Archive for the ‘日本史’ Category

安徳帝は生きていた

2017年4月16日

 

安徳帝は生きていた

 


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安徳天皇と守貞親王

 


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ところで、守貞親王と入れ替わった安徳帝は、その後どうなったのでしょう。

まずまず無事に守貞親王に化けおおせ、治部卿局(じぶきょうのつぼね)たちとともに都に戻り、法皇との対面ののち、上西門院の猶子(ゆうし)となって成長、そして承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのです。

泉下の平家一門はどれだけ喜んだでしょう。

しかし46歳にして惜しくも崩御されてしまいました。

この事実を、治部卿局以外、誰も知らなかったとは考えられませんが、なんの破綻もなく、これまでおさまったのは、天佑神助(てんゆうしんじょ)のたまものというべきでしょうか。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


197ページ 『義経』
著者: 宮尾登美子
2004(平成16)年11月25日 第1刷発行
発行所: 日本放送出版協会

 


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幼かった安徳天皇が おばあちゃんの二位尼(平時子)に抱き上げられて 一緒に瀬戸内海の波間に沈んでいったのではなく、そのおばあちゃんが抱いていたのは、身代わりになった守貞親王で、実は、安徳天皇は生きていて 承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についた、とデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 実は、僕は初めて そのような事を信じている人がいるのを知って ちょっと驚いたのですよ。。。 もう亡くなってしまったけれど、宮尾登美子さんが書いた上の本をバンクーバー図書館で借りて読んでいたら、上の箇所に出くわしたというわけです。。。

そのような事はありえないと、デンマンさんは考えているのですかァ~?

だから、それをちょっと確かめてみたくなって卑弥子さんを呼んだのですよ。。。

あたくしは、そのような事を考える人たちが居ても 決して不思議ではないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんは、どうしてそう思うのですか?

だってぇ~、源義経が亡くなったのは、実は、影武者が殺されたので 本人は生きていて後にジンギスカンになって大陸で活躍したというお話は多くの人が信じていますわァ。

でもねぇ~、その伝説は今では学術的に完全に否定されてるのですよ。。。

義経の伝説


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優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。
また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条大橋での出会い、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。
例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

 

不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、義経北方(北行)伝説と呼んでいる。
この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。

義経北方(北行)伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。
これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。

このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。
またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

 

義経=ジンギスカン説


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この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。
清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。
この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。
現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。
この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。


出典: 「源義経」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こういう話は、昔から“判官贔屓(はんがんびいき)”と言って よく伝説には付き物なんですよ。。。 どう考えたって、義経がジンギスカンになったという話は、荒唐無稽(こうとうむけい)なのですよ。。。

どうしてデンマンさんは荒唐無稽と決め付けるのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕がジンギスカンの下で命令を受けて戦うモンゴル人のデンマン将軍だとします。。。

あらっ。。。 面白そうな例えでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。 で、もし、そうだとしたらどうなったと言うのでござ~ますかァ?

義経がジンギスカンになったとしたら、彼は30才をすぎてから大陸に渡ったことになるのですよ。。。 つまり、そうなると、誰もがジンギスカンはモンゴル人じゃなくて日本人だということを知っている。。。 すると、日本人のために命をかけてまで戦う気にならない! 僕は、日本人のジンギスカンを暗殺して自分がモンゴル人の棟梁になろうとしますよ。。。

つまり、モンゴル人のデンマン将軍が日本人のジンギスカンを暗殺して歴史は変わってしまったというのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 あのねぇ~、現在だって、アメリカの大統領になるにはアメリカで生まれてないと成れない! どこの国でも移民の大統領など居ませんよ。。。 移民は、その国ではせいぜい縁の下の力持ちになる程度で、決してその国の長には成れない! そんな事は移民をしてみればすぐに理解できる事なのですよ。。。

つまり、義経がモンゴルに移民してジンギスカンになることは デンマンさんの経験上からありえないという事ですわねぇ~。。。

いや。。。 僕の経験からも言えることだけれど、そのような事は歴史を見ればすぐに理解できる事ですよ。。。 フジモリ大統領だってぇ、ペルーの第91代大統領になったけれど、移民したわけじゃない。。。 ペルーの首都リマのミラフロレス区で仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれたのですよ。。。 要するに、その国で生まれ育った人物でなければ、その下で働く人たちの意欲が湧かないのですよ。。。 だから、日本から30才過ぎてやってきた義経に従ってモンゴル人が命をかけて戦うなんて、とてもありえない!

モンゴル生まれのデンマン将軍によって暗殺されてしまうのですか?

僕が、その当時モンゴルで生まれて義経将軍の下で戦うモンゴル人の将軍になったら、まずそうする事になったと思いますよ。。。

分かりましたわ。。。 でも、安徳天皇の場合は、お話が違うと思うのでござ~ますわァ。。。

どう違うのですか?

だってぇ~、安徳天皇はモンゴルに移住したわけではありませんわァ。。。 守貞親王が安徳天皇の身代わりになって海に沈んだのですわ。。。 だから、安徳天皇は守貞親王として、都で暮らし、やがて承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのでござ~ますわァ。

卑弥子さんもマジで それを信じているのですかァ~?

