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白妙の和歌を探して

2015年6月2日

 

白妙の和歌を探して

 


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デンマンさん。。。 今日は格調高いタイトルにしたのでござ~♪~ますわねぇ~。。。


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たまには卑弥子さんが喜ぶよなタイトルにしようと思ったのですよ。

そうして欲しいですわァ~。。。 先日は次のようなヤ~らしいタイトルを書いて あたくしを呼び出したので、正直申し上げて 落ち込みましたわァ~。。。


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『卑弥子のえっち』

(2015年5月26日)

あのねぇ~、『卑弥子のえっち』という記事がネットで公開されたからといって、悲観することはないのですよ。

でも、あたくしがエッチな女だと思われるのは心外でござ~ますわァ~。。。

でもねぇ~、卑弥子さんはネットでは有名になりつつあるのですよう。

その証拠でもあるのでござ~ますかァ~?

ちょっと次の検索結果を見てください。


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『現時点での検索結果』

「卑弥子さん」と入れてGOOGLEで検索すると なんと 24,500件もヒットするのですよ。 しかもトップに表示されるページは『卑弥子さんの面白い話』ですよ。


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『卑弥子さんの面白い話』

つまり、たくさんのネット市民の皆様が あたくしの面白いお話を読んでくださるのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 だから、卑弥子さんは ますます有名になって、今年こそ素晴らしい男性が現れて、結婚にゴールインできそうですよ。

あらっ。。。 デンマンさんはマジで そう思うのでござ~ますか?

もちろんですよ。。。 だから、落ち込まないで、今日は格調高い話題に付き合ってくださいねぇ~。。。

分かりましたわ。。。 じゃあ、気分を変えて デンマンさんのお話を伺おうと思いますわァ~。。。 それにしても、どう言う訳で“白妙(しろたえ)の和歌を探して”いるのでござ~ますか?

いや。。。 僕が“白妙の和歌を探して”いるわけじゃないのですよ。

じゃあ、どなたが探しているのでござ~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。


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『拡大する』

これは Denman Blog の5月25日の「人気検索キーワード」のリストですよ。 赤枠で囲んだキーワードに注目してください。

あらっ。。。 「和歌 歌 奈良 白妙の~ 今日もご飯を炊く煙がたっていることだなぁ という和歌」という語句を入れて検索して Denman Blog にやって来た人がいたのですわねぇ~。。。 それで、どの記事をお読みになったのでござ~ますかァ?

だから、僕も実際に上の語句を入れてGOOGLEで検索してみましたよ。 その結果を見てください。


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『現時点での検索結果』

赤枠で囲んである『万葉集の謎と山上憶良』を読んだのですよ。。。 念のために Denman Blog の5月25日の「人気記事リスト」も調べてみました。 ちょっと、そのリストを見てください。


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『拡大する』

Denman Blog の記録にも『万葉集の謎と山上憶良』を読んだということが出ていますわねぇ~。。。 で、どのような歌が書いてあるのでござ~ますかァ?

次の歌なのですよ。


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春すぎて 夏来にけらし 白妙の

 衣ほすてふ 天香具山

これは万葉集の中に載せられている持統天皇の歌です。

天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、
それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。

問題の本質はそういうところにはないのであって、
貴族社会の中に生きる人々の中にも、
自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに
心を砕くものが居たということの方が、
重要なのではないかと思う。

その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、
上にあげた持統天皇の歌にも見られるように、
多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。

本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。
それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

あらっ。。。 真由美ちゃんが書いたのでござ~ますか?

いや。。。 2006年当時、僕はまだ真由美ちゃんとは会ってませんからね。。。 真由美ちゃんに会ったのは去年の10月ですよ。


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『真由美ちゃん@とんでん』

真由美ちゃんではないとすると、上の和歌を紹介した女性は どなたなのでござ~ますかァ?

あのねぇ~、“章子さん”という女性なのですよ。。。 でもねぇ~、実は、akiko という文字が URL の中に出てきたので、僕は、そう思っただけで、実際に和歌を紹介した記事を読んでみると高校で日本史を教えている男の先生が書いたのですよ。 どうやら、奥さんの名前を URL に書き込んだようなのです。

でも、あたくしは思うのですけれど、「和歌 歌 奈良 白妙の~ 今日もご飯を炊く煙がたっていることだなぁ という和歌」という語句を入れて検索して Denman Blog にやって来た人物は、白妙の上の和歌を探していたのではないと思いますわ。

卑弥子さんには、他に思い当たる和歌があるのですか?

もちろんですわ。。。 確かに持統天皇が詠んだお歌には“白妙”が出てまいりますわ。。。 でも、「今日もご飯を炊く煙がたっていることだなぁ」という風景は、白妙の歌には出てまいりません。

じゃあ、卑弥子さんの考えている歌というのは どの和歌ですか?

あたくしは次のようにして検索してみましたわ。。。 その結果を見てくださいなァ~。。。


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『現時点での検索結果』

「万葉集 今日もご飯を炊く煙がたっていることだなぁ」と入れて検索したのでござ~ますわァ。。。 すると、青枠と赤枠で囲んだ記事の中に、あたくしの お目当ての お歌が出てまいりますゥ。。。 つぎのお歌でござ~ますわ。


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大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 

天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 

国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 

煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 

鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 

蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

巻一 (二)


大和には多くの山があるけれど

とりわけ立派な天の香具山

その頂に登って大和の国を見渡せば

土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ

池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ

ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は


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『万葉集入門』より

なるほど。。。なるほど。。。 この上の歌には、確かに ご飯を炊く煙がたっていることだなぁという風景が詠み込まれていますよ。

そうでしょう!? 白妙の香具山も詠み込まれていますわ。

さすがは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文学と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ですねぇ~。。。 源氏物語の他にも。。。 万葉集にも詳しいのですねぇ~。。。 おみそれしましたァ~。。。 この記事を読んだ人のなかから、卑弥子さんの教養に惚れ惚れして、求婚する人が現れるかも知れませんよ。


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ですってぇ~。。。
そのようなことがあると良いのですけれど。。。
おほほほほほ。。。

デンマンさんは、あたくしのことを あまり褒めてくれないのですけれど、
最近 あたくしは 人気が出てきているようなのたのですわァ~。。。

あなたは、信じられないでしょう?!

じゃあ、次の検索結果を見てくださいましなァ~。。。


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『現時点での検索結果』

あたくしの熱烈なファンが上のようにして検索したのですう。
ご覧のようにトップに、あたくしの「卑弥子さんの下着姿」が出てくるのですわよう。
うふふふふふ。。。


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この写真いかがでしょうか?
けっこうイケテルと思いませんかァ~♪~?

「卑弥子のえっち」を入れて検索した人も、
もしかしたら上の写真をご覧になっていたのかもしれませんわァ。
うふふふふふふ。。。

ところで、これまでのお話に、白けてしまった人もいると思いますわァ。
だから、その人たちのために、少しは真面目な記事ををここに紹介しますわねぇ~。。。

たまには、歴史のお話でも読んでくださいなァ。
平安史、古代史のお話を紹介しますわ。
これならば、あなたが白けることもないと思いますう。
ぜひ、読んでくださいまし。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』


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『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』


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『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』

『兄妹の恋のつづき』

『源氏物語エロいの?』

『酒が行って着物目変境』

『日本は外人に乗っ取られたの?』

『ん?ヒトラーはベジタリアン?』

『ふるさとの選挙と黒い霧』


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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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桓武天皇のママ

2013年1月10日

 

桓武天皇のママ

 


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デンマンさん。。。 桓武天皇のママがどうしたのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、桓武天皇のママの情報を探している人からコメントをもらったのですよ。

マジでござ~ますか?

まず、そのコメントを読んでみてください。

From: masami@*****associates.us
To: barclay1720@aol.com
Date: Sun, Jan 6, 2013 7:26 pm
(Pacific Standard Time)

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Jan 06 2013 / 19:26:14

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-joe04-superb
Your_Name = masami kobayashi
Your_Email_Address = masami@*****associates.us

Comments:

とてもおもしろかったです。
実は、桓武天皇の母親の情報を探していて、かとうさんのサイトをみることになりました。
おもしろくて、古代の分はほとんど目を通してしまいました。
ありがとうございました。

Thank you for using Bravenet Email Form Processing!

あらっ。。。 メールアドレスを見ると masami@*****associates.us になってますわね。 .USということは、この「まさみ」さんはアメリカに住んでいるのでござ~ますか?

そうなのですよ。 IPアドレスで調べたらサンフランシスコに住んでいるのですよ。


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(cisco02.jpg)


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あらっ。。。 サンフランシスコって素敵な町ですわ。 あたくしも住んでみたいですわ。

卑弥子さん。。。 人生はアッという間に過ぎてしまいますよ。 思い立ったらすぐに行動に移した方がいいですよ。

そのように簡単にはゆきませんわ。 あたくしは京都の女子大学で腐女子を相手に「日本文化と源氏物語」を講義しているのですものォ~。。。、そんなに簡単にサンフランシスコに引越しすることはできないのでござ~ますう。。。 とこれで、デンマンさんは返信を書いたのですか?

