、みな大陸や、朝鮮半島からやってきた人々とつながりを持っています。

ということは、感覚的に言って、この人たちは、原日本人的な考え方にどっぷりと、つかっていたというよりは、彼らの考え方や生活観が、どちらかといえば、渡来人的であったわけです。
したがって、蘇我入鹿の暗殺に見るような血なまぐさい事件は、彼らの耳目には、それほどめずらしいことではありません。
大陸や、朝鮮半島での、戦乱や悲惨な状況、あるいは難民となって逃げてきたその惨めな逃避行のことなど、渡来人の親戚や知人から話を聞いて知っています。
したがって、そのような血なまぐさい事件を、あまり抵抗なく実行してしまうような素地が出来上がっていたということが言えます。

この当時、原日本人と呼ばれるアイヌ人は、現在の福島県のあたりまで追いやられていました。
したがって、都にいる人々は、言葉の響きはよくありませんが、アイヌ人と渡来人の混血児の子孫です。
しかも半分以上は渡来人の血です。
したがって、現在日本に住んでいるほとんどの日本人も、多かれ、少なかれ、このような人たちの血を受け継いでいます。もちろん私もそのうちの一人です。
すでに書いたように、95パーセント以上が渡来人の血でしょう。

現在アイヌ人だと本人も、また日本政府も認めている人たちの数は、1986年に行われた政府の調査で約25,000人ということになっています。
ほとんどのアイヌ人たちは北海道の阿寒湖のあたりに住んでいるそうです。
しかし、Cultural Survivalという国際的な組織の推定では、200,000という数字を挙げています。
この程度の数字の違いが出てきても仕方がないでしょう。

アイヌ人とは何か?
日本人とは何か?という定義は非常にむずかしいからです。
現在、その25,000人の中に数えられている人たちでも、特に、子供たちの多くは、もうアイヌ語が話せないそうです。
この子供たちを写真で見る限り、日本人とまったく区別がつきません。
したがって、親から言われなければ、本人たちもアイヌ人だという自覚がないわけです。
そういうわけで、アイヌ人であっても、日本人だと信じている人たちが、たくさん居ます。
なぜかというと、アイヌ人だと言うと、差別されるので、親が黙っているそうです。

しかしこの差別の問題は、何も、つい最近になってから始まったというわけではありません。
すでにもう、聖徳太子の頃から差別がありました。
なぜ、そういうことが言えるのか?と疑問に思われるかもしれません。
しかし、今まで書いてきたことの中にちゃんと証拠があります。
それは、入鹿の父親の名前に現れています。
そうです。蝦夷という名前です。

蝦夷というのは、簡単に言ってしまえば、アイヌ人のことです。
でも、蘇我蝦夷はアイヌ人ではありません。
蘇我氏というのは、高句麗から渡来した氏族です。
そのことは、このページ(蘇我氏は高句麗からやってきた)で説明しています。

それなのにどうして、蘇我馬子は、自分の息子に、蝦夷という名前をつけたのでしょう?

そもそも、蝦夷とは何?

蝦夷とは、大和朝廷の勢力圏の外にある東日本・北日本の異文化の人達に対する、支配者たちの呼び方でした。

日本書紀に、斎明天皇五年(659)、「道奥(陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」とあって、唐に夷人を献上した、と解釈する学者も居ます。
このエミシについて三種があり、遠いのが「都加留(つがる)」、次が「アラ蝦夷(あらえびす)」、もっとも近いのが「熟蝦夷(にぎえびす)」と言われていました。

日本の律令国家の形成期にあたり、東北南部までが古代国家の版図に編入され、北東北の人々を区別して「蝦夷」と書き表すようになったようです。
以後、エミシは「王化に従わない、荒ぶれる民」「礼儀を知らない野蛮人」であり、天皇の威徳をもって、臣隷せしむべき対象となったわけです。

「礼儀を知らない野蛮人」という言い方を見ても分かるとおり、決して尊敬するような呼び方ではありません。
蔑称であり、現在なら、さしずめ、差別用語と呼ぶのにふさわしい言葉です。

日本書紀には更に、こうも書かれています。


  • 東の国の人々は性質が凶暴で乱暴ばかりしている。
  • 国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。
  • 山には悪い神、野には悪い鬼が住んで、道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。
  • 中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。
  • 冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。
  • 獣の皮を着て動物の血を好み、兄弟は中が悪くて争ってばかりいる。
  • 山を登るときは鳥のように速く、獣のように野原を駈けまわっている。
  • 人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。
  • 自分の身を守ったり、仕返しをするためいつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。
  • 仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。
  • 征伐するため兵士を差し向けると、草に隠れたり、山に逃げたりして、なかなか討つことができない。

要するに、良いことは一つも書かれていません。
こういう書き方には注意する必要があります。
大体、どの民族について見ても、全部が全部悪いとか、全部が全部良いとか、そういうことはありえません。
悪いところがあれば、良いところもあるわけです。

では、どうしてこういう書き方をするのか?
これは太平洋戦争中の、鬼畜米英的なスローガンと同じことだと考えればいいわけです。
戦時中、当時の小学校の先生は、子供たちに、アメリカ人や英国人は畜生だ!鬼だ!と教え込んだわけです。
そういう教育をほどこすことによって、男の子を日本帝国陸軍や海軍の兵隊さんに仕立て上げ、女の子は軍国の母になるようにしつけていったわけです。
つまり、上の日本書紀の記述は蝦夷討伐を正当化しているわけです。

いずれにしても、上の記述を読めば、誰もが蝦夷というのは悪い奴らだ、という印象を持つことでしょう。
それにもかかわらず、入鹿の父親の名前は、間違いなく、蝦夷です。

どうして、蘇我馬子は、

自分の息子に、

蝦夷という名前をつけたの?

