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愛de擬人法

2017年9月14日

 

愛de擬人法

 


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デンマンさん。。。 なんだか妙なタイトルを掲(かか)げやはったけど、あんさんは何を言おうとしやはるのォ~?


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実は、新宿に住んでいる 相沢 由里香(あいざわ ゆりか)さんが めれちゃんのことを気にかけていたのやがなァ~。。。

どないなわけで由里香さんは わたしのことを気にかけているわけやのォ~。。。?

めれちゃんがブログを更新しなくなってからすでに3年になろうとしてるのやでぇ~。。。

もう、そないになりますのォ~。。。

そうやんかァ~。。。。 “光陰矢のごとし!”と昔の人は言うたけど、マジで月日の経つのは早いのやでぇ~。。。

そいで、由里香さんは、どないしやはったん?

ちょっと次のリストを見てみィ~なァ~。。。


(liv70912a.png)


『拡大する』

『愛の擬人法』

これは ライブドアの わての『徒然ブログ』の9月11日の午前11時9分から午後3時58分までの約5時間の「生ログ」の一部やねん。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。

あらっ。。。 9月11日の午前11時50分にGOOGLEで検索して 由里香さんは『愛の擬人法』を読みはったのやねぇ~。。。

そういうことやがなァ~。。。 

。。。で、またIPアドレスを調べて由里香さんが読んだと突き止めはったん?

そういうことやァ~。。。


(ip547b.png)

『拡大する』

。。。で、どないして記事を見つけやはったん?

つぎのように検索しやはってん。。。


(gog70912c.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『愛の擬人法』

あらっ。。。 「愛の擬人法」と入れて検索しやはったのねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

そやけど、どないなわけで由里香さんはタイトルそのものをキーワードとして入れはったん?

由里香さんはめれちゃんの『即興の詩』サイトをたびたび訪れていたのやがなァ~。。。 そやけど、しばらくめれちゃんはブログを更新してへんさかいに、由里香さんは、わてのブログを見るようになったのやァ。。。 それで、かつて“愛の擬人法”というタイトルの記事を読んだように思ったわけやァ。。。 そやけど、あまり記憶に自信がないさかいに、検索してみたというわけやァ。。。

そいで上の検索結果の赤枠で囲んである記事を読みはったん?

そういうわけやがなァ~。。。

そいで、相沢 由里香(あいざわ ゆりか)さんは“愛の擬人法”を見出しはったん?

そうやァ~。。。 次の箇所を読んで改めて考えさせられたのやがなァ~。。。

果たして、それは擬人法か?

『万葉集』の巻1に、天智天皇(在位668~671)が、皇太子時代に作ったとみられる歌が収められている。

中大兄(なかのおほえ)[近江宮(あふみのみや)に天(あめ)の下治(をさ)めたまひし天皇]の三山(みつやま)の歌一首

香具山は 畝傍(うねび)ををしと

耳成(みみなし)と 相争(あひあらそ)ひき

神代(かみよ)より かくにあるらし

古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ

うつせみも 妻を 争ふらしき

反歌

香具山と 耳成山と あひし時

立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)

[第二反歌、左注省略] (巻1の13、14)

香具山、畝傍山、耳成山は、大和三山と呼ばれる山々であり、三山の性別については、8百年にも及ぶ論争のあるところだが、仮に訳すと、


(kaguyama2.jpg)

香具山

香具山は畝傍山を横取りされるのが惜しいと、耳成山と争った……

神代からこうなので

いにしえもそうだっら

今の世も妻を争うらしい

(まして、自分も)

(略) 注意してほしいのは、「香具山は……」と、突然歌いだすことである。
山が恋をするということについて、何の説明もない。
そればかりか、この歌は、人も恋するように山も恋をするのだろうというようには、歌っていないのである。
逆だ。

神代から三山は互いのツマを争った。
古もそうだった。
だから、今もそうなのだ、というのである。
神代から山も恋をする。
だから、今も人は、恋をするのだ、という論法である。
今日のわれわれの考え方から見ると、人と人以外のもの、生命を持つものと生命を持たないものの垣根が、きわめて低いのである。


(unebi2.jpg)

畝傍山


(miminashi2.jpg)

耳成山

 (中略)

万葉学徒の多くは、こういう擬人化は、中国文学の影響を受けたからだと説く。
しかし、私には、疑問だ。
仮に中国文学の影響によって、こういう表現が生まれたとしても、もともとの思考法と合致したから、意識せずに受け入れられたと考えるべきだ。
擬人化の技巧を学んで表現したと考える必要などないのではないか。

 (中略)

有名な持統天皇(在位690~697)の歌の解釈も、われわれはどうも誤ってきたようだ。

天皇の御製歌(おほみうた)

春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの

衣(ころも)干したり 天(あま)の香具山

(巻1の28)

通説では「春が過ぎて夏がやって来たらしい。 真っ白な衣が干してある。 天の香具山を見ると」ないし「香具山に」と解釈される。
しかし、素直に歌をみると、「干したり」は「干している」ということだから、誰か人が香具山に衣を干したとは、書かれていない。

この点に着目した、万葉研究の俊英・鉄野昌弘は、「春が過ぎて、夏がやって来たらしい。 真っ白な衣を干している、天の香具山が」と解釈し、少なくとも中世においては、香具山が白い衣ないし、白い衣のようなものを纏(まと)うと解釈されてきたことを明らかにした。
つまり、「香具山自身が、白い衣を干す」のである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


20-25ページ
『日本人にとって聖なるものとは何か』
著者: 上野誠
2015年1月25日 初版第1刷発行
発行所: 中央公論新社

 

つまり、本の著者は「香具山自身が、白い衣を干す」のは“擬人法”ではのうてぇ、奈良時代の人は 心から素直に、そう思っていたと言うてるわけやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

でも、それは可笑しいと思うわァ~。。。

なして めれちゃんは、可笑しいと思うのやァ~。。。?