書いたのですよ。 「おもしろくて、古代の分はほとんど目を通してしまいました」と「まさみ」さんは書いてくれたのです。 だから僕は天にも昇る気持ちになって、遅ればせながら返信を書いたのですよ。 卑弥子さんも読んでみてください。


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でも、どうして「まさみ」さんが『定慧の死の謎を解く』を読んでコメントを書いたと判ったのでござ~ますか?

簡単なことですよ。 メールの中に FreeCity = oldhist-joe04-superb と書いてあるでしょう? これは『定慧の死の謎を解く』という記事のURLなのですよ。

でも、「まさみ」さんがどうして次の3つの記事の中の一つを読んだと判るのでござ~ますか?


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■ 『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persia2.html

■ 『天智帝暗殺の謎』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu3.html

■ 『渡来人とアイヌ人の連合王国』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/rikutou7.html

簡単なことですよ。 GOOGLEで「桓武天皇の母親 Akira Kato」を入れて検索すると上の3つの記事が表示されるのですよ。 『新しい古代史』の記事では僕は「デンマン」ではなく実名の「Akira Kato」を使って書いているのです。


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あらっ。。。マジでトップから3番目までに『新しい日本古代史』の3つの記事が表示されますわね。

でもねぇ~、実は、記事の中では「桓武天皇の母親」について書いてないのです。

でも、「まさみ」さんは「桓武天皇の母親」を入れて検索エンジンで検索したのでしょう?

そうですよ。 おそらく「桓武天皇の母親」を入れて検索したのだと思います。

デンマンさんが「桓武天皇の母親」について書いてないのに、どのようなわけで上の3つの記事が検索結果の中に表示されるのですか?

例えば、『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』の記事では当然のことながら僕は聖徳太子のママについて書いているのです。 でもねぇ~、記事の中に「桓武天皇」のことが書いてあるので検索エンジンは『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』を拾い出して検索結果の中に表示してしまうのですよ。

。。。つうことは、『天智帝暗殺の謎』にも 『渡来人とアイヌ人の連合王国』にも「桓武天皇の母親」は出てこないのでござ~ますか?

出てこないのです。 僕が上のようなことを書いたので、「まさみ」さんは事情を説明したくなったのだと思うのですよ。 実は、「まさみ」さんから僕の返信に対する返答をもらったのですよ。

あらっ。。。 マジでござ~ますか?

そのコピーをここに貼り出すので卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。


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僕が返信を書いたのが1月8日の午後8時13分。 「まさみ」さんが、その返信に対して返事を書いてくれたのが1月8日の午後11時26分ですよ。

あらっ。。。 デンマンさんが返信を書いてから、わずかに3時間後ですわね。

そうなのですよ。 感激しましたよ。 だから、僕は更に返信を書こうと思ったけれど、クドクドしくなるので止めました。 (爆笑)

「まさみ」さんは、ご先祖様にかかわる3部作の歴史小説を書いたのですわね。 それで、いろいろな疑問を解決するために天武天皇や天智天皇のことを読み漁(あさ)ったのでござ~ますわね。 納得しましたわ。

そうなのですよ。 それで「まさみ」さんが「古代の分はほとんど目を通してしまいました」という理由が僕にも解りましたよ。

つまり、次のような記事を読んだのですわね。


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『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『定慧出生の秘密』

『藤原鎌足と長男・定慧』

『渡来人とアイヌ人の連合王国』

『なぜ、蝦夷という名前なの?』

『平和を愛したアイヌ人』

『藤原鎌足と六韜』

『古事記より古い書物がどうして残っていないの?』

『今、日本に住んでいる人は日本人でないの?』

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

多分、全部ではないにしても上の幾つかの記事を読んだと思いますよ。

「まさみ」さん以外の人も読んだのですか?

読んでいます。 次のリストを見てください。


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これは12月30日から1月8日までの10日間の記録なのですよ。 つまり、Beaverland Web サイトにやって来る前にどのページにいたかということを記録したものです。

要するに、どのページからやって来たかということでござ~ますわね。

そういうことです。 いわゆる「リンク元URL」のリストです。

それにしては少なくありませんか?

あのねぇ~、この10日間にBeaverland Web サイトにやって来た人の記録は次のリストに表示されているのですよ。


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つまり、29人のネット市民の皆様がやって来たということですわね。

そうです。

10日間に29人では少ないですわね。

そうなのですよ。 実は「まさみ」さんの足跡が上の記録にはないのですよ。 「まさみ」さんのホスト名は 50-0-205-***.dsl.dynamic.sonic.net なのだけれど、これが上の記録からもれているのですよ。 

やっぱり完璧な統計は期待できないのですか?

そういうことですよ。 かなりのネット市民が記録からもれているのです。

でも、どうして、そのような事が判るのでござ~ますか?

次のリストを見てください。


(hg30108.gif)

「デンマン・シンジケート」のアクセス別ランキングなのです。 Beaverland Web サイトは上の記録では 19サイト中の13位なのです。 19番目の Exciteの 5人などは明らかに間違っている。

アクセスが記録から漏れることもあるということですか?

その通りですよ。 だから100%信頼できないケースもあるということなのです。

それにしてもトップとの差がだいぶありますわね。

そうです。

トップの Denman Word Press では「まさみ」さんのように海外からのアクセスもたくさんあるのでござ~ますか?

あるのですよ。 次のリストを見てください。


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あらっ。。。 79カ国からネット市民の皆様が Word Press のデンマンさんのブログ(https://denman705.wordpress.com/)にやって来るのでござ~ますか?


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そうです。 『新しい古代日本史』のマスコットギャルの卑弥子さんの人気のせいで、このサイトの記事を読みにやって来るネット市民の皆さんが実に多いのですよ。

マジで。。。? うれしいわア~。。。 その内あたくしに結婚を申しこんでくださる素敵な殿方が現れるかしら?。。。んで、あたくしが登場するどの記事を読みにやって来るのでござ~ますか?

次の人気記事リストのトップの記事ですよ。


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『床上手な女の7つの見分け方』

あらっ。。。 1月10日までの1年間にダントツで 12,082回も読まれているではござ~ませんか?

この記事の中に卑弥子さんがセクシーなアパレルを着て登場するのですよ。


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あらっ。。。 マジですわ。 どうやら今年こそは結婚できそうでござ~♪~ますわ。 うふふふふ。。。

【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。
卑弥子さんに素晴らしい男性がプロポーズするといいですわね。

ところで、桓武天皇のお父さんは白壁王です。
のちの光仁天皇ですわ。
お母さんは高野新笠(たかの の にいがさ)と呼ばれた女性です。
続日本紀によれば、百済から大和朝廷へと送られた人質であった武寧王の10世孫とされ、出身一族は6代前に帰化をし、日本人の姓を下賜されていました。
高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、新笠が光仁天皇の側妾となった際に下賜されたものです。

桓武天皇は白壁王の第1王子として天平9年(737年)に産まれました。
当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられました。
要するに、お母さんの出自が低かったため立太子は予想されていなかったのです。
そのような理由で、あまり期待されていなかった人物だったわけです。

父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられました。
その後、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子になれたのでした。
その影には式家の藤原百川による擁立があったとされています。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『感じてストで和露他』

『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『笑わせる漢字でござ~ます』

『卑弥子@婚活』

『プロメテウスの第2の火』

『うむうむ、ふむふむ人間』

『コギャルと甘え』

『癒しと水墨画』

『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『オバマ大統領と継体天皇』

『色男不比等』

『目の前で米軍のヘリが落ちた』

『見ちゃだめよ!』

『白い鯛焼き』

『真夜中のマリア』

『女に溺れる清盛』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事



(linger65.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(beach02.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』


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『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』


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『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』


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唐から来た14歳の少女

2012年6月28日

 
 
 
唐から来た14歳の少女


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デンマンさん。。。この上の絵の女の子が唐からやって来た14歳の少女なのでござ~♪~ますか?

そうですよ。

あたくしの目には唐からやって来たと言うよりも原宿でコスプレして遊んでいる現在の日本の女の子のように見えますわ。

当然でしょう。 卑弥子さんも僕も1300年前の唐の国に住んでいたわけじゃないのだから。。。どうしても、現在の目線で見てしまうのですよ。

つまり、全くの空想で上の絵をでっち上げたのでござ~♪~ますか?

いけませんか? でも、全くの空想でもないのですよ。

だけど、こんなに可愛くてきれいだったのでしょうか?

あのねぇ~、唐からやって来た14歳の少女は、当時の日本人の目にも可愛くてきれに見えたのですよ。

デンマンさんがそのように言うからには何か根拠があるのでしょうね?