だってぇ~、そうでも考えないと、安徳天皇があまりにも お可哀想ですわァ~。。。 


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最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた おばあちゃんの二位尼(平時子)は安徳天皇を抱き上げました。

「おばあちゃん、僕をどこへ連れてゆくのォ~」

二位尼は涙をおさえて 諭(さとし)します。

「坊ちゃんは 前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁により、御運はもはや尽きてしまいました。 この世は辛く厭(いと)わしいところです。

これから、このバアが、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのですよ」

「楽しいところなのォ~」

「そうですよ。。。 これからバアと一緒にゆきます。 だから、この世にさようならをしましょうねぇ~」

 


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すると、幼い天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのでした。

安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳と4か月)で崩御したのです。


『平家物語』「先帝身投」より卑弥子が現代語に意訳しました。

卑弥子さんは意外に涙もろいのですねぇ~。。。

この場面を想い浮べると、あたくしは涙無しにはおられないのでござ~ますわァ。。。

卑弥子さん。。。 涙が鼻水になって、鼻からずいぶん出てますよ。。。 ハンカチでは間に合わないからタオルを持ってきますねぇ~。。。

デンマンさん! 愚かな事を言ってないで話の先を進めてくださいなァ~。。。

あのねぇ~、よく考えてくださいよ! 安徳天皇が満6歳と4か月で おばあちゃんと一緒に瀬戸内海の海の底に沈んだから、そうやって卑弥子さんの涙がドバドバと出てくるのですよ。。。 もしですよゥ。。。 そうじゃなくて守貞親王が安徳天皇の身代わりになっていたとしたら、『平家物語』の上の箇所は、涙をそれほど誘わないのですよ。。。 むしろ、現在の倫理観としたら、人権無視もはなはだしい! もしもですよ、卑弥子さんが 守貞親王のお母さんだとしたら、安徳天皇の身代わりに自分の幼い息子を差し出しますかァ~?

いいえ。。。 絶対にイヤでござ~ますわァ~。。。

でしょう!?。。。 だから、安徳天皇は本人が おばあちゃんと一緒に入水したのです。。。 そうでないと日本文学の素晴らしい『平家物語』が安っぽい話になってしまうのですよ。。。


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは どう思いますか?

安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、つまり、おばあちゃんだけが “ねんねこ”をかかえて、さも安徳天皇を抱くようにして、一人で入水したのだと信じている人たちも居るのですわよう。。。

それから、安徳天皇は平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたと言うのでござ~ますわァ。

だから、九州や四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があるのですわよ。

では、高知県の山の中に墓があるというミステリーをご覧くださいませぇ~。。。


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上のクリップを観てあなたはどう思いましたか?

話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


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『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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伎楽は呉から

2017年1月26日

 

伎楽は呉から…?

 


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デンマンさん。。。どうして急に伎楽を取り上げるのでござ~♪~ますか?


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あのねぇ~、伎楽にハマッているネット市民が居るのですよ。。。

どこに。。。?

ちょっと次のリストを見てください。。。


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『拡大する』

『伎楽は呉の音楽?』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の 1月24日の日本時間で午前1時14分から午前3時8分までの「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。

あらっ。。。 1月24日の真夜中。。。 午前1時31分から35分にかけてGOOGLEで検索して 3度もデンマンさんが投稿した『伎楽は呉の音楽?』を開いたのでござ~ますわねぇ~。。。

そうなのですよ。。。 新宿に住んでいる喜楽 美弥子さんは伎楽にハマッているのです。。。

新宿に住んでいる喜楽 美弥子さんがアクセスしたと、どうして判るのですか?

IPアドレスを調べたのですよ。。。


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『拡大する』

でも。。。、でも。。。、アクセスした人の名前までは判らないはずですわ。。。

卑弥子さんの言うこはもっともです。。。 でもねぇ~、僕には判るのです。。。

だから、どのようにしてアクセス者の名前をゲットしたのでござ~ますかァ?

あのねぇ~、伎楽に興味を持つ人の間には、不思議な以心伝心が働くのですよ。。。

以心伝心で喜楽 美弥子さんのお名前をゲットしたのでござ~ますか?

卑弥子さんは僕の言うことが信じられないのですかァ~?

要するに、テレパシーだと言うのでござ~ますわねぇ~。。。

そうです。。。 いけませんかァ~?

そのような子供騙しなことを あたくしが信じるとでも思っているのですかァ~?

分かりました。。。 卑弥子さんは僕の言うことを信じないようだから、この際 卑弥子さんが納得のゆくように説明します。

余計な事は言わなくても結構ですから、なるべく手短にお話しくださいませぇ。。。

あのねぇ~、喜楽 美弥子さんは まず次の小文を読んだのです。。。

獅子の芸能


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日本で獅子が最初に登場するのは、「伎楽」という芸能のなかである。(注2)
飛鳥時代(612年)に百済の味摩之(みまし)という人が伝えたとされ、一時はさかんにおこなわれたが、鎌倉時代にはすたれてしまった仮面劇である。

(注2) 呉の国のものなので「呉楽(くれがく)」ともいう。
古代には寺院芸能として栄えた。
大宝令には雅楽寮に専門家がいた記録があり、天平勝宝4(752)年の東大寺大仏開眼会では60名で伎楽を演じている。


103、106ページ 『おもしろ日本音楽』
著者: 釣谷真弓
2005年4月30日初版発行
発行所: 株式会社東京堂出版

この部分を読んで、美弥子さんは「伎楽」を飛鳥時代(612年)に百済の味摩之(みまし)という人が伝えた、ということを知ったのですよ。。。

。。。で、美弥子さんは大学で「伎楽」を勉強しているのですか?

いや。。。 今、大学で勉強しようかどうか考えているのだと思います。。。 とにかく、僕は伎楽はペルシャの流れを汲む音楽だと思っていたのですよ。

どうして、ペルシャの影響を受けているのでござ~ますかァ~?

なぜならば、以前、卑弥子さんが僕を次のように紹介してくれたのですよ。。。 覚えているでしょう?