ハイキングなどして、山の中の深い林などに入ると、ひんやりとして、どこか うら寂しゅうなってぇ~、妙に不安と言うか、恐ろしいと言うかァ~。。。 深い林のどこかに妖精か神様が居るような。。。 そんな気にもなりますやん。。。 それに。。。、大きな、大きな岩などが山の中や、海岸に突き出ているのを見ると、何かいわくがあって、神様がそこに置いたような。。。 “山の精”か、“海の精”がその大きな岩の中に宿っているような気もしますねん。

うん、うん、うん。。。 確かに、そのような“恐れ”や“不思議な感覚”を わても体験したことがある。。。

そうですやろう!?。。。 それは人間なら、誰しも体験することやと思いますねん。。。 それは、“擬人化”と言うよりは、人間が自然に感じる“恐れ”や“不思議な感覚”を“妖精”や“神様”と感じる素直な感性やァ、とわたしは思いますねん。

なるほど。。。、なるほど。。。、

そやけど、「香具山自身が、白い衣を干す」のは“擬人法”やァ、と思いますゥ。

それは、どないなわけやねん?

「香具山自身が、白い衣を干す」には、香具山に手も足も生えており、衣を洗濯して、その衣を絞って、それで両手で持って広げて、香具山の麓に。。。、つまり、自分自身のお腹の辺りに広げて干すということですやん。。。 

確かに、そういうことやなァ~。。。

それは、人間が自然に感じる“恐れ”や“不思議な感覚”を“妖精”や“神様”と感じる素直な感性とちゃいますやん。。。 人間の想像の産物やと思いますねん。。。 つまり、あまりにも“擬人化”してますやん。。。 手足がなければ、洗濯することも、干すこともできしまへん。。。 子供のように、素直な目で山を見れば、とても手と足があるようには見えへん。。。 つまり、「香具山自身が、白い衣を干す」のは大人のイマジネーションですやん。

ほおォ~。。。 なるほど。。。、なるほど。。。、めれちゃんの言わんとすることが わてにも分かるような気がしてきたわァ~。。。

そうですやろう?。。。 ところで、あんさんは どないなわけで上の文章を引用しやはったん?

有名な持統天皇(在位690~697)の歌の解釈も、われわれはどうも誤ってきたようだという箇所に わては引っかかったのやがなァ~。。。

その歌のどこに引っかかりはったん?

あのなァ~、本の著者は次のように書いている。

万葉研究の俊英・鉄野昌弘は、

「春が過ぎて、夏がやって来たらしい。 

真っ白な衣を干している、天の香具山が」と解釈し、

少なくとも中世においては、

香具山が白い衣ないし、

白い衣のようなものを纏(まと)うと

解釈されてきたことを明らかにした。

わてに言わせてもらえば、香具山が白い衣を纏っていようが、香具山に白い衣が干してあろうが、そないなことは枝葉末節のことやねん! 歌の肝心なところは、そないな所にはあらへん!

あんさんの言わはる肝心な所ってぇ、いったいどこやねん?

ちょっと次の小文を読んで欲しいねん。


(think20.jpg)


私たちが生きてゆく過程で必要なのは、

すでに分かりやすい形に

加工されている情報を摂取し、

頭を太らすことだけでなく、

情報という形になっていない情報を、

どのくらい自分の力で噛み砕き、

吸収していくかということなのである。

それは、うまく世の中を渡れる知識を

手っ取り早く獲得することとは一線を画し、

いかに自分が人間として、

生き生きした時間を開拓するか

ということにつながっているのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


257ぺージ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

つまり、あんさんは 加工されている情報を摂取し、頭を太らすことだけではダメだと言わはるのォ~?

その通りやがなァ~。。。 歌の表面的なところだけを捉(とら)えたところで、歌の本当の意味は解らへん。。。 香具山が白い衣を纏っていようが、香具山に白い衣が干してあろうが、そないなことは どうでもええねん。

つまり、あんさんは情報という形になっていない情報を、自分の力で噛み砕き、吸収した、と言わはるのォ~?

そうやがなァ~。。。

それやったら、余計な事は言わんでもええさかいに、細木数子のようにズバリ!ズバリ!とその肝心な所というのを言うてくれへん?

あのなァ~、万葉集には歴史的な意味が込められた和歌が、実は、たくさん載せられているのやがなァ。。。 万葉集には藤原氏、あるいは、当時の実力者に対する批判が込められた和歌がたくさん載せられておるねん。。。 そのような観点から歌の意味を考えると実に面白い読み物なのやァ。

。。。で、あんさんによると上のお歌の意味はどないになるのォ~?

上の歌の本当の意味を探るには、まず次のニュースを読む必要があるねん。

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 女帝誕生

 

讚良(さらら)皇女が

 

皇位を継ぐ。

 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

(mhead2.gif)

あらっ。。。 このような新聞が当時あるわけあらへん。。。 あんさんがデッチあげたのですやろう?

わてが劇的に書いてみたのやがなァ~、わてが当時生きており、しかも日本新聞の編集長やったら、このような新聞を出していたかもしれへん。 これは歴史家が誰も言うてないことやけど、わては讚良皇女、つまり 後の持統天皇が境界性人格障害者やったと信じてるねん。

でも。。。、当時、そのような病名はなかったのとちゃうん?

もちろん、なかったのや。 でもなァ~、わての話を聞けば、めれちゃんも納得すると思うのやァ~。。。

どないな話やのォ~?

あのなァ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんが亡くなってしもうたのやがなァ~。。。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺してしもうたァ。

マジで。。。?

このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのやでぇ~。。。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたのやァ。

ホンマかいなァ~。。。?

ホンマやでぇ~。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになるねん。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史やったァ。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがおるねん。

● 蘇我蝦夷

● 蘇我入鹿

● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

● 有間皇子

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)

  。。。

あらっ。。。 この人たちは天智天皇によって命を奪われたのォ~?

そうやがなァ~。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁いだのやでぇ~。。。 もちろん、政略結婚やァ。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子やった。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものやァ。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとしたのやがなァ。

。。。で、大海人皇子は懐柔されはったん?

いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されてしまうねん。 目には目を歯には歯を! この当時の必然やったァ。

そのような話は歴史の時間に聞いたことがあらへん。

ここでは詳しく話をする時間があらへん。。。、めれちゃんも ぜひ次の記事を読んでみて欲しいのやァ。


(kamata02.jpg)

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っていた。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っておった。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺してるねん。

あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのォ~?

そうなのやァ。。。 とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人やった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れているねん。


(keizu03.gif)

上の系図を見て欲しい。 青枠で囲んであるのが持統天皇の血がつながった子孫やがなァ~。。。 この人たちに皇位が渡されてゆくねん。。。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのやがなァ~。。。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになりはったん?