ここで、日本書紀を編纂したのが誰かをもう一度確認する必要があります。
もちろん、天武天皇が音頭をとったということになっていますが、実際に編集の責任者として編纂に当たったのは藤原氏です。
おそらく、アイデアそのものを、鎌足が天武天皇に吹き込んだに違いありません。

上の、蝦夷についての記述を見れば分かるとおり、「蝦夷討伐を正当化するためならば、手段を選ぶな。なんでもいいから、蝦夷を悪者にしたてあげろ!」そういう六韜の精神が、この記述の裏に読み取れます。
六韜がどういう書物か、もし、よく分からないのでしたら、このぺージ(マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)をごらんください。
新しいウィンドーが開きます。

裏を返せば、蝦夷と呼ばれる人たちは、日本書紀が記述しているほど、悪い人たちではなかったということです。
このことはすでに何度か触れましたが、アイヌ人というのは、もともと好戦的ではなかった民族です。
戦乱を避けて、大陸の端までたどり着いたわけですから、もともと、町を、大陸的な、分厚い城壁で囲むというような習慣を持たなかった民族です。

したがって、この人たちが、万里の長城を見たとしたら、驚くよりも、あきれ返ってしまうでしょう。
「何であんな長い無用の長物を作ったのだろうか」、と。。。
このアイヌ人というのは、とにかく、戦乱や、争いというものを非常に嫌っていた。
だから、しいて戦いを選ぶよりも、争いのない土地へ移って行くという方法を採ったわけです。
しかも、大きな集団を作らずに、せいぜい村というような単位で生活していたようです。
だから、中国の町に見るように、馬鹿でかい城壁などというものを作る気持ちなど、ハナからありません。
それよりも、「みんな仲良くして、お互いに干渉しないで暮らそうじゃないか」、というような人たちです。

このような気質の民族であるがために、現在見るように、25,000人という少数民族になってしまったわけです。
アイヌ人のうちで順応性のある人たちは、もう遠い昔に、日本人に同化していました。
そういうわけで、昔ながらの生活様式に固執する人は、だんだんと少なくなってゆく。
信じられないかもしれませんが、アイヌ人は話し言葉を持っていても、書き言葉を持ちません。
ユーカラ(yukar)というのをご存知でしょうか?
アイヌに伝わる長編の民族叙事詩です。
神々や英雄に関する物語で、これに簡単な旋律をつけて歌うものです。
しかし、このようなユーカラが、広く日本人に知られるようになったのは、明治になってからのことです。
日本へやってきた、アメリカ人や、ヨーロッパ人が、北海道へ行き、日本人とは違う民族が生活していることに気づいて、アイヌの文化を研究するようになったのが始まりです。

したがって、アイヌ人は、明治になってから日本語や、英語を使ってユーカラを書き残すようになったわけです。
しかし本当に、アイヌ人の文化や人権が認められるようになったのは、もうごく最近のことです。
Barbara Aoki Poissonという日系アメリカ人の書いた “First Peoples The Ainu of Japan” を読むと、1979年には、アイヌ語を話せる人が、たったの10人程度だったそうです。
やっと、アイヌ文化に興味を持つ人が現れてアイヌ語がまた息を吹き返してきたということが書かれています。
1994年に初めてアイヌ人の中から国会議員がでました。
アイヌ進歩法ができたのが1997年です。

遅まきながら、日本政府がやっと腰を上げて、アイヌ人を、またアイヌ文化を保護しようとし始めたわけです。
したがって、これまで、アイヌ人がいかに不当な扱いをされてきたかということが、よく分かると思います。
歴史に残る、その最古の具体例が、上に書いた、日本書紀の記述です。
しかし、大和朝廷の不当な扱いに対して、立ち上がったアイヌ人がいないわけではなかったのです。

1200年前の古代東北に、大和朝廷から獣と蔑まれ、忌み嫌われた蝦夷(エミシ)の族長、アテルイ(阿弓流為)がその人です。


(aterui.gif)

紀元8世紀、東北地方に自然と共存し平和に暮らす狩猟採集民がいました。
大和朝廷は彼らを「蝦夷」と蔑称で呼び、豊かな黄金を求め百数十年間にわたって侵略征服を企てたわけです。

エミシ最大の拠点であったイサワ(胆沢=岩手県水沢市周辺)の族長アテルイは、卓越した戦略と勇気で12年間その攻撃を食い止め続けました。
801年、和睦を前提に殺さぬとの約束を信じて征夷大将軍、坂上田村麻呂と共に京へ向かいます。


