萌える恋歌の裏に


 

2011年5月7日 (土曜日)

 

萌える恋歌の裏に

 


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萌える恋歌

平城京に住む人びとは、何を自分たちの住む都の代表的な「景」として想起していたのか。 それを知る手がかりが、『万葉集』の卷15にある。 熱烈な恋歌で知られる中臣宅守(なかとみのやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌である。 罪を得て、越前(現在の福井県)に流される途中に宅守が娘子に送った歌に、次のような歌がある。 配流の時期については明確ではないが、738(天平10)年前後のことだと考えられる。


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あをによし

奈良の大路は

行き良けど

この山道は

行き悪(あ)しけりかり



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(あをによし: 枕詞)

奈良の大路は

歩きやすいけれど

この山道は

行きづらい

(巻15の3728)

 (中略)


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望郷の念にかられた宅守の脳裏にあったのは、整然と南北に延びる平城京の直線道路だったのだろう。 地方の官道が整備されていった時代とはいえ、それは都以外には存在し得ない光景だったからである。 だからこそ、流罪となった宅守が望郷の思いのなかで、都大路を想起したのであろう。 (中略) さて、もう一人、遠く鄙(ひな)の地にあって、望郷の思いから都大路に思いを馳せた歌人がいた。 大伴家持(おおとものやかもち)である。 国司として越中に赴任していた家持は、750(天平勝宝2)年の春3月に、次のような歌を残している。

2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首


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春の日に

萌(は)れる柳を

取り持ちて

見れば都の

大路し思ほゆ


春の日に

芽吹いた柳を

手に取り持って

見ると都の

大路のことが思い出される

(巻19の4142)

「柳黛」とは、柳の葉を眉に見立てた言い方で、柳の葉を引っ張って奈良の都に思いをはせた歌、というこよになる。 (中略)都大路には柳が街路樹として植えられていたからである。 ために、遠く越中で見た柳が、都大路を連想させたのであろう。 もちろん、家持は、その大路を歩く美男美女にも、思いをはせていたことであろう。 それは、越中に赴任して迎える4度目の春のことであった。


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1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。 平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。


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君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

(巻15の3724)

狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。 これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。 つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。 物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


42 – 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社



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デンマンさん。。。あんさんは「萌える恋歌」を持ち出してきよってぇ、またわたしが恋に狂っていると中傷しやはるのォ~?


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ん。。。? わてがめれちゃんを中傷する?

そうですう。 あんさんは、わたしが常に恋をしていないと、うつ病に取り付かれると信じ込んでおりますねん。

わてが。。。?

そうですう。 あんさんは、いつだってわたしの『即興の詩』サイトから萌え萌えの詩や短歌を持ち出してきよってぇ、わたしが恋に狂っていると日本語が分かる世界のネット市民の皆様に、さんざ広めてしまいましてん。

わてが。。。?

そないに惚(とぼ)けないでおくれましなア。

わては惚けておらんでぇ~。 何も、めれちゃんを中傷するために、この記事を書き始めたのとちゃうねん。

そないに言うなら、どうして「萌える恋歌」など持ち出してきやはったん?

あのなァ!~、わては、たまたまバンクーバー図書館から借りてきた『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』を読んでいたのやがなァ。 なかなか興味深い本なのや。

それで、その本の中に「萌える恋歌」がありはったん?

そうなのや。

。。。で、わたしを中傷する気持ちがないんやったら、どないなわけで「萌える恋歌」を取り上げはったん?

「萌える恋歌」というタイトルがついておるのやけれど、わては次の箇所を読んで思い当たることがあったのや。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど次の恋の歌は、どないに読んでも恋の歌ですやん。


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君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

めれちゃんにとって、上の歌は何が何でも恋の歌としか思えんのか?

そやかてぇ、恋の歌ですやん!?

そやけど、恋の歌にしては、あまりにも激しすぎるねん。 「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」。。。焼き滅ぼしてくれるような、という形容は相思相愛の恋の歌にはそぐわないねん。 むしろ相手を呪うような気持ちがあるように、わてには思えるのやァ。

わたしは、そないに思わへん。 焼き滅ぼしてくれるような、という形容は狭野弟上娘子の相手を思う気持ちの激しさを訴えているねん。 むしろ情熱の激しさを相手に知って欲しいねん。

でもなァ~、もし、わてがこの歌を相愛の相手からもらったとしたら、「焼き滅ぼ」すという語句を見て一瞬ギクリとするでぇ~。。。もし、恋の情熱を訴えるのやったら、次のような歌になるねん。


 

やわ肌の

あつき血汐に

ふれも見で

さびしからずや

道を説く君

 

by 与謝野晶子


『熱き肌』に掲載 
(2010年3月12日)

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こないな歌が恋の情熱を訴える歌やと、あんさんは言わはるのォ?