その通りやァ。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたのやがなァ。

讚良皇女の幼少の頃の事件を

もう一度振り返ると。。。

乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。

危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。

『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。

聡明で非情である持統天皇が

なぜ怨霊を恐れるのか?

ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。


(kaguyama2.jpg)

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないねんでぇ~。。。

それやったら、何を感じて詠みはったん?

これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えたのやがなァ~。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、わては次のようにしか解釈できへん。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


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大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだやがなァ~。。。


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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるねん。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのやがなァ~。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見てるねん。

ホンマかいなァ~。。。?

わては次のように考えておるねん。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。

なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。

『万葉集の謎と山上憶良 – 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。

つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。

このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?


(futakami2.jpg)

現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

この世に生き残った私は、

明日からは、

弟が葬られている

二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が

皇子の霊を祈祷によって鎮めた。

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

怨霊信仰


(dokuro3.gif)

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」


SOURCE: 国史大辞典

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。

つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。

では、ここで 司馬遼太郎さんの言葉を書くよってに、めれちゃんも読んで欲しいねん。。。 生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っておったのやでぇ~。。。


(shiba3.gif)

“作品は作者だけのものと

違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが

作品なんやでぇ~”

名言だと思うねん。。。 あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか? それが問題やねん! 大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌やァ。 あなたも、全身全霊の力を込めて。。。 あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。 大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れまへん。

それで、大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せた、とあんさんは言わはるのォ~?

当然やなァ~。。。

つまり、持統天皇は怨霊を恐れるあまりに鎮魂の歌として“春すぎて 夏来たるらし”の歌を詠んだわけやのォ~?

そうとしか わてには考えられへん。


『愛の擬人法』より
(2016年4月28日)

デンマンさんは、ずいぶん長い文章を引用しやはったけど、相沢 由里香(あいざわ ゆりか)さんは 結局、“愛の擬人法”について何を悟りはったん?

そやから、由里香さんは、“愛の擬人法”も大切やけど、情報という形になっていない情報を、どのくらい自分の力で噛み砕き、吸収していくかということがマジで大切やと改めて考えさせられたのやがなァ~。。。

マジで。。。?

由里香さんは わてにメールを寄越して、そのように感想を述べていたのやがなァ~。。。

ホンマかいなァ~。。。?

あのなァ~、めれちゃん。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言うたのやでぇ~。。。 そやから、めれちゃんも わての言うことを信じて救われたらええやん。。。


(laugh16.gif)

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、デンマンさんのお話を信じることができますかァ~?

ちょっと眉唾物ですよねぇ~。。。

でも、確かに、情報という形になっていない情報を、どのくらい自分の力で噛み砕き、吸収していくかということはマジで大切だと思いますわァ~。。。

ところで、こう見えても あたくしは一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

腐女子の間では、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますゥ。

あなたは信じられないのでござ~ますかァ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


(genjiero4.jpg)

『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 

でも、最近 あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”がネットで人気が出ている、ということは信じられるでしょう?

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 それも信じられないというのでござ~ますかァ?

じゃあ、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。

うふふふふふふ。。。

あなたも、ビックリするでしょう?

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよ。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

ところで、話は変わりますけれど、

かつて、めれんげさんは 一生懸命にブログを更新していたのでした。

でも、時には、他のことに夢中になって、会費を滞納したことがあったのでござ~ますわァ。。。

そのために、サイトを削除されてしまったのです。

それでも、2013年の6月にライブドアで『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよねぇ~。。。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。

でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


(hand.gif)


(surfing9.gif)

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こんにちはジューンです。

卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ


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愛憎と三輪山

2016年5月4日

 

愛憎と三輪山

 


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デンマンさん。。。 愛と憎しみが三輪山と関係あるのでござ~ますかァ~?


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関係ないように見えても関係あるのですよ。。。 関係なかったら、上のようなタイトルを書けませんからねぇ~。。。

。。。んで、どういうわけで“愛憎と三輪山”というタイトルにしたのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。

額田王が近江に下向する時の歌


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明日香や藤原で生活していた人びとは、円錐形の三輪山を東に望んで生活していた人びとであった。
その三輪のミモロ、カムナビ(土地の神様がおられる所: デンマン注)を、額田王(ぬかたのおおきみ)が、奈良盆地の北の遥か奈良山から歌っている歌がある。

題詞によれば、近江に下向する時に歌われた歌だという。
だとすれば、一時的な別れであるにせよ、永遠の別れであるにせよ、大和を去るにあたって歌われた歌ということになる。

額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌


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味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に

い隠るまで 道の隅 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを

しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

反歌

三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや


上の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。
日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔(つきたち)の己卯(きぼう)に、都を近江に遷す」といふ。

[和ふる歌省略]    (巻1の17、18)

まさに、故郷を離れる人々の心情を読み取ることのできる歌である。

万葉ファンなら、一度は読んだことのある歌だろう。

(略) 訳すと、

額田王が近江国に下った時に作った歌、そして井戸王がすぐに唱和した歌


(miwa05.jpg)

うまい酒といえば三輪 その三輪山を 青土がよいという 奈良の山の 山の向こうに

隠れゆくまでに 道の曲がり角の 見えなくなるまでに 幾重にも幾重にも重なってゆくまでに

思う存分に 見続けながら旅立ってゆきたいのに…… 幾たびも幾たびも眺めてゆきたい山だのに……

つれなくも その三輪山を雲が 隠してよいものか

(そんなことが許されてたまるものか……)

反歌

三輪山を そんなにも隠してよいことか せめてせめて雲だけでも わが思いを察してほしい

隠してよいものか (私はいつまでも見ていたいのだ……)


上の二首の歌については、山上憶良大夫の『類聚歌林』に、「近江国に遷都した時に、三輪山をご覧になって天智天皇がお作りになったお歌である」と記されている。

『日本書紀』には、「天智天皇の6年3月19日」、近江に遷都したと記されている。

[和ふる歌省略]

。。。となろうか。
奈良山から見る三輪山は、遥か南に望むことができる小さな山だ。

しかも、竜王山などの山影に隠れ、その全体が見えるわけでもない。
山並みの一つで、よほど注意深く見なくては、あれが三輪山だと気づくことはない。

だから、わざわざ奈良山に登って三輪山を見ようとする人などいない。
いるとすれば、『万葉集』の愛好家だけだ。

 (中略)


(okura40.jpg)

