破戒僧円載
2016年2月5日 (金曜日)
破戒僧円載
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デンマンさん。。。 破戒僧のお話でござ~ますか?
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そうです。。。 いけませんか?
この平和な平成の世の中で“破戒僧”のお話など“猫に小判 豚に大判”でござ~ますわァ。。。
その諺、この場合にはふさわしくないのじゃありませんかァ~?
とにかく、ネット市民の皆様の関心を引かない話題ですわよう。
じゃあ、40年中国に滞在して日本に帰ろうと船に乗ったら、暴風雨にあって溺死してしまった可哀想なお坊さんの話だと言ったら卑弥子さんは興味を持ちますか?
あらっ。。。 そういうお坊さんがいたのでござ~ますか?
僕も知らなかったのだけれど、夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
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最澄以来の初期天台留学僧の歴史を綴る縦糸は上のごときだが、ここに横糸である円載についても触れておかねばならない。
円載は奈良県の出身、幼くして叡山に登り師と仰ぐは最澄だった。
円仁と共に留学僧として唐にわたる。
現存の『唐決』(未決疑問30条)は、入国を拒まれた円仁(実は帰国と見せて脱走、山東省に上陸、10年余の留学)が円載に託したものを天台山国清寺で長老広修(こうしゅ)とその高足維袷(いこう)から回答を得、従僧仁好に携帯帰国させたもの。
何故か?
実は円載は金に困っていたらしい。
兄弟子円仁から分与されたのはとうに蕩尽、円仁宛学資金(文字通り奥州産出の砂金だ)までも無断で借用、これは身を持ち崩した不良留学生の常の姿だ。
朝廷はしかし両人に砂金200両を贈っている。
そこに会昌の法難が降りかかる。
円仁にとっては塗炭の苦しみの仏教弾圧だったが、円載にとってはどうだったか?
いわれるままに円載は還俗して妻帯し児をもうけ、農地も購入し養蚕もして俗人生活に入った。
しかし、破仏俳仏もやがて収まる、846年武宗が死に、会昌が大中となるや社会は旧に復していく。
円載も再び僧衣を纏い天台山に住するようになったが、どうやら聖俗二重生活をしていたようで手元はいつも不如意、円載は再度朝廷に学資の無心をしている(今度の送金100両)。
そこに円珍が留学してくる。
不良ながら語学に長じ中国社会の表裏に通じた円載と頑迷固陋、狷介孤高な円珍、それでも水と油の二人は長安に同行して法全から金・胎・蘇の三部大法を受けている。
「天台(山)で相見えし日より長安に至るまで、総て無量のことあるも具さには記す能はず」(『行歴抄』)という割には円珍は、受法中に抜け出して食事の招待に与りその後円珍のノート筆写で間に合わす円載をしっかりと記録している。
862年真如(しんにょ)親王が入唐、864年に長安に到着する。
円載はまめまめしくお世話申し上げる。
親王はすでに66歳。
しかし親王は、長安そして中国の仏教に飽きたらず滞在半年にも満たずして、天竺を目指して唐を去っていった。
在唐40年、70の声を聞くと円載、望郷の念抑えがたく、帰国の途につく。
唐の商人李延孝の船で帰るつもりだ。
円載、思えば紆余曲折の留学40年だったが、不良非行の老比丘で終わりたくなかったのだろう。
唐朝廷は紫衣を送り、晩唐の高名な詩人皮日休の「円載上人帰日本国」の「重送」(『全唐詩』巻614)もある。

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雲濤万里最東頭
射馬台深玉署秋
無限属城為裸国
幾多分界是柩洲
取経海底開竜蔵
誦咒空中散蜃楼
不奈此時貧且病
乗桴直欲伴師遊
雲濤万里、東の東
ヤマトの秋は深かろう
中華の外はみな野蛮国
(徐福の裔たる)柩洲(おくに)は一体どこにある?
海の底、竜蔵開いて経を取り
空の中、蜃気楼散らし咒を誦す
貧と病では、仕方がない
ご一緒したいは、やまやまなれど
社交辞令の文飾を割り引いても、晩年の円載は円珍が罵るほどの悪僧ではなかったかもしれない。
877年、大暴風雨に巻き込まれて李ともども溺死。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
479-480ページ 『仏教の事典』
編集者: 末木文美士 下田正弘 堀内伸二
2014年6月25日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 朝倉書店
あらっ。。。 ずいぶん昔のお坊さんではござ~ませんかァ!
