菊ちゃん、知恵伊豆、忠秋


 

2015年1月19日 (月曜日)

 

菊ちゃん、知恵伊豆、忠秋

 


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松平信綱


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デンマンさん。。。 今日も菊ちゃんと歴史上の人物の話ですか?


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小百合さんは つまらなそうですねぇ~?

いいえ。。。 別につまらないというわけではありませんわ。。。 ただ、この記事を読んでいるネット市民の皆様がつまらないと思います。

あのねぇ~、つまらないと思ったら、ここまで読んできませんよ。。。 上の写真を見て、なんとなく興味を持った人が小百合さんと僕の話を聞こうとしているのですよ。。。それに、これまでに菊ちゃんの話を読んだ人は、更に面白いエピソードが読めるのではないか? そう思って、ワクワクしながら読み始めたのですよ。


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『毘沙門堂と菊ちゃん』

『菊ちゃんと阿部忠秋』

。。。で、今日は“知恵伊豆”と呼ばれた松平信綱が登場するのですわね。

あれっ。。。 小百合さんは松平信綱が“知恵伊豆”と呼ばれているのを知っているのですね。

その程度のことは歴史を勉強したら誰でも知っていますわよ。

そんな事はありませんよ。 この記事のタイトルを見て、つまらないと思って他のサイトへ飛んでしまった人は、知らないはずです。

つまり、ここまで この記事を読んできた人は松平信綱が“知恵伊豆”と呼ばれているのを知っているのですわね。

もちろんですよ。。。 じゃなかったら、とっくに他のサイトへ飛んでます。 (微笑)

菊ちゃんのことをこれまでに記事で読んだ人は“忠秋”が阿部忠秋だということを知っていると思うのですけれど、松平信綱がどうして菊ちゃんと関係あるのか? 不思議に思っているはずですわァ~。。。

あのねぇ~、実は、阿部忠秋は 松平信綱が忍藩から川越藩に移った後で第4代の忍藩主になった人なのですよ。


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忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。
上杉氏と後北条氏の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。
そして、成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。

天正18年(1590年)の小田原征伐の際には石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。

後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れた。
しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠が1万石で入る。

家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。
文禄元年(1592年)に家忠は下総国上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。
吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張尾張藩52万石に加増移封された。
その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた。

寛永10年(1633年)、『知恵伊豆』で有名な松平信綱(久綱の子)が3万石で入る。
信綱は老中に昇進して島原の乱鎮圧では総大将として幕府軍を率いて乱を鎮圧し、寛永16年(1639年)にはその武功により武蔵川越藩6万石に加増移封された。

代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋が5万石で入る。
信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。
忠秋は正保4年(1647年)に1万石、寛文3年(1663年)に2万石を加増され、合計8万石を領する大名となった。


出典: 「忍藩」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こういう経緯(いきさつ)で忠秋さんが第4代の忍藩主になったわけです。

。。。で、菊ちゃんと“知恵伊豆”との関係は。。。?

その話をするには、まず信綱さんが忍藩から川越藩へ移るきっかけとなった“島原の乱”に注目する必要があるのですよ。


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島原の乱と松平信綱


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寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。
信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。
しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。

当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。
だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。
石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。


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1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。
1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。
この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。
信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行ない曝し首とした。
このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。
3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して曝した。
また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。

幕藩体制の完成

戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で(忍藩から)川越藩に移封された。
信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。

島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。
またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。

寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。
寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。
慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。
この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。


出典: 「松平信綱」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あのねぇ~、上のYouTubeのクリップを見れば解るけれど、“島原の乱”は決して九州の片隅で起こった ちっぽけな乱ではないのですよ。 まかり間違えば、オランダ、スペインまで巻き込んだ大戦争になるかもしれなかった。 幕府軍が負ければ、日本はキリスト教国になっていたかもしれないのですよ。

そうならなかったのは松平信綱さんの功績なのですか?

僕は、そう思いますね。。。 だからこそ、歴史上“知恵伊豆”として“あの男の頭の良さは人間を越えている”と言われるように、日本を救ったとして有名になったのですよ。

。。。で、菊ちゃんと知恵伊豆さんの関係は。。。?

あのねぇ~、その話をする前に、どうしても信綱さんと忠秋さんの性格の違いを話さないといけないのです。

デンマンさんの話は いつも回りくどくて、それで記事が長くなってしまうのですわ。 細木数子さんのように ズバリ!ズバリ!と話すことはできないのですか?

