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クラシック鑑賞 1

2017年12月17日

 

クラシック鑑賞 1

 


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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラを呼び出したのですかァ~?


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タイトルに書いたとおりだよ!

あれっ。。。 もしかしてクラシックを鑑賞するために オイラを呼び出したのですか?

そうだよ。。。

マジで。。。? デンマンさんとオイラとマジでクラシックを鑑賞するつもりなのですかァ?

オマエは不満なのォ~?

いいえ。。。 デンマンさんと共にクラシックを鑑賞することができるなんてぇ~、天にも昇るよな気持ちですよ。。。 この際、スキップして喜んでもいいですか?

あのさァ~、いくらなんでも、それはオーバーじゃないのォ~? オマエが以前のようにスキップして喜んだら、この記事を読みに来たネット市民の皆様が呆れて他のブログへ飛んでしまうのだよ!

分かりました。。。 じゃあ、スキップして喜びたいのですけれど、デンマンさんが そのように言うのであれば、じっと我慢したいと思います。。。で、いったいどのよなクラシックの曲を鑑賞するのですか?

オマエが“後奏曲集”の中で書いていた記事から選んだのだよ。。。 ちょっと読んでごらんよ!

4.7 Franz Joseph Haydn (1732-1809)

F.J. Haydnの<<Missa in tempore belli>>(Hob. XXII : 9、Paukenmesse>>を聴いて、まず、その手際よさに感銘を受けた。Textの繰り返しは少ないのではあるが、W.A. Mozartの<<Messe in c-moll>>(K. 317、Krönungsmesse>>のようには、慌しくはない。
この作品は、あの有名な<Agnus Dei>の処だけではなく、全曲にわたってtimpaniの音が響いている。<Kyrie>は、ソナタ形式であるが、それからして、timpaniとtrumpetが使用されているような作品は珍しいのではないか。
<Gloria>のなか、Qui tollis peccata mundからQui sedes ad dexteram Patris, miserere nobisまで、celloの独奏を伴っての、三回の独唱から合唱への推移は印象深い。
<Credo>は、三部になっていて、Et vitam venturi saeculi. Amenはコーダのような扱いになっているが、自由フーガである。三部の中間の、Et incarnatus est の終りからCrucificusの終りまでの半音階的な進行、そして木管楽器による不協和音の響きが注目される。
<Agnus Dei>は、timpaniの為の協奏曲か、と思われるほど、それが活躍している。
ついでに書いておくと、私のCD は、J.E. Gardinerの指揮、Monteverdi ChoirとEnglish Baroque Soloistsの演奏による演奏(Philips 470 819-2)による。
F.J. Haydnの<<Missa Sancti Bernardi von Offida>>(Hob. XXII : 10、Heiligmesse>>を聴いて、まず、その手際よさに感銘を受けた。Textの繰り返しは少ないのではあるが、W.A. Mozartの<<Messe in c-moll>>(K. 317、Krönungsmesse>>のようには、慌しくはない(草子地:PCを使って文章を書くと、このように繰返すことができるし、繰返してしまう)。
<Gloria>は、ほとんどがvivaceであり、その最後は二重フーガで終っている。
<Credo>は、三部になっていて、Et vitam venturi saeculi. Amenはコーダのような扱いになっているが、三部の中間の後半、Crucificusには、三声のcanonのEt incarnatus est の旋律が短調に転調され、変形されて、それに続けられている、更に、繰返された時には、それが長調に戻り、ほとんど前と同じ旋律になって回帰しているのが注目される。そして、Et incarnatus estは女声で、Crucificusは男声で唱われて対比させられているのである。
もう一つ、この作品では、ソナタ形式の<Benedictus>は<Sanctus>とは別扱いになっているように見受けられるが、そのHosanna in excelsisに移る時の、その流れが真に綺麗で、このような流暢な曲創りを、私は他のmissaでは知らない。これは、指揮者の功績かも知れないので、ついでに書いておくと、J.E. Gardinerの指揮、Monteverdi ChoirとEnglish Baroque Soloistsの演奏によるCD(Philips 470 819-2)である。
当時、HaydnのMessenには、いろいろな批判があったとのことであるが、私には、それが解るような気がする。やはり、上記の素晴しい例外を除いては、missaのordinariumの意味と音楽が調和していないのではないか、と首を傾げざるを得ない処が多いのである。彼は、無意識にも、交響的な音楽の進行の必然に、より多く引かれているからではないか。そのあたり、Mozartは、もう少し器用であった。しかし、HaydnのMessenほど、合唱の処でさえも言葉が聴き取りやすい作品は珍しい。
六曲ある、晩年のF.J. HaydnのMessenの最後のMesse <<Missa in B-dur>>(Hob. XXII : 14、Harmoniemesse>>を聴いた。この作品は、他のに較べても長大で、<Kyrie>だけでも8分7秒かかっている。演奏は、R. Hickoxの指揮するCollegium Musicum 90によるのであるが(Chandos 0612)、ちなみに、前述の二つのmissaでの<Kirye>では、それぞれ、4分48秒と4分21秒であって、異なる演奏家による違いがあっても、その比較は大差ないであろう。
このMesse、Hob. XXII : 14は、実質的には、Haydnの最後の作品と言ってもいい作品であるが、私のCDで43分13秒の壮大な演奏である。音楽作品として、Haydnのコンツェルタント形式としての完成された姿を見せて、聴かせている。彼の晩年の七年間の、さらなる成長には、眼を、耳を見張るものがある。有終の美、とは、こういう作品を指すのではないか。
<Gloria>と<Credo>の終りはフーガである。この作品には、効果的な繰り返しが多いのであるが、<Credo>の中の、et homo factus estが繰返されて、しばらくたってのet sepultus estが繰返されているのが、私には印象的である。
さすがに、この作品には、批判が少なかったのではないか、と思われるのであるが、molt allegroの<Benedictus>はどうであったのであろうか。ここでは、通常の独唱者たちによる抒情的な曲創りではなくして、コンツェルタント様式が、そのまま適用されている。これほどの騒々しい<Benedictus>は、他にはないのではないか。しかし、美しいことは美しい。
<Agnus Dei>が属調のG-durで始っているのも印象的である。静かに始まり、timpanoも加わっての華やかで肯定的なDona nobis pacemで作品を閉じている。
これらHaydnの三つのMessenで、Et incarnatus estとCrucifixusが一曲として纏められているのが珍しく思れるのであるが、他に例があるのであろうか。
コーダ (蛇足):
私には<Gloria>の文が誰によっていつ書かれたかのか、どの時代に成立したのかも不明であるが、常々、疑問に思っている一節がある。Gratias agimus tibi propter magnum gloriam tuamである。超越に対しての感謝が、その恵み、祝福や救済であったのなら解る。しかし、その栄光に感謝する、などというのは典型的な悪文ではないか。英語では、このような文を、It does not make senseと言う。


