Posts Tagged ‘アインシュタイン’

車掌さんの松島音頭

2017年6月13日

 

車掌さんの松島音頭

 


(mondo02.jpg)


(kato3.gif)

デンマンです。。。 お元気ですか?
僕が記事を投稿するのは たいていバンクーバー時間でお昼頃になります。

投稿する前日に 草稿を書き終えており、
バンクーバー図書館は午前10時が開館なので、
その頃、パソコンに向かうと 先ず前日に書いた草稿を読み始めるわけです。。。

誤字や脱字を直しながら、
一通り読み終えると、
プレヴューで記事を読みながらリンクが正しく表示されるかをチェックします。

推敲して、特に誤りがなければ、投稿します。

それから Denman Blog のアクセス解析を見ることになります。

例えば、日本時間で6月10日ならば、次のような画面が表示されます。


(wp70610a.png)

『拡大する』

この時 日本時間では6月10日の午前4時27分になっていますが、
バンクーバー時間は、夏時間では16時間遅れているので9日の午後12時27分です。。。

だいたい、この頃 記事を投稿し終わって、ソフトカメラで画面を撮ることになります。
上の画面を見て、僕は『車掌さんが歌った松島音頭』に目が留まったのです。

バスガイドでも観光ガイドでもないのに国鉄の車掌さんが車内のマイクを使って『松島音頭』を歌う。
50才ぐらいの男の声でした。
決して歌がうまい訳ではない。
でも歌い慣れているのを感じました。

しかし、NHKの喉自慢に出ても合格の鐘はならなかったでしょうね。
ただし、そのサービス精神の旺盛な事には驚かされました。

僕も旅行が好きですから、日本のあちらこちらを旅行しましたが、
国鉄の車掌さんが車内のマイクを使って歌うのを聞いたのは、それが初めてで最後でしたね。

ところで、『松島音頭』の歌詞を調べたら、なんと北原白秋が書いたのですよ。
作曲が山田耕筰です。
知りませんでしたね。

 

松島音頭 北原白秋


(5daidou.jpg)

 

松は松しま、

磯馴の松の

松のねかたに、桔梗が咲いた。

  見たよ、見ました、

      一もと桔梗。

  や、ほうれ、ほうい

   舟ばたたゝいて

  や、ほうれ、ほうい。


『d-score 楽譜 – 松島音頭』より


(matsu456.jpg)

急に、懐かしさが込み上げてきて、その当時の車内の情景、車外の情景がありありと思い浮かんできました。
車掌さんが歌い始めて、まもなくしてJR仙石線の松島海岸駅に着いたのでした。

電車から降りると、度肝(どぎも)を抜かれるような駅内放送がありました。
なんと、駅員さんがマイクで次のように放送したのです!

 

落ちる人が死んでから

乗ってけーさい

 

もちろん、僕の耳には、そのように聞こえたのですが
地元の人には次のように聞こえたはずです。。。

 

“落ツ(降り)る人が済(スィ)んでから

乗ってけーさい(ください)”

 

仙台地方の方言に慣れてない僕の耳には
「電車から落ちて死んだ人を見定めてから電車に乗ってください」

そんな風にかんぐってしまったのですよ。。。 (モナリザの爆笑)

 


(monalaugh.jpg)

 


(fukiage7.jpg)

 

どうですか?
あなたも温泉につかって
さっぱりして、身も心も癒されたいと思いませんか?
上の写真は滝つぼで泳いでいる訳ではないのですよ。

これ、温泉なんです。
自然のお湯が流れているのですよ。
驚きでしょう?
ちょっと温(ぬる)めですけれどね。。。

でも、立派な露天風呂です。
宮城県鬼首(おにこうべ)温泉郷、吹上温泉の旅館峯雲閣にある湯滝です。
男女混浴の露天風呂なんですよ。

仙台からそう遠くありません。
宮城県大崎市にあります。

鳴子温泉郷とも呼ばれます。
陸羽東線鳴子温泉駅よりバスで約30分で着きます。

この温泉については次の記事で書きました。

■ 『七夕の起こりって? (2007年7月7日)』

興味があったら読んでみてください。

でも、仙台と聞いてすぐに思い浮かぶのはやっぱり松島でしょうね。

“松島や ああ松島や 松島や”


(matsu2.jpg)

 

松島湾内外にある大小260余りの小さな島が奇妙な形を見せてあなたの目を楽しませてくれるのですよ。
日本三景の1つだから、あなただって名前だけは聞いたことがあるでしょう?
芭蕉もこの地を訪れたのですよ。

あまりにも素晴しい景色を前にして芭蕉は俳句が浮かんでこない。
それで、思い余ってその感激を上の句として書いたということを僕は中学校の国語の時間に聞いた覚えがあるのですよ。


(matsu-map2.gif)


(niou3.jpg)

     仁王島

 

でもね、上の俳句は芭蕉が作ったのではないらしいのですよ。
実は、僕もこの記事を書く前まで知らなかったのですよ。
でも、念のために調べたら次のように書いてあるじゃないですか!

 


(basho3.jpg)

 

松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、あまりに絶景なので句が浮かばず、
「松島やああ松島や松島や」と詠んだという逸話があるが、
この川柳は後世の狂歌師田原坊の作で、芭蕉の作ではないとされる。

ただし、その場で句が思い浮かばなかったのは事実らしく、
『奥の細道』には、同行した弟子の河合曾良の次の句が掲載されている。

「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」

また別の説では、句は詠んだが景色に釣り合うよいものができなかったともいわれる。

アインシュタインが訪れた際に同行者に次のように言ったと伝えられている。

「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

実は、あの有名なアインシュタインが松島を訪れていたのですよ。

1922年(大正11年)12月3日のことでした。

アインシュタインは月見をするため松島を訪れたのです。


(einstein90.gif)


(sentrain01.jpg)


(godaido88.jpg)

東北本線で仙台駅から(初代)松島駅に到着し、

松島電車(路面電車)に乗り換えて

五大堂前電停に着いたのは午後4時を過ぎた頃で、

すでに十三夜の月が上っていたそうです。

それを見たアインシュタインは、

「おお月が…おお月が…」と言ったまま絶句したというのです。


(moon77.jpg)

その後、気持ちが落ち着いた時に言ったのです。

「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」

それほど松島は素晴らしいということです。

あなたは、松島に出かけたことがありますか?

一生に一度は訪れてみるだけの価値がありますよ。

アインシュタインも芭蕉も、そのすばらしい景色に感動したのでした。

【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

わたしも松島に行ったことがありますわ。

やはり、ちょっと他の国では見かけないようなすばらしい景色ですよねぇ~。。。


(matsu3kei2.jpg)

どうですか?

まだ松島に行ったことがない人は行きたくなったでしょう!?

時間を作ってぜひ行ってみてくださいね。

では、また。。。


(byebye.gif)

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愛の夕顔を探して

2017年5月7日

 

愛の夕顔を探して

 


(rengeasa2.jpg)



(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。 もしかしてデンマンさんが“愛の夕顔を探して”いるのですかァ~。。。?


(kato3.gif)

まさかァ~。。。 どうして そう思うのですかァ?

だってぇ~、上の写真には 夕顔をバックに若い頃の“めれんげさん”が写っているではありませんかァ~。。。

つまり、僕にとって“めれんげさん”が夕顔だと、小百合さんは言うのですかァ~。。。

違うのですかァ?

言われてみれば、そうかもしれませんねぇ~。。。 (微笑) でもねぇ~、残念ながら 僕が“愛の夕顔を探して”いるわけではないのですよ。。。

じゃあ、どなたが探しているのですか?

名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんですよ。。。


(asamany2.jpg)

あらっ。。。 きれいで可愛い方ですわねぇ~。。。 デンマンさんは名古屋まで出かけて行ってナンパしたのですかァ~? うふふふふふふ。。。

悪い冗談を言わないでください。。。 (苦笑)

では、相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんはデンマンさんの親戚の方ですかァ?

違いますよゥ。。。 会ったことのない女性です。。。 ちょっと次のリストを見てください。。。

ライブドア『徒然ブログ』の日本時間で2017年5月2日の午後2時33分から午後5時までの約2時間半の「生ログ」の一部
(liv70503a5.png)


『拡大する』

『愛の夕顔』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で2017年5月2日の午後2時33分から午後5時までの約2時間半の「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。

あらっ。。。 5月2日の午後3時5分にYahoo!で検索して『愛の夕顔』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

だから、それが名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんですよ。。。

IPアドレスを調べて悠子さんを特定した、とデンマンさんは言いたいのでしょう?

その通りです。。。

IP アドレス: 14.133.116.220 名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さん
(ip116220b.png)

『拡大する』

何度も言うようですけれど、IPアドレスを調べてもプライバシーを守るためにアクセスしたネット市民の名前までは確定できないのですわァ。

確かに、小百合さんの言うことは正しい!。。。 でもねぇ~、調べる方法はあるのですよ。。。

どのようにするのですかァ~?

ここで説明すると悪い奴がプライバシーを侵害するので公表することはできません。。。 だから、小百合さんもキツいツッコミを入れないで僕の話を素直に聞いてくれませんかァ~?

分かりましたわ。。。 デンマンさんが そのように言うのであれば サラッと聞き流しますわァ。。。 それで相田 悠子さんは『愛の夕顔』を読んで どこに感銘を受けたのですか?

まず、次の小文を読んで考えさせられたのですよ。。。

天の夕顔


(gyozui6.gif)

私が京都の大学生のころ、はじめてあき子に会いました。 彼女は、下宿先の家の娘で、すでに結婚した身で、子供ももおり、夫は外国にいました。

まもなく、彼女の母親が病気で亡くなりました。 私が通夜や葬儀、さらに四十九日の観音講(かんのんこう)の際、なにくれと手伝ったため、彼女からその礼などを認(したた)めた手紙が送られてきました。 知人の家に移っていた私は、どういうわけか、その通りいっぺんに見える手紙がうれしくてたまらず、思えばそれが、私の運命を左右するきっかけになったのです。

 (中略)

6月の末、私は試験の準備に忙しいころでした。 彼女は結婚生活に悩んでいる様子を話しました。 はじめは姉弟のような気持ちだったが、しだいに私に惹かれるようになり危険を感じ出した、これ以上交際を続けているのは自分の立場が苦しくなるので今日は別れを言うために来た、と言うのです。 私は恋愛の気持ちなどなく、友情だと思っていたのに、「別れに来た」と言う言葉には少なからず狼狽し、意外な気持ちながら、彼女の威厳ある堅い決意に従うほかありませんでした。

これが、彼女から突き放された最初です。 それまで会うこともなかったのに、こんな気持ちになったのが不思議でしたが、これ以来私は今に至る20数年、あの人のことを思い続ける運命に陥ったのです。

別れた後、彼女から受け取ったハガキには、別れたことへの葛藤、妻として母として生きようと決心しながらも力が及ばなかったことへの後悔などが綿々と綴られていました。 私はすぐに、自分のことをもっと知ってもらいたい旨の返事を書きましたが、それきり手紙も何も来なくなってしまいました。 私は彼女の決意の堅さを感じながらも、かえってあの人を追いかけていきたい気持ちが強くなっている自分に気がつきました。

8月下旬の夕暮れ、私はじっとしていられなくなり、神戸のあの人の家を訪ね、私の気持ちを伝えましたが、彼女の決意は変わらないようでした。 帰るとき、階段に降りようと二人が向かいあった瞬間、二人の身体に、同時になにか恐ろしいものが走ったのを感じたのです。 そのとき互いに理性を越えて飛びつきたかったに違いありません。 でも、私たちはそれをしませんでした。 そこに私たちの今日までの愛情の形式があったといえます。

 (中略)


