日本の真ん中の町


 

2009年5月13日 (水曜日)

 

日本の真ん中の町

 


(tanuma01.jpg)

無人駅かな?と思わせる田沼駅


(tanumap2.png)

田沼駅と唐沢山の間を流れる秋山川の周辺地図


(tanuma03.jpg)

唐沢山から田沼駅方面を見下ろす

下野(しもつけ)・佐野

 


(seisho05.gif)

 

下毛野(しもつけの)

みかもの山の

小楢(こなら)如(の)す

目細(まぐは)し児(こ)ろは

誰(た)が笥(け)か持たむ

 

by 詠み人知らず

万葉集 巻第十四 3424

【現代語訳】 下野(しもつけ)のみかも山に生える小楢のように美しいあの娘は、誰の家の食器を持つ妻になるのだろう。

【解説】 「みかもの山」は栃木県佐野市街の東にある山です。


下毛野(しもつけの)

安蘇(あそ)の河原よ

石踏まず

空ゆと来(き)ぬよ

汝(な)が心告(の)れ

 

by 詠み人知らず

万葉集 巻第十四 3425

【現代語訳】 安蘇の河原を、石を踏まず空を飛ぶようにしてやって来たんだ。さあ、きみの本心を聞かせてくれ。

【解説】 「安蘇」は、栃木県安蘇郡と佐野市あたり。


(himiko22b.gif)

今日は、日本の真ん中の町はどこか?というお話でござ~♪~ますか?


(kato3.gif)

そうですよう。面白そうでしょう?

。。。つうことわあああぁ~、もしかして栃木県の佐野市が日本の真ん中の町なのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。

。。。んで、上の2つの和歌が、その事と関係あるのでござ~♪~ますか?

いや。。。直接関係無いのですよう。でもねぇ、もし小百合さんが小包の中に入れた白羊羹(ようかん)の包み紙の裏に上の2つの和歌が書いてなかったら、おそらく僕はこの記事を書くようなことは無かったと思うのですよう。

どうしてですか?

この白羊羹のことからインスピレーションをもらって僕は次の2つの記事を書いたのですよう。

『佐野の白羊羹 (2009年5月1日)』

『ふるさとのロマン (2009年5月7日)』

つまり、今日の記事は上の2つの記事の続きでござ~♪~ますか?

そうですよう。白羊羹が小包の中に入ってなかったら、おそらく僕は旧・田沼町が日本の真ん中にある町だと言うことを思い出さなかったと思います。

。。。んで、そもそも、どうして旧・田沼町が日本の真ん中にある町だと知ったのでござ~♪~ますか?


(yamagoy3.jpg)

去年(2008年)の11月23日に僕は小百合さんの“山の家”に行くために行田市の実家を午前10時半頃でたのですよう。秩父鉄道の東行田駅から電車に乗って、羽生駅で東部線に乗り換えて館林まで行きました。

小百合さんのご実家かがある町でござ~♪~ますわね?


(sanomap2.gif)

そうですよう。。。で、館林駅で東部佐野線に乗り換えて田沼駅へ行ったのです。着いたのはお昼頃でした。小春日和ののどかな日で、いかにも日本の田舎に居るというような、のんびりとした気分になりました。

小百合さんの“山の家”にすぐに行かなかったのですか?

あのねぇ~、まず駅前から電話したのですよう。


(tanuma01.jpg)

ローカル色豊かな田沼駅

この駅が、いかにも“のどか”だと言う感じでしょう?!

無人駅でござ~♪~すか?

写真で見ると無人駅のように見えるけれど、東武佐野線を走っている特急電車が止まるのですよう。

。。。んで、小百合さんは何と言ったのでござ~♪~ますか?

露天風呂の釜の具合が悪くて、うまく火が付かないので、修理していると言うのですよう。


(noten16.jpg)

小百合さんが自分で故障を直していたのですか?