もちろんですよ。 昨日、僕は次の記事を投稿したばかりですよ。


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『九ちゃんとコメンテータ』

(2012年6月27日)

この記事の中で、ぼくは言ってるのですよ。 最近の日本の民放テレビのワイドショーやニュース番組に出てくる漫画家や映画監督やタレントがコメンテータとして根拠もなく、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんのように思いつきの意見を言って稼いでいるのはバカげていると。。。 日本国民。。。ひいてはネット市民を馬鹿にしていると言ったばかりですよ。 だから僕は根拠のあることを書くように努力しているのです。

つまり、上の絵は単なる想像ではなくて歴史的事実に基づいたデンマンさんの創作なのでござ~♪~ますか?

創作と言うとちょっと後ろめたいのだけれど。。。まあ、コラージュですよ。

つまり、そこらにある写真や絵から好きな所を部分的に切り取ってごちゃ混ぜにしてでっち上げた盗作ですわね?

「盗作」じゃありませんよ。 んもお~~。。。コラージュですよ。 この女の子の絵には歴史的事実も塗りこめられているのですよ。

解りましたわ。 でも、坂本九ちゃんを取り上げた後で、なぜ急に「唐から来た14歳の少女」なのでござ~♪~ますか?

いや。。。決して急に天から降ってきたようにして取り上げたわけじゃないのですよ。 卑弥子さんとも、つい最近この少女のお父さんについて語り合ったばかりです。

ええっ。。。上の絵の中の少女のお父様ですか? そんな人の話は、これまでに出てきませんでしたわよ。

出てきたのです。 次の記事ですよ。


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『中国滞在16年で死亡』

(2012年6月16日)

あらっ。。。この上の記事の中に「唐から来た14歳の少女」のお父様が出てきたのでござ~♪~ますか?

出てきたのですよ。 次の歌を詠んだ人です。


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春日野に 斎く三諸の 梅の花

栄えてあり待て 還り来るまで
 
 

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藤原清河 (万葉集 卷19-4241)

(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな

さかえてありまて かえりくるまで)

意訳:


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梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。

『中国滞在16年で死亡』より
(2012年6月16日)

あらっ。。。藤原清河さんじゃござ~♪~ませんかア!

だから言ったでしょう! 急に持ち出した話ではないのです。 卑弥子さんとは、この「唐から来た14歳の少女」のお父さんについて何度も語り合ったのですよ。

でも。。。、でも。。。、藤原清河さんに唐の国で生まれた娘さんが居たなんて一度もお話の中に出てきませんでしたわ。

だから、順序としてこうして記事に取り上げたわけですよ。

。。。つうことわァ~、藤原清河さんは唐の国であちらの女性と結婚したということですか?

そういうことですよ。 藤原清河の略歴を見てください。

藤原 清河

生年不詳。 宝亀9年(778年)に唐の国で亡くなる。
唐名は河清。

奈良時代の貴族。
藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。
母は片野朝臣の娘。官位は従三位・参議、贈従一位。

遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂と唐朝に仕えるも、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま没した。

天平12年(740年)正六位上から従五位下に叙せられる。
聖武朝にて順調に昇進して天平18年(746年)には従四位下にまで昇叙、天平勝宝元年(749年)の孝謙天皇即位に伴い参議に任ぜられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる。
副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。
天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。
遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。
日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。

同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。
日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。
しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。
遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう)(現在のベトナム北部)に漂着する。
土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。
一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。

天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。
清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。

天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。
しかし、当時は安史の乱により唐は騒乱状態であったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。

天平宝字7年(763年)日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)従三位に昇叙している。

清河は帰国できないまま在唐十余年に及び、宝亀8年(777年)次回の遣唐使が入唐したが、翌年、清河は唐で客死した。
唐からは路州大都督の官が贈られた。
なお、清河は唐の婦人と結婚して、喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。


出典: 「藤原清河」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この略歴を見ても解るように清河さんは、なかなか立派な人だったようです。 玄宗皇帝からも君子人なりと称賛されたのですよ。 しかも、778年に唐で亡くなった時には「路州大都督」の官が贈られた。

「路州大都督」の官が贈られたことが、それほど素晴らしい事なのでしょうか?

だってねぇ、僕がバンクーバーで死んだってぇ、カナダの首相は僕に「ブリティッシュ・コロンビア州・名誉州知事」なんて称号を決して贈ってくれないですよ。 要するに清河さんは玄宗皇帝に認められるような業績を唐の国に残したのですよ。

清河さんが亡くなる前に大和朝廷でも、清河さんが唐に住んでいるにもかかわらず常陸守に任じ、従三位に昇叙していますわね。 大和朝廷でも、それだけ清河さんを認められていたのでしょうか?

認めていたのですよ。 清河さんは日本へ帰ってきたかったけれど、阿倍仲麻呂と一緒に乗った第1船が遭難して日本へ帰ってこれなかった。 それで、半ば諦めるように「河清」という中国名を名乗って唐の政府に仕えるようになったのです。

日本へ帰るのを諦めたのでしょうか?

諦めはしなかっただろうけれど、遣唐使船はほぼ20年に一度ですよ。 つまり、帰れるとしても20年後ですよ。 だから、唐政府の勧めるままに「秘書監」という職について中国人女性と結婚したのです。

それで生まれたのが、やがて日本へやって来ることになる「唐から来た14歳の少女」でござ~♪~ますか?

その通りですよ。

。。。んで、その少女の名は?

「喜娘(きじょう)」という名です。 だけど、いつ生まれたのか?いつ亡くなったのか?も記録に残ってない謎の人物です。

日本にやって来たのは確かな事なのでござ~♪~ますか?

それは確かな事なんですよ。 なぜなら797年に編纂された勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)にちゃんと書かれている。 その記録によると、唐の都で藤原清河の娘として生まれた推定14歳の少女が肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に流れ着いた。 奈良時代末の788年11月13日のことだった、と書いてある。

それにしても14歳の少女の身でよく日本へやって来ましたわね。

確かに、遣唐使船に乗るということは生きるか死ぬかという危険が付きまとっていた。 生きて唐に着くか? 生きて日本へ帰れるか? その成功確率は50%ほどだった。 まさに、100円硬貨を空に投げて手に受け取り、裏が出るか?表が出るか?という確率だったのですよ。 当時でも、勇気のない男は尻込みして名誉の遣唐使にさえ就くのを辞退した。

そのように尻込みして遣唐使を辞退した人がマジで居るのでござ~♪~ますか?

居るのですよ。 宝亀6年(775年)の遣唐大使に任命されたのが佐伯今毛人(さえきのいまえみし)だった。 宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなった。 でも、世間では仮病を使って遣唐使になることを渋ったという噂が広まった。 遣唐使になるには、それほど勇気が必要だったということですよ。

それで、その時の遣唐使船はどうなったのでござ~♪~ますか?

仕方がないので、この時は副使の小野石根(おののいわね)が佐伯今毛人に代わって大使の任務を代行した。 でも、小野石根が乗った遣唐使船の第1船は帰路遭難して亡くなってしまったのですよ。

やっぱり、遣唐使船に乗るのは命がけなのですわね。

そうなのです。 でもねぇ、この時の日本への戻り遣唐使船に乗ったのが「唐から来た14歳の少女」だったのですよ。

あらっ。。。勇気があったのですわね。 でも、遭難してしまったのでしょう!?

そうですよ。 11月5日に日本に向けて出航したのだけれど、四日目に海上で大しけに遭って船が大破。 小野石根を含め多くの人が亡くなったけれど、喜娘は舳(へさき)にしがみついて6日間漂流し、11月13日に長島に流れ着いて村民に助けられたのですよ。

あらっ。。。ラッキーだったのですわね。 大使代行の小野石根が亡くなってしまったというのに。。。

運命でしょうね。 喜娘は752年の遣唐大使の藤原清河の娘。 清河自身は754年に日本へ戻る第1船に乗ったけれど、遭難して故郷に帰れなかった。 喜娘が日本へ向かった時には、父親の清河はすでに亡くなっていた。 でも、彼の日本へ帰りたいという執着心が死後も娘に乗り移って、喜娘の奇跡的な日本到着になったのだと思いますよ。 父と娘の執念の日本帰りだったのですよ。

。。。で、その後、喜娘はどうなったのでござ~♪~ますか?

その後の喜娘の足跡は、残念ながら記録に残ってないのですよ。 父の国を見た少女は政情不安の長安に戻ったと言う歴史家も居れば、いや、父の屋敷を継いでのち唐招提寺拡張に寄与したのだと言う研究者も居る。

デンマンさんは、どう思うのですか?

僕は「唐から来た14歳の少女」が流れ着いて村人に助けられたという肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に注目したのですよ。

その村が何か特別なのですか?

