『エジプト』


 
2011年2月2日 (水曜日)
  
 
『エジプト』
 
 
幸福の谷再訪
 
 

幸福の谷

これがその場所でござ~♪~ますか?

そうですよ。

どのような訳でここが「幸福の谷」なのでござ~♪~ますか?

旧軽井沢のはずれ、軽井沢万平ホテルの裏手にあるのが、この谷なのですよ。

美しいカラマツ林の木立のなかに苔むした石垣と焼き石を敷き詰めた石畳の道がずっと続いてます。周囲は静かな別荘地帯で、心静かに散策を楽しむには絶好の場所ですよ。

でも、そこがどうして幸せの谷なのでござ~♪~ますか?

「幸福の谷(ハッピーバレー)」と呼ばれるようになったのは明治時代です。

明治時代でござ~♪~ますか?いったい誰がそのような名前をつけたのですか?

もちろん、ここに別荘を構えた外国人宣教師たちですよ。この「幸福の谷」にはエピソードがあります。

どうのような。。。?

ここにノーベル賞作家の川端康成が別荘を構えたのですよ。

どのような経緯(いきさつ)なのでござ~♪~ますか?

昭和12年、『雪国』が文芸懇話会賞に入賞すると、川端康成は逗留先の軽井沢の宿から東京の授賞式に出席したのですよ。

それで。。。?

授賞式を終えると川端康成は、真っ直ぐ軽井沢に戻ったそうですよ。

それで。。。?

賞金で外国人宣教師から幸福の谷の別荘を譲り受けたと言うのです。

賞金で買ったのですか?それほどの大金だったのですか?

おそらく賞金だけではなかったのでしょう。。。賞金をもらった事がきっかけになって川端康成は「幸福の谷」に別荘を買う気になったと思うのですよ。面白いのは、堀辰雄の『風立ちぬ』の終章が「幸福の谷」の川端康成の別荘で完成しているのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。その小説を読んでみれば分かります。

それで、この「幸福の谷」が小百合さんとどのように関係しているのですか?

上のメールの中で「よかったらデンマンさんも。。。」と書いてあるでしょう?。。。僕は、その時、ぜひ小百合さんと、この「幸福の谷」の石畳を二人だけで歩いてみたいのですよゥ。


『軽井沢と小百合さん』より
(2007年12月4日)

デンマンさん。。。ずいぶん前の記事を持ち出してきましたわねぇ~。 今日は幸福の谷のお話をするのですか?

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんとしては軽井沢の幸福の谷は格別の意味があるでしょう?

どうして、そう思うのですか?

やだなあああァ~。。。僕と小百合さんは一緒に幸福の谷を歩いたのですよ。 「よかったらデンマンさんも。。。」という小百合さんの言葉を思い出して欲しいから僕はわざわざ上の記事を引用したのですよう。

でも、軽井沢にはたくさんの思い出がありますから、「幸福の谷」と言われても涙が滲(にじ)んでくるほどの感動はありませんわ。

なんだか、味気ないような。。。、つれないような。。。、そっけない事を言うのですね?

デンマンさんにとって、私と幸福の谷を散策したことが、それ程の思い出になっているのですか?

もちろんですよ!。。。ロマンチックだったでしょう!?。。。小百合さんも思い出してくださいよう。

デンマンさんは、何が何でもロマンチックにしないと気がすまないのですわね?

小百合さんは、ちっとも感動しないようですねぇ。。。

私は、デンマンさんほど感動するように生まれついてないのですわ。。。で、どうして急に「幸福の谷」なのですか?

あのねぇ、僕はたまたま図書館から借りてきた本を読んでいたのですよう。 そうしたら、堀辰雄の『風立ちぬ』の終章に、また出会ったのですよう。

死のかげの谷

節子と出会った村へ私は戻ってきた。 三年半ぶりのこの村はすっかり雪に埋まっていた。 私は村から少し北に入った小さな谷の、外国人たちの別荘があり、「幸福の谷」と呼ばれている場所の一番はずれの山小屋に着いた。 真冬に寂しい一人暮らしをしようとしている自分にとって、ここは「幸福の谷」ではなく、「死のかげの谷」という言葉がふさわしいのではないかと思う。

その山小屋はベランダのある、二階建ての小ぢんまりとしたもので、壁まで杉皮が張りめぐらしてあり、粗末ではあるが悪い感じではなかった。 ベッドからイス…なにもかも二人分あり、まるで節子と自分のために用意されているように感じた。 そして、一年半ぶりで私は自分のノートを開いた。

