一敗が三人に!


 

2015年9月20日 (日曜日)

 

一敗が三人に!

 


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デンマンさん。。。 どういうわけでお相撲の話を持ち出してきたのでござ~♪~ますかァ~?


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卑弥子さんは相撲が嫌いなのですか?

なんだか男のストリップを見ているようで、あたくしは どうせならプロレスの方がいいのでござ~ますわ。

相撲が男のストリップなら、プロレスだって男のストリップでしょう!?

相撲は、チンタラ、チンタラ、何度も塩を撒くでしょう。。。 あれは時間の無駄だと思うのですわ。。。 あれを見ていると欠伸(アクビ)が出てくるのですわァ~。。。 退屈しますう。

あのねぇ~、あれは儀式の一つなのですよ。。。 もともと相撲と言うのは神様に見てもらう儀式だったのですよ。

あらっ。。。 そうでしたのォ~。。。 つまり、今日は相撲の歴史についてお話になるのでござ~ますか?

いや。。。違うのですよ。。。 夕べ、たまたま本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのです。

一敗は三人に!


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2010年、大相撲の九州場所は、横綱大関陣の頑張りによって盛り上がった場所であった。

白鵬の双葉山の連勝記録への挑戦、把瑠都(ばると)の初優勝への挑戦、38歳魁皇(かいおう)の満身創痍のふんばり、平幕・豊ノ島の勢いも、相撲ファンだけでなく、少々遠のいていた国民の相撲への意識を少なからず惹きつけていた。
中でも、大関・魁皇のここ数年見られなかった勝ち星を重ねる姿には、神懸かった力も感じられ、一番一番が、みなの心を打ち、期待が高まっていった。

 (中略)

私も、普段は、そこまで熱心に大相撲は見ないのだが、この魁皇の頑張りと、人知の及ばぬ不思議な力が土俵を采配しているような取り組みが続き、日に日に関心が高まってきた。

中でも魁皇が西前頭四枚目の豪風(たけかぜ)との一番で、絶体絶命、後ろに回られてしまった11日目の相撲があった。

誰もが、ああ、このまま送り出しで豪風に軍配か、と思った次の瞬間、見たのは豪風が手を滑らせ、前のめりに体勢を崩し、自滅し、その上に背中から倒れ重なった魁皇の姿であった。
新聞各紙は“神業”と称し、とうとう魁皇は21場所ぶりの二桁白星となった。


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その日を境に私の中にも、もう一勝、もう一番、どんな取り組みでもいいから勝ち星を、という願いにも近い気持ちが生まれてきた。

そして次の日。
白鵬、把瑠都、豊ノ島、そして魁皇の四人が十勝一敗で並んだ12日目のことである。

一敗同士の中で、把瑠都と豊ノ島が対戦することになっていた。
しかし、私の心は、その二人の勝ち負けにはなかった。
あの魁皇に、この日も白星をつけてほしいとただただ願うだけであった。

その12日目は木曜日にあたり、大学の業務がある私は、残念ながら中継を見ることができない。
帰りの電車の中、こわごわとモバイルPCでインターネットニュースを見た。
(略) その見出しには、こう書いてあった。
『一敗は三人に!』

 (中略)

それまでの状況。
豊ノ島(一敗)
把瑠都 (一敗)
魁皇 (一敗)
白鵬 (一敗)
そして、豊ノ島ー把瑠都が対戦

ニュースの情報……一敗は三人に

一敗が四人いて、その内、二人が対戦するならば、少なくとも一人は二敗にならざるを得ない。
しかし、ニュースの見出しには「一敗は三人に」と書かれているということは、つまり、魁皇は(そして白鵬も)勝っているということになるのである。
一敗は三人に、という一見不親切な見出しは、実は、情報に富んでいたのである。

 (中略)

私たちが生きてゆく過程で必要なのは、すでに分かりやすい形に加工されている情報を摂取し、頭を太らすことだけでなく、情報という形になっていない情報を、どのくらい自分の力で噛み砕き、吸収していくかということなのである。
それは、うまく世の中を渡れる知識を手っ取り早く獲得することとは一線を画し、いかに自分が人間として、生き生きした時間を開拓するかということにつながっているのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


252-257ぺージ 『考えの整頓』
著者: 佐藤雅彦
2012(平成24)年1月27日 第3刷発行
発行所: 暮らしの手帳社

実は、2010年、大相撲の九州場所には僕は行田市に帰省していたのですよ。。。 僕の母親が相撲のファンだから、僕も一緒になってテレビで上の対戦を見ていたのです。

あらっ。。。デンマンさんも魁皇のファンだったのですか?

