坂本龍馬は流れ者か?


 

2016年5月20日 (金曜日)

 

坂本龍馬は流れ者か?

 


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神話化されたキャラクター


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NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が放映されるまで、龍馬が「実際に何をした人物なのか」、ほとんどの日本人はよく知らなかったのではないだろうか。
大河ドラマは歴史にもとづいたかたちをとりながらも、あくまで創作ドラマである。
だが、このようなメディアで印象づけられた人物イメージは、それまで実像を知らなかった人々が漠然と抱いていたイメージと共振すると、それが「事実」のように定着していく。

もともと坂本龍馬が「維新の功労者」であるという従来のイメージ自体が、ここまでに指摘してきたようにつくられた物語だった。
明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像が、近代に入って独り歩きしたと言っていいかもしれない。

この龍馬神話の元をつくったのは、明治政府の要人として重要な役割を果たした板垣退助だった。
彼は、明治になってから、同郷の龍馬を「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と惜しみ、1915年、高知の桂浜に「坂本龍馬先生彰勲碑」を建てたが、そこには板垣の撰文が刻まれている。

また、岩倉具視という説もある。
板垣と岩倉は、維新後、李氏朝鮮への侵攻をめぐって争ったことで有名だが、その二人がともに「龍馬神話」の創作、宣伝を意図していたということは、当時いずれの立場でも、明治維新後の近代化を肯定するためには、江戸時代の封建制を徹底的に否定する必要があったことを裏づけているといえよう。

また、田中光顕もも龍馬神話の創出にかかわったという説もある。
いずれにせよ坂本龍馬は明治時代に「つくられた英雄」であったようだ。

このため、実際には当時も今も不明のままだった龍馬殺しの犯人を、まずは当時もっとも順当とされた「新撰組」の犯行であるという説を否定し、明治政府の公文書では、京都見廻り組と断定することで、龍馬の英雄性はより強化された。
幕府側が封建制を打破しようとした英雄を卑怯な仕方で殺害したことを強調し、それによって「坂本龍馬」の英雄的イメージがより強化されたのである。

 (中略)

ぼくは、坂本龍馬がしばしば訪れていたいう場所をいくつか訪ねてみた。
京都三条河原町の「池田屋」はすでにビルに建て替えられ記念碑が残っているだけだが、伏見の「寺田屋」の部屋にはまだ刀傷が残ったままになっている。

さらに、長崎の丸山遊郭の料亭「花月」の部屋にも、先に述べたように刀傷が残されていた。
京都の三条龍馬通、河原町と木屋町の間にある材木商「酢屋」は、龍馬をかくまっていたことで有名であるが、先代の女主人の話では、当時、龍馬はピストルを常に持ち歩き、店の二階から発射練習をしていたという。 (略)
つまり、権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。

そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。
彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


136-141 ページ
『江戸<メディア表象>論』
著者: 奥野卓司
2014年5月29日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店


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デンマンさん。。。 今日は坂本龍馬のお話でござ~ますかァ~?


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いけませんか?

だってぇ~、坂本龍馬のことはテレビや映画で嫌と言うほど取り上げられましたわァ~。。。

卑弥子さんもNHKの大河ドラマで『龍馬伝』を観たのですか?


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もちろんですわァ~。。。 毎週、楽しみにしながら観ましたわァ~。。。 あたくしは龍馬に扮した福山雅治の熱烈なファンになりましたァ。。。 あのような殿方と今年 結婚できればと思いながら観たのですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。

卑弥子さん。。。 卑弥子さん。。。 ヨダレが垂れてますよ。。。 僕しか見えないからいいけれど。。。、きれいなオべべが濡れてますよう。 (微笑)

そのような事はデンマンさんが黙っていれば、誰にも分からないでござ~ますわァ~。。。 んもおおおォ~。。。

とにかく、卑弥子さんが『龍馬伝』を観たのならば、話は早いですよ。。。 上の本の著者は次のように言ってるのですよ。


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権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。

そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。

彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。

デンマンさんは著者の意見に不満なのでござ~ますか?

確かに、坂本龍馬という人物については いろいろな解釈ができるかもしれないけれど、歴史を素直にたどってみれば もっと坂本龍馬にふさわしい人物像が見えてくるのですよ。。。 “流れ者”だとか“暴れん坊”だとか“武器商人”だとか。。。 そういう言葉は坂本龍馬にはふさわしくないのです。

つまり。。。、つまり。。。、デンマンさんは坂本龍馬の熱烈なファンなのですわねぇ~。。。!?

いや。。。 僕は卑弥子さんのようにヨダレをたらしながら話をするほどの熱烈な龍馬ファンではありません。。。 むしろ、志半(こころざしなか)ばで暗殺された龍馬を可哀想だという思いの方が強いのですよ。

確かに、満31歳の短い生涯を終えることになったのですから、本人に言わせれば無念だったでしょうねぇ~。。。

そうですよ。。。

。。。で、デンマンさんは上の著者の意見のどこに反発を感じるのでござ~ますか?