そうなのですよう。とにかく、木工だとか電気修理など、小百合さんは、すべて自分でするのですよ。橋まで作ってしまうのだから。。。

マジで。。。?

僕も信じられなかったのだけれど、山の家には小百合さんが自分で作ったものがたくさんあるのですよう。猟銃の免許も持っているほどですからね。。。自給自足の生活も、やればできそうですよう。熊が出たこともあったそうです。

マジで。。。?それで、デンマンさんはどうなさったのですか?

せっかく来たのに露天風呂に入れないのではつまらないので修理を続けてもらって、僕は駅前からバスで途中まで行くことにしたのですよう。

。。。んで、そこへ小百合さんが軽トラックで迎えに行くことになったのですか?

そうです。でも、バスが出るまで2時間も待たねばならなかった。

それで、唐沢山へ行こうとしたのですか?

そうですよう。駅から出て5分も歩くと、小さな町なのに、りっぱな近代的な美術館のようなものが建っていた。

何だったのでござ~♪~ますか?


(tanuma04.jpg)

たぬま ふるさと館

郷土の産物などを紹介する博物館・展示館のようなものですよう。そこで地図をもらって駅から東の方向にある山を目指して歩いて行ったのですよう。

唐沢山って険しい山なのでござ~♪~ますか?

地図の裏の説明を読むと「難攻不落の名城として関東七名城の随一」と書いてあるから、険しそうな山かと思うかもしれないけれど、標高241m 比高200mなのですよう。秋山川の岸辺から見る唐沢山は、山と言うよりも丘と言った感じでしたよう。

険しくないのでござ~♪~ますか?

いや。。。険しいようには見えなかった。登ろうかとも思ったけれど、2時のバスを逃したら4時まで待たねばならないので諦めました。秋山川の川岸を散策して唐沢山を見ながら、バスの時間に間に合うように田沼駅前に戻ったのですよう。

「日本の真ん中の町」というのは、駅前の案内板か何かに書いてあったのでござ~♪~ますか?

いや。。。駅前には何も書いてありませんでした。駅から20メートルど離れたバス停のそばに記念碑みたいなものがあって、それに“田沼町は日本の真ん中の町です”と書いてあったのですよう。

マジで日本の真ん中にある町なのでござ~♪~ますか?

読んでみると、「日本列島の北端と南端、それに日本海側と太平洋側の各地点から等距離に位置する」と言う理由で日本の真ん中にある町と宣言しているのですよう。

その記念碑があるところが実際の「日本の真ん中」なのでござ~♪~ますか?

いや。。。実際の場所は山の中だそうですよう。でもねぇ、日本の真ん中にある事を活用して町おこしをしようと『道の駅どまんなかたぬま』を立ち上げたそうです。

道の駅どまんなかたぬま


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道の駅どまんなかたぬまは栃木県佐野市の主要地方道佐野田沼線上にある道の駅。
「どまんなかたぬま」という名称は、旧・田沼町が宗谷岬と佐多岬から同じ距離に位置し、日本列島の中心を名乗っていたことに由来する。

09009 どまんなかたぬま

道路名: 主要地方道佐野田沼線

登録: 第17回・2001年8月21日

開駅: 2001年11月1日

営業時間: 9:30~18:30
(4~10月:9:20~19:00)

所在地: 〒321-0313
栃木県佐野市吉水町366-2
電話番号 0283-61-0077

道路: 栃木県道16号佐野田沼線

施設:

駐車場(普通車360台、大型車22台、身体障害者用6台)
トイレ(男小8大3、女10、身体障害者用1(オストメイト対応))
公衆電話
ふれあい交流館(9:30~19:00)
物産販売コーナー
軽食コーナー「ぱなパナ」
ジェラート倶楽部
CHINESE DINING「花と華」(11:30~22:00)
会議室・どまんなかホール(9:00~22:00)
農産物直売所「朝採り館」(8:00~18:00)

駅周辺:

東武鉄道佐野線 吉水駅
田沼吉水駅前郵便局


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
でも、本当に日本のど真ん中なのでござましょうか?