あのねぇ~、熊本県の天草諸島の古い地図を開くと、天草郡新和町(しんわまち)(現在の天草市新和町)の竜洞山(りゅうとうざん)の一画に「楊貴妃」という地名が字名として残っている。 この竜洞山がある一帯には、遠い昔に異国から流れ着いたという女性について、ある伝説が残っているのですよ。

それは、どのような伝説なのでござ~♪~ますか?

次のような伝説ですよ。

「しんわ楊貴妃伝説」

今から千二百年あまり昔、竜洞山の一画にこつ然と見事な家が建っていた。
その家には一人の美しい女性が住んでいた。
あまりの美しさに村人たちは女性を恐れた。


(yang04.jpg)

ある年の夏、疫病が流行し、村人は困っていた。
それを知った女性は、唐の国から持って来たという薬草を村人に与え、疫病に苦しむ人々を救った。
村人は女性を尊敬した。
女性は「楊貴妃」と名乗った。
そして、唐の国から皇帝の迎えの使者が来るのを待っている身であると打ち明けた。

ある日、一天にわかにかき曇り、雷鳴とどろく中で、巨大な竜が山頂に舞い上がった。
竜とともに女性の姿も消えていた。
家も一瞬にして無くなった。
ただ、女性が用いていた匂い袋が一つ山中に残っていた。
女性の家があった跡地は「楊貴妃」と呼ばれるようになった。
これが「しんわ楊貴妃伝説」である。
竜が舞い上がった山には竜が住んでいたという洞穴があり、「竜洞山」の名がある。

(イラストはデンマン・ライブラリーより)


『楊貴妃伝説』より

つまり、天草郡西仲嶋に漂着した「唐から来た14歳の少女」がこのような伝説として村人に語り継がれたとデンマンさんは思うのですか?

その通りですよ。 その方が歴史的に考えて納得がゆきます。 藤原清河の娘の喜娘は実際に日本へやって来て勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)に史実として残っている。

でも、どうして「喜娘」が「楊貴妃」になってしまったのですか?

日がたつにつれて、世界的に有名な唐の「楊貴妃」が歴史的には知名度の低い「喜娘」を押しのけてしまったのですよ。 

そうでしょうか?

だってねぇ、聞く人だって「喜娘」の名は知らないけれど、「楊貴妃」の名前なら知っている。 だから、伝説が語り続けられている1200年のうちに、唐で生まれた「喜娘」がいつしか「楊貴妃」に代わっていったのですよ。 そう考えても、ちっとも不思議ではないでしょう!? 卑弥子さんも、そう思いませんか?

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。

確かに面白い説明ですわね。

それにしても、男でも尻込みするのに、

よく遣唐使船に乗って

日本へやってくる気になったと思いますわ。

勇気があったのでしょうね。

それに、お父様から日本のお話を

しばしば聞かされていたのでしょう。

喜娘にとって、日本は「夢の世界」、

「希望の国」だったのかもしれません。

死を覚悟してまで行ってみたい国だったのに

違いありません。

たぶん日本語もお父様から

教わっていたかもしれません。

ところで、外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは何だと思いますか?

敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に

please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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友情と国際感覚

2012年6月20日

友情と国際感覚


(nakamaro4.jpg)


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(kasuga2.jpg)

春日野に 斎く三諸の 梅の花

栄えてあり待て 還り来るまで


(yakunin5.jpg)

藤原清河 (万葉集 卷19-4241)

(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな

さかえてありまて かえりくるまで)

意訳:

梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。


『中国滞在16年で死亡』に掲載
(2012年6月16日)

デンマンさん。。。今日も藤原清河さんの歌を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんは、もう飽きてしまったのですか?

他にも歌がたくさんあるでしょうに? 何も同じ歌を持ち出さなくてもよいと思いますわ。

あのねぇ~、どうしても上の歌でないとまずいのですよ。

どうしてでござァ~ますか?

藤原清河が遣唐使として唐に滞在していた時に起こった事件について今日は卑弥子さんと話したいからですよ。

それで「遣唐使として唐に赴くことになりました。 大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください」という上の歌を引用したのですか?

そうですよ。

つまり、大役を果たせなくなる程の事件が持ち上がったのでござ~♪~ますか?

だから、その事件について卑弥子さんと語ろうというわけですよ。

解りましたわ。。。んで、その事件というのは女性関係のゴタゴタですのォ~?

婚活している卑弥子さんは、やっぱりそちらの方に関心が向いてしまうのですか?

だってぇ~、デンマンさんの昨日の記事を読めば、どうしたって、そちらの方へと関心が向いてしまいますわよ。

ん。。。? 昨日の記事?

そうですわ。 次の記事ですわよ。


(ashika01.jpg)

『なぜ、足利銀行?』

(2012年6月19日)

これは銀行の話ではありませんか! どうして男女関係になるのですか?

だってぇ、デンマンさんは上の記事の中で、あたくしのエロい写真まで出して次の記事を紹介していたではござ~♪~ませんかア!

『Hが好きな女の見分け方』

あのねぇ~、卑弥子さんが婚活しながら素晴らしい男性を射止めようと努力しているのはよ~く解りますよ。 でもねぇ、「友情と国際感覚」というタイトルで卑弥子さんと語ろうと言う時にセクシーな画像を持ち出さないでくださいよ!

いけませんか?

ダメですよ。 ここまで読んできた人が上のリンクをクリックして『Hが好きな女の見分け方』を読むでしょう! この後を読む人が居なくなってしまうじゃありませんか! んもお~♪~!

そのような事はござ~♪~ませんわ。 「十人十色」と申しますう。 古代日本史・古代中国史に興味を持っている人はたくさん居ると思いますわ。 余計な事は言わずに、その事件とやらを説明してくださいなァ。

分かりました。 次のような事があったのですよ。

席次論争事件

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる。
副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。
天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。
遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。
日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。

同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。
日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。
しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。
遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう)(現在のベトナム北部)に漂着する。
土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。

一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。
天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。
清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。


出典: 「藤原清河」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。正月元旦の祝賀の席次争いでざ~♪~ますか? 女性問題よりも些細な問題ではありませんか!

この争いに関係した人たちは些細なことだとは思わなかったのですよ。 だから、こうして歴史に残っている。 おそらく女性問題もあったに違いないけれど、それは些細なことだと片付けられて歴史に残っていない。 つまり、現代から見れば些細なことでも、当時の日本人、特に大伴古麻呂にとっては命を懸けても席次に拘(こだわ)ったのですよ。

遣唐使の藤原清河さんが拘(こだわ)ったのではなくて副使の大伴古麻呂さんが拘ったのでござ~♪~ますか?

そうなのです。

。。。で、どのような経緯で新羅と席が交代になったのですか?

753年、日本では天平勝宝五年の正月元旦の祝賀の式が唐の都・長安の大明宮(たいめいきゅう)の含元殿(がんげんでん)で行なわれたのです。 外国からの使節団の席は東西の二つに分かれていた。 東の第1席は新羅、第2席は大食(たいしょく)だった。

あらっ。。。「大食いの国」とは面白い呼び名でござ~♪~ますわ。 分かり易く言うとどこの国ですか?

「大食」とはサラセンですよ。 アラビア半島のイスラム帝国です。

。。。で、西の席はどうなっていたのでござ~♪~ますか?

第1席は吐蕃(とばん)、つまり、チベット。 第2席が日本になっていた。 ところが、これを見た副使の大伴古麻呂はムカついて、席に着くのを拒んだのですよ。

どうしてですか?

あのねぇ~、それ以前から新羅は日本に朝貢(ちょうこう)している国だった。 つまり、貢物(みつぎもの)を持って大和朝廷にご機嫌伺いにやってくる国だった。 大伴古麻呂にしてみれば、日本が2等国ならば新羅は3等国だったのですよ。 だから、その新羅の大使が東の第1席にすわり、日本の大使が西の第2席に座るのは納得がゆかなかった。 それで、係官に席次を変えてくれるようにと抗議したのですよ。

なかなか鼻っ柱が強かったのですわね。 最近の日本の政治家は竹島や尖閣諸島の領土問題では、常に中国にも韓国にも「触らぬ神に祟り無し」と決め込んで苦情も、文句も、ましてや強硬に抗議することなどなかったのに、副使の大伴古麻呂さんは、信念を貫き通す日本男子だったのですわね。

卑弥子さんは、そう思うのですか?

だってぇ、言うべき事はやっぱり言うべきですわよ!。。。んで、中国の係官はどう答えたのですか?