(tamuramaro.gif)

 坂上田村麻呂

しかし当然のことながら、朝廷を牛耳っているのは六韜をバイブルとしている藤原氏です。
とにかく、この当時は、うそを言ったり、人をあざむくのは、むしろあたりまえでした。
現代人のように、それを嘘だとか、欺くとか、そのような悪い意味では受け止めていなかったと思います。 

いづれにしても、暗殺や陰謀が渦を巻いているような状況です。
殺すか殺されるかという殺伐とした100年間でした。
天皇といえども殺される時代です。
古事記と日本書紀を考えてみてください。
ちょっと読んでみればわかりますが、今の感覚で読めば、嘘の塊のような歴史書です。(ちょっと言い過ぎたかもしれません)

藤原氏がアテルイを恐れるあまり約束を反故にしたと書いている歴史家がいますが、そんなことはありません。
六韜を読めば分かるように、始めから殺すつもりで坂上田村麻呂に命令を出していたはずです。
おそらく、坂上将軍はその命令の真意を疑わなかったでしょう。
「敵を欺く前に、先ず味方を欺け」これが六韜の極意ですから。
そういうわけで、朝廷は、アテルイを京の都から外れた河内(大阪府枚方市)へ連れ出して、まんまと斬首してしまったわけです。
蘇我入鹿の首は、御簾に喰らいついて離れようとしませんでしたが、アテルイの首は空を飛び、宙を走って故郷に向かったということです。
彼の無念な気持ちが分かるというものです。

それで蝦夷の名前の方は

どうなりました?

そうです。それを語るのがアテルイを引き合いに出した目的なんです。
ページが長くなりましたので、次のページに譲りたいと思います。

『なぜ、蝦夷という名前なの?』


『平和を愛したアイヌ人』より
(2003年7月17日)


デンマンさん。。。どうして急に蝦夷を取り上げたのでござ~♪~ますか?

実は、上の記事にコメントをもらったのですよ。

どのような。。。?

次のようなコメントです。

From: servicemail@bravenet.com
To: barclay1720@aol.com
Date: Thu, Nov 15, 2012 1:01 am

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Nov 15 2012 / 01:01:34
userid = barclay1720
Your_Name =
Your_Email_Address =

Comment:

蝦夷なんて名前を親がつけるわけないという思いがかいけつされました。
もっと早くここを見ればよかった。
今度本を買ってよく読みます。

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

たったこれだけのコメントでござ~ますか?

あのねぇ~、僕の記事にはコメントがつかないのですよ。

デンマンさんが口汚く反論するからですわよう。 だから、その事を知っている人は敬遠してしまうのですわ。

とにかく、コメントを貰うのは珍しいことなので僕としては感謝の気持ちを込めて、こうして取り上げているわけです。 

ただそれだけの理由でコメントを紹介したのですか?

いや。。。実は、IPアドレスなどを調べながら、いろいろな事実が解(わか)ったのですよう。

どのような。。。?

コメントを書いてくれた読者のIPアドレスを調べたら次のようなことが解ったのです。

IPアドレス: 219.102.88.***

ホスト名:
pl***.nas934.p-gifu.nttpc.ne.jp

接続回線: 光
都道府県: 岐阜県

プロバイダー

ネットワーク名: INFOSPHERE
組織名: InfoSphere (株式会社NTTPCコミュニケーションズ)
ドメイン名: NTTPC.NE.JP

あらっ。。。岐阜県にお住まいなのですわね?

そうです。 「デンマン・シンジケート」全体の記録を見ると岐阜県からアクセスした人は少ないけれど居るのですよ。


(hg21115.gif)

ところが上のコメントがついた記事が掲載されている Beaverland Web の記録を見ると岐阜県からアクセスした人は一人も居ないということになっている。


(hg21115b.gif)

この上の地図で見ると岐阜県は黒いのですよ。 「黒」はアクセスした人が一人も居ない県なのです。

つまり、アクセス解析のプログラムがコメントを書いた人を記録するのを忘れてしまったということですか? プログラムのミスなのでござ~ますか?

結論から言えば、そういうことになりますよ。 念のために11月15日の記録を調べてみたのですよ。 次のような結果が得られました。


(hg21115c.gif)

あらっ。。。一人見つかりましたわね。

でもねぇ、この人は岐阜県からアクセスしたのではなく、IPアドレスを調べると大阪府からアクセスしているのですよ。

IPアドレス: 223.217.17.***

ホスト名:
i223-217-17-***.s41.a027.ap.plala.or.jp

接続回線: 光
都道府県: 大阪府

プロバイダー

ネットワーク名: PLALA
組織名: 株式会社NTTぷらら
上位情報: エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ株式会社
(NTT COMMUNICATIONS CORPORATION)

ドメイン名: PLALA.OR.JP
ネットワークサービス名: 株式会社 NTTぷらら
ネームサーバ: dns-sa1.plala.or.jp

つまり、アクセス解析プログラムが間違えてしまったのですわね。

いや。。。間違えたのではなく、岐阜県からアクセスしたネットサーファーを見落としたのですよ。

どうして見落としたと判るのでござ~ますか?

