平和と武士道
2012年1月10日 (火曜日)
平和と武士道

小村寿太郎
日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。
米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄(けんちょう)が行っていた。
金子はこの戦争中、ほとんどワシントンに居っきりであった。 … かれはルーズヴェルト大統領とはハーヴァード大学でのクラスメートで、その後も親交が深かった。 伊藤は金子を同大統領に接触させることによって、米国に講和への口火を切る役をつとめてもらおうとしたのである。
ルーズヴェルト大統領
金子堅太郎
この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。
ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかったといっていい。
末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られている。
明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
末松謙澄
かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知られ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであった。
さらにこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあたえた。 末松は、
「昇る旭日(きょくじつ)」
といったふうの日本宣伝をぶってまわった。 不幸なことに英国人は日本が「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。 末松はその講演速記を本にして刊行した。 無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみちた過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のないことであった。 英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
(赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
202-204ページ 『坂の上の雲(七)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
僕は司馬遼太郎さんの考え方には賛成できることが多いのだけれど、司馬さんの人の容姿に対する印象は僕とはだいぶ違うのですよ。
どのように。。。?
末松謙澄さんの写真を見てくださいよ。 司馬さんは外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎることであったと書いているけれど、僕の目には容姿が貧相とは見えない。 シルヴィーにはどう見える?
他の日本人とあまり変わりがないように見えるわ。 ケイトーと比べても、それほど変わってないわよ。 うふふふふ。。。
そうでしょう。。。正直言って、僕にも末松謙澄さんは他の日本人と大して変わりがないように見える。 つまり、司馬さんは日本人というのは欧米人に比べて容姿が貧相に見えるという固定観念を持っていたのかもしれない。
つまり、司馬さん自身も自分の容姿に対しても劣等感を持っていたのかしら?
司馬さんも末松謙澄さんも日本人としてそれほど変わりがないように僕には見えますよ。
つまり、ケイトーはその事が言いたかったの?
もちろん、違いますよ。 容姿のことは付けたしですよ。
。。。で、何が言いたいのよ。
あのねぇ~、末松謙澄さんは人間としてすごい人だと僕は思うのですよ。 文学博士と法学博士のふたつの学位を持っている。 しかも、日本の元勲でもある伊藤博文は末松さんの人物を評価して自分の娘の婿にさえしている。 つまり、末松さんは才能でも人格の上でも相当な人物のはずですよ。 それにもかかわらず、英国人に日露戦争の講和をしてもらうことに成功していない。 結果として成功したのは金子堅太郎の方だった。
カシニーの世論形成法は、いかにもロシア風であった。 米国における新聞という新聞を片っぱしから買収してかかったのである。
たとえば、ロシアに買収されたワールド紙などは露骨な反日論を掲載した。日本人のことを、
「Yellow little monkey」
とよび、日本人がいかに卑劣で、とるにたりない国力しかもっていないかということを書き、日本人はわれわれキリスト教徒の敵である、といったふうの、かつての十字軍時代の布告文をおもわせるような論説まで書いた。
金子がサンフランシスコに上陸したのが、あたかもルーズヴェルト大統領の局外中立の宣言が出たときであった。 金子はもともとこの根まわしに自信がなかったため、上陸早々この宣言を読んで失望し、
「とうてい任務を全うできない」
とおもった。
かれは日本としては精一杯の機密費をもってきたが、しかしロシアのように全米の新聞を買収しようというほどの金ではなく、もっとも有力な日本宣伝の武器としてかれが携えてきたのは、二冊の書物だけであった。 新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」とイーストレーキの「勇敢な日本」であり、このたった二冊の本で全米に親日世論をまきおこさねばならないかと思うと、勇気よりもむしろ自分のみすぼらしさがさき立って、気おくれがした。
(赤字はデンマンが強調)
213-214ページ 『坂の上の雲(七)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
日露戦争概略
日露戦争物語
僕の目には末松さんよりも金子さんの方が怖そうに見える。 末松さんの写真の方が親しみ易く感じられるのですよ。 それにもかかわらず、末松さんは英国で目的を成し遂げられなかった。 堅物(かたぶつ)でとっつきにくそうな印象を与える金子さんの方がアメリカで成功している。 なぜか・・・?
アメリカ人よりも英国人の方が表面的にはどうであれ、内心では日本人を馬鹿にしていたからじゃない?
でも、この時、英国と日本は日英同盟を結んでいたのですよ。
それはロシアが巨大になるのを恐れて英国と日本が手を組んだだけでしょう!? 要するにお互いの利益が共通していたからよ。 でも、だからと言って英国人が日本人を尊敬していたわけではないわ。
つまり、アメリカ人の方が日本人に対して親密感を抱いていたとシルヴィーは思うの?