ペルシャ人が飛鳥にやってきた


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卑弥子でーす。こんにちは。

今回は「卑弥呼」にあやかって

巫女さんの格好で出てまいりましたわ。

似合っているでござ~♪~ましょうか?

うふふふふ。。。

どうして巫女さんになって出てきたのかって。。。?

あたくしの背景になっている

神社のことをちょっとお話しようと思ったからです。

あたくしの両側にあるもの、これ何だかお分かりでしょうか?

そうです。「狛犬(こまいぬ)」だとか

「唐獅子(からじし)」だとか言われていますね。

日本の狛犬のルーツは平安時代、

天皇、皇后の御帖台の前に置かれた

獅子、狛犬ではないかと言われています。

獅子は口を開いていて、たてがみは巻き毛です。

狛犬は口を閉じていて、たてがみは直毛で角があります。

それが神社などの社殿の中や縁に厄除けとして

木製の獅子、狛犬が置かれるようになりました。

社殿中や縁から参道に出されて置かれるようになるのは

1600年代からと言われています。

このときに石造りになったようです。

この神社のように参道をはさんで対になって

配置されているものが多いのですが、

地域、時代によってその姿や形には、

かなりの変化があります。

でも、この「狛犬(こまいぬ)」と「唐獅子(からじし)」、

一体どこから来たのでしょう?

では、デンマンさんにバトンタッチいたします。


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うしししし。。。
こんにちは。デンマンです。
そう言う訳で今日は「狛犬(こまいぬ)」と「唐獅子(からじし)」のルーツをたどってゆきたいと思います。

狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)は

ペルシャからやって来た


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実はカットグラスが飛鳥時代に日本に伝えられています。
長い時間をかけて、シルクロードを伝わって日本にたどり着いたのですよ。
この事については次のページで詳しく説明していますので興味のある人はクリックして読んでみてくださいね。

『飛鳥とシルクロード』

ペルシャから伝わったのは、何もカットグラスだけではありません。
実は狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)もペルシャから伝わったようです。
もちろん、これもシルクロードを西から東へと伝わってきたのです。


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ペルシャから日本へ伝わるまでに、どのような変化を見せたのか、
次に示す写真で見てください。


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ペルセポリスの獅子

Lion stone carving at Persepolis

これがペルセポリスの宮殿に飾られていた獅子です。
獅子と言うよりもライオンですよね。
写実的です。
幼稚園児に見せてもライオンを見たことがあるならば、ライオンと答えるでしょう。

このペルセポリスと言う都市は、古代ペルシャの首都です。


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ペルセポリス遺跡

Persepolis Ruins

紀元前3000年頃よりイランの地にはエラム人が文明を築いていました。
2000年紀に入るとロシア南部で遊牧生活を送っていたアーリア人が南下を開始します。
彼らはエラム人を追放し、さらにはメソポタミアを統治支配していた最強のアッシリアを滅亡させて、メディア王国を築きます。
狭義のペルシア人たちは、そのメディア王国に従属しながらザグロス山脈の南にあるパールサの地に住んでいました。

紀元前550年ごろ、メディア王の臣下でペルシアを統治していたキュロス2世はメディア王家の内紛に乗じてこれに叛旗をひるがえします。
その結果、メディアとペルシアを併合してアケメネス朝ペルシアを建国しました。

キュロス2世(在位BC559~530)はパサルガダエを首都にしました。
しかし、第3代のダレイオス一世が紀元前522年ごろ即位すると、
パサルガダエから西南四十キロの荒涼とした丘陵地に新都建設を命じました。
建設事業はクセルクセス一世(在位BC486~465)、アルタクセルクセス二世(在位BC465~424)へと引き継がれ、完成までに結局60年かかったのです。
これがペルセポリスです。
このペルセポリスの宮殿に飾られていたのが上のライオン像でした。


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トルファン(吐魯蕃)の獅子

これは清朝時代に作られたといわれています。
清の時代ですからだいぶ時代が下ります。
しかもトルファンで作られています。

上の地図で見て分かるとおり、
トルファンはペルシャと日本のちょうど中間地点に位置しています。
ライオンを見たことのある幼稚園児でも、これをすぐ見てライオンだと答える子は10人に3人ぐらいでしょうか?
多分、犬と答えるでしょうね。
怖い顔をした犬のように見えませんか?
明らかに作者はライオンを見たことが無いですよね。


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北京・紫禁城の獅子

これはライオンと言うよりも“獅子”ですよね。
つまり、様式化されて現実のライオンではなくなってしまっています。
完全に中国様式に基づいて作成された“獅子”になっています。


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慶州(キョンジュ)掛陵(クエヌン)の狛犬

掛陵は8世紀末の元聖王の御陵で、
新羅統一時代の陵墓制度が、
完備した時代の代表的な陵とされています。

中国の獅子を真似て作られているのが良く分かります。
しかも、ライオンよりも犬のようになっています。
名前も“狛犬(こまいぬ)”です。
作者はライオンを彫っているとは思っていなかったでしょう。


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八坂神社の獅子

これが日本で製作された獅子です。
上の写真を見てすぐ分かることは、ペルセポリスのライオンがもっとも写実的で、製作者は明らかに、本物のライオンを見たことがあるということが分かります。
しかし、トルファンも含めて、それよりも以東のライオンは、全く想像上の生き物としか思われません。
作者は、明らかに、本物のライオンを見たことがないのです。

獅子が古代韓国に伝わる頃には、獅子は獰猛(どうもう)な犬というイメージで受け入れられたようです。
おそらく、ペルシャ人がライオンをまだ一度も見たことのない中国人や韓国人に説明する時、獰猛な犬のようだ、と言ったのでしょう。
それが日本へ伝わると狛犬(こまいぬ)、つまり「高麗(こま)犬」になったのです。
高麗とは日本書紀では高句麗のことです。

