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ブス 家持 本音

2013年1月12日

 

ブス 家持 本音
 



(arci09b.gif)

デンマンさん。。。 あんさんは、またけったいなタイトルを付けはりましたなァ~? まるで三題噺やんかァ~。。。

あきまへんか?

ネット市民の皆様の目を引きつけようとする下心が見え見えですやん!

めれちゃんは、そないに思うのかァ~?

それ以外に考えられしまへん。

あのなァ~、実はバンクーバー図書館から借りてきた次の2冊の本を読んだのやがなァ~。。。


(lib30111.gif)

赤枠で囲みはった『美人の日本語』と青枠で囲みはった『日本の空をみつめて』を読みはったん?

そうやねん。

。。。で、その中にブスと大伴家持(やかもち)はんが出てきましたん?

そういうことやねん。

そやけど、ブスって誰のことやのォ~?

次の小文を読めば、めれちゃんにも想像がつくと思うねん。

恋忘れ草


(nokanzo2.jpg)

萱草(かんぞう)の異称です。
初夏から夏にかけて咲く、百合のような美しい花で、昔から、つらい恋を忘れさせてくれる花として、和歌にも詠まれてきました。

漢方薬で使われる甘草(かんぞう)と同じ音ですが、甘草はマメ科、萱草はユリ科の植物です。

忘れ草 我が下紐(したひも)に つけたれど

醜(しこ)の醜草(しこくさ) 言(こと)にしありけり

『万葉集』 大伴家持


忘れ草を下着の紐につけたれど、ひどい草だ。 全然違うじゃないか。

醜の醜草とは、よほど腹に据えかねたのでしょう。
つらい恋を忘れさせる効きめはなかったようです。
恋忘れ貝というのもあります。
昔は、恋を忘れたい人が多かったのでしょうね。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)


6月15日のページ 『美人の日本語』
著者: 山下景子
2005年7月20日 第16刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎

ブスは出てきまへんでぇ~。。。

醜の醜草という響きから、わてはブスを想い浮かべたのやがなァ~。。。


(arci09b.gif)

それは、あんさんの思い違いですやん。 この歌は家持はんが、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ですやんかァ。 つまり、忘れることができへん。。。 そないに思い焦がれている女性が坂上大嬢はんですやん。 そやさかいに、醜の醜草は ブスとは関係あらへん。

あれっ。。。 めれちゃんは、この歌を知っておったのかァ~?

あたりまえやんかァ!

。。。ん? あたりまえ。。。? どないなわけで、そないに言うねん?

あんさんは忘れてしまいはったん?

何を。。。?

何をってぇ~、かつてあんさんは次の記事の中で大伴家持はんを取り上げておりましたのやでぇ~。。。

『萌える恋歌の裏に』

(2011年5月7日)

おおおォ~。。。 めれちゃんの萌え萌えの姿を見て思い出したでぇ~。。。 そう言えば、めれちゃんと次の萌え萌えの短歌について語りおうたのやなァ~。。。

くちづけ
 
 

 
 
罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ
 
  

 
 
by めれんげ
 
2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさん。。。 やっと思い出してくれはったん? うふふふふふ。。。

めれちゃん。。。 もし万葉時代に住んでおったら、大変なことになっておったでぇ~。。。

どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ~?

めれちゃんが家持の上の歌を盗み聞きしたら、間違いなく家持のおっさんに近づいて「きみのくちづけ もとめて止まぬ」と言いながら関係を迫ったに違いないねん。

あんさん! いい加減にしいやあああァ~。。。 わたしが、そないなハシタナい真似をするわけないやろう! そないな事よりも「忘れ草 我が下紐に… 」がどないしたと言うねん?

あのなァ~、家持はんが詠んだ上の歌は、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ではないと、わては思うねん。

そやけど、どの参考書を見ても。。。 それにネットで調べても上の歌は家持はんが坂上 大嬢はんに贈った歌やと書いてありますやん。

確かにそうやァ。。。 そやけど、わては違うと思うねん。

どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ~?

