源氏物語の話


 
2009年5月21日 木曜日
 
  
源氏物語の話
 
 
ヴィクトリア女王と源氏物語
 
 




Subj:今週はロングウィークエンドです。

きゃはははは。。。

来週の天気の良い日に

銀行へ行ってきますね。

Date: 15/05/2009 2:14:58 AM
Pacific Daylight Saving Time
(日本時間:5月15日 金曜日 午後6時14分)
From: green@infoseek.jp
To: domini@yahoo.co.jp
CC: barclay1720@aol.com

小百合さんの次のメールを使って
5月19日の記事を書きましたよう。
題して『懐かしい久下(くげ)橋』

小百合さんも読めば、きっと懐かしくなるはずですう。
去年の11月2日の記事も引用してあります。

久下橋を小百合さんとドライブしたことが懐かしく思い出されてきました。
\(*^_^*)/ キャハハハ。。。

小百合さんの時間で今夜午後8時までには読めるようにアップロードします。
次のリンクをクリックして読んでみてね。

『懐かしい久下(くげ)橋』
    (2009年5月19日)

小百合さんが気になるような事は書いてないと思うけれど、
じっくり読んでみてね。

いじわる星人にならないように努力して書いてますよう。

\(^_^)/ うしししし。。。

今週末はロングウィークエンドです。
5月18日はヴィクトリアデーで休みです。
ヴィクトリア女王の誕生日を祝う日です。

時代錯誤だと思うのだけれど、今でもイギリスの王様か女王がカナダの国家元首です。
現在の国家元首はエリザベス女王です。

ヴィクトリア女王の誕生日を祝うなんて、これも時代錯誤だと思うのだけれど、
休日になるから、文句を言う人はいませんよう。

\(>_<)ノ きゃはははは。。。

5月19日の火曜日か、翌日の水曜日、天気の良い日に銀行に行ってこようと思います。
小百合さんもルンルン気分で風邪を引かないようにね。
じゃあ、バイバ~♪~イ

デンマンさん。。。ヴィクトリア女王なんて、もうとっくの昔にな亡くなっているでしょう。どうして過去のイギリス女王の誕生日をカナダで祝うのでござ~♪~ますか?

初め、僕もやっぱり不思議な事をしていると思ったのですよう。でもねぇ、これが伝統というものなのですよう。

カナダ国民は、それほど伝統を大切にしているのでござ~♪~ますか?

もちろん、ほとんどのカナダ人は“休日”の別な呼び名程度にしか考えていませんよう。でもねぇ、国としては、カナダの歴史を大切にしたいから、いまだに昔ながらの伝統を守っているのですよう。昔ながらと言っても、カナダが建国したのは1867年ですよう。明治維新の1年前ですよう。まだ、新しい国ですよう。

建国当時からヴィクトリア女王の誕生日はカナダで祝われていたのでござ~♪~ますか?

それが、建国前から祝われていたのですよう。

つまり、1867年よりも以前から祝われていたのでござ~♪~ますか?

そうですよ。まだ自治も認められていなかった植民地の時代から“ヴィクトリア・デー”があったのですよう。

初めての“ヴィクトリア・デー”はいつだったのでござ~♪~ますか?

フランスとイギリスが戦争してフランスは負けてしまった。1763年のことですよう。

そんな昔から“ヴィクトリア・デー”があったのでざ~♪~ますか?

やだなあああァ~、まだヴィクトリア女王は生まれていませんよう。イギリスが戦争で勝ったので、当時 New France と呼ばれていた現在のケベック(Quebec)州がイギリスの植民地になったのですよう。それから30年ほどたった1791年に現在のオンタリオ州とケベック州の2州が憲法条例で Province of Quebec と呼ばれるようになったのです。

。。。んで、ヴィクトリア女王が生まれたのはいつでござ~♪~ますか?

1819年5月24日ですよう。

じゃあ、1920年から祝っているのでござ~♪~ますか?

やだなあああァ~、まだ女王になるかどうか分かっていませんよう。ヴィクトリアがイギリスの女王になったのは1837年の6月です。

だから、いつから“ヴィクトリア・デー”ができたのでござ~♪~ますか?

1845年に Canada West と呼ばれていた現在のオンタリオ州で初めて公式に祝われたのですよう。それが、カナダの最初の“ヴィクトリア・デー”だったのですよう。

じゃあ、今年で155回目ですわね。。。でも、どうして5月24日でなくて18日なのでござ~♪~ますか?

連休にするために24日が月曜日でない場合には、その前の月曜日とすることに決めたのですよう。今年は5月24日が日曜日。だから、その前の月曜日は5月18日になるわけです。

ふ~ん。。。やっぱり合理的なのですわねぇ~。休みをしっかりと取るために誕生日まで変えてしまうのですわね。

でもねぇ、名前は“ヴィクトリア・デー”でも、法律では現在の国家元首の誕生日も祝うということになっているのですよう。

つまり、エリザベス女王の誕生日も祝うわけでござ~♪~ますか?。。。やっぱり、経済的なことを考えて、二人の誕生日を1日で祝うのでござ~♪~ますか?