半島では663年に百済が滅び、668年に高句麗が滅んで新羅が朝鮮半島を統一します。
その新羅も918年に滅んで、高麗(こうらい)に取って代わられます。
この王朝が1392年まで続きます。

高麗の武将である李成桂が王位を譲り受けた形で、翌年に新しい王朝を立てます。
これが李氏朝鮮です。
1896年に大韓帝国になり、1910年、日本に併合され、1945年に独立します。

日本人の間では、ライオンは「唐獅子」と共に「狛犬」という言葉になって、語り継がれたわけです。
ペルシャから飛鳥へやって来た石工が獅子像をたくさん作ったはずです。
しかし、写実的なライオン像は日本人の目には、むしろ想像上の生き物に見えたことでしょう。
時代が下るに従って、写実的なライオン像よりも「伝統的な」唐獅子や狛犬の方が主流になってゆき、それが、現在私たちが目にする唐獅子や狛犬となって残っています。

写実的なライオン像は、人気がなくて、作り変えられたか、壊されたのでしょう。
亀石のように大きなものを作っていれば、壊されずに残っていたでしょうが、残念ながら巨大なものは作らなかったようです。

ペルシャの石工がやって来た

証拠でもあるの?

蘇我氏が飛鳥寺を建立するために、百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、画工らはペルシア系の人々であったと言われています。
また、仏師の司馬達等(しばのたつと)親子はペルシャ人であったらしいのです。 
ちなみに、司馬達等は鞍作止利(くらつくりのとり)のおじいさんです。


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天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)もペルシャ人でした。
天平勝宝六年(754年)、鑑真和上に随行して来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。
このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたようです。

「日本書紀」には、トカラ人饗応の記述がみられます。
トカラについては、ペルシア、またタイ、ビルマ、メコン川流域など、いろいろな説があります。
まだ定説というものがありません。

斉明紀六年七月条に「覩貨羅人乾豆波斯達阿(とくわらのひとげんづはしだちあ)」とあって、「乾豆波斯達阿」という名前らしい表記があります。
「日本古典文学大系本」の頭注にしたがうと、固有名詞かどうかは疑問として、乾豆は賢豆などと同じくインド、波斯はペルシャをさし、達阿はインドの人名の語尾らしいとあります。
この表記からおおよそ推定するならば、日本よりはるか西方の南アジアの一地域かと思われます。
しかし、断定できる資料がありません。

もっともオーソドックスな解釈では西域の吐火羅(とから 覩貨邏)、つまり中央アジアのトハラ(現在のブハラ、Bukhara)であるとされています。


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トハラ族(Tokhara、覩貨邏)は、古代中央アジアの遊牧民で「トカラ」族とも言われます。 
サカ(インド=スキタイ)系と言われ、バクトリアへ移動後、大月氏に征服され、クシャーナ朝の中核となりました。
なお、現在のアフガニスタンの北部にある彼らが住んでいた土地は現在「トハラ」または「トゥハーリスターン」と呼ばれています。
その中心は古代にはバクトラ(現バルフ)、中世はクンドゥズに置かれ、東西交通の要地としてバクトリア王国、大月氏国、クシャーナ朝などの政治・文化の中心でした。

シルクロードの彼方から文物のみか、ペルシア人も渡来したという事については根強い支持があります。

しかし、日本書紀に従うと、ペルシア人だけが船に乗って漂着したり、男だけが本国に一時帰るというのは、ちょっと不自然です。

さらに書紀には『百済』と『都貨羅(トカラ)』の皇子を人質にしたとあります。
この場合、都貨羅を中央アジアのトハラと考えるには無理があります。

結論を先に言えば、僕は「トカラ」が二つの地名をさしていると思います。
一つは中央アジアのトハラ、もう一つは耽羅(トムラ又はタムラ)、つまり継体紀に一度名前の出てくる済州島です。
地理的位置と、百済との服従関係を考慮すると、初期の記述も十分に理解することができます。
従って、飛鳥にはペルシャからも済州島からも石工がやって来ていたと思います。

ただし、個々の石造物を見てゆくと、ペルシャの作風が見て取れるものがあり、ペルシャ人の石工の存在を無視することができません。
では、さらにいくつかの石造物を見てゆきたい思います。
まずは、猿石をジックリと見てください。


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『猿石の謎』

実は、ここまでの事は僕が2003年8月2日に『新しい古代日本史』サイトで書いたことです。
オリジナルは次のリンクをクリックすると読めます。

『ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た』


『ペルシャ人が飛鳥にやってきた』より
(2007年4月6日)

あらっ。。。 懐かしいですわァ~。。。 確かに上のような事をしゃべったことがありましたわァ~。。。

そうでしょう!? それで獅子が出てくるから伎楽はペルシャの流れを汲んでいると僕は思ったわけですよ。

でも、伎楽の中にはペルシャの影響が実際にあるのでござ~ますか?