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私が23歳の夏の初めでした。 7つ年上のあの人の美しさはもはや私には絶対的なもので、それ以上のものはありませんでした。 深遠で情熱を含んだ静かな強さが私を苦しくするほどに執着させ、話すときは当たり前の口調でしたが、互いの目の中に互いの運命の暗示をいつも読んでいたように思われます。 私の心はどんなことがあっても彼女を失いたくないという切ない願いでいっぱいになりながらも、いつか彼女を見失うのではないかという不安がつきまとい、私は人が不倫のために自殺する気持ちをはじめて理解しました。

 (中略)

そのころ、私の下宿先の隣家に私とあまり年の違わない娘がいました。 私はその娘と親しくなりましたが、あの人との関係に比べればあわあわしいものでした。 あの人は私にとってだれとも比較などできないほど絶対的で永遠の存在だったのです。 しかし、その娘から結婚を迫られ、5年ぶりにその相談のために、あの人に会うことになりました。 私の27歳の夏でした。

私は耐えられないなつかしさで彼女と会いましたが、彼女は案に反して隣の娘との結婚を勧めたのです。 (中略) 

私は結局、隣の娘と結婚しましたが、不運なことに彼女は肋膜(そくまく)を患い、2年間介抱に明け暮れました。 とうとう、私は結婚に対して耐えられない苦痛を感じ、病身の妻と別れる決心をしたのです。 自分の魂の本然(ほんぜん)にかえりたい、それが自分に与えられた運命だと悟り一人で生きていく決心をしました。 私の31歳の春でした。 あき子とはじめて会ってからすでに10年の歳月が流れていました。

彼女は5年たったら、もう一度会うことを約束してくれました。 私にとってもはや5年の年月などなんでもありません。 雪の季節にも、しみ通るような寒さにも、私の心はあの人に会える喜びで明るく輝いていました。

あの人と約束した5年目が近づくころ、私はもう45歳になっていました。 あと1日であの人に会えるという日。 私はあの人が末期の思いで書いた悲しい手紙を受け取ったのです。 動かしがたい死の予告を綴った手紙に私は泣いても泣いても、泣ききれないほどの悲しみに突き落とされたました。 あんなに求め続けていた人とついに会えなかったこの哀れな男の運命を想像してください。 すぐあの人の家へ駆けつけましたが、そこでハッキリとあの人の死を確かめただけでした。

 (中略)

天国にいるあの人に消息するたった一つの方法は、夏の夜の花火を打ち上げることでした。 若いころ、あの人が摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ち上げたいのです。 花火が消えたとき、私は天にいるあの人がそれを摘み取ったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとしているのです。


(fireworks.jpg)

(注: 写真とイラストはデンマン・ライブラリーから)


92 – 96ページ
『天の夕顔』 中河与一・著
「あらすじで読む日本の名著 No.2」
編著者: 小川義男
2003年11月13日 第2刷発行
発行所: (株)樂書館

相田 悠子さんは上の小文を読んで 作者の個人的な体験を書いたものなのかなァ~? そう思ったのですよ。。。

つまり、中河与一の私小説だと思ったのですねぇ~。。。

そういうことです。。。 でもねぇ~、次の説明を読んで、実はそうではないと解った。

『天の夕顔』主人公モデル問題


(tenyou2.jpg)

 

中河の代表作『天の夕顔』は不二樹浩三郎という按摩の身の上話に基づく作品だったため、不二樹は中河に対してこの作品を自分との共著とすることを要求した。
しかし中河は「話をしてくれただけで、それがあなたに何の関係があるのですか。法廷へ出ても何処へ出ても」とこの要求を退けると共に、主人公のモデルの実名公表を拒み続けたため、不二樹との間に深刻な確執が生じた。

不二樹から中河に脅迫状が届き、その直後に中河家の愛犬が不審な死を遂げたこともある。
一連の経緯について中河が警視庁成城警察署に相談したものの、刑事事件には発展しなかった。

一方、不二樹の側でも中河を訴えようとしたが弁護士費用の問題からこれを果たせず、その代わり『名作「天の夕顔」粉砕の快挙──小説味読精読の規範書』(1976年)と題する書物を自費出版してこの作品が中河の創造力の所産ではないことを世に訴え続けた。
不二樹は1990年に93歳で死去した。


出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

主人公のモデルのことで問題を起こしたことを知って相田 悠子さんはガッカリしたのですか?

いや。。。 ガッカリしたと言うよりも、人間関係というのは恋愛や不倫だけにとどまらず。。。、また男女間だけではなく、同性の間でも 常に問題が起こる宿命にあるのだということをしみじみと感じたのですよ。。。

要するに、相田 悠子さんも人間関係で悩んでいたのですか?

そうです。。。 悠子さんだけじゃなく、人間関係で悩んでいない人って居ないでしょう!? 誰もが 程度の差こそあれ人間関係に悩んでいるものですよ。。。

確かに、そう言われてみれば、その通りですわァ。

小百合さんだって、これまでに人間関係でいろいろと悩んできたでしょう?

ええ。。。 確かに、言われてみれば。。。

。。。でしょう? あの有名な頭のいいアインシュタインでも人間関係で悩んだのですからねぇ~。。。

アインシュタインは1897年、スイスのチューリッヒにある連邦工科大学で学んでいたとき、最初の妻になる女性と出会い、恋に落ちた。 その女性はミレーヴァ・マリッチ。


(mileva01.jpg)

ミレーヴァ・マリッチとアインシュタイン

アインシュタインと同じ講座の学生で、生まれつき足が悪かった。
二人に共通していたのは、コーヒーとソーセージが好きということだった。
彼女と知り合ってまもないころ、アインシュタインが書いた手紙には、ミレーヴァを呼ぶ愛称がこれでもかとばかりに登場する。

僕のかわいこちゃん、僕の子猫ちゃん、僕の愛する魔女、僕の小さなすべて……そして愛の告白もあった。
1900年、アインシュタインが21歳のときの手紙にはこう書かれている。

「哀れな人間たちの群れのなかで生きてゆこうと思ったら、君のことを思わずにはいられない」

二人はともに勉強し、音楽を楽しむうちに、友達から恋人へと関係を進んだ。
同級生からミレーヴァの足のことを問われ、僕なら不具の女と結婚などできないと言われたアインシュタインは、
「でも彼女はすばらしい声をしている」と答えた。

最後には二人の関係は破局を迎えるのだが、そこにいたる事情は深く複雑なものだった。
自分の心はミレーヴァのものだと言っているときから、アインシュタインはいろいろな意味で遠い存在だった。
離ればなれで暮らした時期も長く、研究のことしか頭にないアインシュタインには、子供のいる雑然とした生活は耐えがたいものだった。

結婚前に生まれた娘ルイーズは養子に出され、その後もアインシュタインとミレーヴァの間には、二人の男の子が生まれている……のちにハンス・アルバートは水力学の専門家になり、次男エドゥワルドは精神分裂病で施設に入った。
そのかたわら、アインシュタインはいとこのエルザに求愛するようになり、二人はやがて結婚する。


(elsa01.jpg)

エルザとアインシュタイン

1913年、ミレーヴァとの離婚が成立する5年以上も前に、アインシュタインはこんな手紙をエルザに書いている。
「私にとって妻は、クビにできない雇い人のようなものです。私は寝室も別にして彼女を避けています……私と、私の人生を支配できるのは自分以外の誰でもありません」

エルザは夫の研究にいっさい口出ししなかったし、知性面で夫と張りあおうという気持ちもさらさらなかった。
そんな二番目の妻に対しても、アインシュタインは同じことを繰りかえしてしまう。
夫婦の間から愛もセックスも消えうせ、アインシュタインはほかの女性に盛んに言いよりはじめる。
友人によると、その様子は「磁石が鉄粉に引きよせられるようだった」という。
またしても寝室が別になり、妻は雇い人に等しい存在になりさがった。
ただし海外旅行や映画のプレミアのときは、夫と行動をともにすることが許された。

アインシュタインはエルザに、「きみの話、私の話をするならいい。だが『私たち』のことは一切話題にしないでくれ」と申しわたしている。

年を経るにつれて、アインシュタインは女性を苦々しく思うようになった。
彼にとって、愛は偽りの概念に過ぎないし、生涯の結びつきなどという理屈はもっと始末におえないものだった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーから)


39 – 41ページ
『アインシュタインをトランクに乗せて』
著者: マイケル・パタニティ(Michael Paterniti)
訳者: 藤井留美
2002年6月20日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社ソニー・マガジンズ

あれほど頭のいい天才と言われたアインシュタインでも人間関係、夫婦関係に悩むのですよ。。。 だから、凡人である我々のような平凡なネット市民が、人間関係、恋愛関係で悩まないはずがないのですよ。。。

確かに、それは理屈ですわ。。。 で、相田 悠子さんも そう思って少し気持ちが楽になったのですか?

その通りです。。。 頭のいい天才と言われたアインシュタインでも人間関係、夫婦関係に悩むのだから、相田 悠子さんが悩むのも当然だと思えるようになった。

つまり、人間は頭のよしあしに関係なく、天才でも馬鹿でも、人間関係、夫婦関係、恋愛関係、不倫関係に悩むものだと。。。 この事が言いたくて、デンマンさんは この記事を書く気になったのですか?

もちろん、それだけではありません。。。

他に何が言いたいのですか?

あのねぇ~、相田 悠子さんも、それだけなら、別に『天の夕顔』を読んで感銘を受けなかった。

だから、どういうところに感銘を受けたのですか?

『天の夕顔』の話は按摩さんの身の上話に基づく作品なのだろうけれど、上のモデル問題などを考え合わせると、読んでゲッソリするような現実の醜い面が表れていますよ。 つまり、ずいぶんと脚色されているような気がします。

なぜデンマンさんは、そのように思うのですか?

本当にモデルも素晴らしく、また作品も素晴らしいものならば関係者はそっとしておくと思うのですよ。 堀辰雄の名作に『風立ちぬ』という作品があるのです。。。


(kaze002.jpg)

 

作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、作品冒頭に掲げられているポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」を堀が訳したものである。

なお、単行本ではフランス語の原文で掲げられたエピグラフは、初出誌では、「冬」の章の冒頭に、「風立ちぬ、いざ生きめやも。(ヴアレリイ)」と日本語で付されていた。

「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意である。

「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれている。

ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。

また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている。

作中の「私」の婚約者・節子のモデルは、堀と1934年(昭和9年)9月に婚約し、1935年(昭和10年)12月に死去した矢野綾子である。

なお、堀は「死のかげの谷」の章を、1937年(昭和12年)12月に軽井沢にある川端康成の山荘に籠って書き上げた。


出典: 「風立ちぬ (小説)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 堀辰雄は軽井沢にある川端康成の山荘に籠って書き上げたのですわねぇ~。。。

そうなのですよ。。。 小百合さんの別荘から程遠くないところですよ。。。

知りませんでしたわ。。。

とにかく、矢野綾子さんの遺族が堀さんを訴えたなんて聞いたことが無い。 モデル問題を読んでから『天の夕顔』を読むと、現実の美しい部分だけを拾い上げて書いたような気がします。 現実の醜い部分がモデル問題となって顔をのぞかせているのですよ。

現実をそのまま作品として書くということは難しいのでしょうか?

いや。。。そんなことは無いと思いますよ。 本当に現実のモデルが素晴らしく、また作品も素晴らしいものならば関係者はそっとしておくものですよ。 だから、堀辰雄の名作『風立ちぬ』という作品に出てくる関係者は誰も問題を起こしていないのです。。。

事実は小説より奇なり。

でもねぇ、昔の人は、このようにも言いましたからね。 現実をそのままに書いても、なかなか信じてもらえないものですよ。

あらっ。。。デンマンさんも、そのように感じるのですか?