アクセスした時間を見てください。 岐阜県からアクセスしてコメントを書いた人は11月15日の午前1時1分に投稿を書き終えて終了ボタンをクリックしたのですよ。 大阪からアクセスした人は午前10時6分にアクセスしている。 しかも、この人物はアイヌ人や蝦夷の記事を読んだのではなく天武天皇と天智天皇の記事を読んだのですよ。

どうして天武天皇と天智天皇の記事を読んだと判るのですか?


(hg21115c3.gif)

上の記録を見ると http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu.html と書いてあるでしょう。 つまり、このURLをクリックして『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』を読んだのですよ。

要するにアクセス解析プログラムがマジで岐阜県の人を見落としたのでござ~ますか? でも、どうしてそうだとデンマンさんは断定なさるのですか?

次の記録を見てください。


(hg21115d.gif)

この記録は11月6日から11月15日までの10日間に Beaverland Web にアクセスした人のIPアドレスをすべて記録したことになっているのですよ。 この記録を見ると大阪府の人は掲載されているけれど、岐阜県の人は漏れている。

そういうことがあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、プログラマーは完璧なプログラムを目指しているけれど、人間の書くものですよ。 たまには間違いをしでかします。 卑弥子さんだって、ついつい大切な物を見落としてしまうことだってあるでしょう?

そうですわね。 考えてみれば完璧な人は居ないのですもの。。。 それに故障しない物もまずありませんわ。 思えば、あたくしが未だに独身なのはあたくしに相応(ふさわ)しい素敵な殿方を見落としているからですわ。 うふふふふふふ。。。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。
確かに卑弥子さんのような素晴らしい女性が独身で居るということは、彼女を見落としている男性もたくさん居るということですわよね。
だから、アクセス解析のプログラムに見落としのミスが起こることも考えられないことではありませんわ。
そう思いませんか?

ところで、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉です。
もともとは自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称の「カムイ」に対する概念としての「人間」という意味であったとされています。

7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれましたが、これは当時の日本人が自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説があります。

アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われました。
丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言ったそうです。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされています。
理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされています。
当時の内地人の耳には「アイヌ」と聞こえたようです。
なぜかというと、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるためです。
「アイヌ」という呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。

ィ~ハァ~♪~!

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藤原鎌足の長男

2011年9月4日

 
藤原鎌足の長男

あなたも知らない日本の悲劇

        

こんにちは。。。
デンマンです。

ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。

写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。

その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。

藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。

実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?

ところで、どのような悲劇なの?

それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。

定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。

この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。

ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。

しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。

要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。

実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。

僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。

しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。

馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。

とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。

当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

それほど危険な船旅に、

なぜ定慧を出したのか?

ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。

もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。

したがってどういうことが言えるでしょう?
初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。
定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。
それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。
要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。

これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。
11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。
だから、出家させて、唐に追いやってしまう。
運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。
運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。

おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。
このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。
鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。
この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。

なぜか?

それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。

太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。
なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。
命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。

したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。
それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。
鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。

鎌足とは、一体どういう人なの?

鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。
彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。
しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。
その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。
鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。

問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。
たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。
詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。

端的に言うと、非常に頭のいい人でした。
視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。
おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。
このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。
朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。
しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。
もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。
しかし、その規模が違います。

『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。

要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。
はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。
つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。
それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。

したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。
古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。
しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。
しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。
したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。
そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。

『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。

現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。

しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。

つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。

しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。

藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。

『定慧の出生の秘密』

どうですか?
ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?
上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。
涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。
残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。

定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。
こんな事が実際に起こったのだろうか?
あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 


『あなたも知らない日本の悲劇』より
(2007年4月2日)

デンマンさん。。。このお話は前にも読みましてん。

うん?。。。そうやろなァ。。。

どうして、またこのお話を持ち出してきやはったん?

次のコメントをもらったのやがなァ~。。。

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読まれた記事:
『藤原鎌足と長男・定慧』

Comments :

とっても良いと思います。
。。。で、新しい古代日本史?
現在 そして これからの日本史は?

藤原不比等・・・↑

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

これってぇ、マジなコメントやのォ~?

宣伝のためのURLや、落書きのようなことを書いているわけではあらへん。 しかも、コメントを実際に書いてみれば分かるけど、英語のサイトに飛んでゆくねん。 英語に親しんでない人が書いたら、多分、きしょくわるうのうて、コメントを投稿するのを止めてしまうと思うのやァ。 そやから、わざわざ書いたということは、記事を読んでかなりのインパクトを受けたことは確かなことやねん。

どうして、そないな事が、あんさんに判りはるのォ~?

あのなァ~、『藤原鎌足と長男・定慧』という記事には、これまでにもコメントをもろうておるねん。 そやから、わての経験から判るねん。 IPアドレスを調べたら岐阜県に住んでいる人やと分かった。

IPアドレス: 221.30.1.xxx
ホスト名:
softbank221030001xxx.bbtec.net

IPアドレス割当国: 日本
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県

つまり、上のけったいなコメントをもろうたので「藤原鎌足の長男」というタイトルにしやはったん?