たえず変化する谷あいの天候に、落ち着かない日々を過ごしていた私は、ある夜ぼんやりと暖炉のそばで体を暖めながらサナトリウムのことを思い出していた。

雪の舞っている中、彼女の父親を迎えに出て病室に戻った私の頭の雪を気にかけ、聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で、「髪に雪が…」と言った節子の弱々しい姿が浮かんだとき、今までベランダに出ていて、気づかないでいた自分の濡れている冷たい髪に気づいた。

ある日の午後、私は初めて谷の小屋を下り、村に行った。 新しい教会なども建ち、雪に覆われている村は、知っている景色とは違って見え、今、自分には何一つ残っていず、三年前のものをすべて失ったことをあらためて感じた。

しかし、私の心には、節子の死の気高さが、残った私の生を助け、サナトリウムで死を共有した二人が、今は生を共有しているとの思いが生まれた

クリスマスイヴの夜、村人の家に呼ばれていった帰り道、谷の上のほうにポツンと小さな光があるのを見つけた。 それは無数の光になって谷のあちらこちらを埋めていた。 その光が自分の山小屋の光とわかると、生きている意味をあらためて感じ、ここを「幸福の谷」と初めて心から思えるようになった。

こうして節子へのレクイエムは静かに終曲へと向かっていった。


139-140ページ 「風立ちぬ」
『あらすじで読む日本の名著』
編者: 小川義男
2003年11月19日 第15刷発行
発行所: 株式会社 樂書館

小百合さん。。。上の『風立ちぬ』の終章を読んで、どう思いますか?

そうですわね。。。確かに「幸福の谷」の第一印象は、どちらかと言えば、「死のかげの谷」というイメージでしたわ。 デンマンさんは初めて歩いた時に「幸福」を感じたのですか?

いや。。。「幸福」な気分と言うよりも「ロマンチック」な気分になったものですよ。

どうして。。。?

もちろん、小百合さんと一緒に歩いたからですよ。 うしししし。。。

見え透いた事を言わないでくださいな。

あのねぇ、正直な事を言うと、僕はガッカリしたのですよ。。。つうかァ、期待はずれだったのですよ。 もっと、ドラマチックな光景を僕は期待していたのですよ。。。例えば、幸福の谷を歩いていると映画『レベッカ』に出てくるような古風な館(やかた)が現れるような。。。そんな驚きを予期していたのですよ。 ところが、川端康成の別荘も跡形も無く消えていた。 どこを見ても期待していたような物は一つも無い。 堀辰雄が「死のかげの谷」と書いていたけれど、うまい言葉を見つけたものだと思って、僕はただその事だけに感心しただけでした。

要するにロマンチックでも幸福でもなかったのですね?

いや。。。何事にも表と裏がありますからね。 コインのように。。。

それで、「表」を返したら、どのような光景が見えたのですか?

小百合さんと一緒に歩いた「幸福の谷」は、聞こえてくるものと言えば足元の枯葉がカサコソという音だけでしたよ。

それで。。。?

小百合さんと話していると、話題と話題の間のかすかな沈黙の中からイヴ・モンタンの「枯葉」が聞こえてきたのですよ。

「シャンソン - 枯葉」

デンマンさんは「枯葉」にハマッているようですわね?

ん。。。? 僕が「枯葉」にハマッている。。。?

そうですわ。。。去年の12月に『パリの空の下で』という記事を書いたばかりではありませんか!

『パリの空の下で』

(2010年12月1日)

小百合さんはよく覚えていますねぇ~。。。

まだ去年の12月のことですわ。。。で、「幸福の谷」を歩いている時にイヴ・モンタンの歌う「枯葉」が聞こえてきたので、デンマンさんはロマンチックな気分になったのですか?

いや。。。歌だけを聴いたらロマンチックな気分にならなかったと思うのですよ。

他に何があったのですか?

ロマンチックなイメージが「枯葉」と共に僕の脳裏に浮かんできたのですよ。

そのイメージってぇどのようなものでしたの?

次のようなイメージでした。。。

あらっ。。。私が下着だけで「幸福の谷」に佇んでいるのですか!? うふふふふ。。。

そうなのですよ。。。うしししし。。。僕は小百合さんに、このイメージを重ね合わせてロマンチックな気分に浸ったのですよ。

つまり、この事が言いたくってぇタイトルを「幸福の谷再訪」としたのですか?