たとえば「あの人」の旦那さんが手紙を書いてきたとしますよ。

どのような。。。?

次の手紙ですよ。 小百合さんは現実の手紙として信じることができますか?

毎年いつも年末に妻の美千代にお便りをお寄せくださり誠に有難うございます。
厚くお礼申し上げます。
実はつらく悲しいことでありますが美千代は去る7月18日に亡くなりました。


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昨年の春先に胸が傷むと病院へ行きましたところ、肺のあたりに水がたまっているという奇病で、すぐに入院し水を抜く手術をしました。
手術は成功したのですが若いころ結核をわずらったことがあり原因を調べるため検査設備の整っている東北大学病院へ行くことになり、通院や入院を半年以上、各種いろいろの検査をうけました。
結核の関係はないと判定され、近くの病院から往診していただくことになりました。

しかし、そのことが美千代には不本意だったようで、断って別の病院に通うようになりました。
そのうち段々足腰や体も弱ってきて、たびたび転んだりして車椅子の生活になり、時々は救急車のお世話になるようになりました。
短期入院や点滴してもらって帰るようにもなりました。

それでも、そんなにひどいようには見えず食事は食堂へ出てくるし、家の中を立って伝い歩きもしました。
当日も夕食中、食べ物が喉につかえ呼吸困難となり、救急車を呼んで病院へつれて行き、いろいろ手を尽くしていただきましたがそのまま回復せずに亡くなりました。
診断は「心臓周囲病」ということで心臓も衰弱していたことと思われます。

私が先に逝くものとばかり思っていましたのに、思いもよらぬ逆縁で申し上げる言葉もありません。
元来、頑健丈夫とは言えず、むしろどちらかと言えば病弱なところもありました。

それでも気の強いところもあって新聞社に勤めたり、百貨店の仕事などもやって、退社後も、大学の研究室で秘書などの仕事もしました。
30代で自動車免許を取得したり、一時はスナック経営などもやり、貸家を建てたりもしました。
精一杯生き抜いたと言えましょう。
また、多くの人々から好かれ愛された生涯でありました。

デンマンさんにも永い間ご厚誼をいただき本当に有難うございました。
重ねて厚くお礼申し上げます。
どうぞお体を大切に、ますますお元気でご活躍なさいますようお祈り申し上げます。

2010年11月24日

梶尾一郎

福島県会津若松市東栄町
郵便番号: 965-8601


『生きることって愛すること?』より
(2010年12月18日)

『即興の詩バンザイ』にも掲載
(2010年12月4日)

この手紙は、ほとんどそのまま書き出したものです。

つまり、デンマンさんが受け取った手紙なのですかァ~?

そうですよ。。。

マジで。。。?

小百合さんは信じることができないのですか?

だってぇ~。。。

だってぇもヘチマもありません! 相田 悠子さんはこの手紙を読んで感銘を受けたのですよ。。。

デンマンさんは、どうして そのようなことまで判るのですかァ~?

悠子さんがメールで感銘を受けたことを僕に書いてよこしたのです。。。

マジで。。。?

あれっ。。。 小百合さんは、そのことも信じられないのですかァ~?

だってぇ~。。。

だってぇもヘチマもありません。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのですよ。。。 だから、小百合さんも信じれば救われますよゥ。。。

分かりましたァ。。。 今晩、じっくりと眠りながら考えて見ますわァ~。。。


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【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~~

『風立ちぬ』は堀辰雄の名作でござ~ますわァ。。。

東宝が1954年と1976年に2度映画化しています。

1954年には久我美子と石浜朗がカップルを演じています。

1976年には山口百恵と三浦友和が出演しています。

では、あたたのためにラジオドラマ『風立ちぬ』をここに貼り出しますねぇ。。。


(kaze001.jpg)

いかがですか?

あなたも、ぜひ原作を読んでくださいませ。。。

ところで、小百合さんがどうして「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(linger65.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)

■ 『蕎麦屋と軽井沢タリアセン夫人』

■ 『おしまいでございます』

■ 『軽井沢タリアセン夫人 愛の写真』

■ 『菊ちゃんと阿部忠秋』

■ 『菊ちゃん、知恵伊豆、忠秋』

■ 『丸墓山は誰の墓?』

■ 『外国人SEXデンマン再訪』

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(fragran11.jpg)

■ 『かぎろいミステリー』

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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

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■ 『盛り上がる@馬車道』

■ 『ゼリーフライ@鐘つき堂』

■ 『愛と憎しみの丸墓山』

■ 『忘れられない!』

■ 『大名行列@行田』

■ 『別れの朝も…』

■ 『婚外恋愛』

■ 『婚外恋愛と人間失格』


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■ 『月夜の美人』

■ 『ふるさと 行田』

■ 『愛の偶然と必然』

■ 『田中角栄と軽井沢』

■ 『うさぎ追いしかの山』

■ 『アブラッソ不在の美』

■ 『ロマンの昔話』

■ 『海を渡ったバレンタイン』

■ 『バレンタインが老人を狂わせた』

■ 『マルちゃん海を渡る』

■ 『銀座からバレンタイン』

■ 『仙台からバレンタイン』


(sayuri201.jpg)

■ 『パリからバレンタイン』

■ 『ジャズ@バンクーバー』

■ 『タイからバレンタイン』

■ 『たまご麺@バレンタイン』

■ 『愛犬とゴッド』

■ 『ザ・バレンタイン女』

■ 『週刊誌deヌード』

■ 『愛と天の夕顔』

■ 『ジェミマおばさんのシロップ』

■ 『夏日に、お帰りなさい』

■ 『コイ、鯉、恋がいっぱい!』

■ 『スープカレーなのね』

■ 『忍城時代まつり』

■ 『夜道のルート66』

■ 『上を向いて歌おう』

■ 『霧積温泉のロマン』

■ 『元気が一番!』

■ 『行田のスープカレー』

■ 『パンツとブラジャーと餃子』

■ 『軽井沢を文学散歩する』

■ 『ばァ~の面影』

■ 『バレンタイン@行田』

■ 『軽井沢タリアセン夫人@遠藤家』

■ 『桃の節句@天国』

■ 『古代米カレー』

■ 『愛のジェローを探して』

■ 『コーヒーと愛の香り』

■ 『愛の馬車道』

■ 『亀姫と香芽子さん』


(bare02b.gif)

こんにちは。ジューンです。

「上を向いて歩こう」がアメリカで人気が出るきっかけは

何だったのでしょうか?

通説によると、1963年の春、

アメリカ西海岸のローカルラジオ局のDJが、

異国情緒を味わってもらおうと、たまたま手元にあった

日本の曲をオンエアーしたところ、

リスナーからリクエストが殺到したために

人気に火がついたと言われています。

果たして、その話はどこまで本当なのでしょうか?

アメリカで「上を向いて歩こう」をシングルとして

最初に発売したレコード会社はキャピトルです。

同じ時期にキャピトルはイギリスの親会社であるEMIが

ビートルズのシングルを出すようにと要請してきたのです。

ところがアメリカでは人気が出ないと断っているのですね。

では、いったい誰が「上を向いて歩こう」をシングルとして

発売したのでしょうか?

その発売を決定した人の名前が

デンマンさんが描いた次のチャートに出ています。


(qchan90.gif)

デイブ・デクスター・ジュニアさんなのです。

「A&Rマン」と言われていた人で、

売れる可能性のあるアーティストを発掘し、契約を結び、

制作を担当する仕事をしていた人です。

ローカルラジオ局のDJからある日電話がかかってきて

「上を向いて歩こう」が人気が出ていると聞いて、

さっそく自分でも聞いてみたそうです。


(qchan03.jpg)

九ちゃんが日本語で歌っているので

詞の内容は理解できなかったけれど、

これならイケそうだと直感して売り出すことに決めたそうです。

つまり、ビートルズの曲はヒットしないと蹴ったけれど、

九ちゃんの「上を向いて歩こう」は直感的に

ヒットすると思ったのだそうです。

ところで、デンマンさんが小百合さんの記事をまとめて

次のサイトを立ち上げました。

時間があったら下のリンクをクリックして覗いてみてくださいね。

『夢とロマンを持って前向きに生きる

小百合さんの物語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


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(byebye.gif)

ファシスト管理人と国際化

2013年2月4日

 
ファシスト管理人と国際化


(hitler2.gif)
 

デンマンさん。。。、またオイラをイジメるのですか?

ちがうってばあああァ~。。。 オマエは被害妄想に陥(おちい)っているのだよ! 僕はオマエをイジメたことはないんだよ。

でも、どうせまたオイラが国際化してない。。。 グローバル化してない!と言って、オイラをイジメるのでしょう?

オマエは自分でも国際化してないと思ってるのォ~?

いいえ。。。オイラはアメブロの管理人として充分に国際化していると自負してますよ。

だったら、僕にイジメられるというような被害妄想に陥らなくてもいいだろう!?

でも、デンマンさんのことですから、今までの成り行きを考えると、どうせまたオイラが充分に国際化してないと言うに違いないのですよ。

どうして、そう思うの?

だってぇ、これまでのデンマンさんの記事を読めば、オイラが充分に国際化していないと言うに決まってますう。

あれっ。。 オマエは僕の記事を読んで少しは反省することがあるのォ~?

いえ。。。、反省することはありませんよ。 でも、デンマンさんが自分では国際人だと思い込みながら、オイラに海外経験が乏しいことを突き付けて国際化になっていないと言うに決まってるのですよ。

オマエも思い込みが激しいのだねぇ~?

デンマンさんほどではありませんよ。

僕は事実に基づいてオマエがまだ充分に国際化してないと言うつもりなんだよ。

分かってますよ。 どうせ、そんな風に言うだろうと思ってましたよ。

だったら、さっそくオマエが国際化してないと言う証拠を見せるよ。 ぜひ次のリストを見て欲しい。


(ame30131d.gif)

このリストはオマエも知っての通り、僕のブログの1月31日の「リンク元URL」リストなんだよ。

つまり、485人の常連さんが「お気に入り」と「ブックマーク」からデンマンさんのブログにアクセスして記事を読んだという事を自慢したいのですか?

いや。。。、そんな事を自慢したくて上のリストを持ち出したわけじゃない。 赤枠で囲んだ21番に注目して欲しいのだよ。

GOOGLEの画像検索の結果から、その中のイメージをクリックしてデンマンさんのブログにやって来たということですね?

その通りだよ。 さすがにアメブロのファシスト管理人だけあってぇ、オマエは呑み込みが早いねぇ。

うへへへへへへ。。。 それほど煽(おだ)ててくれなくてもいいですよう。 それで、その画像検索がどうだと言うのですか?

上のリンクをクリックすると次のような画面が表示されるのだよ。


(ame30131f.gif)

『実際の検索結果』

あれっ。。。 これは、もしかしてオランダ人がオランダのGOOGLE画像検索を使ってデンマンさんのブログにアクセスしたのではありませんか?

オマエは国際化してないのに、けっこう国際的な常識があるんだね?

うへへへへへ。。。 それほどでもありませんよ。。。んで、この画像をクリックしてオランダ人はデンマンさんのどの記事を読んだのですか?

次の記事を読んだのだよ。


(moza08.jpg)

『Little Night Music』

(2012年12月18日)

あれっ。。。 これは、もしかするとデンマンさんがモーツアルトについて英語で書いた記事ではありませんか?

オマエは国際化していないにもかかわらず、モーツアルトのことを知ってるのォ~?

デンマンさん!。。。 バカにしないでくださいよ! こう見えてもオイラはモーツアルトのことぐらい知ってますよ。

でも、上の写真を見ただけでモーツアルトとだと判るということは、クラシックについてもかなり明るいということだよ。 オマエはマジでモーツアルトの曲を聴いたことがあるのォ~?