92-93ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

振り返ってみると、デンマンさんと共にクラシックを鑑賞するなんて生まれて初めてのことですねぇ~。。。

確かに、そうなのだよ!

これまで、デンマンさんは、オイラの文章を引用して、オイラをさんざ馬鹿にしてきましたからねぇ~。。。

つまり、オマエは僕を恨んでいるのォ~?

当たり前でしょう! デンマンさんのおかげで オイラはネットで悪名を轟(とどろ)かせてしまったのですよ!


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『拡大する』

『現時点での検索結果』

あのさァ~、実は、オマエがクラシックに関して造詣が深いことに僕は尊敬の念を抱いているのだよ。。。

その割には、これまでにオイラをさんざ馬鹿にしてきましたねぇ~。。。

あのさァ~、人間は誰でも完璧ではないのだよ。。。 当然、僕もオマエも完璧ではない! 50の長所があれば50の短所もある。。。 オマエの長所の一つがクラシックに関する造詣の深さだよ。。。

デンマンさんはオイラのクラシックの知識に対してマジで感心しているのですか?

そうだよ。。。 でもなァ~、オマエの表現の仕方は まったく自分本位で、読む人のために書いてない! オマエの上の文章には何が書いてあるのか? クラシックに興味のない人にとっては、まるでデタラメな外国の文章を読んでいるようで、何がなんだか さっぱり理解できないのだよ!

つまり、デンマンさにとっても、理解できないのですか?

その通りだよ。。。 だから、僕はクラシックに興味のない人でも、少しは読んで理解できるように、次のように書き直したのだよ。。。

4.7 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

   (1732-1809)


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ハイドンの<<ミサ、テンポール・ベリ>>(ティンパニの劇的な使用のためにポウケンメッセとしても知られている)を聴いて、まず、その手際よさに感銘を受けた。


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 (ミサ、テンポール・ベリ)

 

テキストの繰り返しは少ないのではあるが、モーツァルトの<<コロネーション・マス>>(K. 317、Krönungsmesse)のようには、慌しくはない。


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 (コロネーション・マス)

 

この作品は、あの有名な<アニュス・デイ(Agnus Dei) ラテン語で“神の小羊”>の処だけではなく、全曲にわたってティンパニの音が響いている。
<キリエ(Kyrie) キリスト教の礼拝における重要な祈りの一つ “主、憐れめよ”>は、ソナタ形式であるが、それからして、ティンパニとトランペットが使用されているような作品は珍しいのではないか。
<栄光の聖歌(Gloria)>のなか、Qui tollis peccata mund(世の罪を除きたもう)からQui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis(父の右に座したもう主よ、我らをあわれみたまえ)まで、チェロの独奏を伴っての、三回の独唱から合唱への推移は印象深い。

<ミサ曲(Credo)>は、三部になっていて、Et vitam venturi saeculi. Amen(来世のいのちを待ち望みます。アーメン)はコーダのような扱いになっているが、自由フーガである。
三部の中間の、Et incarnatus est(~によって現れこの世の人となられたことを) の終りからCrucificus(十字架につけられ)の終りまでの半音階的な進行、そして木管楽器による不協和音の響きが注目される。
<アニュス・デイ>は、ティンパニの為の協奏曲か、と思われるほど、それが活躍している。

ついでに書いておくと、私のCD は、ジョン・エリオット・ガーディナーの指揮、モンテヴェルディ合唱団とイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏による演奏(Philips 470 819-2)による。
ハイドンの<<ハイリッヒ・ミサ 変ロ長調>>を聴いて、まず、その手際よさに感銘を受けた。


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 (ハイリッヒ・ミサ 変ロ長調)

 

テキストの繰り返しは少ないのではあるが、モーツァルトの<<コロネーション・マス>>(K. 317、Krönungsmesse>>のようには、慌しくはない。
(草子地:PCを使って文章を書くと、このように繰返すことができるし、繰返してしまう)。
<栄光の聖歌(Gloria)>は、ほとんどが生き生きとして,速度が速く,明確なアクセントをもつ曲であり、その最後は二重フーガで終っている。