そうや。。。これならば、女の身を焦がすような恋の情熱が男の胸にもひしひしと伝わってくるねん。

そうやろか?

そうに決まってるやん。 めれちゃんかて次のような萌え萌えで、ムンムン、ムレムレの歌を詠んでいたやんかア!

くちづけ

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罪深き

ことと知りつつ

この夜も

きみのくちづけ

もとめて止まぬ

 


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by めれんげ

2009.01.14 Wednesday 14:21


『即興の詩 冬枯れ』より

『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)

あんさんは、わたしの詠んだ歌なら何でも保存しておきはるのォ~?

そうやァ。。。あきまへんか? うししししし。。。

つまり、「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」なんて詠むと、男は身を引いてしまうの?

わてならば、「焼き滅ぼ」すという語句を見てドン引きしてしまうでぇ~。。。ちょっと怖(こわ)すぎるやん。。。

そうやろか?。。。ほんならば、狭野弟上娘子は、どないなつもりで上の歌を詠んだと、あんさんは言わはるのォ~?

そやから本文中にも次のように書いてあるやん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど、歴史的事実ってぇ何やのォ?

そやから、わては、その歴史的事実を突き止めようとしたのやがな。

そいでぇ、突き止めはったん?

そうや。

どないして。。。?

中臣宅守は738(天平10)年前後に罪を得て越前(現在の福井県)に流されたのや。 そやから、その時期の事件を調べたのやがな。

735(天平7)年

平城京にきた新羅からの使いに入国の目的を問うたところ新羅は国の名を改めて王城国といったので帰国させている。


737(天平9)年

遣新羅使が新羅に渡した国書を慣例を無視して受け取りを拒まれた事態が報告され、使節を送ってその理由を問うべきか兵を出して征伐するべきかという意見が奏上された。


738(天平10)年前後

中臣宅守(なかとみのやかもり)が罪を得て越前(現在の福井県)に流される。 配流の時期については明確でない。


740(天平12)年

藤原広嗣(ひろつぐ)の乱。 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。

9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。

乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。
遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。


744(天平16)年

安積親王が、藤原仲麻呂に暗殺される。


745(天平17)年

反藤原政権の一角を担っていた玄昉が九州に左遷させられた。 藤原仲麻呂は、次第に反藤原派を圧迫してゆく。


746(天平18)年

宮内少輔だった大伴家持は越中の守に任じられ越中国に向かった。


763(天平宝字18)年

藤原良嗣(よしつぐ)の乱。 藤原仲麻呂は息子3人を参議に任じ専横を極めた。
良嗣は冷遇され恨みを抱いた。
そこで佐伯毛人(けみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持と共謀し、藤原仲麻呂を殺そうと企てたという密告があって、みな捕まってしまった。
良嗣は取調べを受けて、首謀者は自分一人だけで他の者は関係ないと主張した。
この後、大伴家持は薩摩守に任じられ(左遷され)都から遠ざけられた。

このようにして調べていって気がついたのやけれど、情熱的な狭野弟上娘子の相手である中臣宅守が関係している事件というのは無いねん。 ところが万葉集の編者と言われる大伴家持が関係している事件があるのやがな。

それが藤原良嗣(よしつぐ)の乱やと、あんさんは言わはるの?

そうやァ。

そやかて、その事件は中臣宅守さんと関係あらへん。

あのなァ~、『万葉集』は実は、単なる文学の歌集やないねん。 政治的な告発の書やねん。

それは、あんさんが勝手に、そう信じているだけやん!

いや。。。わてが勝手にそう信じているだけやないねん。

他に誰が、そう言うてるん?

ちょっと次の文章を読んで欲しいねん。

ある朝、新聞をひろげると、三島由紀夫、阿部公房、石川淳、川端康成の四氏が、
—中国の文化大革命は学問の自由を侵す。
という声明文を発表したと報じていた。
昭和42年のことである。

 (中略)

日中両国の相違点の一つの例として、四氏の声明文に登場していただきたいのである。
—学問芸術を終局的に政治権力の道具とするような思考方法に一致して反対する。
という言葉で、四氏の声明文は結ばれている。
学問芸術、文化を、政治権力と対立するもの、すくなくとも離れたものとみる考え方は、きわめて日本的である。
中国の政治理念は、『礼楽(れいがく)の治』であり、礼楽はすなわち文化のことなのだ。
—郁々乎(いくいくこ)として文なる哉(かな)。
と孔子が言ったのは、周の政治をたたえたのであり、政治すなわち文化であるという前提に立つ。
どちらがどちらを道具にするという関係ではなく、ひきはがせない血肉の関係と認識されていた。

 (中略)

