愛しの敦煌


 
2011年6月13日 (月曜日)
 
 
愛しの敦煌
 
 

莫高窟の大雄宝殿

敦煌市街に立つ飛天像

わたしは10年前に吉川小一郎氏の話を聞いて以来、今までに5回ほど敦煌を訪問した。 5万点以上の貴重な古文書類が出土した蔵経洞にも入ってみた。
「こんな小さな窟に…」
いささか拍子抜けするような小さな石窟である。
北側の壁面には、この石窟の主人公である洪辨像の背後に双樹と二人の侍者が描かれている。
向かって右側の小柄な比丘尼(びくに)に見える。 唇に紅(べに)をさしている。 手には双鳳(そうほう)を描いた団扇(だんせん)を捧げている。
左側は男装の麗人。 髪を双髻に結い、丸襟の長い上着の腰に帯を締めている。 豊頬につくられているが、表情に憂いを帯びた樹下美人である。

数ある莫高窟壁画の傑作中でも、ただ一つだけを挙げよと言われるなら、わたしは躊躇(ちゅうちょ)なくこの絵を選びたい。 800年以上もの永きにわたって秘庫に隠され続けてきた文書とともに、この壁画もまた20世紀人に贈られた美の宝だ。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)


95ページ 『敦煌ものがたり』
著者: 東山健吾・松本龍見・野町和嘉
1997年3月5日 第12刷発行
発行所: 株式会社 新潮社

デンマンさんは敦煌に行ったことがあるのですか?

あるのですよ。 もう10年以上も前のことですけれどね。

シルクロードをラクダに乗って行かれたのですか?

まさか!?。。。いくらなんでもラクダに乗って月の砂漠を行くわけないでしょう。

デンマンさんならばやりそうですわ。

あのねぇ、千年も昔ならばいざ知らず、飛行機が空を飛んでいる時代ですよ。 月の砂漠をラクダに乗って行ったら、1ヶ月や2ヶ月では敦煌に着かないですよ。

では、日本から敦煌まで直通のジェット機に乗ったのですか?

いや。。。それほど便利にはなってません。 まず北京へ行ってそこから蘭州(らんしゅう)へ飛び、プロペラ機に乗り換えて敦煌の飛行場に降り立つのですよ。

その日のうちに敦煌へ行けるのですか?

飛行機に乗っている時間は10時間ほどなのです。 でもねぇ、連絡が悪いので当時、その日に敦煌には着きませんでしたよ。 やっぱり、成田からバンクーバーに行く方が感覚的にはずっと近いです。 便利にできてますよ。 なにしろ直通ですからね。。。

…で、どうして今更、敦煌などを持ち出してきたのですか?

たまたま『敦煌ものがたり』を読んでいたら上の文章に出くわしたのですよ。 その著者は「数ある莫高窟壁画の傑作中でも、ただ一つだけを挙げよと言われるなら、わたしは躊躇(ちゅうちょ)なくこの絵を選びたい」と書いている。

上の写真がその絵なのですか?

本の中には、この絵は掲載されてないのですよ。 でもねぇ、蔵経洞には文章中で述べている絵に該当するものは、この上の絵しかないのですよ。

。。。で、デンマンさんは上の絵が気に入らないのですか?

気に入りません。 上の絵は僕にはつまらない絵でしかない。。。 もちろん、「蓼(たで)喰う虫も好き好き」と言いますからね。 人によって気に入った絵は違っていて当たり前なのですよ。

。。。で、デンマンさんが気に入っている絵はどの絵なのですか?

次の絵ですよ。

樹下説法図の右脇侍菩薩

57窟の壁画
初唐に制作された。
宝冠・胸飾・瓔珞(ようらく)・耳環・臂釧(ひせん)・腕釧など金色の装身具によって美しく飾られている。
上半身には連珠文(れんじゅもん)をあしらった錦の僧祇支をまとい腹部を綾織の帯で縛る。
宝冠の中央に化仏が描かれているので観音菩薩と考えられ本図が阿弥陀浄土をあらわしていることがわかる。

この絵のどういう所に魅力を感じるのですか?

やっぱり、シルクロードと言えば「国際色」ですよ。。。

「国際色」がそれ程デンマンさんを惹きつけるのですか?

やだなあああァ~。。。小百合さんも「国際色」に惹かれるでしょう?

どうしてデンマンさんは、そう思うのですか?