この歌の左注は、山上憶良大夫の『類聚歌林』という書物と『日本書紀』を引用して、歌が歌われた事情について、編纂者の考えを述べている。
『類聚歌林』は、今日、残念ながら現存しないのだが、『万葉集』の編纂にあたって中心的に用いられていた資料と異なる伝えもあった。
その場合、編纂者は、『類聚歌林』をみますと、別の伝えもあるのですよ、と引き合いに出すのである。

この歌の場合、天智天皇が都を近江に遷した時に作った歌との伝えもあったようだ。
この『類聚歌林』の伝えを確認せんがために、編纂者は『日本書紀』を引用して、年月日を確認しているのである。
『類聚歌林』の伝えを信じれば、当該歌は額田王の作ではなく、遷都にあたっての、天智天皇の御製歌ということになる。


(tenchi20.jpg)

 (中略)

なぜ、作者は、繰り返し繰り返し、三輪山を見たいと歌ったのだろうか?
私は、故郷の山たる三輪山への哀惜の念と、三輪山に対する畏敬の念があったからだろう、と信じる。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


190-195ページ
『日本人にとって聖なるものとは何か』
著者: 上野誠
2015年1月25日 初版第1刷発行
発行所: 中央公論新社

あらっ。。。 額田王(ぬかたのおおきみ)の長歌と反歌でござ~ますわねぇ~。。。 とっても素敵なお歌でござ~ますわァ~。。。

あれっ。。。 卑弥子さんは、この長歌と反歌の素晴らしさが解るのですかァ~?

デンマンさん! 失礼でござ~ますわよう! こう見えても、あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を教えているのですわァ~。。。 この程度のお歌は、あたくしにとって朝ご飯の前なのですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。

それを言うなら“朝メシ前”と言ってくださいよ。

つまり、額田王(ぬかたのおおきみ)の長歌と反歌を持ち出してきて、デンマンさんは あたくしの古代文学の素養を試そうとしたのですわねぇ~。。。?

卑弥子さんは、そのようカングッタのですかァ~?

それ以外に考えられないじゃござ~ませんかア!

。。。で、上の歌のどこに卑弥子さんは感銘を受けたのですか?

本の著者が書いてるではござ~ませんかア! 額田王(ぬかたのおおきみ)は故郷の山たる三輪山への哀惜の念と、三輪山に対する畏敬の念があったために、繰り返し繰り返し、三輪山を見たいと歌ったのでござ~ますわァ。。。 誰が上のお歌を読んでも、そのようなところに感動するものですわァ~。。。 おほほほほほ。。。

卑弥子さんはマジでそう思うのですかァ~?

デンマンさんは、そうじゃないとおっしゃるのでござ~ますかァ。。。!?

あのねぇ~、僕は他の記事の中で次のように書いたことがある。


(think20.jpg)


私たちが生きてゆく過程で必要なのは、

すでに分かりやすい形に

加工されている情報を摂取し、

頭を太らすことだけでなく、

情報という形になっていない情報を、

どのくらい自分の力で噛み砕き、

吸収していくかということなのである。

それは、うまく世の中を渡れる知識を

手っ取り早く獲得することとは一線を画し、

いかに自分が人間として、

生き生きした時間を開拓するか

ということにつながっているのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


257ぺージ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

『愛の擬人法』に掲載
(2016年4月28日)

なるほどォ~。。。 情報という形になっていない情報を、どのくらい自分の力で噛み砕き、吸収していくか? そのことが大切だとおっしゃるのでござ~ますわねぇ~。。。

その通りですよ。。。 生前、司馬遼太郎さんも、次のように言ってたのです。。。


(shiba3.gif)

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思います。。。 つまり、卑弥子さんが読者として、上の額田王の長歌と反歌をどれほど理解できるか? 要するに、残りの50%の分を どれほど読みつくすことができるか? それが問題だということですよ。

あらっ。。。 デンマンさんは、あたくしの読みが足りないと言うのでござ~ますかァ?

だってぇ、そうでしょう! 卑弥子さんは本の著者が言うままに 額田王の長歌と反歌の良さをオウムのように繰り返しただけですよ。。。 卑弥子さんは京都の女子大学で橘卑弥子・准教授として教鞭をとっているのですよ。。。 当然の事だけれど、卑弥子さんの これまでの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で 全身全霊の力を込めて理解すべきなのですよ。。。

つまり。。。、つまり。。。、あたくしの理解力が足りないとデンマンさんは主張するのでござ~ますかァ~?

そうです。。。 本の著者の言っていることは通り一遍の解釈に過ぎない! 卑弥子さんは、僕をうならせるような解釈をして欲しかったのですよ。

。。。ということは、デンマンさんには あたくしを うならせるような解釈ができると言うことでござ~ますわねぇ~?

そうです。。。

分かりましたわァ。。。 デンマンさんが そのように言うのでしたら、さっそく その あたくしを“うならせるような解釈”とやらを聞かせてくださいましなァ~。。。

じゃあ、まず次の記事を読んでみてください。

僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。

大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。


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金木(かなき)つけ

わが飼ふ駒は

引き出せず

わが飼ふ駒を

人見つらむか

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。

僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。

大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。

孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。

しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。


(horse33.jpg)

確かに事情はよく分かる。

しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。


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人の世は、決してそういうものではないと私は思う。

だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。


(koutoku3.jpg)

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。

ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。

『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。

でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。

この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。
つまり、批判していたのです。

額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。


『性と愛と批判』より
(2006年5月8日)

あらっ。。。 デンマンさんは10年前に、こんな事を書いていたのでござ~ますかァ?