まず、卑弥子さんも次の龍馬の略歴を読んでみてください。

坂本龍馬


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天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日) – 慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)

坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。

土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。

勝海舟との出会い


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龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。

いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

船中八策と大政奉還


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いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に“船中八策”を提示した。

1.大政奉還 2.議会開設 3.官制改革 4.条約改正 5.憲法制定 6.海軍の創設 7.陸軍の創設 8.通貨政策

長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。

次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。
その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。

一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌14日に明治天皇に上奏。
15日に勅許が下された。

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本龍馬』が出典の創作の可能性がある。

しかしながら、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったとされ、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあり尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。

暗殺


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後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。

当初は新選組の関与が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。

慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。
また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。

その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。


出典: 「坂本龍馬」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この略歴を見ても明らかなように、坂本龍馬は薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをしたのですよ。

でも、冒頭にデンマンさんが引用した本の著者の奥野卓司さんは、板垣退助が龍馬神話を広めたと言っているのでござ~ますわァ。

あのねぇ~、坂本龍馬が神武天皇のように2600年以上も昔に生きていたなら、“龍馬神話”ということも考えられるけれど、龍馬が暗殺されてから、まだ150年と経過してないのですよ。。。 だから、史実に基づいて“神話”でないことは立証することができるのです。

つまり、坂本龍馬は明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像ではなく、実際に偉大な人物だった、とデンマンさんは証拠に基づいて これからあたくしを説得なさろうとするのでござ~ますか?

その通りですよ。。。 まず、ウィキペディアの上の記述を読んで 卑弥子さんは執筆者が“龍馬神話”を書いたと思いますか?

いいえ。。。 たくさんの史実に基づいて書いたと思いますわ。

そうでしょう!。。。 ちゃんと歴史的事実に基づいて書いているのですよ。。。 決して明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化して書いているようには見えない! あのねぇ~、もしですよ。。。、本の著者が言うように坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だとしたら、暗殺される理由がない!

つまり、坂本龍馬が そのように取るに足りない男だとしたら、誰もが無視するか、つまはじきにするだけで、誰も本気になって相手にしない、とデンマンさんは主張するのですか?

だってぇ、そうでしょう! 日本には昔から“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ!

でも。。。、でも。。。、その格言は、龍馬の暗殺は関係ないと思いますわァ~。。。

もちろん、関係ありますよ!。。。 暗殺すれば、いずれ警察のご厄介になって、悪くすれば死刑ですよ。。。 そのような身の危険まで冒して“流れ者”だとか“暴れん坊”を相手する者こそ 大ばか者ですよ!

要するに、坂本龍馬が暗殺されたのは伊藤博文が暗殺されたように、その人物は一国をもコントロールするような重要な人物だった、とデンマンさんは言うのですか?

当然でしょう!。。。 暗殺されるからには、その理由がある。。。 暗殺する場合、その暗殺に関わる者、あるいはその黒幕には重要な動機がある!。。。 命の危険まで冒すだけの重要な動機があるのですよ。

その動機とは、いったいどのようなモノだったのでござ~ますかァ~?

つまり、坂本龍馬がいなくなって誰が一番得をするのか? それを突き止めるのが先決ですよ!

当時、坂本龍馬がいなくなると誰が一番得をするのでござ~ますか?

だから、それをこれから説明するわけですよ。。。 その前に、江藤新平の略歴も読んでください。

江藤新平


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天保5年2月9日(1834年3月18日) – 明治7年(1874年)4月13日)

江藤 新平は日本の武士(佐賀藩士)、政治家。
幼名は恒太郎・又蔵。
朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。
「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。
その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派からは激しく非難された。
また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。
江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。
また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の画像。

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという。


出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なんで江藤新平を持ち出してきたのでござ~ますか?

江藤新平が消されたのは大久保利通によるものですよ。 大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕は大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうですよ。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。


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『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』 (別窓)

板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。

でも。。。、でも。。。、その証拠は。。。?

状況証拠ならばありますよ!

紀尾井坂の変


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紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。
「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。

実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る。
その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。

島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。

長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。
長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。
長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。

長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。
さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。

唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。

彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった。

島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。


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  大久保利通

1. 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
2. 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
3. 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
4. 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
5. 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたのだと思われる。
大久保が彼らを排斥したという指摘から、薩摩・鹿児島県人からは「西郷どんの敵」とみなされ、現在でも一部の保守層からも嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だったことで、右派でも左派でもない、ほぼ中道をいく政治家だったという(出典不明)。


出典: 「紀尾井坂の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状には国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こしたと書いてある! この斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたと書いてあるけれど、当然、坂本龍馬も含まれているのですよ。。。 島田一郎たちは、その事も知っていたのです。

マジで。。。?

あのねぇ~、昔の人は言いましたよ。。。 “術を弄する者は術に溺れる”と。。。 かつて、大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破した。。。 大久保は“術を弄する者”だったのです。。。

それで、島田一郎らの報復を受けたのでござ~ますか?

そういうことです。。。 悪い事はいつかはバレるのですよ。。。 “策士策に溺れる”のですよ!


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ですってぇ~。。。

あなたはデンマンさんの坂本龍馬暗殺の大久保利通・黒幕説に賛同いたしますか?

あたくしは、半分ほど説得されましたわ。

でも、死人に口無しですわよねぇ~。。。

大久保利通さんは、とっくに白骨化してしまいましたわ。

今となっては真相は歴史のかなたに埋もれてしまいました。

でも、歴史を振り返ってみれば、真実はどこかに出てくるものでござ~ますわァ。

ところで、お話は全く変わりますけれど、

あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が人気があるのですわよう!

うふふふふふ。。。

あなたはあたくしの“女の魅力”を見たことがないのでござ~ますかァ?

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


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どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

松原智恵子さんにまつわるお話も、大変興味深いですけれど、
他にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

たまには、日本古代の面白いお話にも関心を示してくださいまし。

あなたのために古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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