ありますよ。 伎楽の中で使われているお面、つまり、伎楽面を見てください。


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 酔胡従【胡国(ペルシャ)の人】


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  力士


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  呉公


(gagaku05.jpg)
  呉女

あらっ。。。一番上のお面はペルシャ人なのですわねぇ~。。。

そうなのですよ。 しかも「呉公」「呉女」とは呉の国に住んでいる男と女ということですよ。 つまり、お面の名前を見ても、伎楽がもともと呉の国の音楽だということが判るのですよ。

でも。。。、でも。。。、喜楽 美弥子さんが『徒然ブログ』にアクセスして『伎楽は呉の音楽?』を読んだという証拠がないではありませんか! テレパシーなどという とってつけたようなお話では納得がゆきませんわァ~。。。

もちろん、テレパシーと言ったのは半分冗談ですよ。。。 実は、美弥子さんがコメントを書いてくれたのです。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

信用できないのなら、ここに貼り出すから、卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。


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『拡大する』

『伎楽は呉の音楽?』

上のページの下の方で赤枠で囲んであるところですよ。。。 見えにくいので、ここに書き出します。

 

 

「伎楽」という芸能は 飛鳥時代(612年)に

百済の味摩之(みまし)という人が

伝えたとしたら

ずいぶん古い芸能なのですね。

ペルシャ人が飛鳥にやって来たというのは、

ちょっと意外でした。

でも、伎楽面を見ると、

ペルシャの影響が実際にあると

分かるような気がいたします。

ついつい引き込まれて

最後まで読んでしまいました。

ありがとうございました。

では…

 

Posted by 喜楽 美弥子

at 2017年01月24日 11:50


『伎楽は呉の音楽?』のコメント欄より
(2012年11月20日)

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あらっ。。。喜楽 美弥子さんは、おきれいな方なのですわねぇ~。。。 でも、どこかで見かけたような気がいたしますわァ~。。。

それは卑弥子さんの気のせいですよ。。。

そうかしら。。。?

とにかく、これでテレパシーでないことがよ~♪~く分かったでしょう!?


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは 伎楽に関心がありますか?

お暇があったら、天皇陛下御在位二十年東京都慶祝の会の雅楽を見てくださいまし。。。


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ところで、話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



(hama10.jpg)

『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


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『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


(zurose2.jpg)

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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愛は降る星のかなたに

2016年12月25日

 

愛は降る星のかなたに

 


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ケイトー。。。 なんだかロマンチックなタイトルじゃない!?


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シルヴィーもそう思う。。。

でも、どうして急にロマンチックな気分になたのォ~?

あのねぇ~、僕は急にロマンチックな気分になったわけじゃないのですよ。 この話題は2013年9月14日に書いた次の記事の続きなのですよ。


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このホテルが麻薬の売人の溜まり場なのォ~?

やだなあああァ~。。。 シルヴィーはどうして。。。、どうして、麻薬にこだわるのォ~? 

別に拘(こだわ)っているわけじゃないけれど、なんだか、やばい雰囲気のホテルじゃない!? なんだか、アメリカの禁酒法時代のアール・カポネが泊まっていそうなホテルじゃないのォ~!

あのねぇ~、実は、このホテルは昔。。。 つうかあああァ、1920年代、30年代には ”Cathay Hotel”と呼ばれて世界的に有名なホテルだったのですよ。 その当時のアメリカ映画などにもよく出てきます。 上海市の中心部・外灘(ワイタン、The Bund)に面して建っていて、かつて世界的なユダヤ人の財閥、サッスーン・ファミリーが所有していたビルですよ。

あらっ。。。 ケイトーってぇ、詳しいのねぇ~。。。

僕は歴史にはまっているので、かつてゾルゲ事件を調べたことがある。 そしたら、リヒャルト・ゾルゲの仲間の一人、もと近衛内閣のブレーンで、日中戦争を推進した朝日新聞記者の尾崎秀実や、アメリカ人のジャーナリスト、アグネス・スメドレーなどがこのホテルのバーなどにやって来ては情報を交換していたのですよ。

でも、それが“007 Skyfall”の映画と関係あるのォ~?

あるのですよ。 上海が映画に出てくるのですよ。


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Skyfall 上海シーン

あのねぇ~、僕は当然のことながら和平飯店(Peace Hotel・旧cathay Hotel)が出てくるのではないか? そう思いながら見ていたのだけれど、出てこなかった。 この20年の間に、上海の中心が外灘(ワイタン、The Bund)から浦東(Pudong)に移ってしまったようですよ。


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映画の中のホテルは浦東にあるホテルです。 しかも、僕が上海に行った当時は虹橋(ホンチャオ)空港に着陸した。 新しい上海国際空港はまだ無かった。


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この上の虹橋(ホンチャオ)空港が唯一の国際空港だった。 でも、今では、浦東新区に立派な上海国際空港ができている。


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僕が1991年当時、浦東(Pudong)を散歩した時には、高層建築は一つも無かった。 スラム街のような、町工場が密集しているような場所で、どこもかしこも工事中だったのですよ。 もちろん上海国際空港もまだ無かった。 それが20年の間に次のような高層建築ができてしまったのだからビックリしましたよ。


『宮沢百恵』より
(2013年9月14日)

どうして3年以上も前の記事を持ち出してきたのよ。。。?

その質問の答は、次のリストを見てもらえば解るのですよ。。。


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『拡大する』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の12月10日の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。

12月10日の日本時間で午後10時24分にYahoo!で検索して ケイトーの「徒然ブログ」にやって来て『愛情はふる星のごとく』を読んだのねぇ~。。。


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『愛情はふる星のごとく』

。。。で、「リファラ」の URL をクリックすると どのような検索結果が出てくるのォ~?

次のような結果になるのですよ。。。


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『拡大する』

『現時点での検索結果』

あらっ。。。 「尾崎秀実 不倫」と入れてYahoo!で検索したのねぇ~。。。

そういうことです。。。 7,230件ヒットするのですよ。。。 「徒然ブログ」に投稿した『愛情はふる星のごとく』がトップから2番目に出てくる。

それで“愛は降る星のかなたに”というタイトルを付けて 私をわざわざ呼び出したわけなのォ~?

そうです。。。 いけませんか? シルヴィーが、その記事にも登場しているのですよ。。。

島根県に住んでいる人が読んだのねぇ~。。。

シルヴィーは どうして島根県の人が読んだと判ったァ~。。。?