いけませんか? うししししし。。。

笑っている場合じゃござ~ませんわァ~。。。 つまり、額田王が詠んだ長歌と反歌は、実は、天智天皇が詠んだものだったのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 だから、『万葉集』の編纂者だった大友家持が わざわざ子供の頃の自分の家庭教師だった山上憶良が書いた『類聚歌林』を持ち出してきて、「近江国に遷都した時に、三輪山をご覧になって天智天皇がお作りになったお歌である」と引用したのですよ。。。 更に、『日本書紀』まで持ち出してきて、「天智天皇の6年3月19日」、つまり、653年に大和から近江に遷都したと確認している。

でも、デンマンさんが書いた上の記事では、大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立し… 孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまったのですわねぇ~。

そうです。。。 孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子(後の天智天皇)が握っていたのです。 つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇だったのですよ。 しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。 しかも中大兄皇子の母親の実の弟、つまり皇子の叔父さんです。 それなのに、孝徳天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。 しかも、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。

あらっ。。。 天智天皇は、ずいぶんと酷(ひど)い事をなさったのでござ~ますわねぇ~。。。 でも、それは653年の出来事で 上の三輪山のお歌は 667年に天智天皇が詠んだお歌でござ~ますわァ。

だから、大和から近江に都を移すにあたって、14年前の653年に、無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れてきたことを思い出しながら、三輪山を、つまり、大和の都を振り返って詠んだのが 上の長歌と反歌ですよ。 意味は次のようになります。


(miwa05.jpg)

三輪山には いろいろな思い出がある。

だから、こうして大和を去るにあたって、見えなくなるまで

幾たびも幾たびも眺めてゆきたい山だ……

しかし、つれなくも その三輪山を雲が 隠してしまった。

想えば、14年前に、私もつれないことをしたものだ。


(koutoku3.jpg)

無理やり叔父さんを難波に置き去りにして、

叔父さんの妻になっていた実の妹を無理やり連れだしてきたのだ。


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こうして、三輪山を 雲が隠しているのは、

その時の報(むく)いなのかもしれない。

でも、あの時は そうするより仕方がなかったのだ。

 


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だから、こういう思いを込めて 天智天皇は詠んだのですよ。


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますかァ~?

天智天皇は、もうずいぶん昔にお亡くなりになりました。

でも、本当のところは、天地天皇に訊いてみないと解りませんわよねぇ~。。。

ところで、話は変わりますけれど、
実は、あたくしは毎日ジムに通って女の魅力を鍛えたのでござ~ますわ。

ええっ。。。 どんな女の魅力かってぇ~。。。?

“ヴィーナスのえくぼ”でござ~ますわよう!

うふふふふふ。。。

あなたは信じられないでしょう?

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


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どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

天智天皇のお話は、大変興味深いでしょう?

他にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

だから、あなたのために古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいまし。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』

『兄妹の恋のつづき』

『源氏物語エロいの?』

『酒が行って着物目変境』

『日本は外人に乗っ取られたの?』

『ん?ヒトラーはベジタリアン?』

『ふるさとの選挙と黒い霧』


(hama10.jpg)

『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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愛の擬人法

2016年4月28日

 

愛の擬人法

 


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小さな赤い花

 


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わたしをあなたの庭に咲く

小さな赤い花にしてください

そして、お水を注ぎながら

何かお話を聞かせてください

わたしは何も言えないけれど

あなたの言葉を聞きながら

いろんなことを思うのです

あなたに愛されるように

いつまでも綺麗に

咲いています

だからわたしのことを

忘れずにいてください

 

by merange (めれんげ)

2010.02.19 Friday 10:24


『即興の詩 小さな赤い花』より
デンマン注: 旧『即興の詩』サイト【閉鎖】

『永遠の愛のコラボ』に掲載


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デンマンさん。。。 あんさんは、どないなわけで “愛の擬人法” というタイトルを付けはったん?


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分かりきった事を訊いたらあかん。。。 めれちゃんが詠んだ“小さな赤い花”という詩を わては冒頭に引用したのやでぇ~。。。 この愛の詩を読めば、“愛の擬人法”で詠まれている事が分かるやないかいなァ~。。。

それは おかしいんとちゃうん?

何がおかしのやァ~?

「わたしをあなたの庭に咲く 小さな赤い花にしてください」と言うてますねん。。。 


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つまり、“擬人化”やのうてぇ“植物化”。。。、そうやなかったら“お花化”ですやん。。。

あのなァ~、めれちゃん。。。 確かに、表面的には めれちゃんが“小さな赤い花”になる、と言うてるねん。。。 そして「あなたに愛されるように いつまでも綺麗に 咲いています」よと詠んでいる。。。 そやけど、“小さな赤い花”にも心があって、「あなたに愛されるように いつまでも綺麗に 咲いています」ということは、“小さな赤い花”を擬人化していることやでぇ~。。。 その辺に咲いているチューリップの花は「あなたに愛されるように いつまでも綺麗に 咲いています」とは絶対に言わんでぇ~。。。 そやから、上の詩は“愛の擬人法”に基づいて めれちゃんが詠んだのやがなァ~。。。

そうやとしても、なんで あんさんは急に“愛の擬人法”を取り上げはったん?

実は夕べ バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのやがなァ~。。。

果たして、それは擬人法か?

『万葉集』の巻1に、天智天皇(在位668~671)が、皇太子時代に作ったとみられる歌が収められている。

中大兄(なかのおほえ)[近江宮(あふみのみや)に天(あめ)の下治(をさ)めたまひし天皇]の三山(みつやま)の歌一首

香具山は 畝傍(うねび)ををしと

耳成(みみなし)と 相争(あひあらそ)ひき

神代(かみよ)より かくにあるらし

古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ

うつせみも 妻を 争ふらしき

反歌

香具山と 耳成山と あひし時

立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)

[第二反歌、左注省略] (巻1の13、14)

香具山、畝傍山、耳成山は、大和三山と呼ばれる山々であり、三山の性別については、8百年にも及ぶ論争のあるところだが、仮に訳すと、


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香具山

香具山は畝傍山を横取りされるのが惜しいと、耳成山と争った……

神代からこうなので

いにしえもそうだっら

今の世も妻を争うらしい

(まして、自分も)

(略) 注意してほしいのは、「香具山は……」と、突然歌いだすことである。
山が恋をするということについて、何の説明もない。
そればかりか、この歌は、人も恋するように山も恋をするのだろうというようには、歌っていないのである。
逆だ。

神代から三山は互いのツマを争った。
古もそうだった。
だから、今もそうなのだ、というのである。
神代から山も恋をする。
だから、今も人は、恋をするのだ、という論法である。
今日のわれわれの考え方から見ると、人と人以外のもの、生命を持つものと生命を持たないものの垣根が、きわめて低いのである。


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畝傍山


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耳成山

 (中略)

万葉学徒の多くは、こういう擬人化は、中国文学の影響を受けたからだと説く。
しかし、私には、疑問だ。
仮に中国文学の影響によって、こういう表現が生まれたとしても、もともとの思考法と合致したから、意識せずに受け入れられたと考えるべきだ。
擬人化の技巧を学んで表現したと考える必要などないのではないか。

 (中略)