それを説明する前に次の小文も読んで欲しいねん。

このような悲秋感覚が普遍化するのは中国では漢の時代、日本では古今和歌集(平安時代)あたりからで、中国最古の詩集『詩経』や日本の万葉集には「秋は悲しい」と詠んだものは少ないという(『唐詩歳時記』植木久行)。
最も喜ばしい収穫の季節の秋が悲しくなったのは、農業の生産現場から離れた宮廷の文人たちが詩歌を詠むようになってからであり、物心両面にある程度の余裕ができはじめて、「洗練」とか「優美」といったものとともに、秋の感傷が生まれたのかもしれない。

もっとも『大漢和辞典』では、春傷、春恨、春慮、春心など春の物思いを表した言葉もたくさん載っている。

春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し

この夕影に うぐいす鳴くも

(万葉集・大伴家持)

この歌が詠まれたのは現行暦(グレゴリオ暦)では753年4月5日、清明のころ。
奈良の都は、花の梢(こずえ)に晩春の風が光る季節だった。


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前年、東大寺の大仏開眼供養が行われたが、造営の財源確保の功績を自負する家持の名は、叙位の名簿から洩(も)れていた。
この歌の背景には、その後の彼の人生の波乱の予感があったに違いない。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)


176ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店

家持はんが詠んだ上の歌がどうやと言うのォ~?

あのなァ~。。。 家持はんは、うららかな春の日に鶯が鳴いているにもかかわらず「悲しい」と言ってるねん。 春のうららかな日に鶯が鳴いていたら、普通の人ならば、なんとなく心が癒されて、ウキウキしてくるねん。 それなのに「悲しい」と言っているのは、実は、差し障りのないように霞と鶯を持ち出して歌を詠んでいるけど、それは建前(たてまえ)で、本音は「東大寺の大仏開眼供養にあたって、私には造営の財源確保の功績があるはずだ。 それなのに、わざと私の名前を名簿からはずしている。 このような陰険な事が朝廷でまかり通っているのは、なんとも悲しいことだ」と詠んでいるねん。

そうやろか?

めれちゃん! 思い出して欲しいねん。 わては、かつて次のように書いたのやでぇ~。。。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろう、この山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。

702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。

SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

つまり、「忘れ草 我が下紐に …」の歌も、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌に見せかけて、実は藤原氏の政治批判をしていると、あんさんは言わはるのォ~?

もちろんやがなァ~。。。 それ以外に考えられへん。

。。。で、いったいどのような出来事に対して家持はんは批判したん?

『ウィキペディア』にも書いてあるように、宝亀11年(780年)、家持は参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されてるねん。

つまり、その事を忘れようとしているのに、なかなか忘れる事ができへん。 それで「忘れ草」を取り上げ、どうしてもムカつくので「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」というようなヤらしい言葉を持ち出してきやはって、藤原氏を批判したと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ~。。。 第一、将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんにマジで贈った歌やとしたら、「醜の醜草」というような嫌気を催(もよお)すような言葉など絶対に使いよらん!

そうやろか?

めれちゃんかて、「醜の醜草」なんて言葉が入った歌などもらいたくないやろう?

確かに、ロマンチックな気分が消えてしまうかも。。。

【レンゲの独り言】

ですってぇ。。。
確かにそうですよね。
「醜の醜草」なんて言葉が入った歌をもらったら「オマエはブスだ!」と言われているような気がしてきますわ。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も面白い話題が続きます。
あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

