唐から来た14歳の少女


 
 
2012年6月28日 (木曜日)
 
 
唐から来た14歳の少女
 
 

(yang103.jpg)

デンマンさん。。。この上の絵の女の子が唐からやって来た14歳の少女なのでござ~♪~ますか?

そうですよ。

あたくしの目には唐からやって来たと言うよりも原宿でコスプレして遊んでいる現在の日本の女の子のように見えますわ。

当然でしょう。 卑弥子さんも僕も1300年前の唐の国に住んでいたわけじゃないのだから。。。どうしても、現在の目線で見てしまうのですよ。

つまり、全くの空想で上の絵をでっち上げたのでござ~♪~ますか?

いけませんか? でも、全くの空想でもないのですよ。

だけど、こんなに可愛くてきれいだったのでしょうか?

あのねぇ~、唐からやって来た14歳の少女は、当時の日本人の目にも可愛くてきれに見えたのですよ。

デンマンさんがそのように言うからには何か根拠があるのでしょうね?

もちろんですよ。 昨日、僕は次の記事を投稿したばかりですよ。


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『九ちゃんとコメンテータ』

(2012年6月27日)

この記事の中で、ぼくは言ってるのですよ。 最近の日本の民放テレビのワイドショーやニュース番組に出てくる漫画家や映画監督やタレントがコメンテータとして根拠もなく、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんのように思いつきの意見を言って稼いでいるのはバカげていると。。。 日本国民。。。ひいてはネット市民を馬鹿にしていると言ったばかりですよ。 だから僕は根拠のあることを書くように努力しているのです。

つまり、上の絵は単なる想像ではなくて歴史的事実に基づいたデンマンさんの創作なのでござ~♪~ますか?

創作と言うとちょっと後ろめたいのだけれど。。。まあ、コラージュですよ。

つまり、そこらにある写真や絵から好きな所を部分的に切り取ってごちゃ混ぜにしてでっち上げた盗作ですわね?

「盗作」じゃありませんよ。 んもお~~。。。コラージュですよ。 この女の子の絵には歴史的事実も塗りこめられているのですよ。

解りましたわ。 でも、坂本九ちゃんを取り上げた後で、なぜ急に「唐から来た14歳の少女」なのでござ~♪~ますか?

いや。。。決して急に天から降ってきたようにして取り上げたわけじゃないのですよ。 卑弥子さんとも、つい最近この少女のお父さんについて語り合ったばかりです。

ええっ。。。上の絵の中の少女のお父様ですか? そんな人の話は、これまでに出てきませんでしたわよ。

出てきたのです。 次の記事ですよ。


(nakamaro4.jpg)

『中国滞在16年で死亡』

(2012年6月16日)

あらっ。。。この上の記事の中に「唐から来た14歳の少女」のお父様が出てきたのでござ~♪~ますか?

出てきたのですよ。 次の歌を詠んだ人です。


(kasuga6.jpg)


(kasuga2.jpg)
 
 
春日野に 斎く三諸の 梅の花

栄えてあり待て 還り来るまで
 
 

(yakunin5.jpg)

藤原清河 (万葉集 卷19-4241)

(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな

さかえてありまて かえりくるまで)

意訳:


(nakamaro4.jpg)

梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。

『中国滞在16年で死亡』より
(2012年6月16日)

あらっ。。。藤原清河さんじゃござ~♪~ませんかア!

だから言ったでしょう! 急に持ち出した話ではないのです。 卑弥子さんとは、この「唐から来た14歳の少女」のお父さんについて何度も語り合ったのですよ。

でも。。。、でも。。。、藤原清河さんに唐の国で生まれた娘さんが居たなんて一度もお話の中に出てきませんでしたわ。

だから、順序としてこうして記事に取り上げたわけですよ。

。。。つうことわァ~、藤原清河さんは唐の国であちらの女性と結婚したということですか?