何を基準に決めるかによって変わってきますよう。試しに他にもないかと思ってGOOGLEで検索してみましたよう。

“日本の真ん中の町は”と入れて

GOOGLEで検索した結果


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「日本の真ん中の町は」 の検索結果

約 3,170,000 件中 1 – 10 件目

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http://www.blogrepo.net/sb/1648/news_92502.html – 26k

 (2009年5月10日午前8時現在)

『“日本の真ん中の町は”と入れてGOOGLEで検索した結果』より

驚きましたねぇ~。その基準の取り方によって「日本の真ん中」ってたくさんあるんですよう。最も奇妙なのが青森県で発見された「日本中央」という碑です。

青森県でござ~♪~ますか?でも、青森は本州のはずれでござ~♪~ますわ。

ところが、この石碑が現在保存館に大切に保存されているのですよう。

日本中央の碑保存館


(chuou12.jpg)

昭和24(1949)年に発見された、謎の日本中央の碑が保存されている。
高さ1.8m、幅80cmの巨石の中央に「日本中央」の文字が刻まれている。

住所 青森県上北郡東北町家の下39-5
TEL 0175-64-7979

アクセス JR東北本線野辺地駅からタクシーで20分
営業時間 9:00~16:00 休業日 火曜
料金 入館料=無料
駐車場 あり

その「日本中央の碑」って、一体どういうものなのでござ~♪~ますか?

ウィキペディアには、次のように書いてありますよう。

日本中央の碑
 
日本中央の碑(いしぶみ)とは、青森県東北町にある石碑のことである。

1949年6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳(ちびき)在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。

発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
これは、比叡山で修学した僧・顕昭(けんしょう)が鎌倉時代の初期に書いた歌学書・『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。
一方、日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。
津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。
また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。
この場合、よみは『ひのもと』となる。

現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。

つぼのいしぶみ (壷の碑)

「つぼのいしぶみ」とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。

袖中抄の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。

つぼの碑のことは多くの歌人が和歌に詠った。
藤原清輔,寂蓮法師,西行法師,慈円,源頼朝,藤原仲実,和泉式部,南部重信,高山彦九郎,岩倉具視,大町桂月らがこの碑のことを詠っている。
内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。
数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。

多賀城碑壺碑説

江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。
この碑は発見当初から壺の碑であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)多くの拓本もとられた。
松尾芭蕉はこの碑を「壺の碑」とし、奥の細道の旅中にここを訪れている。


(basho07.jpg)

「多賀城碑」の傍らに建つ芭蕉句碑

一方、菅江真澄らは文面や距離的な問題から壺の碑ではないと主張し、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。
田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、袖中抄にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述と一致しない。
多賀城碑が壺の碑と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。
多賀城碑が壺の碑となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。

南部壺碑説

青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
このため、明治天皇が東北地方を巡幸する際に(1876年)、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。
神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。

1949年6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。
この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。
しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。
実際に綿麻呂が書いたとすれば811年頃の出来事になる。

日本中央の碑発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

“歴史馬鹿”のデンマンさんは、「日本中央の碑」をどう思いますか?

馬鹿だけ余計だけれど、僕はねぇ~、この碑は臭いと思っているのですよう。

石碑がオナラでもしたのでござ~♪~ますか?おほほほほ。。。

あのねぇ~、四、五丈(12~15メートル)の石に刻んだと書いてあるのですよう。現在保存されている石は、それと比べると小さすぎる。たぶん、江戸時代、僕のように歴史にハマッている歴史馬鹿の“歴史ロマン”の産物だと思うのですよう。

その歴史ロマンって、どうゆうことでござ~♪~ますか?