ありますよ。 オイラはこう見えてもモーツアルトの熱烈なファンなのですよ。

僕には信じられないよ。

オイラは上の記事のタイトルを見てすぐにモーツアルトだと判りましたよ。

どうして判ったのォ~?

簡単なことですよ。 『Little Night Music』というタイトルは英語だけれど、これはモーツアルトのあの有名な曲”Eine kleine Nachtmusik”ではありませんかア!

あれっ。。。 オマエはモーツアルトについて結構詳しいのだねぇ~。。。

この程度のことは少しモーツアルトに関心を持っていれば誰でも知っていることですよ。 『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(Eine kleine Nachtmusik)ト長調はケッヘル番号では525番ですよ。 モーツァルトが作曲した有名なセレナーデではありませんか!

オマエはマジでモーツアルトについて詳しいのだね!?

いや。。。 デンマンさんに褒められるほどのことでもないっすよう。 うへへへへへへ。。。

僕はちょっとばかりオマエを見直したよ。

Eine kleine Nachtmusik

(on period instruments)

この曲はモーツァルトが13番目に書いたセレナーデであることから、セレナーデ第13番とも呼ばれているのですよ。

あれっ。。。 オマエはそんな事まで知ってるのォ~?

デンマンさん。。。 無理して煽(おだ)てないでくださいよう。 デンマンさんに煽てられると、なんだか舞い上がりたいような気持ちになってしまいますよう。 うししししし。。。 この曲は1787年8月10日にウィーンで作曲されたのです。 『ドン・ジョヴァンニ』の作曲中の時期で。。。、初演に関する資料は残されてないけど、アルフレート・アインシュタインは。。。、

ちょっと待てよ! なんで、あのアインシュタインが出てくるんだよ?!

やだなあああァ~。。。。、デンマンさん! このアインシュタインは相対性理論のアインシュタインではありませんよう。 著名な物理学者であるアルバート・アインシュタインの従弟ですよ。

あれっ。。。 オマエはそんな事まで知ってるのォ~?

デンマンさん! 「褒め殺し」をするのは止めてくださいよ!

あのなァ~。。。 実は、僕もその程度のことは知っているのだよ。 でもなァ~、アルフレート・アインシュタインは相対性理論のアルバートとは関係ないと言う人も居るんだよ。

そうですかア~? でも、デンマンさんは知らないでしょうけれど、モイゼス・アインシュタイン(Moyses Einstein)を7代前の共通の先祖とする説もあるのですよ。 これに従うなら両者は六従兄弟 sixth cousin、すなわち傍系14親等の関係になるのですよう。

あれっ。。。 オマエはそんな事まで知ってるのォ~?

デンマンさん! オイラをバカにしないでくださいよ。 これでも、オイラは熱烈なモーツアルトのファンなのですから。。。 

でもなァ~、アルバートの娘エーファは、アルバート・アインシュタインの家系図にアルフレートの名は登場しないと主張しているのだよ。

デンマンさんは、そんな事まで知っているのですか? 。。。で、モーツアルトを持ち出してきて、いったい何が言いたいのですか?

もう一度「リンク元URL」リストを見て欲しい。


(ame30131d.gif)

5番、8番、9番、11番は英語の記事なのだよ。

“Little Night Music” が上のリストにないではありませんか!

画像検索したオランダ人は”Little Night Music”の記事を読んだけれど、その後で僕のアメブロの他の記事を読んでないから、「リンク元URL」のリストに”Little Night Music”が載ってないのだよ。 そのぐらいの事はアメブロの管理人のオマエは知っているはずじゃないか。

うへへへへへ。。。 度忘れいたしました。 つまり、5番、8番、9番、11番の英語の記事を読んだ人は、さらにアメブロでデンマンさんの英語の記事を読んだと言いたいのですね?

オマエは、ちゃんと理解しているじゃないか!

でも、その証拠でもあるのですか?

もちろんだよ。 1月31日の「人気記事リスト」を見て欲しい。


(ame30131b.gif)

5番、8番、9番、11番の英語の記事を読んだ人は上のリストの7番、8番、9番、18番、25番の記事を読んだのだよ。

なるほど。。。 つまり、英語の解かる世界のネット市民の皆様がデンマンさんの英語の記事を読みにやって来ると自慢したいのですねぇ~?

違うのだよ! そんな事を自慢するためにこの記事を書いたのではないのだよ。

じゃあ、何のためですか?

20番に注目して欲しいのだよ。 オマエは2012年8月9日の記事を未公開にしてしまったのだよ。


(ame20809y.gif)

この上の記事を未公開にしたのはデンマン・シンジケートの19のサイトの内でファシスト管理人のオマエだけなんだよ!

ダメなものはダメです。

ファシスト管理人のオマエの基準が非常識で時代遅れなんだよ。 Word Press では次のようにちゃんと公開されている。


(wp20809.gif)

『実際の記事』

Word Press は Word Press です。 アメブロはアメブロです。 オイラがダメだと思うものはアメブロでは未公開にするのですよ。

その違いが次のように、はっきりと表れてしまうのだよ。
 
 
海外からのアクセス
 
 

(wp30201map.gif)


(wp30201.gif)

つまり、デンマンさんの記事を未公開にしたので、アメブロでは海外からのアクセスが激減していると言いたいのですか?

その通りだよ!

その証拠でもあるのですか?

オマエのサイトにはWord Pressのような「海外からのアクセス」を集計する機能がない。 だから僕はHit Graph の「海外からのアクセス」を集計するアプリをアメブロの僕のブログに貼り付けている。 その記録を見てごらんよ!


(hg30201a.gif)

これは12月29日から2月1日までの35日間の記録だよ。 海外からのアクセスは上のオランダ人を含めて、わずかに8カ国なんだよ。 解かるだろう? オマエが僕の記事を未公開にしているからだよ!

マジっすかア~♪~?

マジも、フマジも、上の記録がすべてを物語っているじゃないか!

つまり、オイラがデンマンさんの記事を未公開にしていることが悪いと言うのですか?

僕だけじゃない! アメブロの他の会員も苦情を言っているのだよ!

マジっすかア~♪~?

その証拠をここに見せるからオマエもじっくり読んでみたらいいよ。

昨日、私が書いたブログと同じ内容をアメブロに
書いたところ、やはり同様の弾圧にあいましたよ。

もはや侵略はネットの世界にまで及んできています。

(中略)

いつまでも平和ボケしてはいられませんよ!皆さん!
この国はやがて『間接侵略』が完了してしまいます。

人権侵害救済法案などが成立すれば、私たちに日本人は
言論を封殺され、恐ろしい統制社会へ向かって行きます。

反日勢力の野望に待ったをかける為に、目覚めた日本人が
声をあげなければいけない時が来ています。


『アメブロの言論弾圧は許されない!』より

 

お問い合わせからAmebaにどうしてアクセスできないの?ってメールしたのですが・・・・。
いまだに返事も何も無い!
完全に無視です・・・・・。

私の文章の内容でここがだめだからアクセスさせないようにしましたと、ちゃんと答えてくれるなら納得がいきます。
しかし、返事も何も無く・・・全く無視!
お問い合わせを受け付けましたの返信も無し。
つまりユーザーの声を全く無視されたのです。(泣)

だから、藤田晋氏の入社祝辞を読んでもしらけてしまったのです。

社員の態度はそのまま社長の心を表しています。
つまり、藤田晋氏はユーザーを無視する人なのかと・・・・悲しくなるのです。
返事ぐらいしてくださいよ・・・・。


『悲しいこと……無視することが藤田晋流』より

 

今回、アメブロからSeesaaブログに移転した理由をここに述べる。

(『酒池肉林』)のコラムを我が盟友が書いたのだが、…多分「乱○」という箇所で引っかかったのだろう、このコラムはお蔵入りにさせられた。
私はこれでアメブロへの違和感を感じた。
ネット復活後、アメブロ以外のブログに移籍を決めたのは目先の言葉狩りで差別から目をそらす社会への疑問がある。

ただですらネット極右どものヘイトブログが横行しているのだ。
どっちが弊害なのか。
2ちゃんねるではそれこそひどい。


『ネチケットと言葉狩り』より

 

私、ピグしておりまして、ブログも一生懸命書いておりました。
そしたら~~
昨日、人権擁護法案 って知ってる?
というものをブログに書いたら~~

次の日に
内容が抹消されちょりました~ (ノ´▽`)ノ ⌒(呪) 

この記事には一部、Amebaの健全なサイト運営にふさわしくない言葉・表現が含まれている
可能性がある為アクセスすることができません。

だって~~ なんじゃ 可能性があるって。。。そんもん ないわい
本当の事しか書いてないのに 何がいけないんじゃいヾ(▼ヘ▼;) 
どこがどう Amebaの言う

健全なサイト運営にふさわしくない言葉・表現なんだか 

さ~~~~~~っぱりわからないんだけどな~~  

だって、私はそう思って いないから 書いてるんだもん。

どこがどういけないのか 教えてくれないと わからない
ということで、問い合わせしてみることにしました

あと、こんなに簡単に 人が書いたものを勝手に消されてしまうのだったら
失礼な ピグなんか いつ辞めても良いように
他の会社で、ブログ作らなくっちゃ と 思い
さっそく、FC2 と いうところに 登録して

ブログ開始しましたぁ~~

いいきっかけになったわ~~~んヾ(@°▽°@)ノ 

と いういきさつがありまして、ここにやってまいりました。
まだまだ 使い方など よくわかっていないうえに、
PC音痴です。。。

どうか あたたかくご指導よろしくお願いいたします


『日本大好きアメリカ在住おばちゃんの記録&日記』より

赤字はデンマンが強調!
イラストはデンマン・ライブラリーより)

何を差し置いても会員の苦情を誠意を持って処理するのが管理人としてのオマエの一番大切な仕事じゃないか!

いいえ、それは違うと思いますよ。 アメブロの運営をスムーズに行う事こそ最も大切なことだと信じています。

あのなァ~、アメブロ会員があってのアメブロなんだよ。 本音はどうであれ、建前として会員にはそのぐらいの事を言わないと駄目なんだよ。 あの有名な歌手の三波春夫さんが「お客様は神様です」と口癖のように言っただろう! その精神がオマエにも必要だと僕は思うね。

でも、心にもない事を言うのはどうかと。。。

それじゃあ、なお悪いじゃないかア! 三波春夫さんだって心から「お客様は神様です」とは思っていなかったかもしれない。 でも、そう言えばお客さんだって悪い気持ちはしないものだよ。 三波春夫さんを応援したいという気持ちになるというものだよ。 ところがオマエは心に無い事は言いたくないと言う。 そういう生き方もあるだろうさ。。。でもなァ、三波春夫さんがアメブロの管理人ならば「アメブロの会員様は神様です。 会員様のご要望に沿えるよう、できる限りの努力を惜しまずに、今後も会員様と一緒に、より良い運営を心がけ、会員様のニーズにも誠意を持って対応する所存です」。。。このぐらいのことを言うと思うのだよ。

それはデンマンさんの個人的な意見ですよ。

いや。。。僕の個人的な意見じゃないよ。 GOOGLEの創業者も次のように言っているのだよ。


(googlex.gif)

重要なのは広告主よりもユーザー

当時まだ26歳と若く、知識も非常に偏ったものではあったが、ブリンとペイジは検索ユーザーのニーズを明確に理解していた。
AOL、ヤフー、そしてマイクロソフトのMSNなどが前提としていた「ポータルサイトとして様々なコンテンツを提供することで、ユーザーを囲い込む」という考え方を真っ向から否定した。
ユーザーがなるべく早く目当てのサイトを見つけられるようにして、グーグルのホームページに滞留する時間を短くすることこそ正しいアプローチだと確信していたのだ。

検索結果の脇にバナー広告(看板広告)を載せたいという広告主も断ってきた。
バナー広告は検索速度を遅くするうえ、検索に不可欠な要素ではなく、むしろ気を散らせるからだ。

1990年代後半にページから飛び出て表示するポップアップ広告がネット広告と主流となった時期には、それを排除するためのグーグル・ツールバーまで用意した。
広告スペースとして最も価値のある、検索窓を中心とする整然としたグーグルのトップページに広告を載せることも拒否した。

 (中略)

グーグルがこれまで成功できたのは、ユーザー本位の姿勢を貫いたからだ。
長期的に価値を生み続けるためにはこの姿勢が決定的に重要だ。
目先の経済的利益のために、妥協するつもりは毛頭ない。

 (中略)

グーグル、中国での検索サービスから撤退。2010年3月23日、世界の主要メディアは一斉にこのニュースを伝えた。
グーグルは自主検閲の撤廃などを求めて中国政府と交渉してきたが、折り合いがつかず、撤退を決めたという。

赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)


86-87ページ、174ページ、546ページ
『グーグル秘録』
著者: Ken Auletta 土方奈美・訳
2010年5月15日発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

オマエも上の文章を読めば理解できるだろう? ユーザー、つまり、アメブロで言えば、会員を大切にするということだよ。 ところが、オマエは会員を大切にするどころか、会員の苦情や問い合わせを無視して、独善と偏見で「言葉狩り」、「写真狩り」を続けている。 そのような精神だから海外からのアクセスも締め出しているのだよ。

オイラが独断と偏見でアメブロを管理しているとデンマンさんは言うのですか?