あのねぇ~、細木数子のように ズバリ!ズバリ!と話を進めると誤解を与えてしまうのですよ。。。 だから、苦情がテレビ局に殺到して 細木さんはテレビ局のお偉方に睨まれ、番組から降ろされてしまったのです。 そう言うわけで、僕は誤解を与えないように、誰もが良く理解できるように話さなければならないと思っているのですよ。

解りましたわ。。。 では、なるべく手短にお願いします。

信綱さんは“知恵伊豆”と呼ばれるように、確かに頭の回転が速くて、“島原の乱”では日本を危機から救った。 でもねぇ~、政治と言うのは頭だけでやっては失敗することもある。 そういう意味で忠秋さんが老中となって江戸幕府の閣僚に加わったことは日本のために良いことでした。

。。。で、忠秋さんは、信綱さんと比べると、どういう人だったのですか?

信綱さんは、頭が鋭く、口も達者で、動きもきびきびして、処世術もかなりうまかった。 それに対して、忠秋さんは“石仏の忠秋さま”と言われるくらい、ほとんど口も利かない、動きもゆっくりしていた。 それに処世術にかけては全くだめだったらしい。 二人の性格を表すのにぴったりな こんなエピソードがあるのですよ。

家光は猟が好きだった。
よく鳥や獣を捕まえた。
そして、獲物をみんなで食べるのが楽しみだった。

ある日、江戸城の近くの鎌倉河岸の堀にカモがたくさん群れていた。
これを見た家光は家臣たちに「カモを捕まえろ」と言った。

平川門からお堀の方向、ここは昔は海でした。
ここから日本橋川に沿って神田橋まで歩けた。

今は首都高速に塞がれて目立ちませんが、江戸時代には海運の重要な河川でした。
鎌倉河岸の地名に名残が残っています。


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ところが、銃がないので、家来がまごまごしていると、家光は「石で打て!」と言った。
しかし、道はよく清掃されていて石もない。
困った家臣たちは、そばにいた忠秋と信綱を見た。

忠秋はぶすっとしたまま知らん顔をしていた。
信綱は突然、道路わきの一軒の魚屋を指差し、「あの店先にハマグリがある。あれを石の代わりにしろ」と叫んだ。

家臣たちは走り出し、魚屋から手に手にハマグリを掴んで堀に投げ始めた。
魚屋の主人は呆気に取られて、見守っていた。
カモがたくさん捕れ、家光も家臣もワイワイ言いながら行ってしまった。
忠秋だけが残った。

信綱が振り返って聞いた。
「阿部殿、どうされた?」
「いや。。。 なんでもありません。 どうぞお先に。。。」

全員が立ち去ると、忠秋は魚屋に入った。
そして、店主に向かって言った。
「すまなかったな、ハマグリの代金を払う。 いくらだ?」

店主は驚いて、忠秋をみつめた。
「とんでもない! 将軍様のお役に立っただけで光栄でございます!代金は要りません」
「そうはいかない。 お前たちの商売ものを石の代わりにしたのだ。 払わせてくれ」
そして、きちんと金を払った。
このことは城に戻っても、一切誰にも言わなかった。

城に戻ると、カモ汁で大宴会だった。


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酔った家光が小姓の一人に、「お前、櫓から飛んでみろ」と言った。
小姓は真っ青になった。
高い櫓から飛び降りれば死んでしまう。
助けを求めるように辺りを見回した。

ところが、みんな目を合わせるのを避けた。
「早く飛び降りろ!」家光はいら立つ。

この時 忠秋がふいと立ち上がった。
そして、廊下に出ると納戸から傘を一本出してきて 小姓に突き出した。
「おい、これをさして飛び降りろ」


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座はどっと笑い出し、家光も苦笑した。
そして「もうよい」と手を振った。

忠秋のとっさの機転は 家光にとっては痛烈な戒めだった。
忠秋は庶民の食べるハマグリを石の代わりに使って、その代金も払わずにさっさと帰ってしまう驕り高ぶった家光の神経に、無言で一撃を加えたのだった。

更に、臣下の命を座興の一つにするなどとは、とんでもないことだ、と忠秋は腹の中で思っていた。
家光の気持ちを荒立てないようにしながら 諭(さと)したのだった。

どうですか、小百合さん。。。?

なるほどォ~。。。 知恵伊豆の信綱さんは徳川家のため、将軍家光のためでなかれば、できるだけ関わらずに知らん顔をしているのですわね。

上のエピソードを読む限り、誰もが そういう印象を受けると思うのですよ。

それで、知恵伊豆の信綱さんと菊ちゃんの関係は。。。?

だから、菊ちゃんの“ひいおばあちゃん”の、そのまた“ひいおばあちゃん”にあたる、忠秋さんに拾われて育ち、女中をしていた“お菊さん”のことですよ。

そう言えば、そのお菊さんが忠秋さんの部屋の行灯(あんどん)に火をともしに行った時に、大嫌いなネズミが目の前を横切ったので、ろうそくの火を落としてしまったのですわねぇ~。


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そうなのですよ。。。 その火が あの“振袖火事”と呼ばれた“明暦の大火”の火元になったのです。

それで、忠秋さんは、どのように対処したのですか?