小百合さんのDNAにも僕のDNAにも「海外飛躍遺伝子」が載っているからですよ。 次の記事で語り合ったばっかりじゃないですか!?

『定慧と小百合の物語』

 (2011年6月8日)

つまり、私にも海外志向があるとデンマンさんは思っているのですか?

違うのですか?

確かに13年間もバーナビーに別荘を持っていたのですから、海外志向が無いとは言えませんわ。

そうでしょう!? 僕も人生の半分以上を海外で暮らしてきましたからね。 やっぱり、絵を見ても国際色に目が留まるのですよ。

上の絵のどこに国際色が出ているのですか?

表情もどこか国際的ですよ。 ペルシャ人の面影があるでしょう!?

ソグド人と連珠文

4世紀になると、ソグド人は敦煌に居住して貿易を営む者も出てきた。 スタインが玉門関周辺の長城の烽火台(ほうかだい)から発見したソグド文の手紙には、サマルカンドから来たソグド人百人が敦煌に在住していること、敦煌から麻布と毛布を金城(きんじょう:現在の蘭州付近)へ運んで売ったこと、(ソグディアナから)香料の荷が着いたことなどが書かれている。

7~8世紀の唐代に至っては、敦煌の従化郷(じゅうかごう)にソグド人の集落があったことが敦煌学の権威・池田温氏によって考証された。 この郷は他の漢人集落と同等に扱われ、郷内にはゾロアスター教の神殿があったという。

ソグド人はペルシア風の銀器・銅器の製作にすぐれていたが、敦煌壁画に描かれたペルシア風の水瓶などは当時ソグド人の職人が製作したのではないかと私は考えている。

菊の連珠文

6世紀以降、敦煌壁画や菩薩の着衣の意匠に多用された連珠文(れんじゅもん)は、ソグド人がブハラからもたらしたソグド錦(にしき)の文様の影響であろう。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)


97ページ 『敦煌ものがたり』
著者: 東山健吾・松本龍見・野町和嘉
1997年3月5日 第12刷発行
発行所: 株式会社 新潮社

このソグド人というのはイラン系のオアシス灌漑農耕民族ですよ。 つまり、古代ペルシャ人の血を受け継いでいる子孫ですよ。 商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動をしてきたのです。

「樹下説法図の右脇侍菩薩」もソグド人の容貌をしているのですか?

東洋人の表情ではないですよ。 どう見てもペルシャ人の表情が混じっているように僕には見えるのですよ。

つまり、そこに惹かれるのですか?

いや。。。1000年以上前にも国際交流が盛んだった事に僕は改めて感慨を深めているのですよ。

ただそれだけのことですか?

いや、違いますよ。 楊貴妃も実は「樹下説法図の右脇侍菩薩」のような人ではなかったのかと僕は信じているのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。。。僕はかつてこの事で記事まで書いたのですよ。

楊貴妃はペルシャ人だったの?

中国人の中にもグラマーな女性が美人だと思う人が居るのでござ~♪~ましょうか?

もちろん居ますよ。上の楊貴妃の像を造った彫刻家も、明らかに欧米の美人観の影響を受けていますよ。欧米と言って語弊があるならば古代ギリシャの影響と言い換えることもできますよ。

このミロのビーナスを見るとき、楊貴妃の像を制作した彫刻家がこのビーナスの像を参考にしたような気がするほどですよ。

楊貴妃が生存していた唐の時代にも、ミロのビーナスのような女性が美しいと考えていた中国人が居たのでござ~♪~ましょうか?

居たのですよ。

証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

ありますよ。次の像を見てくださいよ。

これは、あの有名な敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、第45窟の菩薩像です。唐の時代に造られたと言われているものです。

この像がミロのビーナスの影響を受けているのでござ~♪~ますか?

古代ギリシャ時代に作られたミロのビーナスとは、地理的に見て全く関係なさそうに見えるけれど、実は関係があるのですよ。

どのようにでござ~♪~ますか?