いや。。。 僕も卑弥子さんと同じで、相撲は特に好きなスポーツではないのですよ。。。 でもねぇ~、母親が相撲を見るので、親孝行のつもりで付き合いで見ていたようなものです。 ただし、上の小文にも書いてあるけれど、この場所は 38歳の魁皇が満身創痍のふんばりで頑張っていたのですよ。 事実、大関・魁皇は珍しいことに勝ち星を重ねて二桁まで白星を積み上げたのです。 その姿には、神懸かった力さえ感じられ、一番一番が、みなの心を打ち、期待が高まっていったのですよ。。。 僕もこの部分を読みながら記憶が鮮明にオツムに浮かんできました。

つまり、この時の思い出のシーンが印象的なので、こうしてお相撲を取り上げる気になったのですか?

いや。。。実は、そうではないのですよ。。。 相撲の事よりも次の文章が僕にインスピレーションを与えてくれたのです。


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私たちが生きてゆく過程で必要なのは、

すでに分かりやすい形に

加工されている情報を摂取し、

頭を太らすことだけでなく、

情報という形になっていない情報を、

どのくらい自分の力で噛み砕き、

吸収していくかということなのである。

それは、うまく世の中を渡れる知識を

手っ取り早く獲得することとは一線を画し、

いかに自分が人間として、

生き生きした時間を開拓するか

ということにつながっているのである。

なんだか理屈っぽい事にインスピレーションを感じたのでござ~ますわねぇ~。。。

いけませんか?

別に、どのようなことからインスピレーションを受けようが、かまいませんけれど、具体的にどのようなインスピレーションを感じたのでござ~ますか?

ちょっと次の和歌を読んでみてください。


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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山


【現代語訳】

いつの間にか、春が過ぎて

夏がやってきたようですね。

夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、

あの天の香具山に

(あのように衣がひるがえっているのですから)。


『百人一首講座』より

卑弥子さんも知っているように、これは『万葉集』に載っている持統天皇の有名な和歌なのですよ。

ええ。。。 存じ上げておりますわ。

でもねぇ~、上のような現代語訳では全く面白みがないのです。。。 万葉集の編集者である大伴家持は、上のような意味でこの和歌を取り上げたのではないと僕は信じています。

つまり、本当の意味は別のところにあるとデンマンさんは信じているのでござ~ますか?

そうですよ。

でも、たいてい、当たり障りのない上の現代語訳が持統天皇の上のお歌の意味だということになっているのでござ~ますわ。

だから、『万葉集』を読む人が少ないのですよ。。。 あのねぇ~、万葉集には歴史的な意味が込められた和歌が、実は、たくさん載せられているのです。。。 万葉集には藤原氏、あるいは、当時の実力者に対する批判が込められた和歌がたくさん載せられている。。。 そのような観点から歌の意味を考えると実に面白い読み物なのですよ。

。。。で、デンマンさんによると上のお歌の意味はどのようになるのでござ~ますか?

上の歌の本当の意味を探るには、まず次のニュースを読む必要があるのです。

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 女帝誕生

 

讚良(さらら)皇女が

 

皇位を継ぐ。

 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

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あらっ。。。 このような新聞が当時あったのでござ~ますか?

あるはずがないでしょう! 僕が劇的に書いてみたのですよ。 あのねぇ~、僕が当時生きていて、しかも日本新聞の編集長だったら、このような新聞を出していたかもしれません。 これは歴史家が誰も言っていないことだけど、僕は持統天皇が境界性人格障害者だったと信じているのですよ。

でも。。。、当時、そのような病名はなかったのでしょう?

もちろん、なかった。 でもねぇ~、僕の話を聞けば、卑弥子さんも納得すると思うのですよ。

どのようなお話でござ~ますか?

あのねぇ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんを亡くしたのです。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺したのですよ。

マジで。。。?

このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのです。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたはずです。

そうでしょうか?