でも、カナダ国民にとっては、別々に祝ってもらった方が喜びますよう。

どうして。。。?

休日が増えますからねぇ。。。うしししし。。。

。。。んで、今日は“ヴィクトリア女王と源氏物語”というタイトルですけれど、ヴィクトリア女王も源氏物語を読んだのでござ~♪~ますか?

だから、その事を調べるために、今日の記事を書き始めたのですよう。

それで、どうだったのでござ~♪~ますか?

最初に『源氏物語』が英語に訳されたのはいつだったのか?。。。そこから調べ始めたのですよう。

織田信長や豊臣秀吉が生きていた安土桃山時代のころですか?

あのねぇ、その当時は外国人と言えば、スペイン人かポルトガル人ですよう。日本人はまだイギリス人を見なかったでしょうね。だから、英語を話したいと思う日本人も居なかったでしょう。

じゃあ、江戸時代でござ~♪~ますか?

日本は鎖国をやっていましたからね。江戸時代に『源氏物語』を英訳する意味がありませんよう。

確かにそうですわね。。。それでは、文明開化の明治時代ですわね。

そうですよう。調べたら、日本人で初めて『源氏物語』を英訳したのは文学者じゃなくて外交官だったのですよう。当時、ロンドンに在任中の末松謙澄が英訳を手掛け、1882年にイギリスで刊行されたのですよう。

なぜ外交官なのでござ~♪~ますか?

僕も、この外交官の経歴を調べるまでは、まったく分からなかった。

末松 謙澄(すえまつけんちょう)

1855年9月30日(安政2年8月20日)に生まれる。
1920年(大正9年)10月5日)に亡くなる。
明治・大正時代の政治家。子爵。
幼名は千松。
妻・生子は元首相・伊藤博文の長女。

経歴

豊前国前田村(現・福岡県行橋市)に大庄屋 末松七右衛門 伸子の四男として生まれる。
東京日日新聞社の記者となり社説を執筆。
岳父である伊藤博文の知遇を得て、外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジ大学で学ぶ。
衆議院議員、逓信大臣、内務大臣などを歴任。

人物像

ロンドン赴任中、最初の「源氏物語」の英訳を書いた。
「義経=ジンギスカン説」を唱える論文をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。
鹿鳴館時代の1886年、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため演劇改良運動を興す。
日露戦争の間、英国へ渡り、日本の立場をヨーロッパで説明した。
毛利家の依頼で長州の歴史を調べ、維新史の一級資料『防長回天史』を編纂した。
末松謙一元さくら銀行頭取の大伯父(謙澄の弟の孫が謙一)にあたる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

それで、どうして『源氏物語』を英訳したのか、分かったのですか?

分かりましたよう。もちろん、僕の私的見解ですけれどね。。。

。。。んで、どういう訳なのでござ~♪~ますか?

僕は歴史オタクだから日露戦争のことをずいぶん調べたことがあったのですよう。

それで。。。?

日露戦争は、もしロシアの国内で革命騒ぎがなくて、あのまま戦争が続いて居たら日本は戦争に負けていたという事が歴史家や研究者の間では半ば常識のようになっているのですよう。

それと、末松謙澄さんが関係あるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。日露戦争当時、早く戦争を終結させなければ日本がとんでもないことになると言うので、水面下でずいぶんと動いていた人たちが居たという事を僕も知ったのですよう。

末松謙澄さんも、その一人だったとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。上の経歴を読んだら、まず間違いないと思います。あの有名な明石大佐も日露戦争当時、末松謙澄さんのように水面下で活動していたのですよう。

明石元二郎 (あかし もとじろう)

1864年9月1日(元治元年8月1日) – 1919(大正8)年10月26日(満55歳没)

明治、大正期の陸軍軍人。
陸軍大将勲一等功三級男爵。
第7代台湾総督。黒田藩(現福岡県福岡市)出身。
孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務める。

黒田藩士、明石助九郎の次男として元治元年に福岡の大名町に生まれる。
藩校修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を経て1889年(明治22年)に陸軍大学校を卒業する。
1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)にロシア公使館付陸軍武官に転任する。

日露戦争での諜報活動

明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3千万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。
主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。
後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サポタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。
司馬遼太郎はこの説についての真贋を検証して小説に取り入れることをせず、『坂の上の雲』において、さも明石工作が大成功したかのように描いた。
その後、20世紀末に至っても保守系雑誌等で同種の扇情記事などが見られ、自由主義史観研究会などが好んで取り上げた。粗筋としては下記のようなものである。

