なぜ唐に留まったの?


   
 
2013年7月28日 (日曜日)
 
 
なぜ唐に留まったの?
 
 

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高向漢人玄理 

(たかむくのあやひとげんり)


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608(推古16)年9月、小野妹子に従って、学問僧の旻(みん)や南渕漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)らと共に、学生(がくしょう)として隋に派遣され、640(舒明12)年10月、請安と共に、新羅を経て帰国した。
実に32年に及ぶ中国滞在であった。

645(大化元)年、乙巳の変が起こると、玄理は旻と共に国博士(くにのはかせ)に抜擢された。
国博士は中大兄(後の天智天皇)に直属する政治顧問である。
新知識を学び、隋の滅亡、唐の隆盛を目のあたりに体験した玄理の経歴に照らすなら、うってつけの任といえる。
以後、改新政府の内外の課題に対処すべく、玄理の活躍が始まる。

唐の高句麗侵攻に伴う朝鮮半島の情勢に対応し、646年、新羅にわたり、金春秋(きんしゅんじゅう: 後の武烈王)の来日を実現した。
また、649(大化5)年には、旻と共に新官制の案を起草したとみられている。


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654(白雉5)年、遣唐使の長官となり、唐の都長安に至った。
翌年、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


78ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改定11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社


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デンマンさん。。。 どうして高向漢人玄理を取り上げたのでござ~♪~ますか?


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あのねぇ~、僕はバンクーバー市立図書館から借りてきた『読める年表・日本史』という日本史の本を読んでいたのですよ。 1、231ページもある分厚い本で持ち歩くのにもちょっと重いのですよ。 量(はか)ったわけではないけれど2キロから3キロぐらいありますよ。

図書館のパソコンで記事を書くために、いちいちマンションから往復1時間かけて歩いてゆくのに、その本も持ってゆくのですか?

そうですよ。 持ち運ぶのも上の引用箇所を書くための一度限りですからね。 毎日持ち運ぶわけではないから、それほど苦にはならないのだけれど、寝ながら読むにはマジで不便な本ですよ。

デンマンさんは本を寝ながら読むのでござ~ますか?

寝ながら読むのが僕には一番落ち着いて読めるのですよ。

。。。んで、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した事実がデンマンさんは気になったのでござ~ますか?

そうですよ。。。僕はなぜかこの事実にずいぶんと考えさせられてしまったのですよ。

どうして。。。?

あのねぇ~、僕も海外での生活が20年以上にもなる。 その理由の一つには日本での暮らしが快適ではなかった。

つまり、日本では貧乏していて食うにも困るような青年時代をデンマンさんは送っっていたのでござ~ますか? それで海外に出れば暮らしが豊かになると。。。?

やだなあああァ~。。。 僕が青年時代を過ごしたのは日本が経済大国になりつつある、まさに黄金時代とも言えるような輝かしい時期だったのですよ。

つまり、貧乏して乞食のような生活をしていたのではないと言いたいのでござ~ますか?

もちろんですよ。 僕は経済的な問題を言っているのではなくて、政治的、思想的な社会環境のことを言っているのですよ。

要するに、当時の日本の政治的、思想的社会にあって、デンマンさんは御自分が異邦人であるような。。。 そのような疎外感を感じていて。。。 どうにも居心地が悪くて日本を飛び出したというわけでござ~ますか?

まあ。。。 簡単に言えばそういう漠然とした気持ちがあったのですよ。

それと高向漢人玄理さんと、どういう関係があるのでござ~ますか?

あのねぇ~、玄理さんの立場になって考えてみてください。 当時の政治の中枢にあって、天智天皇を助ける政治顧問なのですよ。 今で言えば、主席首相補佐官のような地位にあるのですよ。 その人が、今で言えばアメリカ政治・文化調査団の団長さんになって500人ぐらいのメンバーを引率してアメリカを訪問し1ヶ月ぐらいの期間いろいろと各地を回って調査してから、いざ帰国する時になって、帰国を断念してアメリカに留まってしまう。 そしてアメリカで亡くなって帰らぬ人となる。 現在ならば、そういうことです。 とても考えられないことですよ。

それを 655(白雉6)年に、実際にやってしまった人が高向漢人玄理さんだと言うわけですか?

その通りですよ。

なぜでござ~ますか?

ほらっ。。。 卑弥子さんだって不思議に思うでしょう?

そうですわ。。。 考えてみれば日本の主席首相補佐官がアメリカに亡命したようなものですわね?

その通りですよ。

。。。んで、デンマンさんは、いろいろ調べてみて結論が出たのでござ~ますか?

大体、見当がついたのですよ。

もったいぶらないで、その結論とやらを話してくださいましなァ。

あのねぇ~、玄理さんは天智天皇が放つ刺客に殺されるかもしれないと心配して唐に留まったと思うのですよ。

まさかァ~。。。 主席首相補佐官がどうして首相の放つ刺客に殺されねばならないのですか?

