お裁きを信じますから


 

2016年2月26日 (金曜日)

 

お裁きを信じますから

 


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ケイトー。。。 今日は大岡越前の話なのォ~?


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あれっ。。。 シルヴィーは大岡越前という人物を知ってるのォ~?

日本では人気のあるテレビ番組でしょう!?

確かに、人気がある番組なのですよ。

それで、今日、ケイトーは そのテレビ番組について話すわけなのォ~?

いや。。。 実は、今日の話は、直接 大岡越前とは関わりがないのですよ。

じゃあ、どういうわけで大岡越前を持ち出してきたわけぇ~?

裁判に関係がある話だからですよ。。。 ちょっと次の作品を読んでみてください。

最後の一句


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時は元文3(1738)年11月23日。

大阪で船乗業を営んでいた桂屋太郎兵衛の斬罪を知らせる高札が立てられた。
市中はその噂で持ちきりだったが、肝心の太郎兵衛の家族は南組堀江橋際の家で、丸2年近く世間との交流を絶って暮らしていたため、その事実を知る由もなかった。

それを桂屋に知らせたのは、太郎兵衛の女房の母親だった。
桂屋には、この媼(おうな)のことをおばあ様と呼んで慕っている5人の子どもがいた。
16歳の長女・いち。
14歳の二女・まつ。
三人目は女房の里方から里子として譲り受けた12歳の男子・長太郎。
次に生まれた8歳の娘・とく。
そして最後に6歳の男子・初五郎である。

 (中略)

そもそも、太郎兵衛に死罪が言い渡されるに至った経緯は以下のとおりである。

太郎兵衛は船乗りといっても自分が船に乗るわけではなく、自ら所有している北国通(がよ)いの船に新七という男を乗せて、運送業を営んでいた。


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元文元(1736)年の秋、出羽国秋田から米を積んで出帆した新七の船が、航海中に風波の難に遭(あ)い、積荷の半分以上を流失してしまった。

そこで新七は、残った米を売って金にして、大阪に帰ってきた。
そして太郎兵衛に、難船したことは世間に知れ渡っているので、米の売り上げ金は米主に返さずに新しい船の準備金にあてたらどうかと計らった。

太郎兵衛はそれまで正直を信条として経営していたのだが、営業上大きな損害を受けた直後に、現金を目の前に並べられたことで、つい良心の鏡が曇って、その金を受け取ってしまったのである。

一方、秋田の米主のほうでは、難船の知らせを受けたあと、その際残り荷があり、それを購入した者がいたという情報を得て、その後調査した結果、新七から太郎兵衛に金が流れた事実を突き止めていた。

こうして、米主の訴えにより太郎兵衛は入牢し、斬罪が確定したという次第である。

太郎兵衛の斬罪を伝える高札が立てられた日の午後、おばあ様は女房にその事実を伝えた。
しかし、女房は意外にもそれほどの驚きを見せず、いつものように繰り言を言いながら泣くばかりであった。
そしてこの話を、長女のいちは、襖の陰に立って聞いていたのである。

その世、家族6人がそろって就寝している中、いちが布団の中で「ああ、そうしよう。 きっとできるわ」と、独り言をつぶやいた。
それを聞きつけたまつに対し、いちは次のようなことをささやいた。

明後日に控えている父親の刑の執行をなんとか阻止するために、お奉行様に願書を出そうと思う。


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しかし、ただ殺さないでくれと頼んでも聞き入れてはくれないだろうから、われわれ子どもの命と引き替えに父を助けてくれと頼む。
それをお奉行様が聞いてくれて、父が助かればそれでよい。
子どもは皆殺されるか、自分が殺されて小さい者は助かるか、それはわからない。

ただ、お願いするとき、長太郎だけは殺さないでくれるよう書いておく。
長太郎は太郎兵衛の実子ではないうえに、日ごろから長太郎を家の跡継ぎにするつもりだと父が話していたからである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


『最後の一句』
著者: 森鴎外

この作品は明治の文豪と言われた森鴎外が書いたものなのですよ。

名前だけは聞いたことがあるわァ~。。。

ほォ~。。。 マジで。。。?

少しぐらいは日本文学を勉強したのよ。 (微笑) でも、どういう人なのォ~?

次のような人物なのですよ。

森鴎外


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1862年2月17日(文久2年1月19日) – 1922年(大正11年)7月9日

大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。
帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。

その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。
乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。

1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴・斎藤緑雨とともに『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。

その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。
1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」のなかで、児玉せきとの交情をあばかれた。

1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。


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19世紀末から新世紀の初頭をすごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。

小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、そのころ鷗外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。

交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。
しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。

ドイツに4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。
官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

また、当時としては女性蔑視が少なく、樋口一葉をいち早く激賞しただけでなく、与謝野晶子と平塚らいてうも早くから高く評価した。
晶子(出産した双子の名付け親が鷗外)やらいてうや純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰した尾竹一枝など、個性的で批判されがちな新しい女性達とも広く交際した。
その鷗外の作品には、女性を主人公にしたものが少なくなく、ヒロインの名を題名にしたものも複数ある(「安井夫人」、戯曲「静」、「花子」、翻訳戯曲「ノラ」(イプセン作「人形の家」))。


出典: 「森鴎外」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

。。。で、どういうわけで上の物語を取り上げたわけなのォ~?