<ミサ曲>は、三部になっていて、Et vitam venturi saeculi. Amen(来世のいのちを待ち望みます…アーメン)はコーダのような扱いになっているが、三部の中間の後半、Crucificus(十字架につけられ)には、三声のカノン(輪唱)のEt incarnatus est(~によって現れこの世の人となられたことを) の旋律が短調に転調され、変形されて、それに続けられている、更に、繰返された時には、それが長調に戻り、ほとんど前と同じ旋律になって回帰しているのが注目される。

そして、Et incarnatus est(~によって現れこの世の人となられたことを)は女声で、Crucificus(十字架につけられ)は男声で唱われて対比させられているのである。

もう一つ、この作品では、ソナタ形式の<ミサの賛歌(Benedictus)>は<ミサ曲(Sanctus)>とは別扱いになっているように見受けられるが、そのHosanna in excelsis(いと高きところにホザンナ)に移る時の、その流れが真に綺麗で、このような流暢な曲創りを、私は他のミサ曲では知らない。

これは、指揮者の功績かも知れないので、ついでに書いておくと、ジョン・エリオット・ガーディナーの指揮、モンテヴェルディ合唱団とイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏によるCD(Philips 470 819-2)である。

当時、ハイドンのミサ曲作品には、いろいろな批判があったとのことであるが、私には、それが解るような気がする。
やはり、上記の素晴しい例外を除いては、ミサ曲の通常文の意味と音楽が調和していないのではないか、と首を傾げざるを得ない処が多いのである。

彼は、無意識にも、交響的な音楽の進行の必然に、より多く引かれているからではないか。
そのあたり、モーツァルトは、もう少し器用であった。
しかし、ハイドンのミサ曲作品ほど、合唱の処でさえも言葉が聴き取りやすい作品は珍しい。

六曲ある、晩年のハイドンのミサ曲作品の最後のミサ曲 <<ハルモニー・ミサ曲変ロ長調>>を聴いた。


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 (ハルモニー・ミサ曲変ロ長調)

 

この作品は、他のに較べても長大で、<キリエ>だけでも8分7秒かかっている。
演奏は、リチャード・ヒコックスの指揮するCollegium Musicum 90(イギリスのバロックオーケストラ)によるのであるが(Chandos 0612)、ちなみに、前述の二つのミサ曲での<キリエ>では、それぞれ、4分48秒と4分21秒であって、異なる演奏家による違いがあっても、その比較は大差ないであろう。

このハルモニー・ミサ曲変ロ長調は、実質的には、ハイドンの最後の作品と言ってもいい作品であるが、私のCDで43分13秒の壮大な演奏である。
音楽作品として、ハイドンのコンツェルタント形式としての完成された姿を見せて、聴かせている。
彼の晩年の七年間の、さらなる成長には、眼を、耳を見張るものがある。
有終の美、とは、こういう作品を指すのではないか。

<栄光の聖歌>と<ミサ曲 クレド>の終りはフーガである。
この作品には、効果的な繰り返しが多いのであるが、<ミサ曲 クレド>の中の、et homo factus est(人と なりたまえり)が繰返されて、しばらくたって et sepultus est(葬られたまえり)が繰返されているのが、私には印象的である。

さすがに、この作品には、批判が少なかったのではないか、と思われるのであるが、molt allegro(モルトゥ アレグロ)の<ミサの賛歌(Benedictus)>はどうであったのであろうか。
ここでは、通常の独唱者たちによる抒情的な曲創りではなくして、コンツェルタント様式が、そのまま適用されている。
これほどの騒々しい<ミサの賛歌>は、他にはないのではないか。
しかし、美しいことは美しい。

<アニュス・デイ>が属調のト長調で始っているのも印象的である。
静かに始まり、ティンパニも加わっての華やかで肯定的なDona nobis pacem(われらに平和を与えたまえ)で作品を閉じている。
これらハイドンの三つのミサ曲作品で、Et incarnatus est(~によって現れこの世の人となられたことを)とCrucifixus(十字架につけられ)が一曲として纏められているのが珍しく思れるのであるが、他に例があるのであろうか。

 

コーダ (蛇足):

私には<栄光の聖歌>の文が誰によっていつ書かれたかのか、どの時代に成立したのかも不明であるが、常々、疑問に思っている一節がある。
Gratias agimus tibi propter magnum gloriam tuam(主の大いなる栄光のゆえに主に感謝したてまつる)である。
超越に対しての感謝が、その恵み、祝福や救済であったのなら解る。

しかし、その栄光に感謝する、などというのは典型的な悪文ではないか。
英語では、このような文を、It does not make senseと言う。

赤字はデンマンが強調。)


92-93ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より

『後奏曲集』より

僕は上の文章を何度も何度も読んで、更にYouTubu のクリップを何度か聴いたのだよ。。。 でもなァ~、ハッキリ言ってミサ曲の厳(おごそ)かな雰囲気は理解できたものの、全曲をじっくりと聴くだけの忍耐がなかった。。。 どの曲も5分も聴くと退屈になって、全曲をすべて聴く気になれないのだよ!

だから、それはクラシックに対する感受性の問題なのですよ!。。。 百姓育ちのデンマンさんには高尚なクラシックを理解するだけの教養も素養も無いという事なのですよ!

オマエがクラシックの事になると僕を馬鹿にしたい気持ちは解るよ。。。 でもなァ~、僕は百姓育ちではないのだよ!。。。 オマエのように百姓育ちを馬鹿にするということは職業により農家の人たちを差別するということなのだよ!