当時、忠秋さんは老中。。。、松平信綱さんは老中首座だった。。。 今で言えば、さしずめ江戸政府の首相と副首相のような立場にあった。

忠秋さんも、ホトホト困ってしまったでしょうね。

そうです。。。 二人の間には次のような会話が交わされたのですよ。


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拙者が全責任を負って腹を切り、土地・家屋、所領は幕府に返上いたします。 なにとぞ他の者には罪が及ばないようにしていただきたい。 この件については、左様に御承知していただけると、幸いに存じます。


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いや。。。それはならぬ。

。。。とおっしゃいますと、拙者の家族と縁者、すべての者が処罰されるということでございますか?

いや。。。幕府の老中の屋敷が火元とあっては、阿部殿の家族全員が死罪になったとて済む問題ではござらぬ。

。。。とおっしゃいますと。。。?

阿部殿も御承知のとおり、火事の火元に対しては幕府は厳罰主義で臨んでおります。 それゆえ幕府の老中が火元とあっては、幕府の権威は失墜してしまいます。 先年の“島原の乱”で、幕府の権威はいささか揺るいでしまいました。 今度の江戸の大火事の火元が老中の屋敷とあっては、更に反乱を誘うようなものでござる。

では、一体どうすればよろしいのでしょうか?

拙者に名案があります。。。 確か、阿部殿の屋敷の隣は本妙寺でしたな。。。

左様で。。。

それでは火元は本妙寺といたそう。

しかし、本妙寺の住職が承知いたしますまい。

ご案じなさるな。。。 幕府の方からもいろいろと手を尽くして説得に当たろう。。。 ついては、阿部殿からも、毎年供養料として相当額の寄付をしていただきたい。

金銭で済むものでしたら、住職の納得する額を毎年供養料として差し出す所存です。。。 しかし、どのような原因で火が出たとするのでございますか?

それについても名案があります。 次のような話を拙者の家臣に命じて江戸中に広めるつもりでござる。

江戸の町の一人の少女(17歳)が、偶然見かけた美少年に一目惚れ。
寝ても覚めてもその美少年のことが忘れられず、彼が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせた。
その振袖を抱いては、彼のことを思う日々でしたが、恋の病からか、はかなく死んでしまった。

両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやった。
棺が持ち込まれた寺で働く男たちが その振袖をもらい受けた。

振袖は男たちによって売られ、別の17歳の娘の物になった。


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ところがこの娘も、しばらくの後に亡くなり、振袖はまた棺にかけられて寺に持ち込まれた。
寺の男たちもびっくりしました。
しかし、そんなこともあるだろうと、またそれを売り、振袖はこれまた17歳の娘の手に渡った。


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ところが、この娘もほどなく死んでしまい、振袖は またまた棺に掛けられて寺に運び込まれた。

ここに至って さすがに寺の男たちも気味悪がり、住職に相談。
死んだ娘たちの親も呼ばれて、この振袖を寺で供養することになった。
住職が読経しながら火中に振袖を投じる。

ところが、折しも強い風が吹き、振袖は火がついたまま空に舞い上がり、本堂の屋根に落ちた。
火は屋根に燃え移り、消し止める間もなく次々と延焼、翌日には、江戸城本丸天守閣まで類焼した。


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どうですかな、阿部殿。。。 庶民が飛びつくような話だとは思わぬか?

確かに。。。 さすがに“知恵伊豆”と呼ばれるだけあって、松平殿は戯作にも通じておるのですな。 (笑)

とにかく、これ以上幕府の権威を落としたくないのじゃ。。。 そう言う訳で、この一件は拙者に任してくだされ。

“知恵伊豆”の信綱さんは、何が何でも幕府の権威にこだわった。 それに対して忠秋さんは“お菊さん”を死罪にするには忍びなかったので、自分が腹を切って身代わりになろうとした。

そういうことですよ。。。 二人の性格が良く表れているとは思いませんか?

でも。。。、でも。。。、これは史実なのですか?

もし、上のエピソードが史実でなかったら、菊ちゃんは存在しなかったということですよ。 菊ちゃんが存在したということが、何よりの証拠じゃありませんか!


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、このデンマンさんのお話を信じることができますかァ~?

“信じる者は救われる”と申しますが、あなたは、どう思いますか?

実は、デンマンさんが“お菊さん”の子孫である菊ちゃんにエロい事をしようとしたのですわよゥ。
どこかに、その記事があるだろうと思って探してみたら、見つかったのでござ~♪~ますう。
うふふふふふふ。。。

あなたも、もし関心があったら読んでみてくださいまし。


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『菊ちゃんと八ツ橋』

ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

軽井沢のイルミネーション

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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