あのねぇ~、上の作品は森鴎外が1915年9月に書き上げたのですよ。。。 作者は、2ヵ月後、京都で挙行された大正天皇の即位の礼に参列した。。。 その後で東京に戻り、陸軍省に辞意を伝えたのです。

どうして。。。?

前年の1914年に「年とともに官に仕える心が薄くなる」という意味の漢詩をつくっているのですよ。 そのことから、作者自身の官僚体制に対する批判があったとされているのです。

その思いを込めて上の作品を森鴎外が書いたというわけなのォ~?

そのように考える批評家が多いのです。。。 要するに、実質的な明治の終焉とともに、官僚社会と決別した作者の心中が作品の中に読み取れるというわけですよ。

そう言えば上のウィキペディアの説明の中に 1899年に小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された、と書いてあるわねぇ~。。。 どうして左遷されたわけなのォ~。。。?

あのねぇ~、森鴎外はドイツに4年留学した経験から、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたわけですよ。。。 当然のことながら、当時の日本の堅苦しい閉鎖的な官僚体制の中で軍医として働かなければならなかった森鴎外にとっては、澱(よど)んだ池の中で泳ぐ魚のような気分だったわけですよ。

つまり、“池の水”に合わなかったわけなのねぇ~。。。

そういうことですよ。。。 だいたい、政府で働いている官僚でありながら文学作品を書いていることを上司や同僚の中には毛嫌いしている人がたくさんいた。

どうしてよ。。。?

あのねぇ~、明治時代に二葉亭四迷という有名な作家がいたのですよ。


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名前だけは知っているわァ~。。。

あれっ。。。マジで。。。? じゃあ、どうしてそのような名前にしたか知ってる? この人の本名は長谷川 辰之助というのですよ。

どうして二葉亭四迷という筆名にしたのォ~?

あのねぇ~、父親が将来のことについて尋ねたので、辰之助さんは作家になると言ったのですよ。。。 ところが、父親は文学に対する理解が全くない人だった。。。 当時の出世コースは明治政府に勤めることだった。。。つまり、“官員さん”になることだった。 だから、父親が次のように言ったのですよ。

“戯作などに時間を費やして

人生を無駄にするような奴は

くたばってぇしめぇ~(くたばってしまえ)!”

つまり、死んでしまえ!と言われたというのですよ。。。 それをもじって、辰之助さんは“二葉亭四迷(ふたばていしめい)”という筆名を考えたというのです。 (微笑)

マジで。。。?

ウィキペディアには、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる、と書いてあるのですよ。

つまり、ケイトーの説は、いわゆる俗説なのねぇ~。。。

でもねぇ~、そういう俗説が生まれるほどに、当時の社会風潮は、文学者を官員さんよりも、相当低く見ていた。。。 つまり、見下していた。。。 だから、森鴎外自身も次のように書いている。


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無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。

学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。

つまり、森鴎外という人物は、当時の官僚体制や社会風潮に対して批判的だったのねぇ~。。。

そういうことですよ。。。 だから、森鴎外は社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを向けるようになり、上の作品を書いたというわけですよ。

。。。で、16歳の長女・いちが ただ殺さないでくれと頼んでも聞き入れてはくれないだろうから、われわれ子どもの命と引き替えに父を助けてくれという嘆願書を出すのだけれど、その後、どうなるのォ~?

大阪の西町奉行所に嘆願書を差し出したのだけれど、当時の西町奉行は佐々又四郎成意だった。 奉行になってからまだ日が浅いために、役向きのことは東町奉行所の同役である稲垣淡路守種信に相談しながら処置していた。。。 要するに、佐々又四郎には、こういう嘆願書が舞い込むのは実に迷惑なことだった。

つまり、どう処置したらよいのか? 奉行本人にも分からないわけねぇ~?

そうなのですよ。。。 でも、新人奉行だから、何とか処置しなければならないと一生懸命になる。。。 それで、子供の考えだけではないだろう!? と言う訳で家族を呼び出したのですよ。


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つまり西町奉行の佐々又四郎は大人がそそのかして子供に嘆願書を書かせたのではないかと疑ったわけなのねぇ~?