その通りだよ。

もしかして、オイラのオツムはちょっと異常なのでしょうか?

あのさァ~、このような事はあまり言いたくないけれど、暇があったら、ぜひ精神科のお医者さんに診てもらったほうがいいと僕は思うよ。

オイラのオツムはそれほど深刻に病(や)んでいるとデンマンさんは思うのですか?

あのなァ~。。。それほど深刻に思いつめることもないよ。

でも、デンマンさんの話を聞いていたら、もしかするとオイラのオツムは、どこかヤバい事になっているのかもしれない、と思えてきたのですよ。

確かに、他のサイトではすべて公開されている僕の記事をオマエだけが未公開にするのは、やっぱり、オマエのオツムは、ちょっと可笑しいのではないか?。。。と僕はマジで思ったよ。 でもなァ~、オマエは次の記事を未公開にしなかった。


(ame20404.gif)

『下つき検索』(2012年4月4日)

実は、投稿する時にオマエが上の記事を絶対に未公開にするだろうと僕は思ったのだよ。 ところが、オマエは上の記事を未公開にしなかった。 そう知った時、オマエが少しは反省し始めたのかな? 僕はそう思ったのだよ。

オイラが未公開にすると、デンマンさんはマジで思ったのですか?

そうだよ。 でもオマエは上の記事を未公開にしなかった。 だから、オマエにもまだ良識が残っているのを知って僕はスキップしたい程うれしくなったのだよ!

デンマンさん!。。。マジでそう思ったのですか?

そうだよ! だからオマエも良識を失わずに今の仕事に励めよ。


わァ~~ うれしいなあああァ~。。。

デンマンさんがオイラの良識を

認めてくれました!

オイラは、もしかすると

副社長になれるかも。。。!

今の愚かな社長をクビにして

オイラが社長になってしまおうかな?!

マジで褒められたような気分。。。

ワぁ~♪~ うれしいなあああァ~。。。

もうスキップしてしまおう!

ルンルンル~♪~ン

ランランラ~♪~ン

も一つおまけに

ルンルンル~♪~ン

ランランラ~♪~ン


馬鹿ですよねぇ~。 ちょっとおだてると、すぐに調子に乗って喜んでしまうのですよ! 愚か者がスキップしながら帰ってしまいましたよ。 まだ反省が足りないようです。 もうしばらくの間、アメブロでは言葉狩り・写真狩りが続くようですよ。 だから、あなたも、もし Ameblo で言葉狩り・写真狩りされたら他のサイトへ移る事も考えてくださいね。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
また「言葉狩り」と「写真狩り」ですわよ。
もう、あたくしはウンザリしているのでござ~♪~ますわ。

でも、もし、あなたがアメブロのファシスト管理人について、もっと知りたかったら次の記事を読んでくださいまし。

『ファシスト管理人』

『続・ファシスト管理人』

『オシムとファシスト管理人』

『玲子さんとファシスト管理人』

『冬眠会員とファシスト管理人』

『ファシスト管理人バンザイ!』

『五千の記事とファシスト管理人』

『GOOGLEとファシスト管理人』

『人権宣言とファシスト管理人』

『生理的欲求とファシスト管理人』

『人気者のファシスト管理人』

『未来のファシスト管理人』

『ファシスト管理人がワルを呼ぶ』

『ファシスト管理人と信用』

『不正アクセスとファシスト管理人』

『肥後ズイキとファシスト管理人』

『ファシスト管理人の将来』

『おばさんパンツとファシスト管理人』

『熟女とファシスト管理人』

『肥後ずいきファシスト管理人』

『CIAとファシスト管理人』

『エッチなファシスト管理人』

『エロいファシスト管理人』

『出すぎたファシスト管理人』

『アメブロ会員とファシスト管理人』

『アプルパイとファシスト管理人』

『飛べない翼とファシスト管理人』

『テレサテンとファシスト管理人』

『Amebaの健全なサイト運営にふさわしくない言葉・表現とファシスト管理人』

『致命的な間違いとファシスト管理人』

『会員無視とファシスト管理人』

『胸@ファシスト管理人』

『エロい画像とファシスト管理人』

『オナラ芸人とファシスト管理人』

『オナラdeファシスト管理人』

『アメブロのオナラ管理人』

『おっぱいとファシスト管理人』

『デンマンとファシスト管理人』

『ヤラセとファシスト管理人』

『ガラパゴス現象とファシスト管理人』

『ファシスト管理人@ガラパゴス』

『フェイスブックとファシスト管理人』

『おめでたいファシスト管理人』

『オツムがダメなファシスト管理人』

『きまぐれなファシスト管理人』

『ファシスト管理人の愚考』

『好奇心の足跡』

『なぜアメブロ会員が減少するのか①』

『なぜアメブロ会員が減少するのか②』

『ボヴァリーちゃんとピグ』

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。


 

真理とは狸とイタチの化かし合い

2012年3月25日

 
 
 
真理とは
 
 
狸とイタチの化かし合い

 
 

真理とは何か?

No absolute truth (truth02.jpg--436x578)
(truth02.jpg)

絶対の真理というものは

あるのだろうか?

おそらくないでしょう。
真理というのは、ある現象を最もよく、つまり、誰もがより容易に納得の行くように説明できる仮説だ、と私は信じています。
要するに絶対というものはないでしょう。
時代と共に新しい仮説が出て、それが、これまでの真理と思われていた仮説よりも、よりうまくその現象を説明できるならば、新しい仮説が真理として受け入れられることになります。

しかし、その認められた仮説でさえも、さらにその時代が過ぎると、新しい仮説が現れて、もっとよく、もっと広範囲の現象をより簡単に説明することができるかもしれません。
ニュートンの法則がアインシュタインの相対性理論によって修正されたのはこのよい例です。
そうなると、絶対の真理というものはないことになります。
科学技術の進歩に伴って新しい仮説が時代と共に現れてきます。

アインシュタインは特殊相対性理論を発表してから、さらに一般相対性理論を一応完成しました。
しかしアインシュタインでさえ、一般相対性理論が絶対だとは考えていませんでした。
彼はさらに重力と電磁力が同じものではないかと考え、これを証明するために「統一場の理論」を構想しました。

現在では、この2つの「力」の他にさらにもう2つの「力」(原子核と電子を結びつけている弱い力と原子核を結びつけている強い力)を含めた「統一場の理論」が構築されつつあります。
要するに、宇宙の現象をもっとよく説明できる仮説があるはずだということで理論物理学者がしのぎを削っているわけです。

最近話題になっていることでは、光より速く走るものがあるか?ということがあります。
アインシュタインによれば、光よりも速く走るものは「絶対にない」のです。
しかし、これも絶対ではないとイギリスのスティーブン・ホーキング博士が新しい宇宙論を展開しています。

光さえも抜け出せないはずのブラックホールから電磁波が出ているということでホーキング博士は相対性理論に不確定性原理を持ち込んだのです。
そうすることによって、一時的に光の速度を超えることは可能であると主張しています。

このように、絶対と信じられていた真理が新しい仮説によって覆されたり修正されたりしたことは、歴史を振り返ってみると、しばしば目にすることができます。
例えば、天動説と地動説は最もよい例です。天動説はずいぶん長いこと「真理」として受け入れられていました。
もちろん、地動説を唱える人はかなり居ました。
古代ギリシャにも居たのです。
 

(earthani.gif)
 

あまりに早く生まれすぎた

アリスタルコス

(紀元前310?~前230?)


(aristar2.jpg)

古代ギリシャで展開された宇宙に関する議論の中で、最も驚くべきものは、アリスタルコスによって唱えられた地動説でしょう。
このサモス生まれのアリスタルコスの地動説は後にアルキメデスによって紹介されています。
アリスタルコスは、三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離が月までの距離の19倍になることをつきとめたのです。

(実際には、2つの距離の比は400なのですが、この差は結論を導くまでの障害にはなりませんでした。)

これほど離れているにもかかわらず、地球上から太陽と月がほぼ同じ大きさに見えるのは、太陽が月の19倍の直径を持ち、
大きさ・質量ともに地球などとは比べ物にならないほど大きいからだ、とアリスタルコスは考えたのです。

「そんな大きなものが、地球のように小さなものの周りを回るということがありうるだろうか?」

三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離を割り出すほど頭のよい人でしたから、当然そのような新たな疑問が頭をもたげます。

確かに、巨大な太陽が小さな地球の回りをまわるのは不自然です。
アリスタルコスも、むしろ地球の方が太陽の周囲を回っているはずだと考えたのです。
これが彼の地動説です。

アリスタルコスはさらに、地球が大きな円を描いて運動しているのに、恒星の見かけの明るさや方位に季節ごとの変化が見られないことに疑問を抱きました。
結論として、アリスタルコスは、これらの星が、人々が想像しているよりも遥か遠くにあるからだと考えたのです。

しかし彼のこのような考えは、当時あまりにも奇抜だと考えられたようです。
彼の上のような説明を聞けば、現在の我われには、よーく納得が行くのですが、当時の人はそのような科学的な知識を持っていません。
アルキメデスといえども、アリスタルコスの考えを荒唐無稽として斥けてしまったのです。

しかし、上のエピソードからも分かるように、精密な観測機器を持たない時代にあっても、人間の知性は物事の本質に迫ることができたのです。

地動説が認められるまで、

なぜ1700年以上

かかったのか?

地球が丸いことも、どうやら地球が太陽の周りを回っていることも、古代ギリシャ人の中には知っている人も居たわけです。
しかし、これほど長い間天動説が真理として通用していたのは、キリスト教が地動説を認めようとしなかったことが大きく影響していました。

地動説を改めて見出したコペルニクス、ガリレイ、ケプラーは、いずれも熱心なクリスチャンでした。
しかし、キリスト教団の組織を動かしていたローマ法王や彼を取り巻く人たちが、地動説を異端視したのです。
「神は、あなた方が言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」
と言うわけです。

中世にあっては特に宗教が、そして現代にあっては政治が、科学技術の発展に大きな影響を与えています。
最近の例では、冷戦時代の月ロケット開発競争が上げられます。
冷戦がなかったら、人間はまだ月に足跡を残していなかったでしょう。

歴史の中の真理とは?