そういうことですよ。 藤原清河の略歴を見てください。

藤原 清河

生年不詳。 宝亀9年(778年)に唐の国で亡くなる。
唐名は河清。

奈良時代の貴族。
藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。
母は片野朝臣の娘。官位は従三位・参議、贈従一位。

遣唐大使として入唐し、阿部仲麻呂と唐朝に仕えるも、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、在唐のまま没した。

天平12年(740年)正六位上から従五位下に叙せられる。
聖武朝にて順調に昇進して天平18年(746年)には従四位下にまで昇叙、天平勝宝元年(749年)の孝謙天皇即位に伴い参議に任ぜられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる。
副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。
天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。
遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。
日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。

同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。
日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。
しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。
遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう)(現在のベトナム北部)に漂着する。
土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。
一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。

天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。
清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。

天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。
しかし、当時は安史の乱により唐は騒乱状態であったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。

天平宝字7年(763年)日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)従三位に昇叙している。

清河は帰国できないまま在唐十余年に及び、宝亀8年(777年)次回の遣唐使が入唐したが、翌年、清河は唐で客死した。
唐からは路州大都督の官が贈られた。
なお、清河は唐の婦人と結婚して、喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。


出典: 「藤原清河」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この略歴を見ても解るように清河さんは、なかなか立派な人だったようです。 玄宗皇帝からも君子人なりと称賛されたのですよ。 しかも、778年に唐で亡くなった時には「路州大都督」の官が贈られた。

「路州大都督」の官が贈られたことが、それほど素晴らしい事なのでしょうか?

だってねぇ、僕がバンクーバーで死んだってぇ、カナダの首相は僕に「ブリティッシュ・コロンビア州・名誉州知事」なんて称号を決して贈ってくれないですよ。 要するに清河さんは玄宗皇帝に認められるような業績を唐の国に残したのですよ。

清河さんが亡くなる前に大和朝廷でも、清河さんが唐に住んでいるにもかかわらず常陸守に任じ、従三位に昇叙していますわね。 大和朝廷でも、それだけ清河さんを認められていたのでしょうか?

認めていたのですよ。 清河さんは日本へ帰ってきたかったけれど、阿倍仲麻呂と一緒に乗った第1船が遭難して日本へ帰ってこれなかった。 それで、半ば諦めるように「河清」という中国名を名乗って唐の政府に仕えるようになったのです。

日本へ帰るのを諦めたのでしょうか?

諦めはしなかっただろうけれど、遣唐使船はほぼ20年に一度ですよ。 つまり、帰れるとしても20年後ですよ。 だから、唐政府の勧めるままに「秘書監」という職について中国人女性と結婚したのです。

それで生まれたのが、やがて日本へやって来ることになる「唐から来た14歳の少女」でござ~♪~ますか?

その通りですよ。

。。。んで、その少女の名は?

「喜娘(きじょう)」という名です。 だけど、いつ生まれたのか?いつ亡くなったのか?も記録に残ってない謎の人物です。

日本にやって来たのは確かな事なのでござ~♪~ますか?

それは確かな事なんですよ。 なぜなら797年に編纂された勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)にちゃんと書かれている。 その記録によると、唐の都で藤原清河の娘として生まれた推定14歳の少女が肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に流れ着いた。 奈良時代末の788年11月13日のことだった、と書いてある。

それにしても14歳の少女の身でよく日本へやって来ましたわね。

確かに、遣唐使船に乗るということは生きるか死ぬかという危険が付きまとっていた。 生きて唐に着くか? 生きて日本へ帰れるか? その成功確率は50%ほどだった。 まさに、100円硬貨を空に投げて手に受け取り、裏が出るか?表が出るか?という確率だったのですよ。 当時でも、勇気のない男は尻込みして名誉の遣唐使にさえ就くのを辞退した。

そのように尻込みして遣唐使を辞退した人がマジで居るのでござ~♪~ますか?

居るのですよ。 宝亀6年(775年)の遣唐大使に任命されたのが佐伯今毛人(さえきのいまえみし)だった。 宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなった。 でも、世間では仮病を使って遣唐使になることを渋ったという噂が広まった。 遣唐使になるには、それほど勇気が必要だったということですよ。

それで、その時の遣唐使船はどうなったのでござ~♪~ますか?

仕方がないので、この時は副使の小野石根(おののいわね)が佐伯今毛人に代わって大使の任務を代行した。 でも、小野石根が乗った遣唐使船の第1船は帰路遭難して亡くなってしまったのですよ。

やっぱり、遣唐使船に乗るのは命がけなのですわね。

そうなのです。 でもねぇ、この時の日本への戻り遣唐使船に乗ったのが「唐から来た14歳の少女」だったのですよ。

あらっ。。。勇気があったのですわね。 でも、遭難してしまったのでしょう!?