そういうことです。。。 佐々又四郎は16歳の長女・いちに向かって「隠して本当の事を申さぬと、そこに並べてある拷問道具で、誠のことを申すまで責めるぞ!」と脅(おど)した。。。 ところが、いちは 少しもためらうこともなく「いえ、申したことに間違いございません」とはっきりと答えた。

それで。。。?

佐々又四郎は、更に「おまえが 死ぬ前に父親と会うことも許されない。。。 それでもよいのか?」と付け加えた。。。 そのときも いちは「よろしゅうございます」と同じように静かな調子ではっきりと答えた。 そして、少し間を置いて「お上(かみ)のことには間違いがございますまいから……」と言い足した。

あらっ。。。 16歳の長女・いちは、気丈(きじょう)な しっかりした娘なのねぇ~。。。

そうなのですよ。。。 だから、その言葉を聴いた佐々又四郎の顔には、不意打ちにあったような驚愕(きょうがく)の色が見られた。

それで、どうなったのォ~?

物語は次のように続くのですよ。

尋問が終わり、太郎兵衛の家族は下がっていった。
佐々又四郎の心の中には哀れな孝行娘の面影も、おろかな子どもの影も残らず、ただ氷のように冷ややかで刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の言葉の最後の一句が反響していた。
そして、いちがもっている献身の中に潜む反抗の鉾(ほこさき)は、いちと言葉を交えた佐々又四郎のみではなく、その場にいた役人一同の胸をも刺したのである。


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結局、孝女に対する同情こそ薄かったものの、当時の行政司法の元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は思いがけず貫徹することになる。
桂屋太郎兵衛の刑の執行は延期され、翌年の京都における大嘗会(だいじょうえ)執行にあたり、太郎兵衛は死罪を赦免され、追放処分を言い渡された。

桂屋の家族は再び西町奉行所に呼び出され、太郎兵衛に別れを告げることができたのである。

あらっ。。。 いちの嘆願書が聞きとどこられたのねぇ~。。。

そういうことですよ。

よかったじゃない。。。 でも、どういうわけで、ケイトーは このような物語を持ち出してきたわけぇ~?

あのねぇ~、上の物語は、めでたし、めでたしで終わるのだけれど、日本の現実は、厳しい! そのような温情主義ではないのですよ。

どういうことよォ~。。。?

実は、日本では、やってない犯罪で裁判にかけられ死刑にされた人物はたくさんいる。。。 その一人が「飯塚事件」の久間三千年さんですよ。


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久間三千年さんはマジで無実だったのォ~?

問題の多い事件だったのですよ。。。 でも、拷問まがいの取調べを受けても、久間さんは「足利事件」で無実だと判って釈放された菅家利和さんと異なり、初めから最後まで“自分はやってない。。。無実だ!”と言い続けた。。。 だからこそ、奥さんは死刑が執行された後でも「再審請求」を求めて闘っているのですよ。

あらっ。。。 夫が死刑にされた後でも夫の無実を信じて、現在でも頑張っているのォ~?

そうなのです。。。 ところが日本の司法は再審請求を棄却してしまった。。。 ここが上の物語と違って、現実の日本の司法の無謀と言うか。。。、冷酷非道なところがあるのですよ。

再審請求を認めたら無実の罪で久間さんを死刑にしてしまった事を世界に発信してしまう。。。 日本の司法は、何が何でも自分の過ちを認めたくないからですよ。。。 つまり、権威主義に凝り固まっている!

つまり、飯塚事件はすでに久間さんが死刑になっており、再審で無実が確定しても「取り返しがつかない」ので日本の司法は再審請求を却下した、とケイトーは考えるわけぇ~?

そうですよ。。。 再審で無実が確定すれば、司法の権威は失墜しますからね。。。 それに、今までに無実で死刑にされた人の家族が再審請求をしてくる。。。 死刑にした「飯塚事件」を調べれば、関係者は「ヤバイことをしてしまった」と皆が後悔していることがすぐに読み取れるのですよ。

それなのに、日本では権力を握っている司法が ごねているわけなのォ~?

そういうことです。。。 実は、イギリスでも無実の人が死刑にされたことがある。


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『なぜ死刑廃止?』より

でも、イギリスの司法は謙虚に受け止めて、死刑を廃止した。 日本国民が、もっとイギリス国民のような怒りを感じるべきなんですよ。。。 死刑は国家権力の殺人に他ならない! 国家権力だからといって人殺しが許される理由はどこにもない! 死刑を行ってしまったら、その人の命は無実だとしても2度と戻ってはこないのだから。。。


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは どう思いますか?

そうですよねぇ~。。。 死刑を行ってしまったら、その人の命は無実だとしても2度と戻ってはこないのですよねぇ~。。。
だから、やっぱり死刑は絶対に廃止するべきですわァ。
わたしは、そう信じています。

ところで、シルヴィーさんが登場する記事は たくさんあります。

興味があったら、ぜひ次の記事を読んでみてください。


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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


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『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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