近代でもおびただしい数の文人が処刑されている。
魯迅の愛弟子で、『瘋人(ふうじん)』の著者であった柔石(じゅうせき)が銃殺されたのは1931年で、同年に『少年先鋒』によって文学者・李偉森(りいしん)も銃殺された。 『流亡』や『家信』など農村を舞台にした名作をかいた洪霊菲(こうれいひ)は1933年に北京で逮捕されて処刑された。 『乱弾』の著者である瞿秋白(くしゅうはく)が福建で銃殺されたのは1935年のことである。 終戦の翌年、昆明(こんめい)で暗殺された詩人・聞一多(ぶんいった)は、それが政治的な処刑であることを疑う者はいないだろう。
政治の体系はすなわち文化の体系であり、それだけに作家の活動は政治の核心にかかわり合っている。 どの作家も、命を賭けることぐらいは、ふだんから覚悟のうえなのだ。


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東方の隣国の文人たちが、中国の文人をあわれんで声明文を出した。 遺憾ながら、大きな的はずれである。
中国では、文人が政治家であるということでも、文学は政治とつながっている。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


199 – 207ページ
『日本人と中国人』 著者: 陳舜臣
2005年8月20日 第1版第1刷発行
発行所: 株式会社 恒文社

つまり、中国人にとって文学は政治とつながっているとあんさんは言わはるの?

そうやァ。。。

そやけど、狭野弟上娘子さんは中国人ではあらへん。

その通りや。

それやのに、あんさんはどうして中国人のことなどを持ち出してきやはったん?

あのなァ~、よう考えてみィ~なァ。 狭野弟上娘子さんは、これだけ激しい恋の歌を詠みはったのや。 そうであるならば、その熱烈な恋歌の受取人であるはずの中臣宅守の関わっている事件が歴史上の有名な事件であるに違いない。 少なくとも歴史に記録されている事件やと、わては思うたのや。 ところが、どのように調べても中臣宅守の関わっている事件が見あたらへん。 それなのに事件とはまったく関わりがないと思われる狭野弟上娘子さんの熱烈な恋歌だけが万葉集に掲載されてるねん。 めれちゃんは、おかしいと思わへんか?

そうでんなァ~。。。 そう言われてみると確かに腑に落ちないところがありますわ。

そうやろう!?

。。。で、あんさんは、どうなってると思いはったん?

そやから、『万葉集』の編者である大伴家持が詠んだのやがな。

狭野弟上娘子さんの名前を借りて家持さんが詠みはったん?

わては、そう推断したのや。

そやかてぇ、大伴家持さんは中国人ではあらへん。

あのなァ~、この当時の役人や歌人には渡来人の子孫がようけい居るねん。

その根拠は。。。?

次の文章を読んでみィ~なァ。

平城京は人口の三分の一が

外国人の国際都市だった!?


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現代は国際化社会とよくいわれるが、奈良時代の都だった平城京は、現代の東京も横浜も神戸もびっくりの国際都市だった。 なんと、人口の三分の一ほどが外国人だったというのだ。

平城京は、100万人の人口をかかえる国際都市だった唐の長安(ちょうあん)を手本につくられ、東西4.3キロメートル、南北4.8キロメートルの大きさがあった。

住民構成に関するはっきりとした資料はないが、平安時代の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、京都の平安京内に本籍を持つ氏のうち、三分の一近くが渡来系の氏族であったことがわかり、平城京の場合でも、その割合は似たようなものだったろうと推定される。

これら渡来人には、外交や貿易などのため、唐や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)からやってきた人々もいれば、もっと古い時代に百済や高句麗からやってきた人々の子孫もいたと思われる。

 (中略)


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渡来系氏族とはちょっと異なる外国人としては、唐からやってきて日本の役人になった李元環、波斯人(はしじん:ペルシャ人)だったといわれる李蜜翳のほかにも、ペルシャ人がシルクロードと唐を経由して日本に渡来したという話はいろいろ伝えられており、正倉院御物(ぎょぶつ)にペルシャの工芸品が多いのも、ペルシャ人が日本にやってきていたからではないかともいわれている。 また、僧侶たちも、唐はもとより、インドやインドシナ出身の者もいる。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


18 – 19ページ
『歴史で読み解く日本地理』
著者: 河合敦
1999(平成11)年9月8日 第1刷発行
発行所: 東京書籍株式会社


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なるほどねぇ~。。。当時の都の平城京に住んでいる人には渡来人がようけい居りましたのやなァ~!? そやけど、大伴家持さんが中国人だったという確証はありまへんのやろう?


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もちろん、わては大伴家持さんが中国人だったと言うつもりはないねん。 そやけど、中国人の影響を強く受けとるねん。

どないなわけで。。。?