そう思うわ。 だから、ルーズヴェルト大統領は金子さんの申し出に応じたのよ。
それはないと思うな。 上の引用の中でも日本人を Yellow little monkey と書いたアメリカ人が居たのですよ。 ロシアの皇帝ニコラス2世と変わりがないのですよ。 しかも、やがてアメリカでも排日運動が盛んになるのですよ。
じゃあ、才能もあり人格的にもすぐれている末松さんが英国で失敗したのに、相手に対して怖そうな印象を与える金子さんがアメリカで成功した要因は何だとケイトーは言うの?
あのねぇ~、これまでの顔写真を見て一番怖そうな印象を与えるのは広瀬さんなのですよ。 僕にはそう見える。 それにもかかわらず、当時ペテルブルグの貴族の娘のなかで、きっての美人と言われたアリアズナ・コヴァレフスカヤが広瀬さんに熱烈な好意を抱いた。 なぜか。。。?
広瀬さんが我が身を捨てて国家のために働こうとか、誠心誠実に任務を遂行しようという真摯な考え方を持っていたからでしょう!? それに当時のロシアの腐りかけている貴族の男と比べて勇敢で誠実なサムライに見えたのよ。
僕もそうだと思うのですよ。
でも、だから、どうして金子さんがアメリカで成功したと言うのよ?
つまりねぇ、ルーズヴェルト大統領と金子堅太郎はハーヴァード大学のクラスメートだった。 要するに、学生時代にルーズヴェルトは金子堅太郎の人物の中に「勇敢で誠実なサムライ」を見ていたに違いない。 つまり、二人の間に友情が芽生えた。 そうでもなければ、ルーズヴェルト大統領が金子さんの申し出を素直に受け入れる理由がない。 日英同盟を結んでいた英国でも末松謙澄さんの申し出はむしろ反発を受けるほどだった。
要するに、末松さんの場合には英国人の中に真の友人が居なかったのね?
その通りですよ。 でも、ルーズヴェルト大統領と金子堅太郎の友情だけではなかった。
他にどのような理由があるの?
新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」ですよ。
その本がどうだというの?
あのねぇ~、僕が知りえたエピソードの中で面白いのは、ルーズヴェルト大統領は旧友の金子堅太郎に日露戦争講和の仲介を頼まれた時に初めは断ったというのですよ。 堅太郎さんが思ったとおりタイミングが悪かった。 ルーズヴェルト大統領の局外中立の宣言が出たときだった。 だから、彼はどうせ無理だろうと思った。 案の定、ルーズヴェルト大統領は断ったのですよ。
。。。で、堅太郎さんはどうしたの?
せっかく二冊の本を持ってきたのだから、これだけは置いてゆこうと思った。 「君には断られてしまったけれど、君がこの二冊の本を読めば少しは日本人を理解してくれるだろうと思う。 ロシアに買収された新聞の反日論などに毒されないためにも、暇がある時にこの二冊の本を読んでもらいたい。 それで、もし気が変わったら、改めて講和の仲介のことを考えて欲しい」 そう言って二冊の本を手渡したのですよ。
それで、ルーズヴェルト大統領の気が変わったの?
大統領は旧友の申し出を断ってしまったので、多少後ろめたいものを感じたのでしょう。 せっかく二冊の本を持ってきれくれたので捨てるのも申し訳ないと思って、読み始めたのですよ。
それで。。。?
ルーズヴェルト大統領は『武士道』を読んでマジで感銘を受けた。 それで彼は堅太郎さんに言ったのです。 「私は日本人を見直したよ。 このような精神を持っている国民であるならば、私も仲介の労を惜しまない」
マジで。。。?
このような時にウソや冗談を言えませんよ。
『武士道』という本がそれ程の感銘を大統領に与えたの?
もちろんですよ。 だからこそ大統領は考え方を改めたのですよ。
いったい、どういうところに大統領は感銘を受けたの?