別に職業によりデンマンさんを差別するつもりはありません。

あのさァ~、僕は こう見えても小学生の時には合奏部に所属してコントラバスを担当していたのだよ。。。 NHKの関東甲信越の予選で行田市中央小学校の合奏部は入賞したこともあるのだよ。。。 その時の演奏曲は『美しき青きドナウ』。。。、もしかすると『ハンガリア舞曲第5番』だったかもしれない。。。 とにかく、審査委員の先生から、コントラバスの響きがよかったと褒められたことがあるのだよ! それにクラシックで恋をしたこともある!


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『ん? クラシックで片思い?』

 

マジっすかあああァ~? 信じられません。。。 そのデンマンさんがオイラが上の文章の中で紹介したミサ曲が 全く いいとは思えないと言うことですかァ~?

そうだよ。。。 ハッキリ言ってミサ曲は退屈なのだよ!。。。 僕が赤字で強調したところで オマエは感心したり、感銘を受けているようだけれど。。。、実は、僕も期待しながら曲を聴いてみたのだけれど、感心どころか、感銘も受けず、全く退屈しただけなのだよ!

だから、デンマンさんにはクラシックを堪能するだけの教養も素養も素質も無いのです。。。

それは違うと思うよ。。。 僕にだってクラシックの曲で、素晴らしいと思える曲もあるのだよ。。。

たとえば。。。?

例えば次の記事の中で紹介しているバッハの曲だよ。。。

癒しを奏でるパンツ

 


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デンマンさん。。。 なんだか格調が高いような。。。 それでいて おシモっぽいような妙なタイトルを付けましたわねぇ~。。。 いったい“癒しを奏でるパンツ”ってぇ、どういうパンツなのですか?。。。 デンマンさんは、ちょっとばかりパンツに拘(こだわ)り過ぎているのではありませんかァ~?


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あのねぇ~、僕は別にパンツに拘っているのではありませんよゥ。。。

でも、また わたしの“おばさんパンツ姿”をこの記事の冒頭に たくさん貼り付けているではありませんかァ!

あのねぇ~、ジューンさんの“おばさんパンツ姿”に拘っているネット市民がたくさんいるのですよ。。。

マジで。。。?

こういう話題の時に、僕はウソやデマカセは言いません。。。 お稲荷さんに誓って、弁天様に誓って、八幡様に誓ってウソは絶対につきませんからねぇ~。。。

分かりましたわ。。。 じゃあ、その拘っているネット市民の人たちは、どこのどなたなのですかァ~?

(中略)

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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Denman Blog でも、ジューンさんのパンツ姿が人気があるのです。。。


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『床上手な女の7つの見分け方』

『おばさんの下着姿』

でも、どういうわけで“G線上のアリア”を取り上げたのですか?

あのねぇ~、“G線上のアリア”という題名はチョー有名だけれど、もともと“G線上のアリア”という曲があったわけじゃないのですよ。


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『管弦楽組曲第3番』BWV1068第2楽章「アリア」をピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のために編曲したものの通称。

原曲はJ・S・バッハ作曲、編曲者はヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミ。

通称はニ長調からハ長調に移調されているため、ヴァイオリンの4本ある弦の内の最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来する。

オリジナルの管弦楽組曲は、バッハにより彼のパトロンであるレオポルト (アンハルト=ケーテン侯)のために1717年~1723年の間に作曲されたと一般に信じられてきた。

しかし、現存最古の楽譜は後年のバッハのライプツィヒ時代のものであり、現在は、ライプツィヒにおけるコレギウム・ムジクムの公演のために書かれたものであろうと考えられている。

曲名は、19世紀のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミによる編曲からきている。

ウィルヘルミは編曲後の曲をG線のみで演奏することができた。

後年、この曲はG線のみで演奏することを目的につくられたという誤った説が広まった。


出典: 「G線上のアリア」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 そうだったのですか? 知りませんでしたわ。。。 じゃあ、ヴァイオリン以外の楽器で演奏したものもあるのですか?

あるのですよ。。。 次の演奏は浜松市立高等学校マンドリン部の皆さんが演奏したものです。


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マンドリンで演奏すると、ヴァイオリンの演奏とは ちょっとばかり感じが違いますわねぇ~。。。 でも、どちらも弦楽器だから、似ているといえば似ていますよねぇ~。。。 弦楽器以外で演奏したものもあるのですか?

あるのですよ。。。 次の演奏はジューンさんも呆れるほど面白い演奏ですよ。


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あらっ。。。 ヒモパンで演奏したのですわねぇ~。。。 うふふふふふ。。。

そうなのです。。。 黒いTバックや白いレースのゴージャスな下着などいくつかのパンティを組み合わせて美しいメロディを奏でる変態さんはアンドリュー・ファンというカナダ人なのですよ。

若い頃のデンマンさんかと思いましたわァ~。。。 (微笑)

いや。。。 僕は それほどの才能はありません。 「G線」に掛けて「Gストリング」で演奏するというアホな目論見なのですよ。。。 でもねぇ~、Gストリングで4オクターブの音域が出たのを発見したそうです。

つまりも。。。、つまり。。。、“G線上のアリア”を奏でる“ひもパン”が“癒しを奏でるパンツ”なのですかァ~?

その通りです。。。

でも。。。、でも。。。、どうして 取って付けたように急に“ひもパン”で奏でる“G線上のアリア”を持ち出してきたのですかァ~?