有名な持統天皇(在位690~697)の歌の解釈も、われわれはどうも誤ってきたようだ。

天皇の御製歌(おほみうた)

春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの

衣(ころも)干したり 天(あま)の香具山

(巻1の28)

通説では「春が過ぎて夏がやって来たらしい。 真っ白な衣が干してある。 天の香具山を見ると」ないし「香具山に」と解釈される。
しかし、素直に歌をみると、「干したり」は「干している」ということだから、誰か人が香具山に衣を干したとは、書かれていない。

この点に着目した、万葉研究の俊英・鉄野昌弘は、「春が過ぎて、夏がやって来たらしい。 真っ白な衣を干している、天の香具山が」と解釈し、少なくとも中世においては、香具山が白い衣ないし、白い衣のようなものを纏(まと)うと解釈されてきたことを明らかにした。
つまり、「香具山自身が、白い衣を干す」のである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


20-25ページ
『日本人にとって聖なるものとは何か』
著者: 上野誠
2015年1月25日 初版第1刷発行
発行所: 中央公論新社

つまり、本の著者は「香具山自身が、白い衣を干す」のは“擬人法”ではのうてぇ、奈良時代の人は 心から素直に、そう思っていたと言うてるわけやねぇ~。。。

そういうこっちゃがなァ~。。。

でも、それは可笑しいと思うわァ~。。。

なして めれちゃんは、可笑しいと思うのやァ~。。。?

ハイキングなどして、山の中の深い林などに入ると、ひんやりとして、どこか うら寂しゅうなってぇ~、妙に不安と言うか、恐ろしいと言うかァ~。。。 深い林のどこかに妖精か神様が居るような。。。 そんな気にもなりますやん。。。 それに。。。、大きな、大きな岩などが山の中や、海岸に突き出ているのを見ると、何かいわくがあって、神様がそこに置いたような。。。 “山の精”か、“海の精”がその大きな岩の中に宿っているような気もしますねん。

うん、うん、うん。。。 確かに、そのような“恐れ”や“不思議な感覚”を わても体験したことがある。。。

そうですやろう!?。。。 それは人間なら、誰しも体験することやと思いますねん。。。 それは、“擬人化”と言うよりは、人間が自然に感じる“恐れ”や“不思議な感覚”を“妖精”や“神様”と感じる素直な感性やァ、とわたしは思いますねん。

なるほど。。。、なるほど。。。、

そやけど、「香具山自身が、白い衣を干す」のは“擬人法”やァ、と思いますゥ。

それは、どないなわけやねん?

「香具山自身が、白い衣を干す」には、香具山に手も足も生えており、衣を洗濯して、その衣を絞って、それで両手で持って広げて、香具山の麓に。。。、つまり、自分自身のお腹の辺りに広げて干すということですやん。。。 

確かに、そういうことやなァ~。。。

それは、人間が自然に感じる“恐れ”や“不思議な感覚”を“妖精”や“神様”と感じる素直な感性とちゃいますやん。。。 人間の想像の産物やと思いますねん。。。 つまり、あまりにも“擬人化”してますやん。。。 手足がなければ、洗濯することも、干すこともできしまへん。。。 子供のように、素直な目で山を見れば、とても手と足があるようには見えへん。。。 つまり、「香具山自身が、白い衣を干す」のは大人のイマジネーションですやん。

ほおォ~。。。 なるほど。。。、なるほど。。。、めれちゃんの言わんとすることが わてにも分かるような気がしてきたわァ~。。。

そうですやろう?。。。 ところで、あんさんは どないなわけで上の文章を引用しやはったん?

有名な持統天皇(在位690~697)の歌の解釈も、われわれはどうも誤ってきたようだという箇所に わては引っかかったのやがなァ~。。。

その歌のどこに引っかかりはったん?

あのなァ~、本の著者は次のように書いている。

万葉研究の俊英・鉄野昌弘は、

「春が過ぎて、夏がやって来たらしい。 

真っ白な衣を干している、天の香具山が」と解釈し、

少なくとも中世においては、

香具山が白い衣ないし、

白い衣のようなものを纏(まと)うと

解釈されてきたことを明らかにした。

わてに言わせてもらえば、香具山が白い衣を纏っていようが、香具山に白い衣が干してあろうが、そないなことは枝葉末節のことやねん! 歌の肝心なところは、そないな所にはあらへん!

あんさんの言わはる肝心な所ってぇ、いったいどこやねん?

ちょっと次の小文を読んで欲しいねん。


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私たちが生きてゆく過程で必要なのは、

すでに分かりやすい形に

加工されている情報を摂取し、

頭を太らすことだけでなく、

情報という形になっていない情報を、

どのくらい自分の力で噛み砕き、

吸収していくかということなのである。

それは、うまく世の中を渡れる知識を

手っ取り早く獲得することとは一線を画し、

いかに自分が人間として、

生き生きした時間を開拓するか

ということにつながっているのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


257ぺージ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

つまり、あんさんは 加工されている情報を摂取し、頭を太らすことだけではダメだと言わはるのォ~?

その通りやがなァ~。。。 歌の表面的なところだけを捉(とら)えたところで、歌の本当の意味は解らへん。。。 香具山が白い衣を纏っていようが、香具山に白い衣が干してあろうが、そないなことは どうでもええねん。

つまり、あんさんは情報という形になっていない情報を、自分の力で噛み砕き、吸収した、と言わはるのォ~?

そうやがなァ~。。。

それやったら、余計な事は言わんでもええさかいに、細木数子のようにズバリ!ズバリ!とその肝心な所というのを言うてくれへん?

あのなァ~、万葉集には歴史的な意味が込められた和歌が、実は、たくさん載せられているのやがなァ。。。 万葉集には藤原氏、あるいは、当時の実力者に対する批判が込められた和歌がたくさん載せられておるねん。。。 そのような観点から歌の意味を考えると実に面白い読み物なのやァ。

。。。で、あんさんによると上のお歌の意味はどないになるのォ~?

上の歌の本当の意味を探るには、まず次のニュースを読む必要があるねん。

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 女帝誕生

 

讚良(さらら)皇女が

 

皇位を継ぐ。

 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

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あらっ。。。 このような新聞が当時あるわけあらへん。。。 あんさんがデッチあげたのですやろう?