次のガンダーラの仏像を見てください。

如来坐像 ガンダーラ

クシャン王朝 紀元2~3世紀

ガンダーラ (Gandhara)

ガンダーラ地方は、現在のパキスタンの西北部にあり、中心はペシャワールやその北部のスワット地方。
たくさんの遺跡が残っている。
「ガンダーラ」は、「ガンダ・ハル=いい匂い」の意味から来ている。

紀元前380年頃までにペルシャの支配は弱まり、多くの小王国がガンダーラを分割支配した。
紀元前327年にはアレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻したが、大王はこの地に1年も留まらなかった。

同じ頃、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収めた。
その後、1世紀半にわたりマウリヤ朝がこの地を支配した。
チャンドラグプタの孫アショーカ王は熱心な仏教徒となり、ガンダーラに多くの仏塔を建立した。
紀元前1世紀頃から仏教の大中心地となった。

その後、マウリヤ朝が衰退してインド亜大陸に退くと、ギリシャ系のバクトリアがこの地に勢力を拡張した。

実は古代ギリシャ世界のあの有名なアレクサンドロス大王がガンダーラにもやってきたのですよ。この影響が上のガンダーラの仏像にもはっきりと影響を残しているのです。

ガンダーラがギリシアの植民地だった

アレクサンダー大王の遠征(前327~前325)によって、ガンダーラがギリシアの植民地となります。
アショーカ王(前3世紀)以後マウリヤ王朝とともに仏教および仏教文化が入ることによって、ギリシア文化と仏教文化が次第に混ざり合ってゆきます。

これにインド中央部の伝統美術の影響も加わっていきます。
この複合文化は紀元後2~3世紀を頂点として、かなり長い間ガンダーラ仏教美術は栄えました。
特にカニシカ王は仏教を信奉し、仏教と仏教美術、学問を保護し、首都プルシャプラに仏教寺院・塔を建立して、ギリシア人の芸術家を呼びよせています。
ギリシアの写実的様式および技法で、仏教のテーマやモチーフを表現しているのが上のガンダーラの仏像には、ありありと見て取れます。

ガンダーラの彫刻は、もともと建造物を荘厳に見せるために造られました。
また仏教建築の装飾にコリント式列柱やギリシア風の文様が使われています。
仏像をよく見ると鼻や額が高く、唇が薄く、髪は波打ち、西洋風の顔立ちが一目見ただけでもよく分かります。
仏教は、もともと偶像は作りませんでしたが、仏教を分かりやすく伝えるために次第に控えめに表現された仏像が出現します。

ガンダーラ仏像の特徴は、自然な人間らしい姿を現しています。
法衣の襞にギリシア風の影響がみられます。

実際、上のようなガンダーラ仏が日本へもかなり伝わっています。
その一つを次のリンクをクリックすると見ることができます。

■ 『嶽林寺のガンダーラ仏』

大峰山 嶽林寺 (群馬県利根郡月夜野町1697)

仏像が伝わっていたという事実は、それを製作した石工たちも日本へ来ていたという可能性が十分にあります。
ギリシャ人がやってきていた、とは言いませんが、彼らの血を引いたペルシャ人は、かなりの数日本へやってきていたようです。
つまり、彼らは、ギリシャの様式や、技法をも身に付けていたのです。
ですから、法隆寺にエンタシスがあることも決して不思議ではないのです。

日本へやって来たペルシャ人やペルシャの文物、またギリシャ文化の影響については次に示すページで説明しています。

■ 飛鳥とペルシャ(波斯) 石人男女像の謎

■ ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た

■ 飛鳥坐神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話

■ 聖徳太子の母親はペルシャ人だった?

■ 聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた

by デンマン


『エンタシス史観 (2003年10月12日)』より

上の莫高窟(ばっこうくつ)の菩薩像は、このガンダーラ仏像の影響を受けているとデンマンさんは考えているのでござ~♪~ますか?

当然ですよ。すぐ上の囲み記事を読んでも、ペルシャ人の石工が日本まで行った可能性が充分に考えられるのですよ。日本までの距離を考えれば、ガンダーラと敦煌は目と鼻の先ですよ。

古代ギリシャの文化がペルシャ人に伝わったと言うのは理解できましたが、その古代ギリシャ文化が唐の時代にペルシャ人を通じて中国人に伝わったのでござ~♪~ましょうか?

伝わっていたのですよ。

証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

あります。詩人・李白(701ー762)が作った「少年行」という詩があるのですよ。

少年行

五陵の年少、金市の東

銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

落花(らっか)踏み尽くして、

何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。
見るからに金持ちの貴公子です。
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、
やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。

酒肆というのは酒場のことです。この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。 胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。

つまり、「胡姫」というのは胡の姫、ペルシャ人の女の子でござ~♪~ますか?

その通りですよ。だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっていますよね。エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーですよ。うしししし。。。

こんな感じのペルシャ人のお姉さんがお酌をしていたのかもしれませんよ。

でも、ペルシャ人は極めて少なかったのでござ~♪~ますでしょう?