いや。。。この上のイメージを持ち出すために「幸福の谷」について小百合さんと語ろうとしたわけではありません。

他にどのような理由で「幸福の谷」を持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、小百合さんのロマンチックなイメージを手繰り寄せ、堀辰雄の「死のかげの谷」を読んでいたら、ふいに次のイメージが浮かんできたのですよ。

あらっ。。。もしかして私がクレオパトラに変身したのですか?

そうなのですよ。。。考えてみたら、最近、クレオパトラのことを書いていましたからね。。。

『クレオパトラの殺し文句』

(2011年1月27日)

でも、どうしてクレオパトラでなければならなかったのですか?

上の堀辰雄の文章の次の言葉がクレオパトラを連想させたのですよ。

死を共有した二人が、

今は生を共有しているとの

思いが生まれた

この言葉がクレオパトラと、どのように関わっているのですか?

それを説明するには、まずクレオパトラの妹のアルシノエの事を話さないと。。。

(エジプト王朝の女王になったが)クレオパトラを取り巻く状況は厳しかった。 官僚組織は硬直化していたし、民族主義の台頭によって、土着のエジプト人の反乱も起こっていた。

 (中略)

エジプトは半ばローマの属国化していた。 しかも、こういった内憂外患に加えて、お家芸の内紛がある。 弟のプトレマイオス13世は、宦官ポティノス、軍人アキラス、教育係のテオドトスの3人の後見人に操られ、クレオパトラを王座からひきずりおろそうとしていた。 また、妹のアルシノエも密かに王位を狙っていた

そういったなかで、クレオパトラは素晴らしい政治的手腕を発揮した。

 (中略)

紀元前49年、カエサル(シーザー)によってローマを追われたポンペイウスに、クレオパトラは食料と兵士を送っている。 クレオパトラは最終的にはポンペイウスが勝利を収めると判断していたのである。 だが、アレクサンドリアの街には、当時、大使として赴任していたポンペイウスの長男とクレオパトラの間に男女の関係があったのではないかという噂が流れた。

ポンペイウスに肩入れしたことがアレクサンドリア市民の怒りを買ったのか、あるいはプトレマイオス13世と妹アルシノエの陰謀が成功したのか、紀元前48年、クレオパトラは首都を追われ、シリアとの国境の近くに身を隠す。

 (中略)

10月2日、カエサルを乗せた船がアレクサンドリアの沖合いに到着した。 その時点で、ポンペイウスが殺されていたことをカエサルはまだ知らない。 しかし、テオドトスがポンペイウスの首と印章の刻まれた指輪を見せると、カエサルは涙を流したという。 とはいえ、テオドトスたちの態度に安心して、カエサルはアレクサンドリアに入城した。 いまやクレオパトラの運命は、カエサルの決断にかかっていた。

 (中略)

一方、クレオパトラのほうは、カエサルに会うために意表をついた行動に出る。 ローマ兵が警備にあたっているとはいえ、王宮には弟の手の者がいる。 まともに王宮に入れば殺されてしまうにちがいない。 そこで、毛布に身を包むと(一説には絨毯だとも言われている)、腹心の部下アポロドロスにカエサルの部屋まで運ばせたのである。 毛布の中からエジプトの女王が出てきた時、カエサルは驚いた。

と同時にクレオパトラの機知に感心したにちがいない。

翌朝、カエサルはクレオパトラとプトレオス13世を呼びだした。 姉の姿を目にすると、13世は怒って床に王冠を投げつけ、部屋を出て行ったという。 騒乱を避けるため、カエサルは群集の前に姿を現し、12世の遺言を読み上げ、ふたりが和解し、共同でエジプトを統治することを宣言した。

 (中略)

カエサルに呼ばれてクレオパトラがローマに出発したのは、おそらく紀元前46年の夏のことであろう。 エジプトの政情は落ち着いていた。 だが、それでも騒乱の種を残さぬように、クレオパトラは息子とともに12歳になる夫のプトレマイオス14世を連れていった。 ローマに行った目的は、ガリア、エジプト、ポントス、アフリカにおけるカエサルの4つの勝利を祝う凱旋式に出席するためである。 この機会にカエサルは、ローマとエジプトの関係を強調し、クレオパトラを正式な妻としてローマ市民に紹介しておきたかったにちがいない。 凱旋式は4日間にわたって行われ、ナイル河をかたどった彫像やファロス灯台の模型、また戦地から持ち帰ったさまざまな財宝が見物する市民の目を楽しませた。 行列のなかにポティノスやアキラスの肖像を見つけると、市民たちはいっせいに嘲弄を浴びせた。 また、クレオパトラの妹アルシノエも鎖につながれて市内を引き回された