次のように答えたのですよ。

日本国副使殿。 大唐国の元旦の祝賀の儀式には席次の上下はありません。
新羅と吐蕃は両国とも唐国と陸続きで近い隣国のため前の席に、唐国と遠く離れている日本と大食は後ろの席にしたまでのことなのです。
国の位が上とか下とか、そのようなことではないのですよ。
ですから、どうかご理解のほどをお願い申し上げます。

ところが大伴古麻呂は更にムカついて係官に抗議した。

日本では、東の前が第1席、西の前が第2席、東の後ろが第3席、西の後ろが第4席である。
つまり、日本の大使が座る席次は最下位です。
これは侮辱されているのも同然です。

古麻呂が大声で抗議したものだから、係官もおろおろしている。 ついに上司が現れた。

実は、毎年、新羅から朝貢使節団が唐を訪れております。
また、唐国からもたくさんの人が新羅を訪問しております。
両国の関係は日本国よりも親密で深いため、東の第1席に新羅の大使についてもらったのです。
副使殿もご存知のとおり、日本国からの朝貢使は20年に1度という程度です。
そのような事情があるために、日本の大使には西の第2席についてもらうようにしたのです。
でも、その席次は国の序列を意味するものではありません。

古麻呂はそれでも引き下がらなかった。

唐と日本が陸続きであるならば、我々も毎年のよう唐国にやってくるでありましょう。
しかし、貴国と我が国の間には大海が横たわっています。
それでも、4船のうち2船は遭難するような危険を冒し、多くの人命を犠牲にしてまで大海をはるばる越えて貴国にやってくるのです。
20年ぶりにやってきた遣唐使を新羅国の大使一行よりも歓迎していただいても当然だと思います。

大伴古麻呂は、どうしてそれ程までに席次に拘るのですか?

あのねぇ~、日本と新羅は仲が悪かった。

どうして。。。?

かつて唐と新羅は同盟を結んで百済を攻めた。 大和朝廷は後の天智天皇が実質的なリーダーとなって百済を応援した。 しかし、663年の白村江の戦いで百済と日本の連合軍は敗れてしまった。

でも、大和朝廷は唐と仲直りして遣唐使を派遣しているのですから、新羅とも仲直りすればよいではござ~♪~ませんか?

でもねぇ~、白村江の戦いの後で、日本国内には新羅派と百済派ができて対立するようになったのですよ。 天智天皇を囲む人たちが百済派、後の天武天皇を囲む人たちが新羅派。 しかも、天智天皇は新羅派の人たちに暗殺されてしまった。

天智天皇が暗殺されたなんて学校の日本史で教わりませんでしたわ。

次の記事を読んでください。 新羅派と百済派の確執が解りますよ。

『天智天皇は暗殺された』

大伴古麻呂は、心情的には新羅派だったのだけれど、それでも新羅の席次が第1位で日本が第4位であることが許せなかった。

それで、どうなったのでござ~♪~ますか?

事態を収拾するために吉備真備は阿倍仲麻呂を探した。 唐に住んで、すでに35年になる仲麻呂ならば何とかこの場を丸く収めてくれるだろうと期待した。 玄宗皇帝が席に着く前に何とか事を収めねばならなかった。

それで阿倍仲麻呂が二人の間に入ったのですか?

そうです。 仲麻呂は新羅大使を呼び出して二人だけで話し合った。

新羅大使殿、なにぶん大伴古麻呂は日本での生活が長いので大陸の事情に疎(うと)いのです。
なんと申し上げても、日本は島国ですから。。。
国際人として、知性と教養のある貴殿ならば、日本人の席次の拘りについてご理解いただけると思います。
この場は一つ、黙って日本国遣唐使と席を入れ替わっていただきたくお願い申し上げます。
大使殿、この通りです。
私の顔に免じて助けていただけないだろうか?

そう言って阿倍仲麻呂は新羅大使に深く頭を下げたのですよ。

。。。で、新羅大使は仲麻呂さんの願いを聞き届けたのですか?

そうです。 新羅の部下達は騒ぎ出したのだけれど、新羅大使は一喝して席を譲ることにしたのです。

どうしてそれ程までに仲麻呂さんの願いを素直に受け入れたのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、新羅大使はかつて若かりし頃、長安で留学生として仲麻呂と席を並べたことがあったのですよ。 つまり、阿倍仲麻呂とは当時からの親しい友人だったのです。 「新羅大使は、なかなか器の大きい人物だ」 この様子を見て、遣唐使・藤原清河は感心してつぶやいた。

大伴古麻呂は頑固で子供じみて見えますけれど、この席次事件には何か裏があるのですか?

実は、裏話があるのですよ。 古麻呂は根っからの軍人だった。 白村江の戦い以来、日本の国際的地位が新羅に負けていることは充分に承知していた。 新羅は百済、高句麗を滅ぼし、唐、日本を追いだし朝鮮半島を統一した強国だった。 それにもかかわらず古麻呂が席次に拘ったのは彼の後半生を見ると解りますよ。

大伴 古麻呂

生年不詳。
天平宝字元年(757)7月4日に亡くなる
父・大伴宿奈麻呂。
子に竹良・継人がいる

延暦僧禄には、大使藤原清河とともに玄宗皇帝から官職を授けられ、銀青光禄大夫光禄卿とある

天平勝宝4年(752年)
遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐

天平勝宝5年(753年)
正月、玄宗皇帝臨御の諸藩の朝賀に出席。
古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている。
帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。
大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。
帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(藤原清河は唐で客死)、12月、副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。

天平宝字元年(757年)
3月、聖武天皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖王が孝謙天皇の勘を受けて廃太子される。
4月、孝謙天皇は群臣に新太子を諮ると、右大臣藤原豊成は塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は大納言藤原仲麻呂の推す大炊王であり、大炊王が立太子された。
6月、陸奥鎮守将軍を兼ねさらに陸奥按察使兼任となった。陸奥国への赴任を命じられ、赴任の途中、美濃の国に至って病と称して逗留し、関を塞ごうとした。
7月3日、山背王らの密告により反乱計画が露見。橘奈良麻呂・古麻呂・道祖王・黄文王らは捕えられ、藤原永手・百済王敬福・船王らの監督下、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した(橘奈良麻呂の乱)。


出典: 「大伴 古麻呂」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古麻呂さんの後半生を見ると席次に拘ったことの理由が判るのでござ~♪~ますか?

そうです。。。あのねぇ~。。。反藤原の姿勢が見えるのですよ。 例えば、大使・藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したけれど、古麻呂は独断でこれを許した。 また、皇太子を決める時にも、古麻呂は孝謙天皇の意中は、藤原仲麻呂の推す大炊王だと知っていた。 また、右大臣・藤原豊成は塩焼王を押していると解っていた。 しかし、それにもかかわらず古麻呂は池田王を推した

つまり、反藤原氏の姿勢を貫いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよ。 古麻呂は藤原氏が身勝手に政治を押し進めている事に嫌気がさしていた。 しかも、大伴氏の勢力は徐々にそがれつつあった。 もちろん、藤原氏は大伴氏だけではなく藤原氏に反抗する態度を示す者は容赦なく政権の座から追い落とし始めていた。

具体的には。。。?

729(神亀6)年に起こった「長屋王の変」ですよ。 藤原不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母・藤原宮子の称号を巡って天武天皇の孫である長屋王と藤原4兄弟が衝突する。 これがきっかけで、藤原4兄弟は長屋王が煙たくなった。 漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告した。 それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。 古麻呂はこのような藤原氏の横暴を見続けてきた。

つまり、古麻呂さんには反藤原体制を構築しようとする野望があったのでござ~♪~ますか?

僕はそう信じていますよ。 要するに、席次に拘ったのは、ある意味では古麻呂の演技—大芝居だったのですよ。

大芝居。。。?

そうです。 反藤原体制を構築しようとするための旗揚げですよ。。。大伴氏の存在を周りの者に意識させたのです。 やがて反藤原氏の活動を開始する。 でも、残念ながら、計画は漏れてしまう。 挙句の果てに杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。 これが「橘奈良麻呂の乱」ですよ。

藤原氏に立ち向かったけれども結局、反藤原体制を構築することはできなかったのですわね。

残念ながら大伴古麻呂の計画は実を結ばなかった。 でもねぇ、古麻呂の意思は従弟の大伴家持に受け継がれたのですよ。


(otomo01.gif)

大伴家持にですか? どのように。。。?

万葉集の編集長として、家持は藤原氏の出自を暴(あば)いている。

どのように暴いているのですか?

だから次の記事で書いたでしょう!


(yang01.jpg)

『光明皇后の韓国』

(2012年6月13日)

大伴家持が万葉集の編集長として、藤原氏の出自を暴(あば)いているって、どういうことでござ~♪~ますか?

次の短歌ですよ。


 
 
 
大船に 真楫繁貫き この吾子を
 
 
韓国へ遣る 斎へ神たち

 
 
 
光明皇后 (万葉集 卷19-4240)

(読み: おおふねに まかじしじぬき このあこを

からくにへやる いわえかみたち)

意訳:

櫂(かい)をずらりと並べた偉容を誇る大船に、
親愛なる甥を遣唐使として唐へ遣わします。
そのような訳で、どうか神々の皆様、
この人に祝福をお与えください。

「韓国へ遣る」となっているのは、もともとは「唐国へ遣る」となっていたのではないか?

それを編集長の大伴家持が「韓国へ遣る」と変えたとデンマンさんは言うのですか?