でも、可哀想だとは思いませんかァ~?
確かに、海に投げ出されて溺れそうになりながら、“どうしてこうなるのォ~?”と荒れ狂う暴風雨の中で天に向かって叫んだでしょうね!?
そうですよ。。。 僕がこの円載の立場だったら、死ぬに死に切れないですよ。
デンマンさんなら、何が何でも日本に泳いで帰るのですか?
そうです。。。 40年も中国で仏教を勉強して、やっと日本に帰れることになったというのに、暴風雨に巻き込まれて溺れ死ななければならない! “神も仏もいないのかア! どうして俺を助けてくれないのだア! 今まで神と仏を信じながら40年も異郷の地で頑張って来たというのに! この仕打ちはどういうわけなんだア!”。。。 と円載は嘆きながら死んだと思うのですよ。
デンマンさんにも経験があるのですか?
そうです。。。 僕ならば帰れそうですよ。
まさかァ~。。。!?
あのねぇ~、僕も溺れ死にそうになったことがあるのですよゥ。。。 でも、神様が助けてくれたのです。。。 その事は次の記事で書きました。
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デンマンさんが助かったのは偶然だったのですわァ~。
だから、その偶然は、僕が日頃から行いが正しいので神様が僕を見捨てずに、“偶然”を引き起こしてくれたわけですよ。
それは、デンマンさんが そう思い込もうとしているだけでござ~ますわァ。
卑弥子さんが 何がなんでも偶然で片付けたい気持ちは解ります。。。 でも、ここで円載が生きていた西暦800年代の海外旅行のことを考えてみてください。
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こんにちは。。。
デンマンです。
ところで写真の上で小さなアイコンが笑っているように見えますが、
これは、涙を流しているのですよ。
悲しんでいるのですよ。
念のため。。。
写真の中の大きな人物が藤原鎌足です。
この人の名前は歴史を知らないあなたでも聞いたことがあるかもしれません。
日本史では、誰もが無視できない藤原氏の祖先です。
その下の左に座っている小さな人物が鎌足の次男の藤原不比等です。
この人こそ藤原氏の基礎をしっかりと築いた人です。
しかしあまり知られていないのが、右側に座っているお坊さんの定慧(じょうえ)です。
この定慧(じょうえ)は鎌足の長男です。
藤原不比等の名前を知っていても定慧(じょうえ)の名前を知っている人は少ない。
あなたはまず、聞いたことが無いと思います。
実は、この人ほど古代日本で悲劇の人物は居ないと僕は思っています。
古代日本どころか、現在に至るまでの長い日本の歴史で、この人ぐらい悲劇の主人公にふさわしい人も居ないと思うのです。
でも、日本史では知られていません。
なぜ?
ところで、どのような悲劇なの?
それを、これから僕がお話しようと言うわけです。
どうか、最後まで読んでくださいね。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
なんと!わずか11歳の時の事でした。
彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、藤原(中臣)鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。
この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。
つまり、定慧は一人息子だったわけです。
どうして鎌足はこの一人息子を、
しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、
危険な船旅へ出したのでしょう。
ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。
遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。
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ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。
しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、パリへ出張してください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、ハイジャックされることを理由に僕が断ることは、まずありません。
しかし、もし、この当時僕が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。
なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。
要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。
表が出たら、めでたく命拾いをする。
裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。
実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。
念の入った映画では、水杯(みずさかずき)を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。
僕は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。
しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。
しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。
しかも、僕は馬鹿だから、女の子を3人乗せて宙返りをするという馬鹿げた事をしてしまったことがあります。
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絶対にしてはならないことです!
反省しています。
この記事を読んでいる女の子の中できっと、ああぁ~、あの人がデンマンさんなのかぁ~!
と呆れる人が出て来ると思います。
馬鹿は死ななきゃ治らない!
僕もそういう馬鹿だったんですよ。
でも、死ぬ前に馬鹿を止めました!
うへへへへ。。。
とにかく、このことを当時の船旅に置き換えてみれば、僕は500回命を落としていることになります。
仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。
今、僕が生きていることが不思議なほどですよ。
当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。
もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。
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それほど危険な船旅に、
なぜ定慧を出したのか?
ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。
もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?
一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。
長いのになると、30年帰ってこれない。
もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。
結局、唐で亡くなってしまったわけです。
これはもう、ひどい話です。
『藤原鎌足の長男』より
(2011年9月4日)
円載さんが生きていた頃のお坊さんというのは結婚できなかったのでしょう!?
確かに、妻帯することは固く禁じられていた。。。 でもねぇ~、円載さんの場合には事情があるのですよ。。。 “会昌の法難”という仏教弾圧があって、多くの坊さんが還俗させられた。。。 それで、円載さんは坊さんを辞めて妻を娶(めと)って子供を作り、農地も購入して蚕も飼って俗人生活を始めたわけです。
だから、罰(バチ)が当たって日本へ帰るときに暴風雨に遭(あ)って溺死してしまったのですわ。
要するに、僕は品行方正で清く正しい生活をしていたので、玉淀で溺れそうになったけれど、仏様も神様も僕を助けてくれたと卑弥子さんも認めてくれるわけですねぇ~?
いいえ。。。 デンマンさんが溺れそうになって助かったのは、単なる偶然ですわ。。。 死んだ方がいいと思っていた人の方が多かったと思いますわァ~。。。
卑弥子さんは血も涙も無いことを言うのですねぇ~。。。
。。。で、一体デンマンさんは何が言いたいのですか?
あのねぇ~、円載さんも可哀想だけれど、実は、もっと可哀想な人が居たのですよ。
それは いったいどなたですか?
上の本の中にも出てくる真如(しんにょ)親王ですよ。

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862年真如(しんにょ)親王が入唐、864年に長安に到着する。
円載はまめまめしくお世話申し上げる。
親王はすでに66歳。
しかし親王は、長安そして中国の仏教に飽きたらず滞在半年にも満たずして、天竺を目指して唐を去っていった。
あらっ。。。 66歳の高齢で天竺(インド)を目指してテクテクと歩いていったのでござ~ますか?
いや。。。 インドまで歩いてゆくのは大変なので現在の香港の近くまで歩いて、そこから船に乗ってインドを目指したのですよ。
。。。で、この真如親王というのは、どういうお方なのでござ~ますか?
真如というのは法名で、俗世界では高岳(たかおか)親王という名前で通っていた人ですよ。 次のような人物です。
(真如親王から転送)
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(延暦18年(799年) – 貞観7年(865年)?)
平安時代初期の皇族・僧侶。 法名は真如。
平城天皇の第三皇子。
異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。品位は四品。
大同4年(809年)に父・平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられるが、翌大同5年(810年)の薬子の変に伴い皇太子を廃される。
弘仁13年(822年)、四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った。
奈良の宗叡・修円、また空海(弘法大師)の弟子として修行した。
弘法大師の十大弟子の1人となり、高野山に親王院を開いた。
阿闍梨の位をうけ、また『胎蔵次第』を著した。
承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会っている。
斉衡2年(855年)、地震により東大寺大仏の仏頭が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。
老年になり入唐求法を志して朝廷に願い出、貞観3年(861年)に親王の一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862年)に大宰府を出帆して明州(現在の寧波)に到着する。
貞観6年(864年)、長安に到着。
在唐40年になる留学僧円載の手配により西明寺に迎えられる。
しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。
このため天竺行きを決意。
貞観7年(865年)、皇帝の勅許を得て従者3人とともに広州より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶った。
16年後の元慶5年(881年)、在唐の留学僧・中瓘らの報告で親王は羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられている。
虎の害に遭ったという説もある。
現在、マレーシアのジョホール・バルの日本人墓地には、親王院が日本から御影石を運んだ親王の供養塔が建立されている。
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ジョホール・バルの日本人墓地
出典: 「高岳親王」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇太子になって、ゆくゆくは天皇になるという身分なのに、どうしてお坊さんなどになってしまわれたのでござ~ますか?
あのねぇ~、言わば“平安のクレオパトラ”と呼ぶにふさわしい藤原薬子さんが陰謀をめぐらせたのですよ。。。 でも、結局失敗して薬子さんは毒を飲んで死んでしまったという事件に高岳親王は巻き込まれてしまったのです。。。 巻き込まれたと言うよりも、とばっちりを受けたのですよ。 高岳親王自身は何も悪いことをしていない。
あらっ。。。 その薬子さんの事件というのはどのような陰謀だったのでござ~ますか?