メチャ面白い、

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『マジで自殺したいの?』

こんにちはジューンです。

かつてデンマンさんが小泉八雲を紹介していました。

八雲(ラフカディオ・ハーン)は

次のように言っていたのです。

日本女性を道徳的、宗教的信念を持った

愛らしい倫理的創造物である

明治時代の日本の女性は、

そうであったのかもしれません。

でも、最近になって日本の女性も変わったようですね。

一つの事件を取り上げて、そう言うのも

独断過ぎると思いますけれど、

「苫小牧子殺し事件」は象徴的な事件だったと

思いますわ。そして痛ましい事件でした。

母親は自殺をしない代わりに

我が子を殺してしまったのです。

北海道・苫小牧の何処かで、3歳の長男と

1歳の三男の兄弟が鍵の掛かったアパートに

閉じ込められ放置されのですわ。

長男は生米や冷蔵庫のマヨネーズやケチャップで

飢えをしのいだのです。

三男は飢餓と低体温症で亡くなってしまいました。

昼間に自動的に入る暖房で、餓死した弟が

無残に腐食する横で、お兄ちゃんは

必死で飢えを凌ぎ生き抜いて、

ママの帰りを待ち続けたというのです。

でも、ママは新しいボーイフレンドの部屋に住み着いて

1ヶ月以上、子供たちの養育を拒み、

ボーイフレンドと遊んで暮らしていたのです。

もう、死んでいるのではないかと思って、

アパートに戻ると、長男は生きていた。

「何で生きてるの?」

冷血女性のママは長男を見て

まず、そう感じたと言うのです。

人間は、それほどまでに非情に

冷血になれるものでしょうか?!

何度読んでみても、亡くなった子供のために

涙が流れてきますわ。(めそめそ。。。)

「苫小牧子殺し事件」のことは

次の記事の中で引用されています。

『愛の進化論』

ところで、卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

中国滞在16年で死亡

2012年6月16日

中国滞在16年で死亡
 
 
藤原清河
 
 

(kasuga6.jpg)


(kasuga2.jpg)

春日野に 斎く三諸の 梅の花

栄えてあり待て 還り来るまで


(yakunin5.jpg)

藤原清河 (万葉集 卷19-4241)

(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな

さかえてありまて かえりくるまで)

意訳:


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梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。

遣唐使として唐に赴(おもむ)いた藤原清河さんは16年間も唐に滞在して亡くなってしまったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。 19歳で唐に渡り72歳で亡くなるまでの53年間を唐で過ごした阿倍仲麻呂の陰に隠れて藤原清河は、それほど知られていないけれど、それでも16年間を唐で過ごして日本へ帰ってきたかったけれど、それがかなわず他国で死んでしまった。 阿倍仲麻呂と同じような目に遭(あ)っていたのですよ。


(nakamaro2.jpg)

おそらく、清河さんも仲麻呂のように故郷をしのびながら、何度となく奈良の都を思い浮かべたはずですよ。

。。。んで、上の短歌は清河さんが遣唐使に任命されて唐に赴く時に詠んだのですか?

そうです。 藤原清河の叔母さんの光明皇后が次のような送別の短歌を詠んだので、そのお返しに上の短歌を詠んだのですよ。


 
 
 
大船に 真楫繁貫き この吾子
 
 
韓国へ遣る 斎へ神たち

 
 
 

光明皇后 (万葉集 卷19-4240)

(読み: おおふねに まかじしじぬき このあこを

からくにへやる いわえかみたち)

意訳:

櫂(かい)をずらりと並べた偉容を誇る大船に、
親愛なる甥を遣唐使として唐へ遣わします。
そのような訳で、どうか神々の皆様、
この人に祝福をお与えください。

この時、清河は47歳で叔母さんの光明皇后は51歳だった。

あらっ。。。清河さんは叔母さんと4つしか歳が離れていないのですわね。

昔のことだから、こういうことは普通だったのですよ。 僕の叔母も僕よりも6つ年上です。

あらっ。。。デンマンさんも、そんな昔に生まれていたのでござ~♪~ますか?

何を寝ぼけたことを言ってるのですか! 僕は戦後生まれですよ。

日清戦争の戦後ですか?

笑ってもらいたくって、そういう事を言うのですか?

うふふふふふ。。。いけませんか?