ちゃうねん。。。実は、偶然とは言いながら不思議な事が起こったのやァ。

「藤原鎌足の長男」が、あんさんの見やはった悪夢にでも現れはったん?

そないなアホな事が起こるかいな! 実はなァ、コメントをもらった頃に『温泉維新』という本を読んでいたのやァ。 そいで、次のような箇所に出会(でお)うたのやないかいなァ。

西山温泉

JR身延線身延駅から“南アルプス街道”をバスに揺られること1時間半。 やはり遠い。 それだけに、三千メートル級の山々が屹立する南アルプスの沢水を集めた早川の渓谷が一段とせばまったころ、忽然と現れる建物にだれしも安堵のため息をつくに違いない。 と同時に、山峡の宿とは思えない土壁風のシックで気品すら感じられる外観に驚くのである。

深山幽谷にたたずむ西山温泉の老舗旅館「慶雲館」。
館内に入ると、総檜造りの日本建築の粋を結集した落ち着いた雰囲気に包まれる。
その白眉は、壁面にパノラマガラスがはめられたロビーだ。
眼下の早川と渓谷に迫った幾重にも重なり合う南アルプスの山々のダイナミックなこと。
これぞ本物の自然である。

 (中略)

城崎温泉「千年の湯 古まん」(兵庫県豊岡市)、粟津温泉「法師」(石川県小松市)と共に、慶雲館の創業は奈良時代にまでさかのぼる。
慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見し、深澤さんで52代目とか。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


111 – 112ページ 『温泉維新』
著者: 松田忠徳
2010年4月22日 初版第1刷発行
発行所: 日本経済新聞出版社

あらっ。。。藤原鎌足の長男である定慧さんが西山温泉を発見しやはったん?

藤原鎌足の長男である藤原真人さんが坊さんになって“定慧”と名乗ったのやがなァ。 でもなァ、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたのや。

新百済派(旧百済朝廷遺臣)と

旧百済派(鎌足派)の対立

定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。

上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。 これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。 それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。 しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。 「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」

定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。 そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。 天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。 しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。 「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」

それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。

定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。

懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。

この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。


『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)

あんさんが読みはった本の中には慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見したと書いてありますやん。 可笑しいですやんかァ! 著者が日付を間違ったんとちゃうん?

そうかも知れへんと思って、わては調べてみたのや。

西山温泉の起源についての伝説

その昔、藤原真人がこの地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。
真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。
名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。
試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。
その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造るなどして、「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。
文武天皇の慶雲二年(西暦七○五年)三月のことでありました。

これが、西山温泉の起源と伝えられています。

医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていきました。


出典: 『山梨県 西山温泉 慶雲館』

旅館のホームページにも、こないに書いてあるねん。

やっぱり、705年と書いてますねんなァ。 そやけど、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたと、あんさんは断定しているやおまへんかァ!

そうやァ。。。

そうやァではおまへんがなァ! あんさんは出鱈目を書きはったん?

アホな事をいいないなア! 出鱈目など書くかいなァ!

そやけど、どちらかが出鱈目を書いてるということやんか。

そうや。。。そやから、わてはさらに調べてみたのやァ。

慶雲館

日本の甲斐国(現・山梨県)で西山温泉の宿として慶雲2年(703年)に開湯・創業。
2011年2月中旬、「世界で一番古いホテル・旅館」として、それまで認定されていた後述の「法師」に替わってギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)に認定された。
「創業者一族が経営を続ける現存企業」として世界最古ともされる(ギネス認定時の当主は、開湯・創業者である藤原真人から数えて52代目にあたる)。
もっとも、ここで言う藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であり、703年には開湯できない。


出典: 「世界最古の一覧」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こないに書いてあるねん。

つまり、藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であると言うてますやん。

そうやろう! つまり、藤原鎌足の長男は665年か666年に亡くなっておるねん。 当時の状況から考えて暗殺されたという事が最も妥当やと、わてには思えるのやァ。

そやかて藤原真人が「慶雲館」の創業者とういことになってますやん。

あのなァ~、めれちゃんも知っていると思うけど。。。源義経は頼朝の手勢から逃れて東北の地で死んだのやァ。 そやけど、そう思わん人もたくさんおった。 その人たちは、義経はその後、中国大陸に渡って蒙古人を組織して、やがてジンギスカンになり、世界を制覇したという事を真面目に信じておるねん。 そやから、藤原鎌足の長男である定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されたのではなくて、実は、関東に移住して「慶雲館」の創業者になったと言う事を真面目に考えている人がいるのも決して可笑しなことではあらへん。

でも、歴史的事実を変えてしもうたら、アカンとわたしは思うねん。

でもなァ、伝説というものは歴史的な事実とは関わりなく人の心の中に残ってゆくねん。 源義経がジンギスカンになったというのもその例やがなァ。 義経の悲劇はあまりにも可哀想やったのやァ。 そやから、日本人の間に義経に同情する「判官びいき」が生まれる。 定慧さんも、あまりにも可哀想な事件に巻き込まれてしもうたのや。 そやから、定慧さんが「慶雲館」の創業者になって生き延びたというのも、わてには十分に分かるのや。