次のような事件だったのです。
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薬子の変は、平安時代初期に起こった事件。
延暦25年(806年)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。
これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて、嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。
だが、翌大同2年(807年)には早くも天皇の異母弟・伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。
大同4年(809年)4月、平城天皇は発病するが、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意する。
天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に神野親王が即位する(嵯峨天皇)。
皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。
大同4年12月(810年1月または2月)、平城上皇は旧都である平城京へ移る。
平城上皇が天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。
平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。
しかも、薬子が任じられていた尚侍の職は、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給を掌っており、当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった(例:孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)ことから、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。
嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、同年6月には観察使を廃止して参議を復活した。
このことは平城上皇を刺激した。
二所朝廷の対立が深まる中で、同年9月6日に平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。
このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であったが、ひとまず詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。
嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。
9月10日、嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。
その上で、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。
嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。
嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。
中納言・藤原葛野麻呂ら平城上皇方の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。
平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。
田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友だった綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。
この日の夜に仲成は射殺された。
これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。
平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。
9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。
事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。
高岳親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟・大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。
なお、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の際に、既に退位していた嵯峨上皇の要望によって、淳和天皇の名で関係者の赦免が行われている。
なお、僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本仏教界一の実力者になる契機となった。
出典: 「薬子の変」
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高岳親王という人はマジでついてない人なのですよ。。。 本人は立派な人なのだけれど、周りの人に悪い人がいっぱいいて、その陰謀のとばっちりを受けて、皇太子を廃されてしまった。
。。。で、世を儚(はかな)んで仏教に救いを求めたわけでござ~ますわねぇ~。。。
高岳親王の足跡を追ってゆくと、そうとしか考えられない。。。 とにかく、66歳にもかかわらず本当の仏教を求めてインドまで行こうというのだから、たいしたものですよ。。。 現在だって、66歳で仏教に救いを求めてインドまで行く人はまずいませんよ。
。。。で、現在のシンガポールの近くでトラに食われて亡くなってしまったのでござ~ますかァ~?
そうだと思いますよ。
なぜ、そうだと思うのですか?
あのねぇ~、僕は真如親王という人は聖徳太子のような悟りを得た人だと思うのですよ。
何で、聖徳太子が出てくるのですか?
あの有名な聖徳太子の捨身飼虎(しゃしんしこ)というエピソードを卑弥子さんは聞いたことがありますか?
もちろん、存じ上げておりますわァ~。。。 お釈迦様が前世である国の王子だった時、修行中に虎の親子が飢えに苦しんでいるのを見かねて、自ら虎の餌となって命を捨てるお話でしょう!?
あれっ。。。 卑弥子さんは結構 仏教に詳しいのですねぇ~。。。
うふふふふふ。。。 こう見えても京都の女子大学で橘卑弥子・准教授として腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しておりますので、仏教のことも基礎知識として学ばせてもらいましたわ。
だったら、話は早いですよ。。。 聖徳太子も この話には感銘を受けたのです。。。 だから、法隆寺にある国宝の玉虫厨子にも このエピソードが描かれている。
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つまり。。。、つまり。。。、シンガポールの近くでお腹を空かせたトラに出くわしたので、真如親王は自らトラのエサとなって命を捨てた、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?
僕は、そうとしか考えられないのですよ。。。。 南無阿弥陀仏。。。 南無阿弥陀仏。。。 アーメン。。。 ラーメン。。。
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ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますかァ~?
とにかく、66歳になっても夢と希望を失わずにインドまで行くという意欲に脱帽ですわよねぇ~。
あなたも、夢と希望を持ち続けておりますか?
66歳の真如親王を見習って、あなたも夢と希望をいつまでも持ち続けてくださいね。
でも、トラにだけは喰われないように。。。
うふふふふふふ。。。
ところで、円載さんと真如親王のお話も、大変興味深いですけれど、
古代には いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。
あなたのために平安史、古代史の記事を用意しましたわァ。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。
同腹の兄弟ではなかった。
どうして残っていないの?
日本人でないの?
藤原氏のバイブルとは?
とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
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