だから、まずジューンさんの“おばさんパンツ姿”がネットでは極めて人気が出てきたことを前半で強調したのです。。。 そのあとで、真由美ちゃんの“ひもパン”で僕も“G線上のアリア”を演奏しようと思い立ったのです。。。

あらっ。。。 デンマンさんはマジで真由美ちゃんの“ひもパン”で“G線上のアリア”を演奏するつもりなのですかァ~?

でもねぇ~、考えてみたら、2番煎じでは面白くないのですよ。。。 もうすでに、バンクーバーの変態さんが“ひもパン”で“G線上のアリア”を演奏してしまったのですよ。。。 だから、僕はベートーヴェンの“第九”を“ひもパン”で演奏しようと思うのです。

あらっ。。。 あの有名な合唱付のベートーヴェン作曲、交響曲第9番ニ短調作品125をデンマンさんは“ひもパン”で演奏するのですかァ~?

そうです。。。 でもねぇ~、問題があるのですよ。。。

問題とは。。。?

あのねぇ~、真由美ちゃんの“ひもパン”はどれも繊細でこじんまりとしているのです。。。 だから、あのベートーヴェンの第九の強烈な“ダダダダ~♪~ん”という出だしは、真由美ちゃんの“ひもパン”では切れてしまうのです。。。

マジで。。。? それで、どうするつもりなのですかァ~?

だから、ジューンさんの“ひもパン”以外に 第九を演奏するだけの強靭な“ひもパン”はないのですよ。。。


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つまり。。。、つまり。。。、余計な事をクドクドと書き並べたあとで、結局、わたしの“ひもパン”で“第九”を演奏したいと言うのですかァ~?

そうですよ。。。 うへへへへへへ。。。 ジューンさんの熟女のパンツがこれだけ人気が出てきたのですよ。。。 だから、ジューンさんの“ひもパン”でベートーヴェンの第九を演奏したら、これは絶対にネット上で大ヒットすると思うのです。。。 ジューンさん。。。 芸術のためですよ。。。 今年の夏に着用した“ひもパン”を今夜にでも 僕に手渡してくださいねぇ~? お願いしますゥ。。。


『癒しを奏でるパンツ』より
(2016年9月25日)

つまり、バッハの“G線上のアリア”がデンマンさんにとってクラシックの中で素晴らしい曲だと言うために わざわざジューンさんの“おばさんパンツ”まで持ち出してきたのですかァ~?

そうだよ!。。。 あれっ。。。、僕がクラシックを冒涜しているとでも言いたげな表情を浮かべてるねぇ~。。。

当たり前でしょう! だから、デンマンさんと一緒にクラシックを鑑賞したくないのですよ!


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【レンゲの独り言】


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ですってぇ~。。。

そういうわけで太田さんはデンマンさんに対して かなり辛辣な批判を浴びせています。

しかも、太田さんは次のサイトで抗議録を公開しているほどです!


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『実際の抗議録』

デンマン注:太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトも消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)

あなたが絶対、

見たいと思っていた

面白くて実にためになるリンク


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』

■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』

■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

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下着・ランジェリーを見つけませんか?』

『センスあるランジェリー』

■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

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軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
(godiva05.jpg)

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(yuri02.jpg)

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(yuri03.jpg)

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■ 『女3人で姦しい』


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『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

『センスあるランジェリー』


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民主主義とロックンロール

2017年11月29日

 

民主主義とロックンロール

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで“民主主義とロックンロール”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?


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オマエと“民主主義とロックンロール”について語り合いたくなったのだよ。

どちらもオイラの嫌いなものですよ。。。

でも、オマエは“民主主義とロックンロール”について書いてたのだよ。

まさかァ~。。。!?

オマエは僕の言う事が信じられないのォ~?