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歴史の中の真理も、原則として科学の中の真理と全く同じものだと考えられます。
つまり、絶対の真理というものはありません。
日本には『古事記』と『日本書紀』という歴史書が存在しています。
古代史を研究する者にとって、この両書は聖書のようなものです。
いわば、『日本古代史』教の『聖書』です。

キリスト教団の幹部たちが、地動説を異端視したことは上に述べました。
「神は、あなたが言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」とガリレオに向かってしかりつけたのでした。
『古事記』と『日本書紀』も、いわば、このような宗教的と呼ぶに等しい「思想」に基づいて書かれた書物です。

『古事記』には『日本創世記』と呼ぶにふさわしい記事が見えます。
つまり、イザナミ・イザナギの『国生み神話』です。
これこそ、ピタゴラスが聞いたなら荒唐無稽と言って笑い出すでしょう。
もちろん、皇国史観が全盛だった太平洋戦争中も、この『国生み神話』を本当のことだと考えた人は居なかったでしょう。

それでは、なぜ『国生み神話』を作らねばならなかったのでしょう?(なぜ、伝承の昔話から取り上げねばならなかったのか?)
それはごく簡単な理由です。
他の国の神話が多くそうであるように、日本という国は独自に出来上がったんだということを言いたいがためです。
『古事記』が成立したのが712年、『日本書紀』が完成したのは720年です。
この辺の事情については、このページ (日本で一番古い書は?) で説明しています。

実はこの両書が成立するまでの100余年という期間は、次に示す簡単な年表に見るように激動の時代でした。

592年

蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。


645年

中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原鎌足)と共に蘇我入鹿を討つ。
蘇我氏(本宗家)滅びる
(詳しいことはこのページ【藤原鎌足は、どのように六韜を実践したのか?】を読んでください。新しいウィンドーが開きます。)


663年

白村江の戦い
百済滅びる。 
百済の貴族・官僚などが大挙して日本へ亡命する。
この人たちは政府の役職に付く。中には現在の大臣に当たる役職に付く者まで出てくる。


671年

天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。
(詳しいことはこのページ【天智天皇は暗殺された】を読んでください)


672年

壬申の乱
天武天皇実権を握る。
この政権交代で注意する必要があるのは、藤原氏がこの政変で滅びていないということです。
むしろ、ますます栄えてゆくことに注目する必要があります。


686年

大津皇子、持統天皇に殺される。

上の一連の事件に関わりを持ち、結局実権を握ったのは誰か?という事を考えれば、ごく自然にいろいろな疑問が解決します。
もちろんそれは藤原氏に他なりません。

『古事記』と『日本書紀』は

藤原氏が政権担当の正当性を

主張するために書いた史書

「でも、学校ではそんなふうに教わらなかったけれど。。。」
そんな呟きが聞こえてきそうです。

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(truth03.jpg)

天武天皇が『古事記』と

『日本書紀』を

編纂させたことになっているが…

現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
中臣鎌足(藤原鎌足)が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)~720(養老4)】の時代です。

古事記は712年に成立した、と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが必要になります。それが藤原不比等だというわけです。

しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。

天武天皇は新羅派の統領です。
鎌足が天武帝と協力すると言うことは、百済派の勢力をそいで新羅派に百済派の一部を持ち込むことになるからです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。

『六韜』についてはこのページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)
を読んでください。
派閥抗争についてはこのページ (天智天皇は暗殺された) を見てください。
新しいウィンドーが開きます。

『古事記』と『日本書紀』

にはなぜ謎が多いか?

ところで、古事記が日本書紀よりも古いとすると、おかしな点がいくつかあるという人たちが居ます。
例えば、


  • どちらの書も天武天皇によって編纂作業が進められた歴史書なのに、日本書紀には古事記についての記述がまったく見当たらない。

  • また、古事記の内容には日本書紀よりも新しいものがある。

  • 日本書紀には他の多数の書の引用が載っているので、他にも書があったことが分かるのだが、
    古事記には日本書紀の本文と他の書をまとめて1つの話にした神話という形で載っている。

  • 古事記の編纂者は後から作られた日本書紀の内容をどうして知っているのか?編纂者が同じだったからなのか?

  • また、風土記という書があり、元明天皇によって日本書紀と同じ年に成ったこの書の内容が、古事記にふんだんに引用されている。本当に、
    日本最古の書は古事記なのだろうか?

私は、両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが、史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと、上で指摘されたような矛盾が、ところどころ顔をのぞかせるわけです。

これは、いわば、当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は、自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は藤原氏が、日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。

何よりも、不比等が、親の七光りで、編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。

中国風史観に

こだわる執筆者たち

『大化の改新』がなぜ日本史の中で重要かというと、日本に中国風の律令国家を築く礎になったということになっています。
この『大化の改新』を行ったのは中大兄皇子であることはよく知られています。
しかし、元々この構想を持っていたのは、彼よりも中臣鎌足だったようです。
鎌足が亡くなると、彼の遺志を継いだのが、次男である不比等でした。

なぜ長男でなく次男なのか?と疑問に思う人が居るかもしれません。
実は長男の定慧(じょうえ)は暗殺されています。
生きていたら、不比等と共に相当な影響力を持ったことでしょう。
詳しいことはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) を読んでください。

大宝律令の施行令十一巻は代表責任者を天武天皇の息子の刑部(おさかべ)親王とし、実質的な編纂は藤原不比等が中心になって進めました。
700年(文武4年)に完成し翌年正式に年号を建て、大宝元年として大宝律令を施行したのでした。
唐の制度を真似しながらも、藤原不比等の眼目とするところは天皇親政から藤原氏中心の太政官制にあったようです。

大宝律令に引き続いて、藤原不比等は、もっと藤原氏と自分に都合のよいような「養老律令」を作ろうとします。
そのため、唐から帰ってきた若い留学生たちにこの仕事をやらせています。
矢集虫麻呂(やずめのむしまろ)、大倭国小東人(やまとのこあずまひと)、塩屋古麻呂(しおやのこまろ)、百済人成(くだらのひとなり)といったような人たちです。
この若い留学生たちは唐の新しい法律知識や最新の唐の政治情勢などを身に着けて帰ってきたのでした。

忘れてならない事は、これと平行して『古事記』と『日本書紀』の編纂も進められていたということです。
当然のことながらこの帰国留学生たちもこの両書の編集に加えられたでしょう。

ここで考えなければならないことは、この両書の編纂に携わった留学生や渡来人たちの史観です。
当時の日本には史観と呼べるようなものはまだ確立していませんから、これも中国の歴史書を参考にする他になかったでしょう。
むしろ中国で常識と考えられていた史観以外に持ちようがなかったと思われます。

では、この中国の史観というものは一体どのようなものだったのでしょうか?
中国ではこれまでの王朝を倒した新王朝の史官が前王朝の歴史を書くのが慣習になっていました。
結果として、現王朝の史官が現王朝の歴史を書くよりも事実に即した客観的な歴史を書いてきたのです。
つまり、歴史の偽造にこのような慣習によってブレーキがかかっていたことになります。
歴史書を書くときには勝手なことは書かないという「史観」が“史官”にはあったわけです。

六韜史観

『古事記』と『日本書紀』の編纂に携わった帰国留学生や渡来人は、先ず間違いなくこのような中国の史観に通じていたはずです。
ところが編集長として彼らを統括している藤原不比等の史観は全く彼らの史観とは違っています。
不比等の史観は、しいて言うならば“六韜史観”と呼ぶようなものです。
つまり自分の都合のよいように歴史的事実を書いてゆく史観です。

若い帰国留学生は編集長の指図に従って、不比等の言うように仕方なく書き直すことがあったかもしれません。
しかし、古参の渡来人たち、あるいは土着の豪族出身の史官の多くは、不比等が時々口を挟んで事実を編集長の都合のよいように書けという指示を苦々しく思ったことでしょう。
何よりも不比等が親の七光りで編集長になっているという事実がおもしろくありません。
しかも、勝手に事実をゆがめて書けというようなことを言う。
おそらく喧嘩になってやめていった人もいたに違いありません。
やめない人は、何とかして、事実を『古事記』と『日本書紀』の中に書き残そうと懸命に努力したに違いありません。
そういう努力が、我われの眼には“矛盾”であったり“謎”として文中に登場するわけです。

『日本書紀』の中に

隠された声


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これを読む読者の皆さん。
ぜひ、文中の矛盾に気づいてください。

私たちは、編集長の理不尽な要望によって歴史的事実を曲げて書かされています。
しかし、私は何とかしてこの文章の中に真実を書きとめたいと思っています。

100年先、いや、500年先、いや1000年先の皆さんが、もしこの歴史書を読んで、これが全部事実だなんて思い込まれると思うと私は全くいたたまれません。
また、やりきれません。

こんなことは中国の歴史書を見ればお分かりの通り、やってはいけないことなんです。
本当は、こんなことには、かかわりたくありません。
やめて行った人も居ます。
しかし、誰かがこの歴史書の性格について訴えないかぎり、誤った事実が後世に残されてしまいます。

わたしの努力は微力かもしれません。
しかし、最善を尽くして文中に真実が現れるよう努力したいと思います。
そういうわけですから文章中の矛盾や謎は、どうか真実の一端だと思って読んでください。

少なくとも、『日本書紀』を読むと、所々に矛盾や謎と思われるような箇所が顔を覗かせます。その時、上のような声が聞こえてくるような気がします。
しかし、ここで個人的な感想を述べていても仕方がないので、実際、そのような矛盾とはどのようなものなのか、具体的な例を挙げてお話しようと思います。

乙巳の変

(いっしのへん)

Assassination of Soga Iruka by Nakatomi Kamatari and Prince Nakano-Oe (kamata02.jpg--485x367)

板蓋宮(いたぶきのみや)

における暗殺の場。

太刀を振り上げているのが

中大兄皇子(後の天智天皇)、

弓を手にしているのが中臣鎌足。

645年6月12日、上の絵に示したように、蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足によって惨殺されます。
最近の調査で、この事件は皇極天皇の内裏(住居)の庭で起きたことが分かっています。

蘇我石川麻呂は蘇我入鹿と共に宮廷に入ります。
入鹿はどこへ行くにも常に剣を身につけていました。
この日、鎌足が命じた従者(後世の狂言に出てくる太郎冠者のような者)が面白おかしく
「御腰の太いものを頂戴いたします」と言ったので、
つい吹き出してしまい、剣を渡してしまったのです。

天皇の前には、古人大兄皇子、蘇我入鹿、蘇我石川麻呂の3人が進み出ました。
かなり離れたところには長槍を持った中大兄皇子(20歳)、
弓矢を持った中臣鎌足(32歳)、それに2人の刺客、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)が隠れていました。
石川麻呂が上表文を読み始めたら刺客が飛び出して入鹿を斬りつけ、これを合図に中大兄皇子と中臣鎌足が援助することになっていたのです。

やがて大極殿で石川麻呂が上表文を読み始めます。
しかし、どうしたわけか何も起こりません。
実はこの時、2人の刺客は入鹿を恐れて飛び出せなくなっていたのでした。
計画が狂ったことで、にわかに恐怖がこみ上げてきて石川麻呂は声も体も震え始めます。
その様子を蘇我入鹿が見て不審に思い声をかけます。

「どうした?なぜそんなに震えているのか?」
「あの、。。。帝の前ですので、その。。。つい緊張してしまって。。。」

これはやばいと思い、その瞬間、柱の陰に隠れていた中大兄皇子が剣を抜いて入鹿の頭から肩にかけて斬りかかります。
子麻呂が足を斬りつけ、鎌足は弓を構えました。

「私に何の罪があるのか」と叫ぶ入鹿に中大兄皇子は答えます。
「山背大兄皇子を殺して天皇の力を衰えさせようとしている」

目の前で一部始終を見ていた中大兄皇子の母、皇極天皇はこの時入鹿を助けようともせず、驚きと怖さで奥に立ち去ってしまいます。
子麻呂と犬養連網田がさらに入鹿を斬りつけ、やがて入鹿は息絶えたのでした。
入鹿の死体は宮の外に放り出され雨に濡れてまま放置されました。

しかし、上の絵をよーく見てください。
実際には庭で殺されたようですが、江戸時代に描かれた上の絵では、入鹿はよほど無念であったと見え、
彼を助けようともせずに奥へ引き下がってしまった皇極天皇を追うように、
切られた首が宙を飛び御簾(みす)に喰らい付いています。

なぜか?