だってぇ~、「リモートホスト」に shimane と書いてあるじゃない!

シルヴィーは意外とネットに詳しいんだねぇ~。。。?

その程度のことは常識だわよう。。。

確かに島根県からアクセスしたのですよ。。。 島根県の松江市に住んでいる尾崎太郎さんがYahoo!で検索して『愛情はふる星のごとく』を読んだのです。


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『拡大する』

もしかして、尾崎秀実さんの親戚の方ですかァ~?

違います! 本名は出せないから、僕が勝手に付けた仮名です。。。 プライバシーを守らねばなりませんからねぇ~。。。 うへへへへへへ。。。

要するに、太郎さんは尾崎秀実さんが不倫したかどうか? その事に興味があったのねぇ~。。。

たぶんそうでしょう!?

。。。で、ケイトーは、どう思うのォ~。。。?

まず、『ウィキペディア』の次のページを読んでみてください。

尾崎 秀実(おざき ほつみ)

誕生: 1901年(明治34年)4月29日
刑死: 1944年(昭和19年)11月7日


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尾崎秀実は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動し、最終的にゾルゲ事件として1941年発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。

報知新聞記者の父・秀真(ほつま)の子として東京芝伊皿子町で生まれる。
5ヵ月後、父が台湾総督府の後藤新平の招きを受け、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、台湾で育つ。
台北中学、一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業、大学院で1年学んだ。

この前後に共産主義のシンパになるが、運動には携わらなかった。
たとえば、一高時代に森戸事件が起きたが、特に社会運動に参加はしていない。
しかし、大正12年の関東大震災で無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳になる甥が憲兵隊に殺害された事件に触発され、社会主義研究を始める。
テキストはマルクスの『資本論』をはじめ、レーニンの『帝国主義論』、『国家と革命』であり、中国問題に着目するようになったのはカール・フォーゲルの『目覚めつつある支那』を読んでからである。

上海へ

昭和2年10月から翌年の大阪朝日新聞の支那部に籍を置く。
この大阪赴任中、一高の先輩で日本共産党員の冬野猛夫に会い、影響を受ける。
上海に渡る直前に、一高、東京帝大で同期でドイツ帰りの羽仁五郎から現地の新聞の研究・分析の重要性について教わる。
その後、特派員として昭和2年11月に大阪朝日新聞社上海支局に転勤し、英語とドイツ語に堪能な尾崎は、太田宇之助支局長のもと外交方面を受け持つことになる。

上海滞在中、内山書店に通い、店主の内山完造や、そこに出入りする郭沫若や魯迅、中国左翼作家連盟の夏衍と交際する。
また中国共産党とも交流した。
昭和3年11月、イレーネ・ワイテマイヤーが経営するツァイトガイスト(ドイツ語で「時代精神」の意)書店でアグネス・スメドレーに会い、コミンテルン本部機関に加わり諜報活動に間接的に協力するようになる。

さらに、常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
彼を通じてモスクワへ渡った南京政府の動向についてのレポートが高く評価され、南京路にある中華料理店の杏花楼で、ゾルゲから自分はコミンテルンの一員であると告げられ、協力を求められ、承諾する。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった汎太平洋労働組合(PPTUS)書記局に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。


出典: 「尾崎秀実」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ゾルゲ事件」というのは国際的な事件だったから聞いたことがあるけれど、尾崎秀実がこの事件に関わっていたということは知らなかったわ。

日本の昭和史では有名な人ですよ。

。。。で、尾崎秀実は マジで不倫してしまったのォ~?

あのねぇ~、尾崎秀実の妻の英子さんという人は秀実の兄の配偶者だったのです。

つまり、兄の妻が亡くなったので、その妻を弟の尾崎秀実が面倒を見るために結婚したということォ~?

違うのですよ。 まだ兄さんが生きている間に弟の秀実さんは兄さんの嫁さんと愛し合ってしまったのですよ。

あらっ。。。 それってぇ、不倫になるのじゃないのォ~?

世間では、そういう風に見られてしまう。

戦前の日本では姦通罪は厳しかったんじゃない?

そうですよ。 不倫は戦前の日本では立派な犯罪だった。 でもねぇ、一族の間の問題だから、あまり派手に裁判で騒ぎだてるわけにもゆかなくて、結局、二人は不倫の果てに結婚することになったのですよ。

要するに、二人は相思相愛の仲だったわけね? でも、尾崎秀実はスパイ罪で投獄されてしまったのでしょう。。。?

そうです。 尾崎秀実は拘置所に入っている間に、こまめに妻子に宛てて手紙を書いたのです。 その手紙を尾崎が刑死してから英子さんが書簡集として出版したのが『愛情はふる星のごとく』という本なのですよ。


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あらっ。。。 ラブレターを出版したのォ~?

あのねぇ~、拘置所から手紙を出したのです。 当然、検閲がある。 だから、シルヴィーが期待するようなラブレターは書けないのです。

じゃあ、それ程面白い書簡集じゃないのねぇ~?