だってぇ~、オイラは民主主義もロックンロールも嫌いなのだすよ。。。 だから、その事について書いてるはずがありません。

だったら、オマエが書いた文章をここに書き出すから読んでごらんよ。

1.8 Richard Wagner (1813 – 1880)

R. Wagnerの<<Tannhäuser>>全曲を聴いたのは、考えてみれば、二十年ぶりだった。彼の作品のなかでは、このドラマに一番,正悪(或は、聖俗)二元論が全面に出ている、と私は思う。そうした二元論も、清純な女性による救済も、馬鹿馬鹿しくなる程にprimitifなromantismeであるが、それも、遡れば、C.M.v. Weberの<<Der Freischütz>>、つまり、ドイツ民族楽派の狼煙に初源を見つけることができる。ドイツ語によるオペラの悲劇と喜劇の未分化、ということについて言えば、そもそも、W.A. Mozartの<<Die Zauberflöte>>からして、その通りであったのである。
どのような本を読んだところで、また、どのような音楽を聴いたところで、その人の人生とはいかないまでも、生活に何らの影響も関係もないのではないか、といった類の人々もいるものだ、と思うようになってきた(草子地:そうは思っていなかった頃の私は、喜劇的に純情であった、ともいえる)。そうした人にとっては、音楽とは、単に、たまたまあいた一、二時間をうめるための余興にしかすぎない。その後は、何も残らない。それの何処が悪い?悪くはないが,うそぶくな、と私の心は呟く。
私も同類だ、と思う時と思わない時がある。思わない時、というのは、文章や音楽作品による、私に残された傷痕を省みた時であるが、自分のことなどを書いてもはじまらない。
全くもって、この人生を覆う巨大な無意味さに対して、音楽でもしなければ、短いようで長たらしい時間の間がもたないではないか。そういう時には、Wagnerの楽劇が絶好なのである。誰も、古ゲルマンの神々を、もはや、信仰の対象とはしないように、彼の思想なるものを自己のそれの依りどころとはしてはいないからである。
私は、第一級の演劇の台本はオペラには向かない、と思う。それにしても、台本だけを取りだして言えば、Wagenrの作品の場合は、素人の水準ではないか。私には、そこに、支離滅裂な筋書きと幼稚な思想まがいしか見ることができない。F. NietscheからT. Mannに至るまで、Wagnerの思想に関する様々な論評があるが、それらのどれを読んでも、私には、彼の思想の現代に於ける普遍的な有効性を見い出せないのである(草子地:ある意味では、これが一番危険でもある)。
それにも拘らず、我々が、現在、彼の作品を聴くのは、その音楽に於いての交響的音響の適用に、今なお、魅力を感じるからではないであろうか。全く、彼の偽対位法の効果は他の追従を許さない。そこでは、無茶苦茶な筋書きが音楽の文脈で抽象化されて、音楽の本流、支流と共に頂点を創る。それこそ、それは、Wagner現象、とでも呼ぶべき一つの現象であって、その音楽史上の有効性を除いたのなら、彼は、大言壮語するだけの矮小化したドイツ音楽の作曲家にしかすぎなかったことになるであろう。
言い表す語彙、つまり、言語の粗い網目によっては音楽を表現する手段がない、という事実は、何も、逆に、音楽は何ものをも表現しない、ということを意味し得ない。音楽は、音楽の表現するものを表現している(草子地:私は、ここで、音楽はWagnerの楽劇の荒唐無稽な筋書までを表現している、などとは書いてはいない)。彼のLeitmotivは、聴き手の記憶に頼る補助的な手段でもあるが、一方、その交響的な響きが筋書きのTextと、ある地点で出会う時、音楽が筋書きを説明するなどということではなく、抽象化された筋書きが音楽を支えている、という効果を感得するのである。そうした音楽に於ける経過には、もはや、Recitativは使用できないことは明白であろう。
20
Recitativ、これは、Bachの受難曲に於けるような理想的な適応例があったにも拘らず、ことオペラになると、Singspielの台詞からSprechstimmeに至るまで、特にドイツ語による作品では、解決の難しい問題であるらしい。Wagner流の解決を先送りした和声に乗せた旋律による説明部分も、長すぎる人生でもない限り、付き合うのに困難を覚えるのは、私だけではあるまい。
処女を犠牲に供する事は、いにしえの社会に於いて、洋の東西を問わなかった。ドイツに限らず、ヨーロッパの処女崇拝は、原始までに遡るのであろうか。そうであったとすると、キリスト教の彼の地に於ける土着とは、その表層にすぎなかった事になろう。新約に於いて、Lukasのみに見る処女懐妊の記述は、最も古代ヨーロッパ的であることは、その宛先によっても明白であろう。
それとも、処女性を殆ど問題にしなくなった現代人は、古代人の知恵を失いつつあるのであろうか。
蛇足(コーダ):
よくある平凡な話であるが、我が家の次女が私を批判して言った。人それぞれなんだから。Bachを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの、とのことである。家内も娘に同調して、自分の好みを人に押し付けるのは良くない、だと。だから、私は民主主義が嫌いなのである。頭の悪い、汗臭くて、むさくて、未熟な若者たちが、がなりたてる雑音と、J.S. Bachの清澄な音楽を同列にしているのが大衆社会化状況である。どれだけ彼らが、自ら知らずして、先人の業績、例えば、J.P. Rameauの<和声楽>に負っているか、を考えてみるがよい。
私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない。しかし、私の思うことを主観的に愚妻や豚女に話してもしかたがないので、Bachを聴くような人が、この前、downtownで暴動があった時、lootingをしていたかい、と聞き返しておいた。ロックならともかく、例えば、Bachの音楽が入っているCDなどが略奪された、などという話は、誰も聞いたことがないであろうからである。
誰にでも等しい権利があるのならば、保護は期待しないほうがいい。義務と責任も科するべきである。甘ったれた、いいとこ取りはやめたほうがいい。


19-20ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

オイラが上の文章を掲載したサイトは消滅しているのに、デンマンさんは どのように上の文章をゲットしたのですか?

サイトが消滅する前に、僕はオマエのサイトを丸ごと僕のフラッシュ・メモリーにダウンロードしておいたのだよ。

つまり、オイラを徹底的に批判するために、前もってオイラの作品を保存しておいたのですねぇ~。。。

その通りだよ。。。

デンマンさんは、かなり執念深いのですねぇ~。。。 オイラが 気まぐれに匿名でデンマンさんのブログにコメントを書き込んだことが それほど頭にきたのですか?

それもあるけれど、オマエが他の5人に成りすまして 見え見えの自作自演で 僕を非難したことが 僕の気持ちを逆なでしたのだよ。。。

それで、こうして限(きり)もなく オイラをネットで晒しているのですか?

いや。。。 オマエを晒しているんじゃないのだよ。。。 オマエがせっかくクラシックについて拙い文章を書いた。。。 オマエはその“下書き”を出版しようとして 多くの出版社に原稿を見てもらった。。。でも、結局どの出版社からも拒否されたので、可哀想になったから、こうしてオマエの“下書き”を取り上げて オマエと語り合おうと思ったわけだよ。

つまり、デンマンさんはオイラを応援しているつもりなのですか?