大伴家持の家庭教師が山上憶良(やまのうえのおくら)やったからやァ。 この事について、わてはすでに記事を書いておるねん。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)


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養老2年(718年) – 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


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橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)


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斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。


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702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。


SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。

『平安時代は決して平安ではなかった』

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)


『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)

歴史家の中には山上憶良が百済系帰化人である可能性も強い、と言っている人もおるくらいなのや。

つまり、大伴家持は唐から帰ってきた山上憶良の影響を受けて当時の藤原氏を告発するために、狭野弟上娘子に成り代わって告発のための歌を詠んだと。。。?

そう言う事になるねん。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

判りましたわ。 そやけど、その“歴史的事実”って何やのォ~?

757(天平宝字元)年4月

群臣が集められ皇太子を決める会議が開かれた。
この中で藤原豊成や藤原永手(ながて)は道祖王の兄・塩焼王を推し、反藤原派は舎人親王の子・池田王を推した。
これに対し藤原仲麻呂一人が「天皇がお決めになればよろしいのでは」と発言した。 すると天皇は、大炊王(おおいおう)を立てたいと思う、と述べられた。
実は、大炊王は藤原仲麻呂が自宅で養子のように飼い慣らしていた皇族であった。

つまり、すべて藤原仲麻呂の仕組んだ筋書き通り、聖武天皇の影響を排除して藤原仲麻呂の言いなりになる皇太子を誕生させたのである。


757(天平宝字元)年6月16日

藤原仲麻呂は橘奈良麻呂ら、反藤原派の主だった者を左遷した。


764(天平宝字8)年

藤原永手は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱では孝謙上皇・道鏡側に参加して活躍し、正三位・大納言に叙任、勲二等を叙勲される。
その後、道鏡政権が成立し右大臣・藤原豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、藤原永手は薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。


766(天平神護2)年

藤原永手は右大臣次いで左大臣に任ぜられ、正二位に昇叙されている。


770(神護景雲4)年

称徳天皇崩御。 これに伴う皇嗣問題では、藤原永手は天武系の井上内親王を妃とする、天智系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。
なお、「百川伝」をもとにした『日本紀略』などの記述では天武系の文浄三・大市を推した吉備真備に対して、藤原永手は式家の藤原良継・百川兄弟とともにこれに対抗したとされている。
また、同年光仁天皇擁立の功績により正一位に叙せられている。
なお、近年、光仁天皇の皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継・百川らの反対を押し切って、藤原永手は井上内親王を通じて天武系の血を引く他戸親王を立てたという説が唱えられている。


771(宝亀2)年

藤原永手が病により薨去。享年58。
即日太政大臣の官職を贈られた。

つまり、藤原氏の専横を後代の日本人に知ってもらおうとして大伴家持が狭野弟上娘子に成り代わって詠んだと、あんさんは言わはるの?

そうや。 大伴家持の父・旅人(たびと)は729(神亀6)年2月に起こった「長屋王の変」では涙を呑んで藤原氏の専横に屈しなければならへんかった。 家持も、藤原良嗣(よしつぐ)の乱では、藤原氏に疑われて左遷されたのやァ。 彼は薩摩守に任じられて都から遠ざけられてしもうた。 要するに親子2代の屈辱が骨身に沁みてるねん。 そやから、次の歌には、藤原良嗣の乱で受けた屈辱と、藤原氏に対する専横の恨みが滲(にじ)み出ておるねん。


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君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも


あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい

つまり、「長手」とは「藤原永手(ながて)」のことやの?

そういうことになるわなァ~。

【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。
狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の恋歌の解釈は、なんだかデンマンさんのこじつけのようにも思えますけれど、藤原氏の専横があったことは歴史的に見て誰も疑いをさしはさめません。

あなただって平安時代の歴史を読めばわかるでしょう!
あの有名な藤原道長が藤原氏でない者は人にあらずと言ったのですから。。。
実は、藤原氏の世の中って大変な世の中だったのですわよねぇ。
デンマンさんが書いた次の記事を読めば良く分かりますわ。

『平安時代は決して平安ではなかった』

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。


(byebye.gif)

メチャ面白い、

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こんにちはジューンです。

藤原氏の時代も大変な世の中だったようですが、

ナチスの時代も酷かったのですよね。

その時代の状況を最もよく伝えているのは

なんと言っても『アンネの日記』ではないでしょうか?

感動的な作品ですよね?

この作品を読めば、

ナチズムがどういうものであったかが

伝わってきますよね。

あなたは読んだことがありますか?


(anne12.jpg)

いつでも、こんな風に写ってたらいいなぁ。

私のお気に入りの写真ですよ。

これだったらハリウッドも夢じゃないと思う。

1942年10月10日 アンネ・フランク

【ジューン意訳】

ところで、英語の面白いお話を集めてみました。

もし、時間があったら読んでみてくださいね。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


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コメント / トラックバック3件 to “萌える恋歌の裏に”

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