そうです。。。確証はないけれど。。。

【ジューンの独り言】

デンマンさんの仮説は

確かに面白いです。

でも、果たしてそうだったのでしょうか?

万葉集は万葉仮名で書かれているので

わたしにはさっぱり解りませんわ。

万葉仮名はまるで中国語と

変わりがないように見えます。

ところで、外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは何だと思いますか?

敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に

please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を

付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が

忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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光明皇后の韓国

2012年6月14日

 

光明皇后の韓国


(himiko8.gif)


 
 
 
大船に 真楫繁貫き この吾子を
 
 
韓国へ遣る 斎へ神たち

 
 
 

光明皇后 (万葉集 卷19-4240)

(読み: おおふねに まかじしじぬき このあこを

からくにへやる いわえかみたち)

意訳:

櫂(かい)をずらりと並べた偉容を誇る大船に、
親愛なる甥を遣唐使として唐へ遣わします。
そのような訳で、どうか神々の皆様、
この人に祝福をお与えください。

デンマンさん。。。どうして急に光明皇后の短歌などを持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、実は、僕はバンクーバー図書館から次の本とDVDを借りていたのですよ。


(lib20416b.gif)

それで先日、青枠で囲んだ本を読んだのです。

『失楽園』でござ~♪~ますか?

それはDVDですよ。 僕が読んだ本は青枠で囲んである『こんなに面白い奈良公園』という本ですよ。

笑えるのですか? うふふふふふ。。。

いや。。。卑弥子さんが大口を開けてゲラゲラ笑えるほど面白いという本ではないのです。 「面白い」というのは奈良公園についての興味深いことが書いてあるという意味なのですよ。

。。。んで、その本の中に上の短歌が出てくるのでござ~♪~ますか?

そうです。

上の短歌がデンマンさんにとっては改めてこの記事で取り上げるほどに興味深いのですか?

もちろんですよ。 そうでなければ卑弥子さんをわざわざ呼び出してまで、こうして話題にしようとは思いませんよ。

でも。。。、でも。。。、あたくしには、ちいっとも興味深いとは感じられないのでござ~♪~ますわ。

うん、うん、うん。。。解りますよ。 上の短歌だけを読んだのでは面白さが解らないかもしれません。 実は、光明皇后は、これから遣唐使船で唐に向けて出発する甥の藤原清河のために上の短歌を詠んだのですよ。 清河は、心優しい叔母が詠んでくれた短歌に感動して次の歌を返歌として叔母に贈ったのです。 その返歌を読んでみてください。


(kasuga6.jpg)


(kasuga2.jpg)

春日野に 斎く三諸の 梅の花

栄えてあり待て 還り来るまで


(yakunin5.jpg)

藤原清河 (万葉集 卷19-4241)

(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな

さかえてありまて かえりくるまで)

意訳:

梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。

卑弥子さん。。。上の短歌を読んでみて今度は感動することができましたか?

あのォ~。。。こんな歌のやり取りを読んだだけでデンマンさんは感動してしまうのでござ~♪~ますか?

やだなあああァ~。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授だからこそ、僕はわざわざ呼び出して僕の話し相手になってもらったのですよ。 その卑弥子さんが「こんな歌のやり取りを読んだだけでデンマンさんは感動してしまうのでござ~♪~ますか?」はないでしょう! この記事を読んでいる人が卑弥子さんの無感動を目撃したら、卑弥子・女史が京都の女子大学で『源氏物語』を講義していることが信じられないと思いますよ。

だってぇ、あたくしには上の2つの短歌が、ちいっとも面白くないのですわ。

そんな事を言っては駄目ですよ! んもお~~! それでは、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんと全く変わりがないじゃありませんか!

デンマンさんは、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんを軽蔑しているのでござ~♪~ますか?

別に軽蔑しているわけじゃないけれど、僕が言いたいのはミーちゃんハーちゃんのことじゃない! 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している卑弥子さんが、上の2つの短歌を読んで無感動であることを問題にしているのですよ。

あのねぇ~、デンマンさん! この記事を読んでくださる日本語が解る世界のネット市民の皆様だって、きっと、あたくしと同じような感想を持つのですわよ。 余計なことを言わないで、いったいどこがそれほど感動的なのか? 細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいな!

解りました。 感動的な場面は、おいおい説明するとして、上の短歌を読んでまず興味を引かれるのは遣唐使で唐に向かう藤原清河を前にして光明皇后は「韓国へ遣る」と詠んでいる。 なぜ「唐国へ遣る」と詠まなかったのか? 卑弥子さんは不思議に思わなかったのですか?

思いませんわ。 だってぇ、「韓国」というのは「唐国」のことなのですわ。

あれっ。。。卑弥子さんは知っていたのですか?

源氏物語のような古典を勉強している学徒にとって「韓国」が「唐国」であることは常識でござ~♪~ますわ。

ほおォ~。。。古典を研究している卑弥子さんは、その事に一度も疑問を持たずに、素直に受け入れていたのですか?

だってぇ、それは古典の常識なのでござ~♪~ますわ。

あのねぇ~、昔の人は言ったのですよ。 「常識のウソ」とね。。。卑弥子さんだって聞いたことがあるでしょう?

でも、学会でも「韓国」が「唐国」であることは常識でござ~♪~ますわ。 それを、何でわざわざデンマンさんは「常識のウソ」を持ち出すのですか?

あのねぇ~、あの有名なアインシュタイン先生は次のように言ったのですよ!

何でも疑ってみることが大切なのだよ!

あらっ。。。この面白い先生がマジでこのような事を言ったのでござ~♪~ますか?

マジですよ。 もし先生が「時間というものは決まっていて、長くも短くもならない」という常識を疑ってみなかったなら、アインシュタインの相対性理論は産み出されなかったのですよ。

解りましたわ。 つまり、「韓国」と「唐国」は同じじゃないとデンマンさんは言いたいのですか?

だってぇ、それが現在の常識なのですよ。 そうでしょう!? 現在、僕が「韓国」と言ったら、誰だって Korea のことだと思うのですよ。 China のことだとは思わない。 「唐国」と言ったら楊貴妃や玄宗皇帝が生きていた頃の中国だと思うのですよ。 21世紀の世の中では「韓国」と「唐国」は別の国だというのが常識なのですよ。

でも、古典の学会では「韓国」が「唐国」であることは常識でござ~♪~ますわ。

古典の学会に所属している人は日本人のごく一部ですよ。 95%以上の日本国民は「韓国」はKorea のことで 「唐国」は楊貴妃が生きていた頃の中国だというのが現在の常識なのですよ。

でも、光明皇后が生きていた頃は「韓国」が「唐国」だったのでござ~♪~ますわ。

だから、その常識にウソがあると僕は言っているのですよ。

でも、そのような事を学会で言う人は居りませんわ。

学会に所属しているほとんどの人は専門馬鹿だからですよ!

あらっ。。。。では、デンマンさんは、あたくしもその専門馬鹿の一人だと信じているのでござ~♪~ますか?

だってぇ、卑弥子さんは「光明皇后が生きていた頃は”韓国”が”唐国”だった」と信じているのでしょう?

でも、光明皇后だってぇ、そのような意味でちゃんと短歌を詠んでいるではござ~♪~ませんか! その短歌をデンマンさんが取り上げたのですわ。 つまり、デンマンさんだって「光明皇后が生きていた頃は”韓国”が”唐国”だった」と信じているのでしょう?

いや。。。僕は信じてませんよ。 それがその当時の常識のウソだと思ったから、こうして光明皇后の歌を取り上げる気になったのですよ!

つまり、デンマンさんはアインシュタインになったつもりで疑って見せているのですか?

うへへへへへ。。。やっと解りましたか?

でも、単なる気まぐれで、そのような事を言ってもらいたくありませんわ。

気まぐれや「でまかせ」ではありませんよ。 僕は以前にもこの事で次のような記事を書いたのですよ。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。

藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、このページ(藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) を用意しました。
ぜひ読んでください。

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。


(yakunin5.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin3.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。
中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。
何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。

Family tree of Prince Shotoku (shotoku03.gif--366x617)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。

また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、
父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。


『真理とは狸とイタチの化かし合い』より
(2012年3月25日)

でも、上の記事には光明皇后は出て参りませんわ。

あのねぇ~、光明皇后は藤原不比等と橘美千代の娘で不比等にとって三女なのですよ。 京都の女子大学で『源氏物語』を教えている卑弥子さんが知らないわけがないでしょう! 惚(とぼ)けないでくださいよ。

うふふふふ。。。つい、ど忘れしたのですわよ。。。んで、光明皇后の時代でも「韓国」と「唐国」は同じじゃなかったのですか?