僕が明治生まれのはずがないでしょう! 戦後と言ったら、太平洋戦争の戦後ですよ。 僕のお袋は農家生まれで、戦前のことだから大家族だった。 お袋が一番上の長女でその間に兄弟姉妹が8人居て、僕より6つ年上の叔母は、お袋の一番下の妹だった。

そうだったのですか。 知りませんでしたわ。

僕は長男で上に兄も姉も居ない。 叔母は一番下だから妹も弟も居ない。 それで叔母は僕をまるで弟のように可愛がってくれたのですよ。 だから、僕も叔母を姉さんのように慕っていたわけです。

そう言えばデンマンさんは次のように書いていましたわね。

映画『禁じられた遊び』の

メインテーマ曲「愛のロマンス」を

僕がギターで弾いて、

初めて聴いてくれたのが叔母でした。

今夜(2008年7月19日)は、午後10時に、珍しい事に鴻巣市に住む叔母から電話がかかってきました。
半年振りでした。
この叔母は僕のお袋の一番下の妹で、僕よりも6歳年上です。

親戚中で僕とは最も気の合う人物です。
その叔母も暑いと言ってましたよう。
35度と言ったのかな?

なぜか35度と言う数字がオツムに残っています。
零時10分まで、つまり、2時間10分話し込みました。

現在は行田市に編入されましたが
南河原村と言うのが僕の母親の実家があったところです。
もちろん、現在でも、同じところにあります。

お袋が僕を産んで1年した頃、僕を連れて実家へ帰ると、
7歳の叔母がどうしても僕を“おんぶ”したいと言ったのだそうです。

お袋も、仕方なく“おんぶ”させたとか。。。
近所の人に見せたいと。。。
赤ん坊なのに“わかいし(若者)”のような顔をしている、と近所の人が言ったそうです。
そのような話をしていました。

もちろん、僕には記憶の無いことです。

行田女子高校に入学して初めて僕の家に来たときには、
僕を自転車の後ろに乗せて本町通りの川島本屋まで連れてゆきました。
そこで、スーパーマンか何かの消しゴムのついた鉛筆を買ってくれました。

叔母が16歳のときですから、僕は10歳。4年生ですよね。
まてよう。。。
違いますね。
僕は小学校に上がるか上がらない年頃でしたよう。
だったら、6つか7つの頃のはずです。

第一、小学校4年生ならば、スーパーマンの形の消しゴムがついている鉛筆などもらっても、うれしくも何とも無いはず。
それなのに覚えていると言うことは、小学校1年生の頃の事に違いないですよう。

だとすると、叔母は中学1年生ですよう。
セーラー服を着ていたから、まず間違いありません。
自転車に乗って僕の家まで遊びに来たのでしょう!

とにかく、この叔母とは、それ以来よく出かけました。
日光に行ったり、上高地に行ったり。。。
そう言えば帝国ホテルで食事した事もありました。
よく喫茶店にも一緒に出かけましたよう。
もちろん、バンクーバーにもやって来ました。

大学生の頃は、とりわけ叔母と良く出かけました。
叔母はちょうど結婚前で、結婚する前に思いっきり羽を伸ばしておこうと言うつもりだったのでしょうね。
知らない人が見れば、僕と叔母は、まさに恋人同士のように見えたでしょうね。
叔母にしてみれば、安心して連れて行ける“ボーイフレンド”だったのでしょう。
ずいぶんとおごってもらいました。

ある時、今でも忘れませんが、熊谷の駅の近くの“田園”と言う喫茶店に入りました。
その夜、テレビでアランドロンの主演する映画「太陽の季節」(もしかすると「太陽がいっぱい」)をぜひ見たいと言っていたのですよう。
叔母はアランドロンの熱烈なファンでした。
ところが、どう言う訳か、時間に間に合わなかった。

後で、僕のせいにされてしまったのですよう。
それ程見たければ、“これからテレビで映画を見なければならないから、もう出ようね。”
そう言えば良かったじゃないか!

なぜか、この時の事を何度も聞かされたものです。
どうして、僕が責められるのか、未だに訳が分かりませんが。。。
僕のせいじゃないよう!