いや、それが意外に多かったようですよ。この当時の長安(現在の西安)は国際都市だったのですよ。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

「安史の乱」がなかったら、そもそも白楽天は『長恨歌』を作ることはなかったでしょう。その「安史の乱」を起こした安禄山(あんろくざん)はペルシャ人だったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。正確にはソグド人(ペルシア系のオアシス農耕民族)と突厥人(トルコ系の遊牧民族)の混血だと言われています。とにかく、容貌も体型も中国人とはかけ離れていた。なにしろ、体重が200キロを越す巨漢だった。

つまり、中国に帰化した外国人だったのでござ~♪~ますか?

その通りですよ。この人の生まれはサマルカンドだった。

サマルカンド (Samarkand)

紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展した。
ギリシャ史料で紀元前4世紀のアレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に最後まで抵抗したソグド人の都市「マラカンダ」の名で知られる。
『後漢書』などの漢文資料では康国として知られている。
玄奘三蔵や後世のアラビア語、ペルシア語の地理書によればソグディアナ、マーワラーアンナフルの中心と呼ばれている。

都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体を盟主として采配を振るった。
8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。

当時の中国の首都・長安も国際都市だったけれど、このサマルカンドは、まさに国際都市の中の国際都市だった。そう言う訳で、安禄山は6ヶ国語に堪能であったため、初め互市郎(貿易官)に任じられたのですよ。その後、軍功を立て出世してゆき、742年には節度使になり、その後は玄宗と楊貴妃に取り入り、二つの州の節度使を拝命し、まもなく三つの州の節度使を兼任する事になった。

つまり、この当時外国人に対する偏見は中国人は持っていなかったのでござ~♪~ますわね?

僕は思うのだけれど、長安が国際都市だったことを考えると、楊貴妃がハーフだったのではないか?僕はそう思っているのですよ。

どうして、そのように思ったのでござ~♪~ますか?

長恨歌(ちょうごんか)

漢の王は長年美女を求めてきたが、どの女性にも満ち足りないものを感じていた。
ところが、ついに探し求めていた美女に出会った。楊家の娘だった。

 (中略)

楊貴妃は、そもそもは玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。
さすがに息子から妻を奪うのをはばかり、いったん道士となった後で玄宗の後宮に迎え入れられている。
太真は楊貴妃の道士時代の名。

 (中略)

温泉の湯水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。


『あっちかち (2008年3月25日)』より

このあらすじを読んだ時に、玄宗皇帝のこだわりようが常軌を逸している、と僕には思えたのですよ。

それ程常軌を逸しているでしょうか?

自分の息子の嫁を取り上げてしまったのも同然ですよ。ちょっと、平凡な人には考えも及びませんよ。

そうでしょうか?

つまり、玄宗皇帝は、普通の中国人の女性ではどうしても飽き足らなかったのですよ。楊貴妃は、かなり変わった女性だったのではないか?要するに日本人の男が金髪の白人の女性に魅力を感じるようなものですよ。

デンマンさんも、金髪の白人女性にそのような魅力を感じた事がござ~♪~ましたか?

ありましたよ。おそらく、宮殿の庭園でも歩いていたハーフの楊貴妃を玄宗皇帝は目にしたのでしょうね。李白が「少年行」を詠んだように、当時の長安ではペルシャ人の娘が人気を呼んでいたのですよ。玄宗皇帝も、うわさを耳にしていた。そういう時にペルシャ人の血が入っているハーフの楊貴妃を目にした。うわさ通りの、透き通るような色白の肌をして、純粋な中国娘にはない異国情緒が表情に表れている。それがメチャ魅惑的に見えた。一目見て玄宗皇帝は楊貴妃の異国風な魅力の虜になってしまったのですよ。

そうでしょうか?

そのような特徴的な女性を想定しない限り、いろいろと手の込んだ事をして自分の息子の嫁を取り上げるなんてしないと思うのですよ。

う~♪~ん。。。でも、楊貴妃がハーフだったなんて聞いた事がござ~♪~ませんわ。

でもねぇ、状況証拠ならばたくさんありますよ。安禄山が玄宗と楊貴妃に取り入って、二つの州の節度使を拝命し、まもなく三つの州の節度使を兼任する事になった、と言う事だって、楊貴妃自身がハーフであれば抵抗なく受け入れられる話ですよ。

そうでしょうか?