そうですよ。 11月5日に日本に向けて出航したのだけれど、四日目に海上で大しけに遭って船が大破。 小野石根を含め多くの人が亡くなったけれど、喜娘は舳(へさき)にしがみついて6日間漂流し、11月13日に長島に流れ着いて村民に助けられたのですよ。

あらっ。。。ラッキーだったのですわね。 大使代行の小野石根が亡くなってしまったというのに。。。

運命でしょうね。 喜娘は752年の遣唐大使の藤原清河の娘。 清河自身は754年に日本へ戻る第1船に乗ったけれど、遭難して故郷に帰れなかった。 喜娘が日本へ向かった時には、父親の清河はすでに亡くなっていた。 でも、彼の日本へ帰りたいという執着心が死後も娘に乗り移って、喜娘の奇跡的な日本到着になったのだと思いますよ。 父と娘の執念の日本帰りだったのですよ。

。。。で、その後、喜娘はどうなったのでござ~♪~ますか?

その後の喜娘の足跡は、残念ながら記録に残ってないのですよ。 父の国を見た少女は政情不安の長安に戻ったと言う歴史家も居れば、いや、父の屋敷を継いでのち唐招提寺拡張に寄与したのだと言う研究者も居る。

デンマンさんは、どう思うのですか?

僕は「唐から来た14歳の少女」が流れ着いて村人に助けられたという肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に注目したのですよ。

その村が何か特別なのですか?

あのねぇ~、熊本県の天草諸島の古い地図を開くと、天草郡新和町(しんわまち)(現在の天草市新和町)の竜洞山(りゅうとうざん)の一画に「楊貴妃」という地名が字名として残っている。 この竜洞山がある一帯には、遠い昔に異国から流れ着いたという女性について、ある伝説が残っているのですよ。

それは、どのような伝説なのでござ~♪~ますか?

次のような伝説ですよ。

「しんわ楊貴妃伝説」

今から千二百年あまり昔、竜洞山の一画にこつ然と見事な家が建っていた。
その家には一人の美しい女性が住んでいた。
あまりの美しさに村人たちは女性を恐れた。


(yang04.jpg)

ある年の夏、疫病が流行し、村人は困っていた。
それを知った女性は、唐の国から持って来たという薬草を村人に与え、疫病に苦しむ人々を救った。
村人は女性を尊敬した。
女性は「楊貴妃」と名乗った。
そして、唐の国から皇帝の迎えの使者が来るのを待っている身であると打ち明けた。

ある日、一天にわかにかき曇り、雷鳴とどろく中で、巨大な竜が山頂に舞い上がった。
竜とともに女性の姿も消えていた。
家も一瞬にして無くなった。
ただ、女性が用いていた匂い袋が一つ山中に残っていた。
女性の家があった跡地は「楊貴妃」と呼ばれるようになった。
これが「しんわ楊貴妃伝説」である。
竜が舞い上がった山には竜が住んでいたという洞穴があり、「竜洞山」の名がある。

(イラストはデンマン・ライブラリーより)


『楊貴妃伝説』より

つまり、天草郡西仲嶋に漂着した「唐から来た14歳の少女」がこのような伝説として村人に語り継がれたとデンマンさんは思うのですか?

その通りですよ。 その方が歴史的に考えて納得がゆきます。 藤原清河の娘の喜娘は実際に日本へやって来て勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)に史実として残っている。

でも、どうして「喜娘」が「楊貴妃」になってしまったのですか?

日がたつにつれて、世界的に有名な唐の「楊貴妃」が歴史的には知名度の低い「喜娘」を押しのけてしまったのですよ。 

そうでしょうか?

だってねぇ、聞く人だって「喜娘」の名は知らないけれど、「楊貴妃」の名前なら知っている。 だから、伝説が語り続けられている1200年のうちに、唐で生まれた「喜娘」がいつしか「楊貴妃」に代わっていったのですよ。 そう考えても、ちっとも不思議ではないでしょう!? 卑弥子さんも、そう思いませんか?

【ジューンの独り言】

ですってぇ~。。。

確かに面白い説明ですわね。

それにしても、男でも尻込みするのに、

よく遣唐使船に乗って

日本へやってくる気になったと思いますわ。

勇気があったのでしょうね。

それに、お父様から日本のお話を

しばしば聞かされていたのでしょう。

喜娘にとって、日本は「夢の世界」、

「希望の国」だったのかもしれません。

死を覚悟してまで行ってみたい国だったのに

違いありません。

たぶん日本語もお父様から

教わっていたかもしれません。

ところで、外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは何だと思いますか?

敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に

please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma’am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you …?

Would you …?

May I …?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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