でもねぇ~、この『愛情はふる星のごとく』は隠れたベストセラーになったのですよ。 手紙を読むと、あの息も詰まるような戦争中に自分の意志を貫き通して生きる尾崎の姿が見えてくる。 しかも、行間には妻子を思う夫としての尾崎、それに父親としての尾崎の愛情がにじみ出ている。 そういうところが特に女性の共感を得たようです。

あらっ。。。 そうなのォ~? もし英訳が出ているのなら私も読んでみたいわァ~。。。

でもねぇ~、一部では、尾崎は上海でアグネス・スメドレーと情交を重ねていたという人もいるのですよ。

アグネス・スメドレー (Agnes Smedley)


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1892年2月23日 – 1950年5月6日)

アグネス・スメドレーはアメリカ合衆国のジャーナリスト。
中国大陸の近代事情、特に中国共産党に関する著作で知られる。
第一次世界大戦においてはインドの英国からの独立のためドイツ政府からの経済援助を受けながら合衆国内で活動し、世界革命論を促進するコミンテルンのために共に長期間活動している。
コミンテルンから資金援助を受けて対外宣伝活動を行っていた。

スメドレーは1892年にミズーリ州のオスグッドで農家の5人兄妹の1人として生まれた。
10歳の頃コロラド州へ移り、学校へと通いながら家計を助けるために働いていた。
彼女は正規の教育を受ける機会はなかったが、学習に対する興味は失わなかった。
1911年から1912年にかけて、スメドレーはアリゾナ州テンピの師範学校で特待生として学んだ。
学内では学生新聞の編集を行っている。

その後、スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。
この地で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。
ニューヨークではマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。
インド人の共産主義者ヴォレンドラナート・チャットパディア(Virendranath Chattopadhyaya)と関係を深めると、彼とともにドイツへ渡った。
1929年には初の自伝を書き上げている。

チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。
上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。
尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。

このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。
スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。

スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。
中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。
1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。
このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。

その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。
この間数冊の著作を執筆した。
印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。
戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。

スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。
その翌年の1950年に、米下院下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した。


出典: 「アグネス・スメドレー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、尾崎秀実さんは上海でアグネス・スメドレーと不倫していたということォ~? それってぇ ヤバいんじゃない!?

いや。。。 僕は、そういう事はなかったと思うのですよ。

でも、誰が尾崎とアグネス・スメドレーが不倫していたと言いふらしたのォ~?

あのねぇ~、1946年2月、アメリカに在住していたスメドレーを石垣綾子が訪ねた時に、スメドレーは石垣から、尾崎が1944年にすでに刑死していると聞かされたのです。 その時、スメドレーが「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」と絶句したと言うのですよ。

石垣 綾子


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(1903年9月21日 – 1996年11月12日)

石垣綾子は、評論家、社会運動家。
東京生まれ。
自由学園卒業。
1926年米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
のち画家・石垣栄太郎と結婚する。
日中戦争、太平洋戦争中は、日本兵に対する反戦の呼びかけ運動を行う。

1951年にマッカーシズムにより、国外退去となり帰国、1955年「主婦という第二職業論」で「第一次主婦論争」の火蓋を切る。
以後女性問題で活躍した。
その女性論はしかし、裕福な家庭に生まれ優れた能力を持ち理解ある伴侶に恵まれた者のブルジョワ女性解放論でしかなく、むやみと「愛」を強調するばかりだという意見もある。

ほかに、滞米時に交友があった、パール・バックの作品の翻訳、スメドレー伝などがある。


出典: 「石垣綾子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尾崎が結婚していることはアグネス・スメドレーは初めて会った頃から知っているのです。 だから、スメドレーが尾崎と結婚するはずがないのです。 また、そのような記録もない。

でも、石垣綾子はスメドレーが「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」と絶句したのを目撃したのでしょう?

あのねぇ~、スメドレーにとって尾崎は東洋人としては他に得がたい友人であり、また同じ志を抱いていた同志だったはずなのです。 それだけに尾崎が刑死したという事を知らされた時のショックは、まさに“自分の夫”が亡くなったような衝撃を受けた。 その気持ちを「私の夫は亡くなっていたのォ~!?」という言葉で表現したのですよ。

つまり、石垣綾子はスメドレーの言葉を文字通りに受け取ってしまったわけねぇ~?

それ以外に考えられないでしょう!


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは どう思いますか?

ところで、スパイ活動は昔の上海ばかりではありません。

現在の日本でも、スパイ活動は行われているのです。

例えば、CIAの経済スパイは日本に浸透しています。

かつて岸信介首相は、1960年に新安保条約の締結を強行した人物でした。

今では、CIAから多額の資金援助を受けていたことが分かっています。


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情報担当のアメリカ国務次官補ロジャー・ヒルズマンによれば、

1960年代の初めまでにCIAから日本の政党と政治家に対して

提供された資金は、毎年200万ドルから1000万ドルだったと言います。

その巨額の資金の受け取り手の中心は岸信介氏だったというのです。

あなたは信じることができますか?

ところで、シルヴィーさんのことをもっと知りたかったら次の記事を読んでください。


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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


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『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』

『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』

『スカートをはいた兵隊』

『行田シンドローム』

『幻の暴走機関車』

『CIA@NOパンツ』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(linger65.gif)

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下着・ランジェリーを見つけませんか?』

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(beach02.jpg)

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(rengfire.jpg)


(byebye.gif)

CIA@NOパンツ

2016年12月12日

 

CIA@NOパンツ

 


(cia501.jpg)


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(nopan05.png)


(sylvie500.jpg)


(sylviex.jpg)

ケイトー。。。 どういうわけで またCIAと NOパンツを取り上げるのよゥ~?


(kato3.gif)

いけませんかァ~?

だってぇ~、CIAと “ノーパン”が関係あるなんて誰も思わないわよ。

いや。。。、中には関係あると思う人もいるのですよ。。。 次の「生ログ」を見てください。


(liv61208a3.png)

『拡大する』

これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の12月7日の「生ログ」の一部ですよ。

12月7日の日本時間の零時44分にYahoo!で画像検索してケイトーの『徒然ブログ』にやって来たネット市民がいたのねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

。。。で、「リファラ」の URL をクリックすると どんなページが出てくるの?