その通りだよ。。。 だけど、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。

デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。

それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!

 

海外からのアクセス@Denman Blog

 


(wp71008map.png)



(wp71008.png+wp71008b.png)

『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog

 

133ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?

いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。

マジで。。。?

僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。

1.8 リヒャルト・ワーグナー (1813 – 1880)


(wagner91.jpg)

 

ワーグナーの<<タンホイザー>>全曲を聴いたのは、考えてみれば、二十年ぶりだった。

彼の作品のなかでは、このドラマに一番,正悪(或は、聖俗)二元論が全面に出ている、と私は思う。


(tannhaeuser.jpg)

 

そうした二元論も、清純な女性による救済も、馬鹿馬鹿しくなる程にアカデミックな修練とは無縁なロマン主義であるが、それも、遡れば、カール・マリア・フォン・ウェーバーの<<魔弾の射手>>、つまり、ドイツ民族楽派の狼煙に初源を見つけることができる。
ドイツ語によるオペラの悲劇と喜劇の未分化、ということについて言えば、そもそも、モーツァルトの<<魔笛>>からして、その通りであったのである。

どのような本を読んだところで、また、どのような音楽を聴いたところで、その人の人生とはいかないまでも、生活に何らの影響も関係もないのではないか、といった類の人々もいるものだ、と思うようになってきた(草子地:そうは思っていなかった頃の私は、喜劇的に純情であった、ともいえる)。
そうした人にとっては、音楽とは、単に、たまたまあいた一、二時間をうめるための余興にしかすぎない。
その後は、何も残らない。
それの何処が悪い?悪くはないが,うそぶくな、と私の心は呟く。

私も同類だ、と思う時と思わない時がある。
思わない時、というのは、文章や音楽作品による、私に残された傷痕を省みた時であるが、自分のことなどを書いてもはじまらない。
全くもって、この人生を覆う巨大な無意味さに対して、音楽でもしなければ、短いようで長たらしい時間の間がもたないではないか。
そういう時には、ワーグナーの楽劇が絶好なのである。

誰も、古ゲルマンの神々を、もはや、信仰の対象とはしないように、彼の思想なるものを自己のそれの依りどころとはしてはいないからである。
私は、第一級の演劇の台本はオペラには向かない、と思う。

それにしても、台本だけを取りだして言えば、ワーグナーの作品の場合は、素人の水準ではないか。
私には、そこに、支離滅裂な筋書きと幼稚な思想まがいしか見ることができない。

 


(wagner92.jpg)

ニーチェからトーマス・マンに至るまで、ワーグナーの思想に関する様々な論評があるが、それらのどれを読んでも、私には、彼の思想の現代に於ける普遍的な有効性を見い出せないのである。
(草子地:ある意味では、これが一番危険でもある)

それにも拘らず、我々が、現在、彼の作品を聴くのは、その音楽に於いての交響的音響の適用に、今なお、魅力を感じるからではないであろうか。
全く、彼の偽対位法の効果は他の追従を許さない。
そこでは、無茶苦茶な筋書きが音楽の文脈で抽象化されて、音楽の本流、支流と共に頂点を創る。

それこそ、それは、ワーグナー現象、とでも呼ぶべき一つの現象であって、その音楽史上の有効性を除いたのなら、彼は、大言壮語するだけの矮小化したドイツ音楽の作曲家にしかすぎなかったことになるであろう。
言い表す語彙、つまり、言語の粗い網目によっては音楽を表現する手段がない、という事実は、何も、逆に、音楽は何ものをも表現しない、ということを意味し得ない。
音楽は、音楽の表現するものを表現している(草子地:私は、ここで、音楽はワーグナーの楽劇の荒唐無稽な筋書までを表現している、などとは書いてはいない)。

彼の「繰り返し使われる短い主題や動機」は、聴き手の記憶に頼る補助的な手段でもあるが、一方、その交響的な響きが筋書きのテキストと、ある地点で出会う時、音楽が筋書きを説明するなどということではなく、抽象化された筋書きが音楽を支えている、という効果を感得するのである。
そうした音楽に於ける経過には、もはや、「概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる叙唱や朗唱」は使用できないことは明白であろう。

「概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる叙唱や朗唱」、これは、バッハの受難曲に於けるような理想的な適応例があったにも拘らず、ことオペラになると、「ドイツ語による歌芝居」の台詞から「表現主義ボーカルテクニック」に至るまで、特にドイツ語による作品では、解決の難しい問題であるらしい。
ワーグナー流の解決を先送りした和声に乗せた旋律による説明部分も、長すぎる人生でもない限り、付き合うのに困難を覚えるのは、私だけではあるまい。
処女を犠牲に供する事は、いにしえの社会に於いて、洋の東西を問わなかった。

ドイツに限らず、ヨーロッパの処女崇拝は、原始までに遡るのであろうか。
そうであったとすると、キリスト教の彼の地に於ける土着とは、その表層にすぎなかった事になろう。
新約に於いて、ルカのみに見る処女懐妊の記述は、最も古代ヨーロッパ的であることは、その宛先によっても明白であろう。


(maria88.jpg)

それとも、処女性を殆ど問題にしなくなった現代人は、古代人の知恵を失いつつあるのであろうか。

 

蛇足(コーダ):