そうなのですよ。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになる。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史でした。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがいました。

● 蘇我蝦夷
● 蘇我入鹿
● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
● 有間皇子
● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
  。。。

あらっ。。。 この人たちは天智天皇によって命を奪われたのでござ~ますか?

そうなのです。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁ぎます。 もちろん、政略結婚です。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子でした。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものです。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとした。

。。。で、大海人皇子は懐柔されたのでござ~ますか?

いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されます。 目には目を歯には歯を! この当時の必然でした。

そのようなお話は歴史の時間に聞いたことがござ~ませんわ。

ここで詳しく話をする時間がないので、卑弥子さんもぜひ次の記事を読んでみてください。


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『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っている。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っていました。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺しています。

あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのですか?

そうなのですよ。。。とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人だった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。


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上の系図を見てください。 これだけ女帝を立てたのもそのためです。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのです。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのでござますか?

その通りです。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。

讚良皇女の幼少の頃の事件を

もう一度振り返ると。。。

乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。

『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。

聡明で非情である持統天皇が

なぜ怨霊を恐れるのか?

ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみてください。


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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないんですよね。
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、
愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、
僕は次のようにしか解釈できません。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


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大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。


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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。

『性と愛の影に隠れて – 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?


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現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

この世に生き残った私は、明日からは、

弟が葬られている二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

怨霊信仰


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非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」


SOURCE: 国史大辞典

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。

つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。

では、恒例になりましたが、司馬遼太郎さんの言葉を書きますね。

生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。


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“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。

作者が50%で読者が50%。。。

そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。 あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか? それが問題ですよね! 大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。 あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。 大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

それで、大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのでござ~ますか?

そういうことですよ。

つまり、お相撲のお話のインスピレーションとは、持統天皇が怨霊を恐れるあまりに鎮魂の歌として“春すぎて 夏来たるらし”のお歌を詠んだということでござ~ますか?

その通りですよ。


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ですってぇ~。。。
ずいぶんと長たらしいお話ですわ。

あなたは、どう思いますか?

関係者は すでにとっくの昔にあの世へ逝っていますから、
“死人に口無し”でござ~ますわ。

持統天皇がどのような気持ちを込めて歌を詠んだのか?

それは天のみが知っていることだと思います。

ところで、あたくしには持統天皇にはなかったチャーミングポイントばあるのでござ~ますわ。

ええっ。。。 どのようなチャーミングポイントかってぇ~。。。?

眼だと思いますか? それとも“えくぼ”。。。?

実は、“お尻のえくぼ”なのでござ~ますわよ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。? あたくしに“お尻のえくぼ”があるのかってぇ~。。。?

それが、あるのですわよう。。。

あなたにも お見せしますわねぇ~。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう? あたなは、あたくしの言葉が信じられないのでござ~ますか?

ええっ。。。 「信じたいけれど、スタイルが良すぎる」と、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あのねぇ~、あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

この“お尻のえくぼ”のためではないと思うのですけれど、
最近 あたくしは 人気が出てきているようなのですわァ~。。。

あなたは、信じられないでしょう?!

じゃあ、次の検索結果を見てくださいましなァ~。。。


(gog50104a.png)

『現時点での検索結果』

あたくしの熱烈なファンが上のようにして検索したのですう。
ご覧のようにトップに、あたくしの「卑弥子さんの下着姿」が出てくるのですわよう。
うふふふふふ。。。


(himiko32.jpg)

この写真いかがでしょうか?
けっこうイケテルと思いませんかァ~♪~?

「卑弥子のえっち」を入れて検索した人も、
もしかしたら上の写真をご覧になっていたのかもしれませんわァ。
うふふふふふふ。。。

ところで、これまでのお話に、白けてしまった人もいると思いますわァ。
だから、その人たちのために、少しは真面目な記事ををここに紹介しますわねぇ~。。。

たまには、歴史のお話でも読んでくださいなァ。

平安史、古代史のお話を紹介しますわ。

これならば、あなたが白けることもないと思いますう。
ぜひ、読んでくださいまし。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』


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『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』

『兄妹の恋のつづき』

『源氏物語エロいの?』

『酒が行って着物目変境』

『日本は外人に乗っ取られたの?』

『ん?ヒトラーはベジタリアン?』

『ふるさとの選挙と黒い霧』


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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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