かつて小泉純一郎首相が刺客を放ったことがあるでしょう!

それは選挙の時のことですわ。 実際に刺客を放って選挙の対抗相手を殺そうとしたわけではござ~ませんわア!

でもねぇ~、655(白雉6)年当時は、実際に刺客を放って対抗相手、もしくは邪魔者は殺したのですよ。 592年には蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を刺客に雇って崇峻天皇を実際に暗殺してますからね。

マジで。。。? でも、玄理さんは、どうして自分が天智天皇に殺されるかもしれないと思ったのでござ~ますか?

あのねぇ~、実は、似たような事件があったのですよ。 かつて僕が書いた『定慧の暗殺事件』を読んでみてください。

定慧の暗殺
 

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定慧は藤原鎌足の長男です。上の写真で大きな人がもちろん、鎌足です。
小さい方の右が定慧、左が不比等です。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
わずか11歳の時の事でした。

遣唐使はまもなく帰ってきますが、定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。
彼は、唐を発っても、途中百済に立ち寄り、そこに長いこと滞在したといわれています。
少年にして、懐かしい故郷から千里も離れたところにいるわけですから、彼の心のうちは、どんなだったでしょうか?

定慧がまだ百済に滞在していた654年に彼の実の父親である孝徳天皇が亡くなります。
『定慧出生の秘密』

病死となっていますが、私は、中大兄皇子の謀略によって殺されたと見ています。
孝徳帝の死には謎がたくさんあります。

すでに述べたとおり、孝徳帝は、大化の改新の8年後の653年に、中大兄皇子と遷都問題で対立して、当時の都・難波に置き去りにされています。
この事件については『軽皇子と中大兄皇子』で説明しています。
この時、中大兄皇子は叔父を殺害するつもりだったと思います。
ところが鎌足に止められたのでしょう。やめています。

孝徳帝は、甥の中大兄皇子とは全く正反対な性格で、決断力も、勇気も乏しいし、政治的手腕にも見るべきものがありません。
いわば負け犬になるために生まれてきたような人です。
しかし、甥と比べて一つだけ決定的に秀でたものを持っています。
それは、人を見る目があって、人間的な温かみを持っているということです。
もしくは、人情の機微に通じていると言い換えることができるかと思います。このことについては、『藤原鎌足と軽皇子』で説明しています。

もし、軽皇子が人としての良さを何一つ持っていなかったとしたら、鎌足から、とっくの昔に見放されていたでしょう。
事実、鎌足は、蘇我入鹿を暗殺するとき、初めは、孝徳帝(軽皇子)と一緒にやろうとしますが、決断力と勇気に欠けているのを見抜いて、彼に見切りをつけて、中大兄皇子と組んで実行しました。
詳しいことは『藤原鎌足と六韜』で説明しています。

しかしその一方で、鎌足は、この軽皇子の使い道を知っており、決して見捨てませんでした。
中大兄皇子には、決断力、勇気、政治的手腕というように、見るべきものがあります。
しかし、彼の性格的な欠陥から、敵も多かったようです。
そのような理由から、中大兄皇子が皇位につくことを良く思わずに、反対するものが多かったのです。
こういう時に、まさに、お飾り天皇に、もってこいなのが軽皇子と言うわけです。
彼は人情の機微を知り尽くしていますから、人事において、その才覚を発揮できます。
不満を聞いたり、人事のごたごたをまとめたり、そのような役にはぴったりの人だったようです。

孝徳帝は、人並み以上の権力欲があるとは思われませんが、しかし、いつまでもお飾りでいることに満足しているとも、思えません。
おそらく、アヒルの水かきではありませんが、甥に隠れて、見えないところで人脈を形成していたことでしょう。
この辺のやり方は、軽皇子当時、鎌足に寵妃・小足媛をあてがったやり方で見るとおり、実にうまい。
しかし、これが、中大兄皇子には我慢ならなかったようです。

旧都で、間人(はしひと)皇后にも家臣にも見放された状態で、孤独のうちに病死したことになっています。
もちろん、そんな単純なことではなかったはずです。
この時、おそらく誰もが、中大兄皇子の即位を予測したことでしょう。
しかし、実際には、孝徳帝が病死したのではなく、殺害されていますから、中大兄皇子も考えたようです。
そこで即位すると、邪魔者を消して皇位についたと見られはしないか?
孝徳帝の謀殺と中大兄皇子の関係が見え見えになってしまいます。

そこで、皇極天皇であった彼の母親を説得して、もう一度天皇になってもらったわけです。
これが斉明天皇です。
したがって、この時もし中大兄皇子が皇位についていたら、鎌足は、定慧を百済から呼び寄せることができました。
しかし、そうなっていない以上、孝徳帝の息子を日本へ呼び戻すわけには行きません。
それこそ新たな政争の種をまくことになります。
それどころか、中大兄皇子の猜疑の目が鎌足に向けられないとも限りません。
定慧を還俗させて新たな政権を打ち立てるのではないかと。。。