この「日本中央の碑」については、寛政年間(1789-1801)に活躍した津軽藩の学者・秋田孝季が書いている。それによると、この碑を建てたのは安部貞任(1019-1062)の約11代前の安部致東だと言うのです。

でも、その碑は、その後地中に埋もれてしまったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。青森県に住む郷土史家の中で、かなりの変わり者が居たのですよう。その男は、千曳神社(ちびきじんじゃ)の伝説で「千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めた」と言う事を知っていた。

それで。。。?

その男は、その石碑は、きっと「つぼのいしぶみ」に違いないと言う仮説を立てたのですよう。

それで。。。?

その男は思い込みの激しい男で、それを仮説のままにしておきたくなかった。

。。。んで、その郷土史馬鹿は、自分で巨石に「日本中央」と刻みつけて地中に埋めたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。。。うへへへへ。。。僕は、そう思ったのですよう。。。かすれたようにしか見えない「日本中央」と言う文字が、いかにも素人が彫ったような文字ですよう。卑弥子さんにも、そう見えませんか?

でも、そんな事をする人が居たでしょうか?

『好ましい批判 (2009年5月12日)』

上の記事にも登場する漢字馬鹿を見ても分かるでしょう?常識では考えられないような馬鹿は、いつの時代にも居るものですよう。

当時、デンマンさんが青森で生きていたら同じような事をしますか?

多分、すると思いますよう。うしししし。。。

でも、なんで、そのようなつまらない事をしたのでしょうか?

いや。。。「日本中央」と刻みつけて地中に埋めた歴史馬鹿にとっては偉大な歴史ロマンだったはずです。

。。。んで、その偉大な歴史ロマンというのは、一体どのようなものでござ~♪~ますか?

あのねぇ、現在、青森県は本州のはずれですよう。でもねぇ、青森市の郊外で発見された三内丸山(さんないまるやま)遺跡を考えてみてくださいよう。この遺跡は縄文時代前期中頃から中期末(約5500年前~4000年前)の大規模集落跡です。

そのことが歴史ロマンと関係するのでござ~♪~ますか?

関係あるのですよう。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることが分かったのですよう。さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土したのですよう。

それには重要な意味があるのでござ~♪~ますか?

あるのですよう。縄文時代の文化が従来考えられているよりも進んだものであることが分かったのですよう。つまり、東北地方と言えば、本州のはずれ、現在でも、文化的に遅れているような印象があるけれど、実は、当時としては、相当進んだ文化があったのですよう。

それで。。。?

つまり、日本中央という考え方には、当時の東北人の自負心が表れている、と見ることができますよう。

でも、日本中央と刻まれた石は、ずっと後になってから作られたものでござ~♪~ますでしょう?

そうですよう。でもねぇ~、現在の我々に知られていない高度な文化も花開いていたのですよう。

その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

例えば、平泉の藤原氏などは歴史に残っている高度な文化を作ったのですよう。

それ以外にも、東北に藤原氏に並ぶような文化があったと。。。?

そうですよう。上の説明の中で「実際に綿麻呂が書いたとすれば811年頃の出来事になる」と書いてある。

それが、何か重要な意味でもあるのでござ~♪~ますか?

811年と言うと、日本海を挟んで大陸では高句麗の後に興(おこ)った渤海(ぼっかい)【698年建国ー926年滅亡】が日本と交流するようになっていた。


(japan13.jpg)

JR東北本線に国府多賀城駅があるけれど、当時はそのあたりまでが日本で、それより以北は蝦夷(エゾ、えみし)、つまりアイヌ人たちの国だった。その国は日本の史書には「蝦夷国(かいのくに)」として出てくるのですよう。

渤海は日本と頻繁に交流したのでござ~♪~ますか?

そうです。

何か訳でもあるのでござ~♪~ますか?

7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化した。それで日本は渤海が興(おこ)る前の高句麗と外交関係を強化したのですよう。

同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのでござ~♪~ますか?