次の箇所を読んでみれば判ります。
その話とは日本史上、特筆すべき存在の一人である菅原道真にかかわる物語(『菅原伝授手習鑑』)である。
道真は嫉妬と讒言の犠牲になって京の都を追放された。
だが無慈悲な彼の敵はそれだけでは満足せず、今や道真の一族を根絶やしにせんものとたくらんだ。
そしてまだいたいけな道真の幼な子を厳しく探索し、かつて道真の従者であった武部源蔵の寺子屋にその子がかくまわれていることをつきとめた。
その結果、源蔵に幼い罪びとの首を定められた日に届けるように、との命令が伝えられた。
そのとき源蔵がまず考えついたことは、その子の身替りを見つける、ということであった。
源蔵は寺子屋の名札を思案し、そこへやってくる幼童たちの一人一人を吟味した。
だがその地生まれの幼童の中には、誰一人として源蔵がひそかに護りぬこうとしているあの若君に似ている者はいなかった。
しかし源蔵の絶望はほんのひとときであった。
見よ、品のいい物腰の母親に伴われて顔立ちの整った、年の頃もかの大臣(おとど)の幼君と同じ少年がこの寺子屋に入門してきたのだ。
さて、幼君と幼い従者がよく似ていることに、その母とその子自身が気付いていた。
そこでその家の人目に触れぬ場所で、母子はみずからを神仏の祭壇に捧げる決意をした。
子はその生命を、そして母はその心を。
だが母と子はそれらしき覚悟を露一筋だに表わさなかった。
一方で源蔵はこの母子二人の間に行われたことに気付かずに、身替りのことを考えていたのである。
そしてここに生けにえの山羊が決まったのだ。
この話の残りの部分は手短に述べよう。
定められた日に若君の首級を確かめ、受け取るように命じられた役人(松王丸)がやってきた。 彼は果たしてその贋首(にせくび)に気が付くだろうか。
哀れにも源蔵はその刀の柄に手をかけ、もしこのたくらみが検視の役人の取調べによって見抜かれたならば、即座にその役人か、あるいは自分自身に白刃の一閃を加えんものと決意していた。
検視役、すなわち松王丸は前に置かれた身の毛のよだつ物体を取り上げ、一つ一つその特徴をごく冷静に吟味した。
そしておごそかに、かつ手馴れた調子でその首がまちがいなく本物であることを述べた。
その夜、あの母親は人気のない家でなにかを待ち受けていた。
その母はわが子の運命を知っているのであろうか。
母親が表戸があくのを身じろぎもせずに見守っているのは息子の帰宅を待っているのではない。
その母親の舅(しゅうと)は長きにわたって道真公から恩寵を受けていた。
だが公の配流後、その夫たる人はやむを得ぬ成り行きから一家の御恩を受けた人の敵(藤原時平)に仕えねばならなくなっていた。
しかし世のならいとして、自分の主君に対して不忠であることは許されなかった。
だからこそ、息子を立派に祖父の主君に役立てたのだ。
そして、なんと流謫(るたく)を受けた一族と顔見知りであるという理由によって、その夫、すなわち父(松王丸)が年端もいかぬわが子の首実検の役目を命じられたのである。
その一日の、いやその人生にとってもっとも過酷な役目をおえて、夫は帰宅した。
そして敷居をまたいで戸をぴっしゃり閉めた瞬間、「我らがいとけし倅(せがれ)は立派にお役に立ったぞ。悦べ女房」と叫んだ。
「なんという残酷な物語!」
「なんとまあ、他人の子の生命を救うために、なんのとがもない自分たちの子を無残にも犠牲にするとは!」
という読者の声が聞こえるようだ。
だがこの子はおのれの死ぬ理由を知って、みずから進んで犠牲(いけにえ)となったのである。 しかもこれは身替りの物語である。
アブラハムがわが子イサクを神のいけにえにしようとした話とまったく同じくらいに重苦しいが、それ以上に忌むべき話ではない。
これらの場合、いずれも犠牲(いけにえ)は目にすることができる天使に与えられたのだろうか。
または心の耳でそれを聞いたのか。
いずれにしても義務の命ずるところに対する従順、そしてより高い世界から発せられる命令に対する絶対的な従順が存在したのだ。
(赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
84-88ページ 『武士道』
著者: 新渡戸稲造 訳: 奈良本辰也
2004年3月15日 第41刷発行
発行所: 株式会社 三笠書房
松王丸のことは知らなくても菅原道真は日本人ならばほとんど誰でも知っている。 「天神様」と呼ばれて入学試験に受かるように菅原道真が祀(まつ)られている神社におまいりする人が現在でも居るほどですよ。
要するに松王丸という人は父親が菅原道真の恩を受けたので道真さんの敵(菅原時平)に仕えていたにもかかわらず、道真さんの子供の身替りに自分の子供を寺子屋に入学させて、源蔵に首を切られるように手はずを整えたというの?
その通りですよ。
ちょっと信じられないわね?
道真の子供は菅秀才(かんしゅうさい)というのですよ。 源蔵に首を切られる子供は小太郎という。 松王丸と妻の千代の子供です。 菅秀才とよく似ていたので松王丸と千代は菅秀才の身替りにしようとしたわけなのですよ。
松王丸の父親が菅原道真の恩を受けたという、ただそれだけのために。。。?
実は、松王丸も含めて、兄弟の梅王丸と桜丸は道真さんに就職の世話にもなっていた。
でも、だからといって自分の子供を犠牲にするなんて、ちょっと考えられないわ。
もちろん、僕は松王丸ならば、絶対に自分の子供を犠牲にしないでしょう。 でもねぇ、そのような時代に生きていたら、そうしなければならないような風潮があった。 つまり、義務の命ずるところに対する従順、そしてより高い世界から発せられる命令に対する絶対的な従順が存在したのですよ。
その事にルーズヴェルト大統領が感銘を受けたとケイトーは言うの?