そのような事情で、定慧は更に百済で足止めを喰らいます。
しかし、もちろんその間、無為に過ごしていたわけではありません。
では一体何をしていたのか?定慧が、高句麗でなく、また新羅でもなく、百済に滞在していたというには訳があります。
鎌足の父親の御食子(みけこ)が百済からやって来たからです。
詳しいことは『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』で説明しています。
したがって、定慧は、御食子の実家の世話になっていたわけです。

定慧の情報収集活動

定慧は出家して坊さんになっていました。
この当時の坊さんというのは、現在の坊さんと違って、権力を握る人たちと交際を持つ機会に恵まれています。
仏教を国教にするという時代です。
仏教を政治の手段として利用していたという事実を忘れることができません。

したがって、坊さんになると情報をつかみやすいわけです。
端的に言ってしまえば、頭を丸めたスパイです。
この良い例が、聖徳太子の若い頃からの個人教授を勤めた僧の慧慈(えじ)です。
高句麗からやってきましたが、後に、呼び戻されて、祖国へ帰ってゆきます。
もちろ時の高句麗王に、日本情勢をこと細かく報告するためです。
この人については『朝鮮三国の緊張関係―聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)』で説明しています。

この当時の朝鮮半島は、非常な緊張状態にありました。
663年に百済が滅びます。その5年後には高句麗も滅びます。
そのようなわけで、定慧はのんびりと、百済で息抜きしていたというわけではありません。
鎌足とは彼の手下を通じて、連絡を取っていたでしょう。
したがって、いろいろな面で御食子の実家の援助を受けながら、できうる限りのツテを頼って情報を収集していたはずです。
得られた情報は、手下を通じて、鎌足に送られていたでしょう。
これらの情報は、やがて始まる、本格的な戦争のための資料として、鎌足と中大兄皇子の元へ達したはずです。

やがて、日本と百済の連盟軍は、唐と新羅の連合軍と白村江で戦闘状態に突入します。
しかし、百済と日本の水軍は致命的な痛手を負って敗れます。
そして百済は滅びます。
パニック状態になった敗戦国からは、貴族から庶民にいたるまで、ぞくぞくと難民が日本へやってきます。
百済朝廷の実力者たちも、天智帝を頼りにやってきて、彼の回りに、新百済派と呼ばれる派閥が形成されてゆきます。
天智天皇は、背水の陣を引きます。
この次は、唐と新羅の連合軍が日本へ攻めてくるという想定の元に、大防衛網計画を立てます。

663年の白村江の戦いで敗れたことは、天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手でした。
先ず人望を失いました。これとは反対に、多くの人が、大海人皇子になびいてゆきます。
この当時、大海人皇子は、新羅派の統領として天智帝と対立していました。
百済に援軍を送ることなど、もともと反対でした。

白村江で敗れたとはいえ、当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという一大ニュースです。
おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。
それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

天智帝は、国を滅ぼされて続々と難民として日本へやってきた百済人に援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。


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天智王朝に対する不満

天智天皇は大きな間違いを犯します。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
そのために、何十万人の人々が動員されました。
天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。
「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」大多数の人は理解に苦しんだと思います。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。 これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です。
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです、このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。つまり自費で帰国しなければなりません。
したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

新羅派(天武派)の暗躍

こういう状況の中で、新羅派が暗躍し始めます。
天智天皇はすでに豪族の支持はもちろん、民衆の支持さえ失っています。
こういう状況の中で何も起こらなかったなら、起こらないほうが不思議でしょう?

ところで、新羅派と言われる人たちが、なぜ反天智運動を展開する必要があるのか?
それは、伝統的に中国王朝がとってきた『近攻遠交』と呼ばれる戦略に関係しています。
これは、どういうものかというと、読んで字のごとく、近い国を攻めるために、遠い国と親しく交際し、この近い国を挟み撃ちにして攻略する、と言うものです。
唐・新羅連合と言う結びつきは決して永続的なものではありませんでした。
お互いが相手を利用すすために、一時的に結束しているに過ぎません。
どちらかが、相手の利用価値を認めなくなった時が、縁の切れ目です。
百済が滅び、高句麗が滅びます。
次は、自分たちが唐に飲み込まれてしまうということを、新羅人はよく知っています。
縁の切れ目が見え見えです。