わてが劇的に書いてみたのやがなァ~、わてが当時生きており、しかも日本新聞の編集長やったら、このような新聞を出していたかもしれへん。 これは歴史家が誰も言うてないことやけど、わては讚良皇女、つまり 後の持統天皇が境界性人格障害者やったと信じてるねん。

でも。。。、当時、そのような病名はなかったのとちゃうん?

もちろん、なかったのや。 でもなァ~、わての話を聞けば、めれちゃんも納得すると思うのやァ~。。。

どないな話やのォ~?

あのなァ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんが亡くなってしもうたのやがなァ~。。。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺してしもうたァ。

マジで。。。?

このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのやでぇ~。。。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたのやァ。

ホンマかいなァ~。。。?

ホンマやでぇ~。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになるねん。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史やったァ。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがおるねん。

● 蘇我蝦夷

● 蘇我入鹿

● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

● 有間皇子

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)

  。。。

あらっ。。。 この人たちは天智天皇によって命を奪われたのォ~?

そうやがなァ~。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁いだのやでぇ~。。。 もちろん、政略結婚やァ。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子やった。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものやァ。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとしたのやがなァ。

。。。で、大海人皇子は懐柔されはったん?

いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されてしまうねん。 目には目を歯には歯を! この当時の必然やったァ。

そのような話は歴史の時間に聞いたことがあらへん。

ここでは詳しく話をする時間があらへん。。。、めれちゃんも ぜひ次の記事を読んでみて欲しいのやァ。


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『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っていた。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っておった。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺してるねん。

あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのォ~?

そうなのやァ。。。 とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人やった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れているねん。


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上の系図を見て欲しい。 青枠で囲んであるのが持統天皇の血がつながった子孫やがなァ~。。。 この人たちに皇位が渡されてゆくねん。。。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのやがなァ~。。。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになりはったん?

その通りやァ。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたのやがなァ。

讚良皇女の幼少の頃の事件を

もう一度振り返ると。。。

乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。

危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。

『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。

聡明で非情である持統天皇が

なぜ怨霊を恐れるのか?

ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。


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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないねんでぇ~。。。

それやったら、何を感じて詠みはったん?

これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えたのやがなァ~。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、わては次のようにしか解釈できへん。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


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大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだやがなァ~。。。


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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるねん。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのやがなァ~。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見てるねん。

ホンマかいなァ~。。。?

わては次のように考えておるねん。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。

なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。

『性と愛の影に隠れて – 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。

つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。

このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?


(futakami2.jpg)

現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

この世に生き残った私は、

明日からは、

弟が葬られている

二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が

皇子の霊を祈祷によって鎮めた。

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

怨霊信仰


(dokuro3.gif)

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」


SOURCE: 国史大辞典

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。

つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。

では、ここで 司馬遼太郎さんの言葉を書くよってに、めれちゃんも読んで欲しいねん。。。 生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っておったのやでぇ~。。。


(shiba3.gif)

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思うねん。。。 あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか? それが問題やねん! 大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌やァ。 あなたも、全身全霊の力を込めて。。。 あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。 大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れまへん。

それで、大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せた、とあんさんは言わはるのォ~?

当然やなァ~。。。

つまり、持統天皇は怨霊を恐れるあまりに鎮魂の歌として“春すぎて 夏来たるらし”の歌を詠んだわけやのォ~?

そうとしか わてには考えられへん。


(laugh16.gif)

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
ずいぶんと長たらしいお話ですわ。

あなたは、どう思いますか?

関係者は すでにとっくの昔にあの世へ逝ってますから、

“死人に口無し”ですわ。

持統天皇がどのような気持ちを込めて歌を詠んだのか?

それは天のみが知っていることだと思います。

話は変わりますけれど、かつて、めれんげさんの熱烈なファンがたくさんいたのでした。

でも、うっかり会費を滞納したために、
サイトを削除されてしまったのですわ。

けれども、2013年の6月にライブドアで『即興の詩』サイトを再開しました。

めれんげさんの『即興の詩』サイト

再開して間もないのに 検索結果 3,960,000件中の 9位に躍り出るなんてすごいですよね。


(gog30703.gif)

『現時点での検索結果』

現在、めれんげさんは お休みしています。
でも、これからも、ブログを通して「愛のコラボ」を続けて欲しいですよねぇ~。。。

かつて めれんげさんの「即興の詩をはじめました!」の『極私的詩集』サイトは 次の検索結果で見るようにトップを占めていたのです。


(gog30928a.png)

でも、現在は、5位です。

また、ブログを更新して トップに返り咲いて欲しいものです。

ところで あなたは「どうしたら、上位に掲載されるのォ~?」と考えているかもしれません。

その秘訣を知りたかったらデンマンさんが面白い記事を書いていますわ。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


(seo001.png)

『おばさんの下着に見るSEO』

話は変わりますけれど、めれんげさんは可愛い猫を飼っています。

あなたも、猫ちゃんを飼っていますか?

ええっ。。。 ワンワンちゃんを飼っているのですか?

そういえばデンマンさんが『ワンワンちゃん』という面白い記事を書いていました。

気が向いたら下のリンクをクリックして読んでみてください。


(dog202.jpg)

『ワンワンちゃん』

とにかく、次回も興味深い話題が続きます。

あなたもどうか、また読みに戻ってきてくださいね。

では、また。。。


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こんにちはジューンです。

卑弥子さんが面白いお話を集めて

楽しいサイトを作りました。

次のリンクをクリックして

ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ


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兄妹の恋のつづき

2014年12月5日

 

兄妹の恋のつづき

 


(karu013.jpg)


(kamata02.jpg)


(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 今日は 再び“兄妹の恋”を語るのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

そうですよう。。。 卑弥子さんもワクワクしてきたでしょう?

でも、上の画像を見ると下の絵は、なんだか血なまぐさいですわよねぇ~。。。

卑弥子さんは、ずっと以前に“兄妹の恋”を語った時のことを覚えてますか?

ずいぶんと前のことでござ~ますわよねぇ~。。。

それほど前でもありませんよ。 今年の2月13日でした。


(sister90.jpg)

『兄妹の恋と大乱』

思い出しましたわ。。。 “兄妹の恋”の裏に、血なまぐさい権力争いが隠されていたというお話でござ~ましたわァ。

そうです。。。そうです。。。

確か、その時の兄と妹は、あの有名な木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)でござ~ましたよねぇ~。。。

兄妹の恋


(karu013.jpg)

木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。

『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。


(tokuko05.jpg)

その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)

『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。

四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。


出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

それで、今日の“兄妹の恋”というのは、どなたと どなたでござ~ましょうか?