もちろん、常識のウソに騙されて、そうだと思い込んでいた人は結構たくさんいたのですよ。 とにかく、上の記事の中で問題になっている「韓人」は韓(から)からやって来た人のことです。 次の地図を見てください。

Korean Peninsula during the 2nd and 3rd centuries (korea03.gif--280x232)
(korea03.gif)

紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。 これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。 大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。 一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人のことですか?

その通りですよ。 だから、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。 藤原不比等は光明皇后が娘の頃次のように言ってきかせたのですよ。


(yakunin5.jpg)

ちょっと、オマエに言っておきたいことがある。 男でも政治をやってゆくことは大変なものだけれど、もしオマエが政権を担うようになったら、よほど気をつけねばならない。


(tanggal5.jpg)

わたくしが政権を担うようなことがあるでしょうか?

実は、ゆくゆくはオマエを天皇の正式な后(きさき)にしようと考えている。

でも、后になるのは皇族と決まっていると聞いていますが。。。

規則は規則。 規則は、言ってみれば破るためにあるよなものじゃよ。 新しい規則を作れば何とでもなる。

お父様が言っておきたい事とは、この事ですか?

いや、この事も大切だけれど、もっと重要なことがある。 オマエも親戚のものから聞いているかもしれないが、わしの祖父の御食子(みけこ)は百済からやって来た。 「古事記」と「日本書紀」で藤原氏が日本古来からの豪族だということを書き込んではいるが、藤原氏が百済からやってきたという事を知っている者がまだ生きておる。 もし、オマエが政権を担うようなことがあれば、日本人になりきることが肝心なことよ。。。

日本人になりきるとは。。。?

つまり、日本人のために善政を施すことじゃよ。 日本人のためになる政策を広める。 日本人が喜ぶような政策を施す限り、藤原氏が百済からやって来たというような話を広めても、信じる者はそう多くはあるまい。

日本人のためになる政策とは。。。?

つまり、無料で高価な薬を貧乏人に施すとか。。。

施薬院のような施設ですか?

その通りだよ。 日本人のための善政を施す。 それがとりもなおさず藤原氏を全盛に導くためにもなる。 要するに、本音を言ってしまえば、すべては藤原氏の繁栄につながることをするということじゃよ。 だが、建前は日本と日本人のためにということじゃ。

このようなお話を藤原不比等が未来の光明皇后にしたという証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

証拠とまでは言えないかも知れないけれど、それらしいものが残っているのですよ。

それって、いったい、どのような物でござ~♪~ますか?

正倉院に保存されている次の古文書のコピーを見てください。


(koumyou9.gif)

赤枠で囲んだところに注目してください。

藤三娘と書いてありますわね。

そうです。 これは藤原不比等の三女だということですよ。 つまり、皇后に上り詰めてもなお自分が藤原氏の「氏の長者」の三女であることを肝に銘じている。

でも、その事が光明皇后の冒頭の歌とどのように関係しているのですか?

「韓国へ遣る」とは、当時の常識のウソでは「唐国へ遣る」という意味に取れるけれど、実は、内輪の意味を考えれば、生まれ故郷の事、つまり百済からやって来たことを忘れてはならないという意味が込められているのですよ。 それを受けて藤原清河は答えている。

栄えてあり待て 還り来るまで

つまり、藤原氏が更に栄えることを願っている、と清河は答えているのです。 清河も藤原氏伝統の考え方に共鳴しながら光明皇后の歌に誠実に答えているのですよ。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。

なんとなくデンマンさんの

こじつけのようにも思えますけれど、

あり得ない事でもなさそうですわ。

ところで、外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

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また、聖徳太子のママ?

2012年6月3日

 
また、聖徳太子のママ?



渡来人

聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。
昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。
しかし、「日本」古代史の「日本」って一体何なのか?
については、あまり考えてみません。

そんなことは決まってるじゃないか、昔の日本の歴史だよ!
地図を開いてごらんよ。
その地図の日本の中で、昔起こったことが、つまり日本の古代史さ。

と、多分、上のような答えが返ってくるでしょう。
でも、ここで下の地図を見てみましょう。

上の地図には書き込んでありませんが、中国沿岸からも、またもっと遠く、ベトナムの方からも線が引かれているものと考えてください。
「ベトナムはちょっと遠すぎるんじゃないの?」と言われそうですが、決して遠くありません。
そのことについては、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。
クリックすると新しいページが開きます。読んでください。

要するに、この当時の国際関係を一言で言ってしまえば、渡来人が日本人であって、日本人が渡来人であった、というような時代です。
この頃は、原日本人、つまり、そのメイン・メンバーであるアイヌ人の人たちは、東北地方へ押しやられた形で生活しています。
794年に桓武天皇が、都を京都に移してから、本格的に、蝦夷征伐を始めますが、それまでは原日本人は日本史に登場していません。
古事記と日本書紀には神話時代の話に、「熊襲」などと呼ばれて登場している程度です。

古事記と日本書紀を編纂した人たちが、「これが新しい日本史だ」と言うのを、当時のアイヌ人が耳にしたとしたら、きっとこう言ったでしょう。

あんたがたよそ者が勝手にこの土地へやってきて、争いばかりしくさって、そのあげく日本史を作ったと?いいかげんにせんかい!
わしら、あんたらが来る何千年も前から、この土地に住んでおるんじゃ。
迷惑ばかりかけおって。。。
何が日本史だい。わしらが日本史じゃわい!

「アメリカ人」という言葉を聞くとき、私たちはすぐにマリリン・モンローだとか、ボブ・ホープ、クラーク・ゲーブル、エジソン、リンカーン、あるいは、ケネディー、ロックフェラー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、などというような人の名前がすぐに口をついて出てきます。
それでは、聖徳太子が生きていた当時のアメリカ人は?と言われると、「アメリカ人はその頃いなかったんだ」と言いたくなります。
しかし、もちろん、アメリカ大陸にも我われと同じ人類が生活していました。
現在のアメリカ・インディアンの祖先の人たちです。
従って、聖徳太子が生きていた当時も、間違いなくアメリカ・インディアンの人たちがちゃんと生活していたのです。

それとちょうど同じことが「日本」についても言えます。
現在では、日本人と原日本人との区別がほとんどつきません。
おそらく日本人の95から99パーセントの血は渡来人から受け継いでいるだろうと思われます。
アイヌ人の事についてはこのページ (平和を愛したアイヌ人) で書いています。
興味のある方は読んでください。

今このページで問題にしようとする聖徳太子の時代と言うのは、アメリカ史にたとえれば、イギリスから清教徒の一団がメーフラワー号でアメリカ大陸に移住してから、やがて13州が独立宣言をして、一人立ちしてゆくという時代に当ると思います。
そのうち、押し寄せてくる移民が、西部へ西部へと進んでゆきます。
それと共に騎兵隊がインディアンたちを、もっと西へと追いやります。
これが、日本史では、平安遷都のあとの蝦夷討伐に当たりそうです。

渡来人が来るのは分かるが、

ペルシャは遠すぎるンじゃない?

確かにペルシャは日本から遠い国で、聖徳太子が生きていた時代に、彼らが、日本に住んでいたとは思えないかもしれません。
しかし、「遠い」と言うとき、私たちは、現在のイランと日本の距離を考えてしまいます。
そう考えると、確かにペルシャと日本は距離的にずいぶんと離れています。

しかし、ペルシャ人は何も、インド洋を越え、マラッカ海峡を通り、東シナ海を経て、はるばる日本へやってくる必要はなかったのです。
もちろん、飛行機でやってくる、なんて言うつもりはありません。
つまり、中国人や、半島人と同じルートで日本へやってきました。
その当時すでに、お隣の中国や、朝鮮半島にたくさんのペルシャ人が住んでいました。

少し時代が下りますが李白(701ー762)の詩に「少年行」があります。

少年行
 
 

(yakunin2.jpg)
 
 
五陵の年少、金市の東

銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

落花(らっか)踏み尽くして、

何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

笑って入る、

胡姫酒肆(こきしゅし)の中

盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。
見るからに金持ちの貴公子です。
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。
酒肆というのは酒場のことです。
この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。
 
胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。
中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。
これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。
「胡姫」というのは胡の姫、つまりペルシャ人の女の子です。
だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっています。
エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーです。
ここで卑弥子さんに再び登場してもらいますが、この酒場にいた女の子は、こんな感じの踊り子だったかもしれません。

卑弥子でーす。

こんな格好を

させられてしまいました。

とても恥ずかしいんですけど、

無理して笑っています。

ペルシャ人は一体

いつ中国へやって来たの?

もちろん、唐の時代になってからペルシャ人が中国にやって来たというわけではありません。
すでに秦の始皇帝の時代に中国に多数のペルシャ人がいたと言う記録が残されています。
秦の始皇帝は、最初に中国を統一した人物です。
彼が始めた群県制という国家制度はそれまでの封建制にかわる新たな制度、
つまり中央集権のシステムでした。

この群県制は、ペルシャのアケメネス朝で採られた制度に非常によく似ていると言われています。
各地の豪族をその地の王として認めていく封建制と全く違って、群県制では地方を治めるのは中央から派遣された官僚です。
これは同様の中央集権制度を秦以前に確立していたアケメネス朝の制度に酷似しています。
このことなどから秦朝を外来民族による政権とする説は意外にも中国の研究者の間に多いのです。
そのためでしょうか、どの歴史の教科書も、秦を漢民族の国家とは断定していません。語族分類表でも、
シナ・チベット語族からはずされています.