このへんの事については、このページ (知らぬ顔を決め込む皇極天皇) で説明しています。
読んでください。
新しいウィンドーが開きます。

『日本書紀』に

隠された真実の声

この事件の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、
ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

Korean Peninsula during the 2nd and 3rd centuries (korea03.gif--280x232)
(korea03.gif)

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
上の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。

藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、このページ(藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) を用意しました。
ぜひ読んでください。

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。


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「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


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「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。
中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。
何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」

恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。

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執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。

また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、
父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。

後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、
このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。

長屋王の変

729(天平元)年

「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。
もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。
完全に濡れ衣を着せられたものでした。

藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。
それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。

結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。
一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。
皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。

「養老律令」後談

律令の成立を見てゆくと、唐の新しい制度を取り入れて天皇を中心とする中央集権制度を確立するという姿勢が見えます。
しかし、これは中臣鎌足とその息子の藤原不比等にとっては「建前」、
つまり表向きの理由であって、本心は天皇親政から
藤原氏が実権を持てるような政治機構を構築することにあったわけです。
これは、その後の歴史の進展を見てゆくともっとはっきりします。

Family tree of Fujiwara FUhito (keizu02.gif--400x400)

上の系図を見ると、利用できるものは何でも利用しようという『六韜』の精神が良く現れています。
不比等はこの系図の中で空前絶後のことをしています。
系図の中の番号は皇位継承順位を表しています。

本来ならば、持統天皇の後は天武天皇の子供たちへと皇位が移るはずなのです。
しかし、持統天皇は自分の血がつながらない子供たちへは皇位を譲りたくなかったのです。
不比等は新羅派である天武天皇の子供たちを毛嫌いしていました。
彼らへ皇位が移れば当然のことながら、藤原政権は座を失います。
このあたりの、百済派、新百済派、新羅派の確執については、このページ (天智天皇は暗殺された) を読んでください。

持統天皇から孫の文武天皇へ皇位が移ります。
これがあの有名な『天孫降臨』の神話が『記紀』に受け入れられた理由です。
つまり、このような変則的な皇位継承を正当化するためでした。
この文武天皇に不比等は自分の娘を嫁がせています。
文武天皇が亡くなると、なんと皇位は彼の母親へ移ります。
これが元明天皇です。

その後、聖武天皇が皇位につくまでの時間かせぎに、彼女の娘の元正天皇が皇位につきます。
やがて、望みどうりに聖武天皇になるわけです。
この間、天皇の有資格者である、天武天皇の息子たちが幾人もいたのです。
しかし、すべて無視されました。もちろん不比等がそのようにしたのです。

しかし、このようにただ系図を操るだけでは、不比等は満足しなかったようです。
大宝律令は、不比等の目にはまだ十分ではなかったようで、
そのために「養老律令」に着手しました。

不比等は自分の娘婿である聖武天皇の即位とともに公布することで、自己の地位を確立しようとする狙いを持っていました。
しかし、不比等は養老4年(720)8月に亡くなります。
作業は停滞し、養老6年2月には未完のまま作業は中断されました。
従って、聖武天皇即位にあたっても公布されず、政府の文書庫に眠ったままになったのです。

この養老律令を公布に持ち込んだのは、不比等の孫の藤原仲麻呂です。
「橘奈良麻呂の変」直後の天平勝宝9年(757)5月でした。
仲麻呂はこの頃から、藤原氏を皇族と同等に位置づけ、その基礎を築いた不比等らを顕彰するとともに、自己の地位を強化しようとしたのです。
その一環として不比等の手がけた養老律令を施行したのが真相です。


初出:『真理とは何か?』

(2003年9月24日)


【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
デンマンさんが真面目にお話してくださいましたわ。
いかがでござ~♪~ましたか?

もし、あなたが古代史に興味があるなら次の記事も読んでみたいと思うかもしれません。
時間があったら、ぜひ読んでみてくださいまし。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

あなただけに…

2011年5月17日

 
あなただけに…

性愛の野性的現実

1951(昭和26)年7月、マリアナ諸島のアナタハン島から20人の残留日本人が帰国した。 戦後6年間、日本の敗戦を信じず、島に身を潜めていたものたちである。

当初その島には、31人の男たちと一人の女がいた。 しかし、島で生活している間に、6人が殺害され2人が病死し、3人が原因不明の死を遂げた。 原因は食料ではなく、ただ一人の女とただ一丁の拳銃であった。 性欲のために女を奪い合い、独占しようとした男たちは次々に殺された。 その後、女は全員の協議で、指名された男と交互に同棲するようになった。 しかし、その間も、女は他の男と恋愛し、情を交わし続けたのである。

昭和25年4月、女は突然、姿を消した。 女がいると今後も誰かが殺される。 いっそ彼女を消してしまえ。 そんな声に恐怖した彼女はアメリカ軍に投降したのである。

デンマンさん。。。あんさんは上の物語をでっち上げはったん?

ちゃうわい。。。上の事件はマジであったのやがなァ。 ウソやと思うのやったら、「アナタハンの女王事件」で検索してみたらええやん。 これは実際にマリアナ諸島のアナタハン島で起こった事件なのやがなァ。

こないな、しょうもない事件を持ち出してきて、あんさんは何を言おうとしやはるのォ~?

女が少なくなると男ちゅうもんは女をめぐって野性的な争いを繰り広げるのや。 この点ではサルとあまり変わらへん。 しかも、一夫一婦制の人間社会も、実は建前で、野性的な生活になれば、上の事件で見るとおり女は他の男と恋愛し、情を交わし続けたのやがなァ。

それは特殊な事情があったからやないかいなァ。 上の事件は普通の人間社会で起こったものとちゃうねんでぇ~。

そやけど、人間が野生の本性をむき出しにすればサルとあまり変わりがないことを物語っておるねん。 つまり、一夫一婦制というのは、上のような事件が起こらんように人間が無理して作った制度やと、わては思うねん。

そうやろか? 無理して作ったのやろか?

あのなァ~、20世紀の大天才のアインシュタインも次のように言うてるねん。

結婚とは、ひとつの偶然から

永続的なものを作りだそうという、

成功するはずのない試みだ。

—アルバート・アインシュタイン

こないな、えげつない事をアインシュタインのおっさんがマジで言わはったん?

冗談で言ったのではないのやでぇ~。。。めっぽうマジやんか!

そやけど、なぜ、そないな事を言うたのやろか?

それわなァ~、アインシュタインの恋愛生活を覗いてみると判るねん。

アインシュタインは1897年、スイスのチューリッヒにある連邦工科大学で学んでいたとき、最初の妻になる女性と出会い、恋に落ちた。 その女性はミレーヴァ・マリッチ。

ミレーヴァ・マリッチとアインシュタイン

アインシュタインと同じ講座の学生で、生まれつき足が悪かった。 二人に共通していたのは、コーヒーとソーセージが好きということだった。 彼女と知り合ってまもないころ、アインシュタインが書いた手紙には、ミレーヴァを呼ぶ愛称がこれでもかとばかりに登場する。 僕のかわいこちゃん、僕の子猫ちゃん、僕の愛する魔女、僕の小さなすべて……そして愛の告白もあった。 1900年、アインシュタインが21歳のときの手紙にはこう書かれている。 「哀れな人間たちの群れのなかで生きてゆこうと思ったら、君のことを思わずにはいられない」

二人はともに勉強し、音楽を楽しむうちに、友達から恋人へと関係を進んだ。 同級生からミレーヴァの足のことを問われ、僕なら不具の女と結婚などできないと言われたアインシュタインは、「でも彼女はすばらしい声をしている」と答えた。 最後には二人の関係は破局を迎えるのだが、そこにいたる事情は深く複雑なものだった。 自分の心はミレーヴァのものだと言っているときから、アインシュタインはいろいろな意味で遠い存在だった。 離ればなれで暮らした時期も長く、研究のことしか頭にないアインシュタインには、子供のいる雑然とした生活は耐えがたいものだった。 結婚前に生まれた娘ルイーズは養子に出され、その後もアインシュタインとミレーヴァの間には、二人の男の子が生まれている……のちにハンス・アルバートは水力学の専門家になり、次男エドゥワルドは精神分裂病で施設に入った。 そのかたわら、アインシュタインはいとこのエルザに求愛するようになり、二人はやがて結婚する。

エルザとアインシュタイン

1913年、ミレーヴァとの離婚が成立する5年以上も前に、アインシュタインはこんな手紙をエルザに書いている。「私にとって妻は、クビにできない雇い人のようなものです。私は寝室も別にして彼女を避けています……私と、私の人生を支配できるのは自分以外の誰でもありません」

エルザは夫の研究にいっさい口出ししなかったし、知性面で夫と張りあおうという気持ちもさらさらなかった。 そんな二番目の妻に対しても、アインシュタインは同じことを繰りかえしてしまう。 夫婦の間から愛もセックスも消えうせ、アインシュタインはほかの女性に盛んに言いよりはじめる。 友人によると、その様子は「磁石が鉄粉に引きよせられるようだった」という。 またしても寝室が別になり、妻は雇い人に等しい存在になりさがった。 ただし海外旅行や映画のプレミアのときは、夫と行動をともにすることが許された。 アインシュタインはエルザに、「きみの話、私の話をするならいい。だが『私たち』のことは一切話題にしないでくれ」と申しわたしている。

年を経るにつれて、アインシュタインは女性を苦々しく思うようになった。 彼にとって、愛は偽りの概念に過ぎないし、生涯の結びつきなどという理屈はもっと始末におえないものだった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーから)


39 – 41ページ
『アインシュタインをトランクに乗せて』
著者: マイケル・パタニティ(Michael Paterniti)
訳者: 藤井留美
2002年6月20日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社ソニー・マガジンズ

つまり、あんさんもアインシュタインのように愛は偽りの概念に過ぎないし、生涯の結びつきなどという理屈はもっと始末におえないものだと考えてはるのォ~?

いや。。。わては、そのようなえげつない事を考えているわけではないねん。

マジで。。。?

あのなァ~、アインシュタインがいかに大天才であろうとも、人間は誰もが神様のように完全ではありえないのや。 その証拠が上のアインシュタインの言葉やと、わては思うてるねん。

さよか。。。? あんさんはマジでそなないに思うておるのォ?

わてがウソを言うかいな!

それが大ウソやんかァ! 誰でもウソを言うねん。

めれちゃんこそ、えげつない事を言うやんか! このような時に冗談もウソも、わてはよう言えん!

つまり、あんさんは「愛による生涯の結びつき」があると、マジで信じてはるのォ~?

もちろんやァ!

「アナタハンの女王事件」や「アインシュタインの結婚観」に毒されていない「愛による生涯の結びつき」が現実の世界にもマジであるのやろか?

あるねん。

どこに。。。?

めれちゃんは『東京物語』を観たことがあるか?