そういうわけですから、新羅人は文字通り背水の陣をしきます。背後は海です。しかし海の向こうには日本がある。
今度は、新羅を攻めるために、唐が『近攻遠交』戦略を採るとしたら日本と組む以外にありません。
もし先を越されでもしたら、新羅の命は風前の灯となります。
したがって、新羅人は、もう何とかして、日本に親新羅派の政権を打ち立てなければなりません。
そうでもしないと、唐が必ず日本と組んで自分たちを滅ぼします。
すでに、述べたように、天智と天武は百済派・新羅派に別れて、対立している状態でした。
このようなことをスパイ網を通して知っている唐は、この当時しきりに使者を送って、天智政権を懐柔しようとしています。
しかも悪いことに、天智帝は、すでに述べたように、豪族にも、民衆からも見放されています。
したがって、四面楚歌の天智政権は、唐と仲良くしてゆく以外にありません。

新百済派(旧百済朝廷遺臣)と

旧百済派(鎌足派)の対立

定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。
しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。
しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。

上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。
これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。
それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。
しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。
「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」


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定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。
そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。
天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。
しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。
「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」

それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。

定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。

懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。

この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。


『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)

つまり、玄理さんも唐と日本が連合することを勧めたので天智帝や新百済派の人たちに憎まれて暗殺されるかもしれないと思ったのでござ~ますか?

いや。。。 それだけじゃない。 実は、天智帝の首席補佐官の立場にいたので知りすぎていたのですよ。

何を出ござ~ますか?

645年9月12日に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が謀反を企てているということで殺されたのですよ。

マジで。。。?

あのねぇ~、古人大兄皇子は中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄なのですよ。 蘇我馬子の娘である法提郎媛(ほていのいらつめ)と舒明天皇との間に生まれた。 だから有力な皇位継承候補だった。 ところが「乙巳の変」で蘇我入鹿と、その父親の蘇我蝦夷が死んで後ろ盾を失ってしまった。 だから天皇になる野望を捨てて古人大兄皇子は出家して吉野に隠棲していたのです。

それなのに中大兄皇子は謀反を企てているということで古人大兄皇子を死に追いやったのでござ~ますか?

その通りですよ。 中大兄皇子の反対派が古人大兄皇子を担(かつ)ぎ出そうという動きもあった。 玄理さんは天智帝の首席補佐官だから、そういう事も知る立場にあった。 また、649年3月25日には蘇我石川麻呂が中大兄皇子の陰謀にかかって自殺に追いやられたのですよ。

事件の真相を玄理さんは知っていたのでござ~ますか?

もちろんです。 その内、653年6月に玄理さんと同じように国博士として政治顧問に任命されていた僧の旻(みん)さんが亡くなった。

刺客に毒殺されたのでござ~ますか?

いや。。。 病死したことになっている。 孝徳天皇は旻(みん)さんを厚く信頼し、病床に就いた時には、わざわざ見舞に行ったというのですよ。 そして、その孝徳天皇は654年の10月10日に亡くなっているのですよ。

中大兄皇子の謀略によって孝徳天皇は殺されたとデンマンさんは上に引用した記事の中で書いていましたわね。

僕はそう見ているのですよ。

つまり、中大兄皇子は権力欲と猜疑心の塊なのでござ~ますわね!?

そう思われても仕方がないのですよ。 それで、知りすぎている玄理さんは、もしかすると。。。と心配になってきたわけですよ。 同僚の旻(みん)さんは亡くなってしまった。 知りすぎている者は自分一人になってしまったわけですよ。 もしかすると自分もやられてしまうのではないか? そういう時に。。。654年に遣唐使の話が持ち上がったわけですよ。

それで遣唐使の長官になって唐に逃げたというわけでござ~ますか?

そうですよ。 本来ならば、天智帝の首席補佐官の立場にあるのだから、退職してからも悠々自適な生活が待っているはずなのですよ。 でもねぇ、天智帝の権力欲と猜疑心を考えると、玄理さんは日本に戻るよりも唐に留まる事を選んだようです。 日本での悠々自適な生活も、命あってのものだねですからね。。。


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【小百合の独り言】


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ですってぇ~。。。
どうですか?
天智天皇は権力欲と猜疑心の塊だと思いますか?
人間的には、あまり好まれなかったようですわね。

ええっ。。。 どうしてかってぇ~。。。?

額田王(ぬかたのおおきみ)は後に天武天皇となる大海人皇子(おおあまのおうじ)の妻でした。
十市皇女を生んでから、大海人皇子の兄である中大兄皇子の妻になったと言われています。

その後、額田王と大海人皇子は次のような歌のやり取りをしているのですわ。

•茜指す 紫野行き 標野行き 
 野守は見ずや 君が袖振る
 (巻1・20・額田王)

•紫の 匂へる妹を 憎くあらば
 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
 (巻1・21・大海人皇子)

つまり、人妻になった後でも 額田王は大海人皇子に心惹かれている様子なのですわよね。
要するに、万葉集の編者が 天智天皇は権力欲と猜疑心の塊だと言わせているようなものですわ。
そう思いませんか?

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