電話の声を聞く限り、喫茶店“田園”で話した頃と全く変わっていません。
その声には、今でも夢とロマンを感じます。

2時間10分。

20年以上時計がタイムスリップして
熊谷駅の近くの喫茶店“田園”でダベッた2時間10分でした。


『夢とロマンの軽井沢』より
(2008年7月19日)

それにしても卑弥子さんはよく覚えていましたねぇ~。

これを読んで、あたくしにもハンサムな6つ年上の叔父さんが居たらいいなァ~、と思ったのですわよ。 それで、印象的に覚えていたのですわ。。。で、どうしてデンマンさんは藤原清河さんの短歌を冒頭に書いたのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、藤原清河の事をネットで調べていたら、たまたま次のような説明を読んだのですよ。


(sail900.jpg)

大船に真楫繁貫きこの吾子を

韓国へ遣る斉へ神たち

   光明皇后  万葉集 19-4240

(大船に左右の楫を一面に通して、この子を唐へ遣わす。祝福を与えよ、神々たちよ。)
甥の清河が遣唐使として中国へ渡るときの光明皇后の歌です
遣唐使を子と呼び、神々に祝福を与えよと命令しています

一族の期待を一身に背負って唐へ渡った清河

藤原清河は 不比等の子房前の第四子
光明皇后にとっては 甥
大伴古麻呂と吉備真備を副使に従えた
遣唐使藤原清河を 光明皇后はわが子と言っています
藤原一族の中でも際立った力が光明皇后にあったのでしょうか

光明皇后に子供扱いされた清河
唐へ行って玄宗皇帝に謁し君子人なりと賞賛され
外交官として日本の面目を保ち
阿倍仲麻呂の帰国
鑑真和尚の来日に関係しましたが
帰路船がベトナムに流され
その後唐の地で亡くなります

光明皇后にわが子と呼ばれて唐へ旅立った清河の一生に感動します

この記事を書いた人は光明皇后が「わが子と言って清河を子ども扱いした」と書いてるけど、決してそうではないと僕は思いますよ。

でも、上のような解釈だってなりたつでしょう?

あのねぇ~、上の記事を書いた人は光明皇后と藤原清河の年の差に気づかなかったのか? それとも考慮に入れなかったのですよ。 光明皇后は清河を決して子ども扱いしたわけではない。

どうしてデンマンさんはそのように断定なさるのですか?

最近、叔母が僕に書いた次の手紙を読んでみてください。 卑弥子さんは叔母が僕を子ども扱いしていると思いますか?

デンマンさん、お元気ですか?
先月末(4月29日)、久しぶりで芳江さん(注:デンマンの母親)を訪ねてきました。
暮に伺った時「春の彼岸頃また来るから」といって…。
数えたら5ヶ月も経っているのですね。
この冬は例年になく寒く私も含めて高齢者に近づいた人には厳しかった。
芳江さんも大変だったのではと行く前に心配が大きく
電話をして様子を確かめたところ張りのある声が聞こえてきました。

会うと顔色も非常によく案じていたよりは、はるかに健康的で、私の方が薬負けしているせいか、ずっと病的だなあと思いました。
4次元の会話もほとんどなく、しっかりと的を得ていました。
(泥棒の話がひとつだけ出てきましたが。。。)

あと半年したらデンマンさんが帰ってくるからと、もう楽しみにしている状態です。
私はこの日も「芳江さん、りっぱだね」と長寿のことを誉めましたが必要以上に誉めそやすと油断するのが怖いので楽な気持ちで今まで通り気張って欲しいと勇気付けてきました。

人は皆 死に行く道を歩んでゆくわけですが、私は最近すんなりと逝ければいいなあと願うようになっています。
デンマンさんの誕生日のすぐあとに私の誕生日で、この好きな桜の季節にまた年を重ねました。

隠遁生活者の僻(ひが)みでしょうか?
小さいながらも事業を起こし、それが失敗したことが今でもストレスとなって追いかけてきます。
この僻み根性が顔に出ないうちに喘息という病症から抜け出たい。