天智天皇になる中大兄皇子と同母の妹で、孝徳天皇の間人(はしひと)皇后になる間人皇女(はしひとのひめみこ)ですよ。

間人皇女


(hashihito9.jpg)

(生年不詳 – 665年3月16日)

飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。
天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。

乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。
間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。

大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。
葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。


(koutokuzu.jpg)

白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。

天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。

この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。

金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず

吾が飼ふ駒を 人見つらむか


原文:

繫於金木 吾飼駒當無出兮

吾之駒至今何以為所獲

間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く
吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。


出典: 「間人皇女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

でも。。。、でも。。。、デンマンさんは中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情はなかったと言っていたではござ~ませんかァ!

あれっ。。。 卑弥子さんは、そんな事まで覚えているのですか?

あたくしの記憶力は、デンマンさんが考えている以上に 相当なものでござ~ますわよう。 次のように書いていたのを覚えておりますわァ。

僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。
数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。
先生が歴史が好きな事が良く分かった。
その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。

“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。

先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。

“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せず

わが飼ふ駒を人見つらむか”

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。
分かりやすいように背景を説明します。

天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。

一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。

孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。

大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。

しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。

確かに事情はよく分かる。

しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。

人の世は、決してそういうものではないと私は思う。

だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。

『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。
でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。

この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。


『性と愛と批判』より
万葉集の中の政治批判
【2006年5月8日】

ここで、前言を翻(ひるがえ)して 中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情があったなどと言うつもりはないでしょうねぇ~!?

もちろん、そのような事を言うつもりはありません。

でも、タイトルには“兄妹の恋のつづき”と書いてござ~ますわァ。。。 つまり、デンマンさんは 中大兄皇子と実の妹の間人皇女の間に恋心があったと言おうとしたのに 間違いがないのですわァ。。。 でも、あたくしが古い記事を持ち出してきたので、デンマンさんは都合が悪くなったので、撤回したのです。 そうでしょう?

卑弥子さんは、なかなか鋭いことを言いますねぇ~。。。 実は、そうだと言いたいところです。。。 でも、違うのですよ。 上の引用の一番下に万葉集の中の政治批判と書いてあるでしょう。。。!?

それがどうしたと言うのでござ~ますか?

つまり、『古事記』や『日本書紀』の中にも政治批判が書き込まれてるのですよ。

それは初耳ですわ。。。 そのようなお話は聞いたことがござ~ませんわァ。

あのねぇ~、僕は次のように書いたことがある。

『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとの おおえのみこ)は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということで この事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。

中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。

従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。

その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。


(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してください、ということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等と しらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。

この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。

古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。

古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。

しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。

中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。

後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。


『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)

つまり、『古事記』や『日本書紀』の編集に携わった人の中には反骨精神が旺盛で、政治的批判をそれとなく書き込んだ人たちがいたと、デンマンさんは言いたいのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも、その事と “兄妹の恋のつづき”は、どのように関係しているのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕に言わせれば『古事記』も『日本書紀』も、藤原氏が当時の政権の正当性を反動派や当時の官僚や後世の官僚に訴えるために書いたものですよ。 でもねぇ~、執筆者の中には表面上は藤原氏に従っている振りをしながら、反発精神に燃えて人たちもいた。 その仮面をかぶった反動派の執筆者たちは、史書の各所で、後の世の人が読めば、天智政権・藤原政権の横暴が解るように書いている。

たとえば。。。?

だから、『日本書紀』の中でも 古人大兄皇子の言葉として「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言った、と書き込んで執筆者がいたのですよ。 表面には おくびにも出さないけれど、内心、藤原不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうとしたわけです。

“兄妹の恋”の中にも、そのように真実をどこかに書き残そうとした執筆者の苦心が見えるのでござ~ますか?

見えるのですよ。 だいたい、木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語などは、本来ならば、藤原氏は書かせたくはなかったでしょう。

どうして。。。?

『ウィキペディア』にも書いてあるけれど、「間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。 しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く」研究者もいるのですよ。 つまり、このような関係があることを匂わせるために、『古事記』の執筆者の中に 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語をどうしても書かなければならないと思った人がいたのですよ。

実際、当時、政権に携わっている人たちや、反動派の人たちにも、間人皇女と中大兄皇子の関係を疑っていた人たちがいたのでござ~ますか?

いたのですよ。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、もうずいぶん昔のことだから、二人が関係しているところを撮った写真があるわけではない。 でもねぇ、状況証拠がある。

その状況証拠とは、いったい どのようなものでござ~ますか?

中大兄皇子は、本来ならば、大化の改新を断行した時に、天皇になれるはずだったのですよ。 でもなれなかった。

どうして、その時に天皇になれなかったのでござ~ますか?

中大兄皇子は、次期天皇に目されていた異母兄の古人大兄皇子を殺している。 兄殺し! 更に、乙巳の変(645年6月)、つまり、大化の改新で、皇極天皇が譲位する。 この時にも、中大兄皇子は過去の悪行が災いして人望がなく、天皇になれず、皇極天皇の弟、つまり、中大兄皇子の叔父さんである軽皇子が孝徳天皇として即位する。

。。。で、この時に、中大兄皇子はスパイ兼監視役として妹の間人皇女を叔父さんのお嫁さんにすると画策したのでござ~ますか?

そうです。。。 翌年、大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。 実権を握っていたのは、大化の改新で活躍した中大兄皇子だった。 それで、叔父の天皇とは不仲だった。 白雉4年(653年)、よせばいいのに、中大兄皇子は叔父さんを一人残して、多くの官僚と共に、実の妹でもあり、叔父さんの妻でもある間人皇后を無理やり飛鳥に連れ去ってしまう。 当然のことながら、噂が立つのですよ。 中大兄皇子と妹の間人皇女は恋愛関係にあったと。。。 そして、それを裏付けるように そういう事が過去にもありましたよ、と『古事記』の執筆者は木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋物語を書き込んだわけですよ。


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

中大兄皇子と実の妹である間人皇女の間に恋愛関係があったと思いますか?

ええ? もうずいぶんと昔の話だから、どうでもいいのでござ~ますかァ?
解りましたわ。

じゃあ、あたくしの個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますゥ。
信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくだしまし。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ところで、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』

『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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