そやけど、歴史と判官びいきは区別せんとアカンと、わたしは思うわ。

ええねん。。。その伝説が人を殺したり不幸せにするものでない限り、「慶雲館」の温泉に浸かって癒されれば、それでええねん。

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
そうかもしれませんよね。
伝説は伝説として後世に伝えられてゆくのかもしれません。
定慧さんが「慶雲館」の創業者になったというのも、ロマンがあって良いことだと思いますわ。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、興味深い話題がさらに続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

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こんにちは。ジューンです。

奈良時代から、たくさんの帰化人や大陸からの難民が

関東地方に移住してゆきました。

デンマンさんの祖先も百済からやって来て

奈良の都に行ったのでしたけれど、

なかなか思うような官職に就けずに

関東に移住することを決めたそうです。

歴史を紐解(ひもと)いてみると

奈良時代の初めから次のような移住が記録されています。

天智天皇5年(666年)
百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。 この集団の殆どは出家者とはならなかった。


天武天皇13年(684年)
百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。


持統天皇元年(687年)
投化した高麗五十六人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。 又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。 いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。


持統天皇2年(688年)
百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。


持統天皇3年(689年)
投化した新羅人を、下毛野に居住させる。


持統天皇4年(690年)
帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。 又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。


霊亀元年(715年)
尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。


霊亀2年(716年)
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。


天平5年(733年)
武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。


天平宝字2年(758年)
日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。


天平宝字4年(760年)
帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。


天平神護2年(766年)
上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。


延暦18年(799年)
百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。


弘仁5年(814年)
化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。


弘仁11年(820年)
遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)


天長元年(824年)
新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。 法により復を給し、乗田を口分田に充てる。


貞観12年(870年)
新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。

これを見ると、ずいぶんたくさんの百済人や

新羅人が関東に下っていったのが分かります。

デンマンさんも小百合さんも

そのような百済人の子孫だそうです。

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

鑑真と定慧の物語

2011年6月6日

 
鑑真と定慧の物語

鑑真和上の目は見えていた

5回の渡航に失敗した後、ようやく日本にたどり着いた鑑真和上。
この間に多くの弟子を失い、目も見えなくなっていたというのが通説である。
この通説に、正倉院に残された鑑真自筆の書状から疑問が投げかけられた。

 (中略)

正倉院には鑑真の書状が伝わっている。 鑑真が奈良の都に入ってから間もない754(天平勝宝6)年3月18日に、良弁に宛てて出されたもので、四大部の経典(『華厳経』『大涅槃経』『大集経』『大品経』)の借用を申し入れている。
良弁はただちにこの書状を造東大寺司へ届け、他所に貸し出されていた『大涅槃経』を除く三大部を鑑真に届けた。 鑑真が経典の借用を依頼したのは、写経用にテキストを校合しようとしたためと考えられる。

 (中略)

鑑真が目を病んでいたのは事実だろう。 それにより「明を失った」ことも一概に否定できない。 しかし、それは完全失明を意味しない。 少なくとも754(天平勝宝6)年3月18日には(次の)書状を書きうる程度の視力を持ちえていたのではないか。

 (中略)

『続日本紀』によれば、758(天平宝字2)年8月、淳仁天皇は「政事の躁煩に敢へて老を労せざれ。 僧綱の任を停むべし」と詔した。 思託は『延暦僧録』のなかで、鑑真が誹謗されたと記しているが、法進があとを継ぎ、唐招提寺での伝戒もみとめられていたのだから、体をいたわってのことだと素直に解釈するほうがいい。 唐招提寺の寺地が福地であることを、その土をなめて鑑真が判断したのは、目が不自由になったからではないかと考えていた。

しかし実際にはさらにそのあと、最晩年のことらしい。 鑑真の孫弟子で、唐招提寺五世長老になった豊安が著した『唐招寺流記』(建立縁起)に、最晩年に「稍生難視之想(ようやく難視の想いを生じ)」「権隠双樹之陰(おわりに双樹の陰に隠る)」とあるのが根拠になる。

(注: 写真はデンマン・ライブラリーから)


140 – 142ページ
「鑑真和上の目は見えていた」西山厚・著
『別冊太陽 日本のこころ – 165
平城京 平城遷都1300年記念』
監修: 千田稔
2010年4月1日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社 平凡社

「日本に着いた時、何度も遭難したので鑑真和上の目は見えなくなっていた」と歴史の先生が言っていたのですけれど、実は鑑真和上の目は見えたのですか?

僕も『別冊太陽』を読んで初めて知ったのですよ。 「経典を貸してほしい」と良弁に出した書状は、これまでは鑑真の直筆ではなくて、誰かが代わって書いたのだろうということになっていた。 でもねぇ、最近の研究で直筆らしいと判ったようです。 だから、鑑真和上の目は見えていたと言うわけですよ。

それにしても鑑真和上は5度も渡航に失敗して10年かけてやっと6度目に日本へやって来たのでしょう!?