1904年(明治37年)、明石はジュネーブにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。
レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であるといって拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。
その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。
これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。
後にレーニンは次のように語っている。
「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

しかし、この件は今井公雄、秦郁彦などから疑念が示されており、稲葉千晴が北欧の研究者と共同して行った明石工作の検証作業の結果、レーニンと会談した事実も、レーニンが上記のような発言を行った事実も確認されず、現地でも日本のような説として流布していないことが示された上、ロシア側の防諜機関であるオフラナから監視されており、大半の工作が失敗に終わっていたことが明らかになった。
今井はレーニンと会談した件を明石の虚言ではないかと推定している。

元々明石の工作は、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス(Konni Zilliacus)率いるフィンランド革命党などのロシアの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。
シベリア鉄道の爆破工作も画策したが、これも失敗している。
なおレーニンが革命運動の主導権を握るのは戦後のことである。

満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

このように、明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものではあった。
陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。
また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えた。

明石工作の実態が知られるにつれ、工作活動の成功ではなく、その努力に対しての評価にスライドした評論が登場する。
工作活動の成果については否定した稲葉は、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目し、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価している。

なお、日露戦争での情報活動は明石ばかりに注目されるが、外国での反応は自国での啓蒙(警戒)に繋がる。
例えばロシアの月刊誌『ロージナ』は2004年の日露戦争特集号で上記のように日本が満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築した件を引き合いにし、このことがソ連時代に対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったことや、自国の諜報体制の甘さを指摘している。
また、日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていた。
情報戦は相互に行われるものであり、司馬が描いたような一方通行的なものとは異なる上、一方の当事者の史料からだけではその実態を総合的に把握することは出来ない。
また、ある情報活動の成功が明るみに出た場合、相手国の情報活動を刺激する。

日露戦争後

1910年(明治43年)、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、韓国併合の過程で武断政治を推し進めた。
その後、1915年(大正4年)第6師団長を経て、1918年(大正7年)第7代台湾総督に就任し、陸軍大将に昇格する。
日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正(これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれた。
李登輝元総統は京都帝国大学出身である。
現在も台湾最大の銀行である華南銀行を設立した。
台湾総督の次は総理大臣にと期待されていたが、1919年(大正8年)、明石は公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去する。
「もし自分の身の上に万一のことがあったら必ず台湾に葬るように」との遺言によって、遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され、台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬された。

エピソード

語学と算術に長けていた。
ロシアでの偽名はアバズレーエフ。
あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がおり、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。
明石は「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。
すると、そのドイツの士官は明石を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。
ドイツの士官にすればドイツ語がわかるはずがないと考えたのであろう。
しかし明石はドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。
明石はフランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた。

協調性に欠け小柄で風采が上がらず運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代の明石の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。
栗野は明石と同じ修猷館出身である。

明石の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。

任務のためスパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。
その一例として、革命工作資金の百万円のうち27万円が使いきれずに残ってしまった。
本来軍の機密に関する金であり返済の必要は無いのだが、明石は明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済した。
うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であった。

服装については無頓着であり、陸大時代は下宿に猫を一匹飼っており、軍服に猫の毛が着いたまま講義に出席していたようである。
明石の死因については、脳溢血説、肝硬変説などがある。
生前、大酒飲みだったので肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時世界的に流行していたスペイン風邪(スペインから広まったインフルエンザ)ではなかったかと言われている。
関ヶ原の合戦や、大坂の陣で戦ったキリシタン武将、明石全登の末裔と言われている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
つまり、末松謙澄さんは文化面で、日本もヨーロッパ文化に負けないような文化的遺産を引き継いでいることを証明するために『源氏物語』を英訳したのでござ~♪~ますか?

たぶん、そうでしょう!日本人は東洋のはずれの成り上がり者のように見られていましたからね。だから、このようなすばらしい文化的遺産の上に現在の日本があることを知って欲しかったのですよう。

。。。んで、その効果はあったのでござ~♪~ましょうか?

あのねぇ、調べたら、驚いたことに、今でも末松謙澄さんが訳した本が売られているのですよう。2006年に再版されたものですよう。

Tale of Genji
 
 
Kencho Suematsu
 

Written centuries before the time of Shakespeare and Chaucer, The Tale of Genji marks the birth of the novel–and after more than a millennium, this seminal work about the life and loves of Prince Genji, master poet, dancer, musician and painter, continues to enchant readers throughout the world.

Tale of Genji
著者: Murasaki Shikibu
翻訳: Kencho Suematsu
出版社: Tuttle Publishing, 2006
ISBN: 0804838232, 9780804838238
224 ページ

本の紹介ページ: 『英訳源氏物語』

今でも読まれていると言う事は、それだけ読者が居るということでしょうか?