つまり、この当時の長安は国際化がかなり進んでいて、美人観も古代ギリシャの影響が強くでていたのですよ。ハーフの楊貴妃は当然のことながらミロのビーナスのような体型に近かったでしょう。もちろん肌も白人に近い白い肌だったでしょう。そのような魅力が玄宗皇帝を虜にしてしまったのですよ。どうですか。。。?卑弥子さんも、そう思いませんか?

でも、大理石の楊貴妃のムッチリした像を作った彫刻家は、そのような事を知っていたのでござ~♪~ましょうか?

もちろん、知らなかったでしょう?多くの中国人と日本人のように、楊貴妃は柳腰で細面の表情をしていた、と信じていたはずですよ。それは、中国に現在残っている楊貴妃の絵を見れば分かります。

それなのに、どうして華清池の像を制作した彫刻家はムッチリとした楊貴妃の像を造ったのでござ~♪~ますか?

それが我々の遺伝子の中に組み込まれている美人観だと僕には思えるのですよ。つまり、ムッチリとした腰と言うのは、骨盤が広い安産に適した体型ですよ。楊貴妃の像を作った彫刻家もミロのビーナスの自然な美しさに感銘を受けて、それを参考にして華清池の楊貴妃の像を造ったのだと思いますよ。

。。。んで、柳腰の細面は。。。?

それは、纏足(てんそく)美人観ですよ。つまり、人為的に女性の自由を制限して考え出された美人観だから、我々の遺伝子に組み込まれている美人観とは違っているのですよ。

古代ギリシャの美人観は、より自然な発想から生み出されたものだ、とデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。より自然で、より人類の幸せと発展にかなった美人観ですよ。つまり、安産型の美人観です。僕には、そう思えるのですよ。


『むっちり楊貴妃 (2008年3月27日)』より

分かるでしょう?。。。「樹下説法図の右脇侍菩薩」を見てペルシャ文化が中国だけじゃなく日本にまで影響を及ぼしていたことを僕はしみじみと感じたのですよ。

マジで日本にまで影響があったのでしょうか?

ウソだと思ったら『嶽林寺のガンダーラ仏』を見に行ってくださいよ。 嶽林寺は群馬県の利根郡月夜野町にありますからね。 小百合さんの実家の館林から遠くないですよ。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
確かに上の文章を読むと納得させられるような気がするのでござ~♪~ますわ。

でも、楊貴妃がペルシャ人だったなんてぇマジで信じる人がいるでしょうか?
あなたはどうですか?

ええっ?楊貴妃が純粋な中国人だという確証があるのかって。。。?
そんなもの、ありませんわよう。うふふふふ。。。

ただ、楊貴妃までがペルシャ人の血を引いているとなると。。。
聖徳太子もペルシャ人の血を引いているでしょう。。。

そのうち、デンマンさんは明治天皇もペルシャ人の血を引いていると言い出しますわよう。。。んもお~~
結局、日本古代史ばかりか、近代日本史までがペルシャ史なってしまうでしょう?

馬鹿馬鹿しいと思いませんか?
やっぱり、楊貴妃は中国人ですわ。
聖徳太子は日本人です。
そうじゃないと平安文学を専門にしているあたくしの立場がなくなってしまうのでござ~♪~ますわよう。
ただ、それだけの理由でござ~♪~ますう。

とにかく、また、あさってが面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

世界の三大美人って知ってますか?

楊貴妃、クレオパトラと小野小町ですって。。。

でもね、欧米で“小野小町”と言っても

理解してもらえませんわ。

Beauty is in the eyes of the beholder.

“美人って見る人によって違うのよ。”

どの国にも、このような言い方がありますよね。

ところで、ネットを見ていたら次のようなサイトがありました。

Top Ten Most Beautiful Women In The World

1. Catherine Zeta Jones

2. Alessandra Ambrosio

3. Adriana Lima

4. Josie Maran

5. Zhang Ziyi

6. Eva Green

7. Scarlett Johansson

8. Natalie Portman

9. Jennifer Connelly

10. Aishwarya Rai

http://hubpages.com/request/975/best

あなたは、どう思いますか?

ところで、これまで書いた小百合さんの記事を集めて

デンマンさんが一つにまとめました。

もし、小百合さんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『小百合物語 特集』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしてくださいね。

じゃあね。

コメント / トラックバック1件 to “愛しの敦煌”

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    […] ■『愛しの敦煌』 […]

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