ずいぶんと古い映画よってに、まだ観たことあらへん。

その映画に出てくる原節子さんと小津安二郎監督の結びつきが、わてには「愛による生涯の結びつき」のように思えるねん。

     原節子

    「東京物語」撮影の一コマ

     笠智衆 小津安二郎・監督 原節子
   

この作品(『東京物語』」)を通じて最も強く感じたのは小津と原節子の間にくりひろげられた一種の暗闘だった。
原節子というと“大輪の花”のようなという枕詞(まくらことば)がよく使われた。だが、私の思い出す原節子は違う。 背骨をはさんで二列にびっしりとトクホンが貼ってあった。 背中がうつる本番前には必ず私を手招きして、念を押すように、
「高橋さん、背中、大丈夫ね」
という原節子だった。

『東京物語』は真夏の話である。原は純白のブラウス一枚で出演することが多かった。当時、衣装の下をすかして体の線を狙うような照明は使われなかった。薄物一枚でも衣服は衣服としてうつす。背中のトクホンがうつる心配は絶無といっても良かったが、そこは演技の質といい、人気の高さといい、並ぶ者のない地位にあった原の誇りが許さなかったのだろう。

 (中略)

初めての日、トクホンの白さを見た時私はわれにもなく立ち止まってしまった。原が背中ごしに振り仰いだ。
「お願い、気をつけてほしいの」
あの、全国を魅了した、音を立てて来るような笑いがその言葉に続いた。トクホンへの説明は一切なかった。だが、二列で確か八枚のトクホンは原の癒しようのない疲労の深さを如実に感じとらせた。
小津の死に殉ずるかのように原はあらゆる公的な場から身を退(ひ)いてしまった。

 (中略)

あらゆる人との接触を頑(かたく)なに拒む背後になにがあるのか。それはもう探りようもないだろう。
しかし、誰にも疑いをさしはさむ余地のない事実がひとつだけある。
小津安二郎あっての原節子であり、原あっての小津だったということだ。

世に監督と俳優のコンビは少なくない。
溝口健二と山田五十鈴。同じ溝口と田中絹代。
黒澤明と三船敏郎。黒澤と志村喬。
木下恵介と高峰秀子。
小林秀樹と仲代達也。
小津自身にも、笠智衆があり杉村春子があった。
だが、二人のどちらが欠けても駄目であった例は小津と原以外にない。
意外なことだが笠の演技賞は総て他の監督との組合せで得られた。
この事実が示すように笠は小津以外との仕事でも力を発揮した。
しかし、原には小津以外にこれぞ原節子という仕事はなく、小津の戦後の傑作は悉(ことごと)く原によって作り得たものだった。
それだけの二人であれば、なにもかも呑み込み合って、僅かな水洩れもない関係が想像される

(注: 赤字はデンマンが強調)


61-62ページ 「絢爛たる影絵 – 小津安二郎」
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社

『厳しさの中の愛の絆』に掲載
(2010年8月20日)

つまり、原さんと小津監督は「愛による生涯の結びつき」を持っていたと、あんさんは思いはるん?

そうやァ。

それで、二人は結婚しやはったん?

二人とも独身を通したのやがなァ。

マジで。。。?

もちろん、わては二人に会ったこともあらへん。。。実際にどのような生活をしていたのかも、わてには分からへん。 でもなァ、二人とも生涯、結婚しなかったことは事実なのやでぇ~。。。

。。。で、小津監督の死後、原さんはどうしてあらゆる人との接触を断ってしまいはったん?

もちろん、わてに原さんの本当の理由が分かるわけがない。。。でもねぇ、わては中国の故事を思い出すのやァ。

どのような故事やのォ?

「琴の緒を断つ」という故事やがなァ。 断琴(だんきん)とか絶弦(ぜつげん)とも言われる故事やねん。

琴の緒絶ゆ(ことのおたゆ)

中国の春秋時代、琴の名人伯牙(はくが)が、友人の鍾子期(しょうしき)が死んだとき、もはや自分の琴を理解する者が居ないと言って琴の緒を絶ち、生涯琴を弾かなかったという。
「呂氏春秋」本味の故事から
親友・知己に死別するたとえ。
琴の緒を断つ。
伯牙断琴(はくがだんきん)
伯牙絶弦(はくがぜつげん)


 
めれちゃんも聞いたことがあるやろう?

ありますう。 原さんにとって自分を本当に理解してくれる人は小津監督しか居ないと思いつめはったのやろか?

そうやと、わては思うでぇ~。。。

そやけど、それほどお互いに理解してはるなら、どうして結婚しなかったのやろか? 映画界の中では女優さんと監督との結婚は、はいて捨てるほどに見られますやん。

そうやァ。。。でもなァ、わてには小津監督の死後、原さんが映画界から去ってしまった事が分かるような気がするねん。

やっぱり、「琴の緒絶ゆ」ということやのォ~?

そう言う事やなァ~。 原さんは“銀幕の愛”を大切にしたかったのやろなァ。 鶴岡淑子さんも『憂国』で三島由紀夫と共演し、三島が自決して死んでしまうと映画界から消えてしまったのやァ。

あらっ。。。そないな事がありはったん?


 
この映画は三島さんが脚本を書いて自分が主演して、しかも監督までやってのけて完成した作品なのやァ。 上のDVDには40年前に製作に当たったスタッフの人たちの座談会の模様も映像として含まれているねん。

鶴岡淑子さんは、どないな理由で映画に出演することになりはったん?

その座談会の中でプロデューサーがその辺の事情を語ってるねん。 その話によると、三島さんが演じる主人公の武山信二中尉の貞淑な新妻・麗子を演じる女優を探すのを頼まれたという。

それで、どないしやはったん?

三島さんは日本女性の美しさを強調できるような女優さんが望みだったと言うねん。 それで俳優養成所の所長にそのことを話すと新人の中から鶴岡淑子さんを選ばれたと言うことやァ。

それで。。。?

プロデューサーがホテル・ニュージャパンで初めて鶴岡淑子さんを三島さんに紹介したそうやァ。 その時に面白いエピソードがあるねん。

どないなエピソードやのォ?

『憂国』は1966(昭和41)年にたった2日間で撮影されて終わった。 当時、三島さんはノーベル賞に候補者として名前が挙(あ)がるくらいに世界的にも知られていたのやァ。 ところが鶴岡さんはマジで三島さんを知らなかったという。

それで。。。?

それで、家に帰ってから、母親に「今日、なんだかヤクザみたいな人と会ったわ。でも偉い人みたいだったわ」と言ったというのやァ。 そのことを後でプロデューサーから聞かされて三島さんは涙が出るほど笑ったそうやァ。

どうして、それほど笑いはったのやろか?

まさか自分の名前を知らない人が居るとは三島さんには考えられへんかったと思うでぇ~。。。つまり、極めて珍しい女優さんに会えたということと、自分の「うぬぼれ」と「自尊心」を突かれた気持ちがしたのやでぇ~。

それで、三島さんは鶴岡さんが気に入りはったん?

そうなのやァ。 映画界や世間の汚れに馴染んでいない純真な役者に会えて、武山信二中尉の貞淑な新妻・麗子を演じるには最適な人物と思えたようやァ。

。。。で、その事と鶴岡さんが映画界からその後消えていったことが関係あると、あんさんは見ているの?

そうやァ。 『憂国』は三島さんが遺書として作った映画なのや。 「至誠」や「葉隠(はがくれ)」の事を聞かれて、三島さんの50分にわたる英語のインタヴューの中でも「『憂国』を観てもらえば分かるはずだ」と言うてるねん。 つまり、それほどの熱意を込めて『憂国』を作ったわけや。 スタッフの人たちにも命を燃焼するほどの意気込みが感じられたそうやでぇ。

要するに1970年の自決を予告するような映画やったわけやァ。 鶴岡さんに対する三島さんの演出も、まさに主人公の武山信二中尉が貞淑な新妻・麗子に向かうような思いが込められていた。 それだけに鶴岡さんが受けた指導は、たった2日間やったけれど、ぬぐいきれない程の強烈な印象を受けたに違いない。 しかも、映画制作から4年後の1970年に三島さんはマジで『憂国』の武山信二中尉と同じように自決している。 そのニュースを聞いた時の鶴岡さんの衝撃が分かるような気がするねん。

その衝撃が原因で鶴岡さんは、その後、映画界から消え去ったと。。。?

そうやァ。。。鶴岡さんは、『憂国』の撮影2日間に三島さんの演技指導を受けながら役柄の中で“愛を燃焼させた”わけやァ。。。しかも4年後に三島さんの自決によって、それが現実になった。 これが衝撃でなくてなんであろうか!?。。。とわては、そう思うたわけやァ。

つまり、鶴岡さんは『憂国』と現実の「三島事件」の中で「愛による生涯の結びつき」を感じ取ったと。。。?

そうやァ。。。

そやけど、どうして、こないな事をわたしに話す気になりはったん?

やだなあああァ~、めれちゃん!。。。惚(とぼ)けないで欲しいねん。 めれちゃんかて「愛による生涯の結びつき」をネットの世界で、わてと感じているやろう?

まさか。。。?

あれっ。。。感じておらへんのかァ~?

感じてるわけないやん!

そやけど、めれちゃんは次のような萌え萌えの愛の短歌を詠んでいたやないかいなァ!

くちづけ
 
 

 
 
罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ
 
  

 
 
by めれんげ
 
2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

わたしがあんさんのことを想いながら詠んだと思いはったん?

もちろんやがなァ。。。めれちゃんと2004年からネットで育(はぐく)んできた愛を思えば、めれちゃんが「愛による生涯の結びつき」を感じても、しごく自然なことやんかァ! うししししし。。。

なにをぬかしてけつかんねん! あんさんを想って詠んだのではあらへん!

ちゃうのかァ~?

ちゃいますがなア! 誤解を生むようなことを言ったらアッカ~ン!

そやかて。。。そやかてぇ~。。。上のような熱烈な短歌をわて以外の男に向かって詠めるはずがないやろう!?

詠めますがなァ。

いったい。。。いったい誰のことを想いながら詠んだのやァ?

そないな事をここで公開できますかいなァ! いいかげんにしやへんとネットポリスを呼んできますでぇ~。。。

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
そうですよね。
デンマンさんは思い込みの激しい人なのですわ。

でも間違いなく「今一つの世界」を持っています。
その世界の中で、めれんげさんと愛し合っているのですわ。

実は、あたしにも「今一つの世界」がありますわ。
ええっ? どんな世界かってぇ。。。?

現実の世界は、なかなか思うようになりません。
あたしの「今一つの世界」は“愛とメルヘンの世界”です。

落ちこんでいる時など、その“癒しの世界”で、しばしの安らぎを得るのが、あたしのささやかな楽しみです。

ところで「今一つの世界」をどのように実現するか?
ある人にとっては空想のままでよいのかもしれません。
あたしの場合も、強(し)いて実現させようとは思いません。
でも、三島さんは「今一つの世界」を実現させようとしたのですよね。
それで、あの悲劇を生んでしまった。
あたしは、そのように感じています。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

20代の三島由紀夫の短編に『ラディゲの死』があります。

若き日の三島は、堀口大學が訳した

『ドルジェル伯の舞踏会』を読んで

感銘を受けたそうです。

『ドルジェル伯の舞踏会』は、

ラファイエット夫人が書いた

『クレーヴの奥方』を参考にして、

高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、

別の次元の「フランス心理小説の傑作」に

ラディゲが仕立て上げました。

「夭折の天才」の名にふさわしい

文学的実力の持ち主であったことが

『ドルジェル伯の舞踏会』を読むと理解できます。

三島も、この本を読んで自己同一化する程、

多大な影響を受けました。

それで書いたのが『ラディゲの死』と言われています。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

楽しいから、ぜひ読んでみてくださいね。

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では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。