40-55ページ 『クレオパトラ』
1999年3月20日 第1版第3刷発行
著者: エディット・フラマリオン 吉村作治・監修

権力にこだわりすぎると、どういうことになるのか? クレオパトラはローマの凱旋式で充分に分かったはずです。

権力にこだわるとどうなるのですか?

妹のアルシノエのように鎖でつながれて市内の観衆の目の前で引き回されるのですよ。 戦争で負けた人間、権力闘争に負けた人間の成れの果てをクレオパトラは脳裏に焼き付けたはずです。

でも、権力闘争に敗れることをクレオパトラは考えたでしょうか?

もちろん考えましたよ。 クレオパトラの両親も兄も弟も妹も、すべてが不幸な最後を迎えましたからね。

それで、アントニウスを毒殺すれば自分の命が助かるにもかかわらず、クレオパトラはアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の申し出を断固として拒否したのですか? 要するに、クレオパトラはアントニウスを毒殺すれば命を助けてもらえる。 でも、命が助かったとてアウグストゥスとはアントニウスとのような愛の生活は送れないと判断したのですか?

そうですよ。 アウグストゥスというのはアントニウスのように女性を愛する生活よりも権力に、より多くの魅力を感じると、クレオパトラは断定したのですよ。

でも、もし、クレオパトラがアントニウスを毒殺していたら、どうなっていたでしょうか?

クレオパトラの妹のアルシノエは、かつて謀反人として鎖につながれてローマ市内を引き回された。 アウグストゥスがどんな甘い言葉を弄してクレオパトラを説得したとしても、彼はクレオパトラと結婚するよりも彼女を鎖につないでローマ市内を引き回す方を選ぶでしょうね。

どうして。。。?

アウグストゥスの権力は、そうする事によって、更に美しいものに、更に厳(おごそ)かなものに、更に堅固なものになるからですよ。。。

それで、クレオパトラはアウグストゥスに命乞いをする事を初めから諦めていたのですか?

そうだと僕は思います。 クレオパトラはアウグストゥスがどのような男かを充分に理解していたのですよ。 つまり、命乞いをするよりも、死を選ぶことによってクレオパトラは愛に生きたのですよ。

そうすると、クレオパトラにとって「幸福の谷」はテーベの対岸にある「死の谷」ですか?

いや。。。「胸の谷間」です。

「胸の谷間」。。。?

そう。。。クレオパトラの胸の谷間ですよ。 そこに揺れているペンダントには次のように書かれているはずです。

人生って、結局、愛することなのよね。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
あたくしの事は、ほんの少ししか出てこないのでござ~♪~ますわ。
なんだか仲間はずれにされた気分ですう。
これって、大人のイジメですわよね?
イジメでないのならば、嫌がらせですわよう。。。
うふふふふふ。。。

デンマンさんは、何が何でも小百合さんと二人きりで、ロマンチックな気分に浸ろうと妄想しているのでござ~♪~ますわ。
いけすかないこと。

でも、あたくしにだって考えがありますわ。
今年の夏は、バンクーバーに行ってデンマンさんを驚かせようと思いますわ。

とにかく、また、あさってが面白くなりそうです。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

軽井沢と言えば、明治の頃から

外国人の別荘地として発展してきたので

未だに外国の影響を受けた建物が

たくさん建っていますよね。

その中でも、言わば軽井沢のシンボル

となっているのが聖パウロカトリック教会です。

アメリカの有名な建築家アントニオ・レイモンド氏が

1930年に建設したことで知られ、

簡素で傾斜の強い三角屋根に

ひときわ大きい尖塔の姿が緑に映えて美しく、

落ち着きのある姿を見せています。

堀辰雄の「木の十字架」にも登場しています。

また、数々の著名人がこの教会で

挙式を挙げたことでも有名ですよね。

この教会で結婚式を挙げるのが

今でも多くの女性の憧れになっているようです。

現在は軽井沢の名誉町民でもある

カルロス神父が守っています。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

暑さを笑って吹き飛ばしたかったら

ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

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