そうですよ。。。ちょっと常識では考えられないですよ。

鑑真

誕生:688年(持統天皇2年)
他界:763年6月25日(天平宝字7年5月6日)
奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。

唐の揚州江陽県の生まれ。
14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。
18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。
そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。
その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。

日本への渡海

鑑真第六回渡海図最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。
鑑真は留め置かれた。
2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。

その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。
しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。
そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。

748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。
懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。
6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。

現在の海南島

鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。
そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。

751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。
その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。
この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
鑑真が渡日前に失明していたという説は鑑真の伝記である「唐大和上東征伝」を主に論拠としている。
しかし、最近の研究では渡日翌年に書かれた東大寺の良弁に経典の借用を申し出た鑑真奉請経巻状は弟子の代筆説より鑑真の直筆説の可能性が高くなったことから、渡日後も完全には失明はしていなかったとする説もある。

752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。
しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。
それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。
11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

鑑真記念館
鹿児島県南さつま市坊津町秋目225−2

なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に来た理由について、小野勝年は日本からの留学僧の強い招請運動、日本の仏教興隆に対する感銘、戒律流布の処女地で魅力的だったという3点を挙げている。
それに対して金治勇は、聖徳太子が南嶽慧思の再誕との説に促されて渡来したと述べている。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上の『ウィキペディア』にも出てくるけれど、藤原清河の率(ひき)いる第12次遣唐使一行が来唐すると聞いたので、すでに唐で35年間暮らしていた阿部仲麻呂は、その船に乗って日本へ帰ろうと思った。

。。。で、一緒に帰ったのですか?

阿部仲麻呂は清河の乗船した第1船に乗ったのですよ。 ところが暴風雨に遭って南方へ流されてしまった。

。。。で、どうしたのですか?

阿倍仲麻呂は死んだという噂が長安に広まった。 この時、友人である有名な李白がそれを聞いて詠(よ)んだのが、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」だったのですよ。

阿倍仲麻呂は溺れ死んでしまったのですか?

いや、その時は死ななかった。 噂は誤報だったのですよ。 船は南へ流されて安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。 結局、清河と仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)に長安に帰り着いた。

それで、また次の遣唐使船に乗って帰ろうとしたのですか?

唐の朝廷は行路が危険である事を理由に清河と阿部仲麻呂の帰国を認めなかった。 結局、阿倍仲麻呂は日本へ帰るのを諦めてしまったのですよ。

天の原

ふりさけみれば

春日なる

三笠の山に

いでし月かも

阿倍仲麻呂は日本へ帰りたくって、三笠の山を想いながらこうして長安の都で和歌を詠んだと言われているのですよ。

結局、日本へは帰れなかったのですか?

帰れなかったのですよ。 仕方なく、当の都で役人として働いた。 でも、偉くなったのですよ。 天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。 天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)までの6年間は、ハノイの安南都護府に在任した。 天平神護2年(766年)には安南節度使を授けられた。 最後は潞州大都督(従二品)を贈られているのです。 そして三笠の山を想い浮かべながら、宝亀元年(770年)1月に73歳で亡くなったのですよ。

デンマンさんも、阿倍仲麻呂のように「さきたま古墳」の丸墓山を想い浮かべながらバンクーバーで亡くなるのですか?

そうですよ。 僕は辞世の句まで用意しているのですよ。


忍の原

ふりさけみれば

さきたまの

丸墓山に

いでし月かも

デンマンさん!。。。この和歌は盗作臭いですわ。 (微笑)

盗作ではありませんよ。 僕の素直な心の内を詠(うた)ったものですよ。

つまり、この歌を詠みながらデンマンさんはバンクーバーで亡くなるのですか?

小百合さんは、僕をバンクーバーで死なせたいのですか?

いいえ。。。別にデンマンさんがバンクーバーで亡くなることを願っているのではありませんわ。 辞世の句など持ち出すから、このようなお話になるのですわ。

あのねぇ~、僕は辞世の句を見せびらかすために上の句を持ち出したのではなくて、当時、遣唐使船に乗って日本から唐へ行くことや、唐から日本へ帰ってくることがいかに大変であったかと言う事を話したかったまでですよ。

それで、“定慧(じょうえ)”という人物は鑑真和上と関係のある人なのですか?

あれっ。。。小百合さんは知らないのですか?

あまり耳にしたこののない名前ですわ。

小百合さんは僕の記事を読んでいるのでしょう?

時々読んでいますわ。

だったら、“定慧(じょうえ)”の事も知っているはずではありませんか!?

いいえ。。。そのような名前はデンマンさんの記事の中には無かったように思いますわ。

やだなあああァ~。。。ここに書き出すから思い出してくださいよう! んもお~~。。。

あなたも知らない日本の悲劇

        

こんにちは。。。
デンマンです。

ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。

写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。

その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。

藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。

実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?

ところで、どのような悲劇なの?

それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。

定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。

この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。

ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。

しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。

要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。

実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。

僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。

しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。

馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。

とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。

当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

それほど危険な船旅に、

なぜ定慧を出したのか?

ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。

もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。

したがってどういうことが言えるでしょう?
初めて、この話に出くわした時の僕の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。
定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。
それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。
要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。

<P.これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。
11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。
だから、出家させて、唐に追いやってしまう。
運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。
運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。

おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。
このように書くと、僕が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。
鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。
この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。

なぜか?

それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。

太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。
なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。
命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。

したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。
それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。
鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。

鎌足とは、一体どういう人なの?

鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。
彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。
しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあります。
その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。
鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。

問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。
たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。
詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。

端的に言うと、非常に頭のいい人でした。
視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。
おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。
このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。
朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。
しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。
もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。
しかし、その規模が違います。

『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。

要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。
はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。
つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。
それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。

したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。
古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。
しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。
しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。
したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。
そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。

『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。

現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。

しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。

つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。

しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。

藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。僕は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。

『定慧の出生の秘密』

どうですか?
ここまで読んできたら、定慧の出生の秘密が知りたくなったでしょう?
上のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてください。
涙なくしては読んでゆけない悲劇は、更にその後に語られてゆきます。
残念ながら、このページですべて語りつくすことは出来ません。

定慧の出生の秘密を読んだ後で、更に引き続きその悲劇の内容を読んでみてください。
こんな事が実際に起こったのだろうか?
あなたも信じがたい思いに駆られるはずです。 
 


『あなたも知らない日本の悲劇』より
(2007年4月2日)

あらっ。。。デンマンさんは、このような記事を書いていたのですか?

小百合さんは、やっぱり読んでいなかったのではありませんか!

たまには見逃していることだってありますわ。。。それに、ずいぶん昔の記事ではありませんか!

10年も昔の記事ではありませんよ。。。まだ書いてから5年も経てませんよ。 

でも、3年以上前に書いた記事ですわ。 ネットの世界では3年は一昔ですわ。 それで、定慧さんを持ち出してきてデンマンさんは何が言いたいのですか?

あのねぇ、昔の人たちは生きるか死ぬかの思いをして事に当たった。 もし定慧さんが日本へ帰って来て、すぐに暗殺されなかったならば、現在の日本人の誰もが知っている名前だったのですよ。 つまり、藤原鎌足の次男の藤原不比等よりも長男の定慧さんの方が日本史でチョウ有名人になっていたのですよ。

でも歴史に If はありませんわ。

小百合さんは、このような時に皮肉めいたこと言うのですね?

だってぇ~、歴史家であれば誰だって、そのような決まり文句を言いますわァ。

だから僕は歴史家が嫌いなのですよ。 とにかく、暗殺されなかったら定慧さんは日本史に名を残すほどの偉大な事を行ったに違いない!

だから、それも If ですわよ。 デンマンさんは、長々と上の古い記事を引用して、ただその事が言いたかったのですか?

違いますよ! 現在の自殺者の数を見てくださいよ。 1年に3万人以上の人が自殺している。 1日に100人近い人が自殺しているのですよ。 つまり、パソコンに向かってこの記事をここまで書いている間に、およそ5人の人が自殺しているのですよ。

まさか。。。?

まさかじゃありませんよう! 確率と統計論から、十分に立証することができるのですよ。

それで、デンマンさんは何がおっしゃりたいのですか?

だから、僕は鑑真さんと定慧さんの物語を持ち出してきたのですよ。 自殺する気になれば日本史に名を残す程の偉大な事ができるではないかと。。。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
確かにデンマンさんのおっしゃることも分かるのでござ~♪~ますわ。
でも、そういう気持ちになれないから自殺するのですわ。
そこの所をデンマンさんは理解していないと思うのですう。
あなたは、どう思いますか?

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

鑑真和上も有名ですけれど

道鏡和上も有名ですよね。

道鏡さんは本当に悪者だったのでしょうか?

わたしは偉いお坊さんだったと思うのですわ。

なぜなら、当時、僧を目指すということは、

言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。

色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟と

それに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのですわ。

生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。

道鏡さんは語学にも才能があったと見え、

留学僧でもない道鏡さんが兄弟子・良弁に付き添って

唐招提寺の鑑真さんを訪れた時、

二人の会話が理解できたと言います。

道鏡さんはさらに難解なサンスクリット語にも

精通していたのです。

辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に

異国語を習得することは大変なことでした。

あなただって、想像がつくでしょう?

だから、道鏡さんが相当の頭脳の持ち主であったことは

まず間違いないようです。

でも当時、悪い僧侶も確かに居ました。

仏教が隆盛するに伴い、

様々な問題も現れ始めていたのです。

まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。

生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、

勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える

“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決めました。

それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて

日本にやって来たというわけです。

以来、僧侶として認められるためには、

“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を

持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、

そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の

3カ所と定められました。

これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡のレベルの僧侶になると、

セックスにむちゃくちゃをするような僧は

まずその地位を保つことが出来ません。

この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。

とにかく鑑真和上が居た頃の話ですから。。。

ところで、卑弥子さんにもちょっと信じがたいような

恋物語がありますわ。

関心があったらぜひ次のリンクをクリックして

じっくりと読んでみてくださいね。

『平助さんが卑弥子さんに

恋をしたのがウンのつき』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。