デンマンさん想像してみてください。
例えば口を塞がれて鼻が詰まりながらも、かすかに息ができる。
こんな状態が続くと、もう肩で呼吸し体で息が苦しいと叫んでいます。
通常薬で抑えていますが薬は麻薬であって切れると前記のような禁断症状となります。
薬を離そうと何度も試みるのですが繰り返すばかりです。
ある程度健康に関する本は読んでいるので今更どうの、こうのということもないので、この喘息とじっくり向き合っていくより方法はないと近頃へこんでいます。

「健康は人が与えるものでなく 自分で創るもの」
中学校3年間を担任だった理系の先生が後日結核になり見舞った時の言葉を思い出します。

デンマンさんが偉いなあという点はたくさんありますが、そのひとつには健康であるということ。
その健康であるという裏打ちとは、格好をつけて言えば倫理を踏まえた自立かなあと。。。

私にはすべてにそれが欠けていた。
私の年齢では遅しですが、今から出発しようと思います。
実家の両親や芳江さんのように90歳の声は望んではいませんが念じることがとおるなら あと20年は生きたいと思います。
そして指折れば3つばかり成就したいものがあります。
今、そのひとつに挑戦しています。

明日は子供の日で休日です。
佐保姫さまの到来なくして若葉になり 冷暖房の要らない過ごしやすい時期にやっとなりました。
台湾の歌手テレサテンさんのようにならないよう私も気張って生きます。
では、お体に気をつけて。。。

九条多佳子

2012年5月4日


『テレサテンと叔母』より
(2012年5月11日)

確かにデンマンさんを子ども扱いにはしていませんわ。

そうでしょう!? 「吾子(あこ)」とは文字通りに現代訳すれば「我が子」という意味になりますよ。 実際、古代にもそのように使われていた。 でもねぇ、光明皇后と藤原清河の歌のやり取りを読んで、二人の年の差を考えれば、「吾子(あこ)」とは「我が子」ではなく、「親愛なる人」というような意味で親しみを込めて目下の者・年下の者を呼ぶ時に使われてもいた、ということが解るのですよ。

でも、それはデンマンさんが、たまたま叔母様と親しいので、そのように考えただけではないのですか? 光明皇后と藤原清河さんは、デンマンさんと叔母様のように、それほど親しかったわけではなく、言わば社交辞令というか、二人とも藤原氏だったために光明皇后が万葉集に載せるために遣唐使の派遣というテーマを選んで詠んだ歌だということも言えるのではありませんか?

いや。。。それは考えられません。

どうしてですか?

あのねぇ~、それならば、叔母の光明皇后ではなくて、清河を遣唐使に任命した従妹である孝謙天皇が歌を詠むはずですよ。 なぜなら、孝謙天皇は任命した本人だし、しかも常識的に考えれば叔母よりも従妹の方に、より親密感をいだくはずです。。。でも、実際には、叔母である光明皇后が歌を詠んだ。 それは、とりもなおさず光明皇后と清河の間に歌に読まれていたような親密感があったからですよ。 つまり、「吾子(あこ)」とは光明皇后が清河を「親愛なる人」という意味で呼びかけたのですよ。

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。

そうですよね。 

光明皇后は清河さんと、とても親しかったのだと

わたしも思いますわ。

二人の歌は昔の言葉で書かれているので

説明がなければ、わたしにはさっぱり解りません。

英語にも Old English といって

古い英語がありますけれど、

日本語の場合、それほど古くなくても

例えば明治時代の日本語を読んでも

現在の日本語とはかなり違うのですよね。

戦前の旧仮名遣いで

「てふてふ」が「ちょうちょう」のことだと知った時には

マジで驚きましたわ。

英語の場合、話し言葉も書き言葉も

100年前とほとんど変わっていません。

日本語の変わりようにはビックリさせられます。

ところで、私のような外国人が

日本語を勉強するのに、最も難しいのは

何だと思いますか?

敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですよね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you はもともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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