そうですよ。
その根拠は。。。?
次の箇所を読むと判りますよ。
専制の弊害はここにあり、ロシアが敗戦する理由もここにあり、さらにはニコライ2世皇帝がついにはその家族とともに革命の犠牲になり果てるのもここにあった。
将官を激励するニコライ2世
「自分はロシア人を愛するが、しかしロシア帝国の政体を忌(い)みきらっている。 さらにはロシア政府の当路者の言などはつねに信じることができない。 一方、日本人については自分は将来、文明の重要な分子として尊重してゆきたい」
と、ルーズヴェルトが、5月13日付で、サー・ジョージ・オット・トレヴェルセンに書いた手紙のなかにある言葉も、ロシアという国とその高官がどういうものであるかをよく穿(うが)っている。
(赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)
219-226ページ 『坂の上の雲(七)』
著者: 司馬遼太郎
2009年11月20日 第29刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
金子堅太郎のように日本国家のために、これが最善の方法であると信じてルーズヴェルト大統領に仲介を頼んでいる。 その金子堅太郎の姿勢と熱意、それに『武士道』のより高い世界から発せられる命令に対する絶対的な従順を読むと、ルーズヴェルト大統領は、当時のロシアの高官と日本人を比較しないではいられなかった。
つまり、大統領は金子堅太郎や新渡戸稲造の人物に感銘を受けて日本人を見直し、ロシア戦争の講和の橋渡しをしようと心に決めた、とケイトーは言うの?
その通りですよ。 それ以外に考えられませんよ。 そのきっかけを作ったのが『武士道』だったのですよ。
でも、ケイトーは「自分が松王丸ならば、絶対に自分の子供を犠牲にしない」と言ったじゃない!
もちろんですよ。 ロシア戦争が行われていた当時『武士道』に書かれていたことはルーズヴェルト大統領を説得するに充分な比較対象があったのですよ。
その比較対象が、腐りかけていた帝政ロシアの政治体制と、腐敗していた政府の高官たちだったと言うの?
そうですよ。 命を賭けて、自分の利益ではなく、日本人の国を守ろうとする真摯な思いをルーズヴェルト大統領は金子堅太郎の中に、そして『武士道』の中に感じ取ったのですよ。 僕は、そう思います。
でも、ケイトーは「自分が松王丸ならば、絶対に自分の子供を犠牲にしない」の?
あのねぇ~、現在、「オマエの子供を犠牲にしろ!」なんてぇ強要する人が居たら「時代錯誤だ!」と僕は叫びますよ! 特攻隊に志願しろ!と言うのと同じですよ。 現在はロシア戦争の時代ではないし、太平洋戦争の時代でもないのですよ。
とにかく、絶対に自分の子供を犠牲にしないの?
シルヴィーはどうして「子供の犠牲」にこだわるの? だったら、シルヴィーは自分の子供を犠牲にしても、お国のために特攻隊に志願させるの?
もちろん、しないわよ。
僕だってぇ、同じですよ。
ですってぇ~。。。
確かに自己犠牲を無理強いするのはどうかと思いますわ。
あなただってぇ、自分の子供を犠牲にするのはいやでござ~♪~ましょう?
ええっ。。。お国のためならば、あなたはゼロ戦に乗って桜の花びらのように潔(いさぎよ)く散ってゆくのォ~?
だったら、住所と名前を書いてこの記事にコメントを書きなさいよ! んもおお~♪~
ところで、シルヴィーさんのことをもっと知りたかったら次の記事を読んでくださいね。
とにかく次回も面白くなりそうですわ。
あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあ、また。。。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
ためになる関連記事
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
こんにちは。ジューンです。
『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、
義太夫節、またそれに合せて演じられる
人形浄瑠璃(文楽)と歌舞伎の演目です。
1746年9月に大坂の竹本座で初めて演じられました。
平安時代の菅原道真失脚事件と
彼の周囲の人々の生き様を描いた物語です。
今日でも四段目を中心によく上演される人気の演目です。
歌舞伎では四段目の一部『寺子屋』が
独立して上演されることが多く、
上演回数で群を抜く代表的な演目となっています。
学問の神として広く崇敬を受けていた
天神様としての姿を見せたこと、
また三つ子を貴族に仕える舎人として配置し、
庶民にも政治の混乱が及ぶ様を描いたことが
大きな評判を呼び、
義太夫狂言の人気を大いに高めました。
後世、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』と共に
義太夫狂言の三大名作と評価された作品のうちの
最初のものとなりました。
ところで、愛とロマンに満ちた
レンゲさんのお話をまとめて
『レンゲ物語』を作りました。
もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、
次のリンクをクリックしてくださいね。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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