よくある平凡な話であるが、我が家の次女が私を批判して言った。

人それぞれなんだから、バッハを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの」、とのことである。

家内も娘に同調して、「自分の好みを人に押し付けるのは良くない」、だと。

だから、私は民主主義が嫌いなのである。
頭の悪い、汗臭くて、むさくて、未熟な若者たちが、がなりたてる雑音と、バッハの清澄な音楽を同列にしているのが大衆社会化状況である。
どれだけ彼らが、自ら知らずして、先人の業績、例えば、ジャン=フィリップ・ラモーの<和声楽>に負っているか、を考えてみるがよい。

私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない。
しかし、私の思うことを主観的に愚妻や豚女に話してもしかたがないので、バッハを聴くような人が、この前、ダウンタウンで暴動があった時、略奪をしていたかい、と聞き返しておいた。
ロックならともかく、例えば、バッハの音楽が入っているCDなどが略奪された、などという話は、誰も聞いたことがないであろうからである。

誰にでも等しい権利があるのならば、保護は期待しないほうがいい。
義務と責任も科するべきである。
甘ったれた、いいとこ取りはやめたほうがいい。


赤字はデンマンが強調)

19-20ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より

ところで、オマエが上の文章をPDF形式でネットで公開したようだけれど、上のリンクをクリックしたら、もう削除されてないよ。。。 オマエ、また管理人に抗議してシカトされたのだろう!?

判りますか?

あのさァ~、オマエは以前にも「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんに掲載を断られてしまった。 それなのに、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に次のように文句を言っている! 

太田将宏著作集 (E-Book Mode)

告発状以下の筆者自身の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりました。

その一切の経過につき、筆者の告発文書、<<ボイジャー、ロマンサーへの抗議録>>を
上の告発状をclickして御参照願います。


Ⅰ あれかこれか

哲学 (実践知性批判、Sartreを中心に)、

神学(純粋意識批判、Kierkegaardを中心に)


Ⅱ 愛と生命の摂理

文学(ドストエフスキーを中心に)


Ⅲ 前奏曲集 第一集

音楽(あるアマチュアの覚書、(批評の批評 ⅰ)


Ⅳ 前奏曲集 第二集

音楽(私はアマチュアである、(批評の批評 ⅱ)


Ⅴ 間奏曲集

音楽(主題なき変奏、(言葉と音楽 ⅰ)


Ⅵ 後奏曲集

音楽(後書きばかり、(言葉と音楽 ⅱ)


Ⅶ 瞬間

書簡集


『EBOOK MODE』より

『失意の太田将宏』にも掲載
(2015年12月12日)

オマエは太田将宏の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりましたと書いたけれど、重要な2つのことでオマエは間違いを犯している。

その重大な 2つの間違いとは、いったい何ですか?

まず、オマエは“著作”と書いているけれど、オマエの書いたものは“下書き”なのだよ!。。。 作品というには程遠い。。。 ヒルデガルト・フォン・ビンゲンについての文章を見れば一目瞭然なのだよ!

やっぱり、日本語が理解できる人のために解り易く できるだけ日本語で書くべきですか?

当たり前だろ! 要するに、オマエは“現実感を喪失”しているのだよ。。。 ネット市民の皆様が読むようには書かれてない! 英語の単語がやたらに散りばまられて、しかも、似非ドイツ語や、似非ラテン語までが注釈なしに散りばめられている。。。 極めて読みづらい。。。 改行がなく、やたらに長い持ってまわった言い回しになっている。。。 オマエの文章を見ると読む気がしなくなるのだよ!

デンマンさんの“バカ野郎文章”の方が、もっと酷(ひど)いと思うのですけれど。。。で、2番目の重大な間違いとは。。。?

だから、すでに言ったように、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に文句を言っている! 悪いのは 「ボイジャー」の社長じゃなく、オマエの未熟な“下書き”なのだよ!  「ボイジャー」の社長は当然のことをしたまでだよ! オマエの“下書き”はネット市民の皆様に公開されるには 未熟で未完成なのだよ!

それは、デンマンさんの個人的な意見ですよ!

僕の個人的な判断じゃなくて、現に 「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんが掲載を拒否したのだよ! 当然のことだよ! しかも、止せばいいのに、僕に対する抗議文までネットで公開している!


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

つまり、オマエは、文章の中だけじゃなくて、どこへ行っても人間関係を破綻に導いているのだよ!

要するに、オイラは反省が足りないので家族関係も破綻していると言いたいのですか?

その通りだよ! オマエは「私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない」と書いているけれど、次女に対してバッハを聴くように押し付けたじゃないか! だから、次女がオマエに対して「人それぞれなんだから、バッハを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの」と抗議したのだよ! 「ボイジャー」の社長や僕に対するオマエの理不尽な抗議と比べれば、次女の抗議こそ 正当な抗議なのだよ!

そうでしょうか?

当たり前だろう! それが理解できないので、オマエは女性系家庭で孤立してしまうのだよ!

私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。

長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。

私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。

その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


(kierke02.jpg)

Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。

私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。

ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。

しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。

S.D.G

コーダ(蛇足):

私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。


【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。

S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者

S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。

F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家


56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月

『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)

デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?

あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?

覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!

とにかく、オマエは性格的に人間関係をうまくやってゆくことができないのだよ。

そのように決め付けないでください。。。

とにかく、これからは長女と次女と心優しい奥さんの言う事に素直に耳を傾けて、反省しながら、仲良く暮らすことだよ!


(foolw.gif)

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

これまでに、デンマンさんは太田さんのことで いろいろと記事を書いてますから、

太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

 

すると、デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


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