そうです。その当時、高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありました。日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいた。阿倍比羅夫(ひらふ)の遠征記録を見ると粛慎(みしはせ)が出てきます。当時の大和朝廷が、粛慎と高句麗へ接近を図ろうとしたのですよう。そう言う訳で、高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。

日本は高句麗とお友達になった訳でござ~♪~ますわね。

そうです。おそらく卑弥子さんもそうだと思うけれど、学校の日本史では、その当時の東北より北の地域の活動は勉強しなかったと思うのですよう。

そうですわ。アイヌ人を日本人が征伐に行ったぐらいの事しか知りませんわ。

そうでしょう!でも、実は、上の地図でも見るように、東北以北でも活発に活動している人々は居たのですよう。例えば、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)と呼ばれる人たちが住んでいた。この人たちは大和朝廷と同じように唐の貞観14年(舒明12年、640年)に長安に朝貢使節を派遣しているのですよう。19年後の斉明5年(659年)には、蝦夷国(かいのくに)の使節が大和朝廷(倭国)の遣唐使に随行して長安を訪れています。

そのような事は日本史で勉強しませんでしたわ。

当然の事だけれど、渤海は「蝦夷国(かいのくに)」とも交流を持っていた。

日本海をいろいろな国の船が行き来したのでござ~♪~ますわね。

そうですよう。この当時は、言わば日本海・大航海時代だったのですよう。「日本」という呼び方は、もともと大和政権のものだった。その頃津軽地方に精力を持っていた阿部氏は、大和政権に臣下の礼をとっていたけれど、独立した「蝦夷国(かいのくに)」の王だった。

つまり、大和政権とは独立した国の王様でありながら、「日本」という国のメンバーでもあると思っていたのでござ~♪~ますわね?

その通りですよう。だから、阿部氏は自分たちこそサハリン(樺太)や、北海道、や渤海、さらに渤海の北にある黒水靺鞨(こくすいまっかつ)と交流している「日本」の中央に位置していると自負していたのですよう。

それなのに、どうして四、五丈(12~15メートル)の石に「日本中央」と刻んだ石碑を地中に埋めてしまったのでござ~♪~ますか?

大和政権の蝦夷征伐が津軽地方まで及ぶ頃、日本の天皇に憚(はばか)って千曳神社(ちびきじんじゃ)の御神体として地中に隠して保存したのですよう。

つまり、本物の石碑はまだ発見されずに地中に埋まっているとデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?

そうですよう。それが僕の歴史ロマンです。 

【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
でも、もし12~15メートルの石碑が本当に見つかったら面白いですわよね。
あなたは、どう思いますか?
デンマンさんの歴史ロマンが実現すると思いますか?

とにかく、まだ面白い話が続きますわ。
どうか、あなたも、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、またねぇ。。。


(hand.gif)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(bare04e.gif)

こんにちは。ジューンです。

そうですよね。日本の中心も、

また世界の中心も、

時代と共に変わってくると思いますよね。

昔、昔、大昔。。。、

今から2000年前のギリシャ世界では、

世界と言えば、地中海沿岸だけでした。

その当時の世界地図には

地中海と沿岸だけしか書いてありません。

あなたも見たことがあるでしょう?

つまり、当時のギリシャ人にとって、

日本など想像もつかない

世界の果てにあったのですよね。

いいえ、日本も、日本人の存在も、

全くオツムに浮かんでこなかったでしょう。

その頃から思えば、世界は広がりました。

また同時に、飛行機のおかげで

世界は狭くなりました。

あと20年も経てば、

お月様に旅行できるようになるでしょうね。

あなたは、どう思いますか?


(majo.gif)

ところで、卑弥子さんには、ちょっと信じがたいような

恋物語がありますわ。

関心があったらぜひ次のリンクをクリックして

じっくりと読んでみてくださいね。

■ 『平助さんが卑弥子さんに恋をしたのがウンのつき』
  (2005年5月3日)

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


(lunch12.jpg)


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