1882年から続けて読まれているということだから、多分、すばらしい訳なのでしょうね。僕もぜひ読んでみようと思いますよう。

分かりましたわ。。。んで、末松謙澄さんが1882年にイギリスで『源氏物語』の英訳本を刊行したと言う事は、ヴィクトリア女王も手にとって読むことが考えられるのでござ~♪~ますか?

ヴィクトリア女王が亡くなったのは1901年ですからね。だから、十分に考えられることですよう。

それで、実際はどうだったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、ヴィクトリア女王のお母さん(ケント公夫人ヴィクトリア)はドイツ人なのですよう。

つまり、ドイツ語を母語としているのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。だから、ヴィクトリア女王は3才までドイツ語のみを話す生活を送ったそうです。

英語はどうしたのでござ~♪~ますか?

だから、3才から英語を勉強したのですよう。しかも、古典ギリシア語、ラテン語、フランス語も学んだそうです。オペラが好きだったのでイタリア語も勉強したそうですよう。

あのォ~。。。日本語は。。。?

ネットで調べた限り、どこを探しても日本語を勉強したという事は書いてありませんでした。

つまり、日本の事については、ほとんど関心が無かったのでござ~♪~ますわね?

そんな感じなのですよう。ただ、趣味が乗馬と日記なのですよう。その日記は出版されているようです。僕はヴィクトリア女王の日記を読んだことが無いのだけれど、それを読めばどのような本を読んでいたのか分かるかもしれません。

ヴィクトリア女王が英訳された『源氏物語』を読んだとは、ネットには書いてなかったのでござ~♪~ますか?

1時間近く、いろいろと探してみたのだけれど、ついに見当たりませんでした。ただ、『源氏物語』を読まないとしても、紫式部の名前を知らないとしても、「紫」は好きだったそうです。

そうゆう、どうでも良い事を調べたのですか?

うしししし。。。あのねぇ~。。。たまたま見つけたのですよう。

それで。。。その紫って、どういう紫色でござ~♪~ますのォ~?

あのねぇ、人類が最初に発明した合成染料は紫色だったのですよう。

あらっ。。。そうでしたの?知りませんでしたわあああァ~。

1856年にイギリスの化学生パーキンが解熱剤を合成する実験中に偶然発見したそうですよう。その薄い紫はモーヴと名付けられたのです。モーヴ(mauve)とはフランス語で葵(アオイ)の意味ですよう。

ヴィクトリア女王は、その紫色が好きだったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。1862年に開かれたロンドンの万国博にヴィクトリア女王がこの合成染料モーヴで染めたドレスを着て現れたのです。

合成染料モーヴで染めた

ヴィクトリア朝のドレスを着た女性

その色が、もしかして流行したのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。その後、モーヴがヴィクトリア朝の流行色となったのですよう。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
でも、紫式部とも、源氏物語とも、まったく関係ありませんよねぇ~。
ちょっと、がっかりしましたわ。

でも、まだ面白い話が続きますわ。
どうか、あなたも、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、またねぇ。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

現代語訳の『更級日記』を読んでいたら

次のような箇所に出くわしました。

今はもう武蔵国になった。

格別風流な景色も見えない。

浜も、「くろとの浜」と違って砂が白くもなく、

泥のようで、紫草が生えると聞く武蔵野も、

アシやオギだけが高く生えていて、

武士の、馬に乗って弓を持っている

先っちょが見えないくらいまで、高く茂っていて、

その中を掻き分けて行くと、竹芝という寺がある。

はるか先に、母荘という

荘園の領主の邸跡の礎石がある。

『更級日記』の作者が13歳のとき

京に向かうために隅田川を渡って

竹芝寺の近くの草原を歩いていたのです。

その時、弓を持った武士を見かけたことを

書いているのです。

その当時の風情は、もう跡形も無いでしょうね。

当時から高貴な花の代表である紫草は

武蔵野の名産だったそうです。

ただし、紫草は夏の花なので、

秋に武蔵国を通過する作者は

目に出来なかったのです。

生えているのは、アシ(葦)やオギ(荻)などの

イネ科の植物のみでした。

なお、アシが「悪し」に通じるのを嫌って逆の、

「良し」=ヨシ(葭)とも言います。

面白いですね。
 

  紫草

この紫草から取れた染料は

高貴な色として好まれたそうです。

ところで、英語の面白いお話を集めて

記事を書きました。

時間があったら、ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

コメント / トラックバック3件 to “源氏物語の話”

  1. 仲直りの接吻 « Denman Blog Says:

    […] ■『ヴィクトリア女王と源氏物語』 […]

  2. 愛に濡れて « Denman Blog Says:

    […] ■『ヴィクトリア女王と源氏物語』 […]

  3. 紫式部の涙 « Denman Blog Says:

    […] 『エロい女と六条の御息所』より (2007年1月19日) […]

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