これだけペルシャのアケメネス朝の影響を受けているわけですから、もしかすると、始皇帝にはペルシャ人の血が混じっているかもしれません。
そう考える理由はまだ他にもあります。
始皇帝は赤い髪に青い眼、つまりコーカソイド(白人種)の特徴を備えていたと伝えられるからです。
肖像画に描かれている彼がいつもベールのような冠をかぶっているのは、この異相を隠すためだったと言う歴史研究家もいます。

事実、中国の史書のなかには、始皇帝が秦王室の血を正しく受け継いでいないということを述べているものもあります。
しかも秦は戦国の諸国家の中で、最も西にあった国です。
そういうわけで、チベットやペルシャなどの西域諸民族の血が流入しやすいことも確かです。
また中国ではローマ帝国のことを大秦国といいますが、これも秦が西方系であることを示しているとも考えられます。

始皇帝時代のペルシャといえば、ヘレニズム時代に、アルサケス朝パルティアが成立した時期です。
この国は中国の史書には安息国として登場します。
活発な交易活動により東方の国々にもその存在を良く知られていました.

当時のペルシャは、ソグド人やユダヤ人を多く抱える商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。
また秦の建国自体がアケメネス朝の滅亡時期と重なっており、秦それ自体が西方系国家だったとすれば、この混乱の時期に大挙して亡命してきたペルシャ人がその基盤となったことも十分に考えられるわけです。

また、秦は実利主義に徹していましたから、有能ならば外国人であろうとその国籍を問わずにどんどん重用しました。
事実、財務関係の官職にはたくさんのペルシャ人が就いて秦の財政に携わっていました。

このような秦の歴史を見れば、始皇帝がペルシャ人の血を受け継いでいないとしても、ペルシャ人が彼の回りに多数居て、政治、経済、通商、財政の面で手助けしていたと考えても先ず間違いありません。


『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』より
(2003年8月3日)


デンマンさん。。。どうして、あたくしが案内役をやっている古代史サイトの記事などを持ち出したのでござ~♪~ますか?

この上の記事に、またコメントをもらったのですよ。

どのような。。。?

ちょっと読んでみてください。

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Date:Wed., Mar 30, 2012 05:48 am.
日本時間: 5月30日(水)午後9時48分

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May 30 2012 / 05:48:46

userid = barclay1720
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ew2m-ksn@*****-***.or.jp

Comments :

内容的には非常に素晴らしいものです。
今後ともさらに研究成果を発表願います。
ただし、ページの作り方は少し見にくいように思えます。
女性の絵も少し不気味ぎみ。
このあたりを見やすくして戴ければ最高です。

最近イスラエルから調査団がきたようですが、
日本の中核的な文化が古代イスラエル人により作られてきたという話は両国の方々により
かなり多く紹介されていますが、その中間はどうだったのか、
特に当時の大国の中国との関係などは非常に重要であるのに、
ほとんど記述されていなかったので、
このページに書かれていることは新鮮でとても興味深い内容でした。

できれば本として出版して戴きたいです。

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あらっ。。。草野さんはずいぶんとお褒(ほ)めの言葉を書いているではござ~♪~ませんかァ。

うへへへへへ。。。

あまり喜ばないでくださいな。 女性の絵が少し不気味だと書いてありますわ。

不気味ですかねぇ~。。。?

もしかして、あたくしの写真のことでしょうか?

いや、卑弥子さんの写真ではありませんよ。

じゃあ、一体どの写真が不気味なのでしょうか?

次の写真だと思いますよ。


(persian02.gif)

この写真が不気味なのですか?

見慣れてしまえば不気味でもなんでもないけれど、初めて見る日本人には不気味に見えると思いますよ。

草野さんもそう感じたのでしょうか?

たぶんねぇ~。。。

確か今年の3月にも同じ記事にコメントをもらいましたよね?

そうです。 斉藤さんからですよ。 読んでみてください。

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Mar 04 2012 / 20:01:10

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Comments :

楽しく読ませていただきました。
ペルシャのことを波斯国と中国で呼ばれたことですが、同じ国名が「うつぼ物語」のなかにでてきますが聖徳太子の母の名が「穴穂」が冠されていますので、穴穂で「うつほ」と著者の源順は充てていると考えています。

これを、引継いで紫式部が源氏物語を書いたと思います。
うつほ物語の中では波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています。
ここを抑えて読まなければ、聖徳太子のことや、うつほ物語、源氏物語も正しい翻訳さえ怪しいものとなってしまいます。

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『聖徳太子のママ』より
(2012年3月8日)

どうして同じ記事ばかりにコメントをもらうのですか? この記事は特に読まれているのですか?

いや。。。特に読まれていると言う訳でもないのですよ。 ちょっと次のリストを見てください。


(hg20530.gif)

これは「リンク元URL」のリストです。 5月21日から30日までの10日間に上のページを読んで、更にそのページの中のリンクをクリックしてデンマン・シンジケートの他の記事を読んだということです。

つまり、草野さんは18番のURLを読んで、そのページの中のリンクをクリックしてデンマン・シンジケートの他の記事を読んだという事ですか?

そうです。 18番の記事のタイトルが『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』なのですよ。

草野さんは次にどの記事を読んだのですか?

17番の次の記事を読んだのですよ。

『聖徳太子の個人教授にはペルシア人がいた』

この記事を読んでから更に他の記事を読んだということですか?

そうです。

それで草野さんの足跡は記録に残っているのですか?

次のリストを見てください。


(hg20530b.gif)

これは5月21日から30日までの10日間にBeaverland Web を訪れた読者のホスト名。。。ホスト名が解らない場合には IPアドレスを表示したものです。

17番が草野さんですか?

草野さんのプロバイダーが DION (KDDI-NET) なので、僕も初めそう思ったのですよ。 でも、この人は宮城県に住んでいる。

ホスト名: kd111104215***.ppp-bb.dion.ne.jp

IPアドレス 111.104.215.***
IPアドレス割当国: 日本 ( jp )
接続回線: 光
都道府県: 宮城県
ネットワーク名: KDDI-NET
組織名: KDDI株式会社

草野さんは宮城県人ではないのですか?

草野さんは神奈川県に住んでいるのですよ。

草野さんが神奈川県に住んでいると、どうして判るのですか?

IPアドレスを調べればすぐに判ります。

IPアドレス: 220.214.128.***

ホスト名: ZD128***.ppp.dion.ne.jp
IPアドレス割当国: 日本 ( jp )
都道府県: 神奈川県
ネットワーク名: KDDI-NET
組織名: KDDI株式会社

つまり、草野さんの記録が漏れているということですか?

そうです。。。完璧な記録なんてないのですよ。 やっぱり見落としとかがある。

マジで。。。?

だって、草野さんのホスト名が記録に出てない。 間違いなく漏れてしまったのですよ。

そのような事もあるのですわねぇ~。。。んで、宮城県と神奈川県からアクセスする人は多いのですか?

神奈川県から「デンマン・シンジケート」にアクセスする人は東京都についで2番目に多いのですよ。 でも、宮城県からアクセスする人はトップ10には入ってない。


(hg20530c.gif)

あらっ。。。やっぱり東京都からアクセスする人がダントツなのですわね。

そうです。

ところで、次のリストの赤枠で囲んであるのは、どういうわけですか?


(hg20530.gif)

赤枠で囲んであるのは英語で書いた記事なのですよ。

海外からのアクセスも結構あるのでござ~♪~ますか?

あるのですよ。 Denman Blog の統計を見てください。


(wp20603b.gif)


(wp20603.gif)

あらっ。。。Denman Blog だけで、2月25日からこれまでの3ヶ月間に59ヶ国からのアクセスがあるのですわねぇ~?

そうなのですよ。 Beaverland Web の英語の記事も海外からのアクセスを呼び込んでいるのですよ。

つまり、ペルシア人が奈良時代の平城京にやってきたように。。。現在のイランからも「デンマン・シンジケート」にアクセスがあると言いたいのですか?

残念ながらイランからのアクセスはないのですよ。。。でも、そのうち100ヶ国を越えたら卑弥子さんと一緒に盛大に祝いましょうねぇ。 うへへへへへぇ~♪~。。。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
「デンマン・シンジケート」にアクセスする国が100ヶ国を越える日がやってくのでござ~♪~ましょうか?
あなたは、どう思いますか?
デンマンさんがご馳走してくれるようなので楽しみにしていますわ。

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

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こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you はもともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