次の検索結果が出てくるのです。


(yah61208c.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

あらっ。。。 「ノ-パンしゃぶしゃぶ国内」を入れて画像検索したのねぇ~。。。

そうなのですよ。。。

それで、検索したネット市民は 赤枠で囲んである画像をクリックしたのォ~?

そうです。。。 赤枠の写真をクリックすると次のページが出てきます。


(yah61208c2.png)


『拡大する』

『CIAとノーパン』

画面の下の赤枠で囲んだ箇所に注目してください。

あらっ。。。 ケイトーが4月26日に『徒然ブログ』に投稿した『CIAとノーパン』のリンクが出てくるのねぇ~。。。

そうです。。。 この人は「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」について、もっと詳しく知ろうとしたのですよ。

大蔵省接待汚職事件


(nopan01.png)

大蔵省接待汚職事件とは、1998年に発覚した汚職事件である。
ノーパンしゃぶしゃぶ事件とも言われている。

官僚7人(大蔵4人、大蔵出身の証取委1人、日銀1人、大蔵OBの公団理事)の逮捕・起訴に発展。
起訴された官僚7人は、執行猶予付きの有罪判決が確定した。
この責任を取り三塚博大蔵大臣と松下康雄日銀総裁が引責辞任した。

第一勧業銀行利益供与事件における、大蔵省の検査の甘さが総会屋への焦げ付き融資拡大になった問題が浮上したことがきっかけで、東京地方検察庁特別捜査部(東京地検特捜部)は捜査を開始(総会屋利益供与事件)。

特捜部は過去の強制捜査や任意提出で都市銀行、長期信用銀行、大手証券会社などから業務日誌や接待伝票を把握した。

1998年1月18日、東京地方検察庁特別捜査部は日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際し、野村證券から贈賄があったとして、公団経理担当理事(大蔵省OB)と、野村證券の元副社長らを贈収賄容疑で逮捕。

1月26日、東京地検特捜部はあさひ銀行・第一勧業銀行・三和銀行・北海道拓殖銀行から収賄を受け検査日程を漏らしていたとして、大蔵省検査官2名を逮捕。

3月5日、東京地検特捜部は、大蔵官僚2名を野村証券への便宜供与と収賄にて逮捕。

3月11日、東京地検特捜部は日本興業銀行・三和銀行から収賄を受け機密情報を流出させたとして、日銀証券課長を逮捕。

4月27日、大蔵省は民間金融機関に関する内部調査の結果を公表し、銀行局審議官の杉井孝を停職、証券局長の長野庬士らを減給とする等、計112人(停職1人・減給17人・戒告14人、訓告22人、文書厳重注意33人、口頭厳重注意25人)に対する処分を行った。


出典: 「大蔵省接待汚職事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こういう事件が起きて、かつて日本中が大騒ぎしたのです。

。。。で、“ノーパンしゃぶしゃぶ”ってぇ、どういうことなのォ~?

つぎのようなモノなのですよ。

ノーパンしゃぶしゃぶ


(nopan05.png)

ノーパンしゃぶしゃぶとは、エンターテインメント・レストランの一種。
実態はノーパンの女性店員が接客するしゃぶしゃぶ料理店、もしくは風俗店である。

東京・新宿の高級ノーパンしゃぶしゃぶ店が、大蔵省接待汚職事件で大蔵官僚(当時)接待の舞台のひとつとなっていたことが報じられたことから、1998年(平成10年)頃に話題となった。

多くの店では床を鏡張りにして、覗きやすいようにしていたともいい、高い所にアルコール飲料を置き、女性従業員がそれらを取ろうとして立ち上がることで、スカートの中を覗きやすくしていたともいう。
ただし、ストリップのように女性器を積極的に披露することはしない。
また、女性従業員の上半身もスケスケの衣装や、下着をまとわないいわゆる裸にエプロンにしているケースが多いという。


(apron7.jpg)

起源は京都発祥のノーパン喫茶にあるとみられ、他にもノーパン焼肉などがある。

1998年(平成10年)に発覚した「大蔵省接待汚職事件」では、銀行のMOF担とよばれる行員が旧大蔵官僚を接待する際に、東京都新宿区歌舞伎町の高級ノーパンしゃぶしゃぶ店 「ローラン(楼蘭)」を使っていた事が、マスメディアに暴露され話題となった(事件発覚後、その官僚の1人が不可解な自殺をしている)。

なぜ通常の風俗店でなく、こういう店を利用したのかは、飲食費として領収書が落とせる、というのが理由として挙げられている。

現国会議員の岸本周平(元・大蔵省官僚)は、初当選前の2008年に、国家公務員時代に自費ならまだしも、接待で複数回利用して、その後大問題となり、同僚を失い「大きな過ちであった」と反省している旨、自身のブログで記述している。

元顧客のブログ情報によれば、外国からの賓客が「スペシャル・しゃぶしゃぶ」が食べたいと言ってきた場合、それはノーパンしゃぶしゃぶの意味だったといい、日本のエグゼクティブ向け接待文化の一部にさえなっていた。

ローラン(楼蘭)のシステム


(nopan06.jpg)

「大蔵省接待汚職事件」の余波で閉店した「ローラン(楼蘭)」の場合、会員制を敷いていた。
ただし、閉店後に流出した顧客名簿から抽出した当時の主要公職者のリストからみて、本人確認さえできればゴルフ場などと同じくビジターとして利用できたとみられる。

また、当該リストの中に自らの利用経験を明かしていた岸本周平の名前がないこと、大蔵省が処分を行った職員が計112人(管理不行届等を含む)にのぼることから、本省課長級以下のキャリア官僚も多く顧客となっていたと考えられる。

「大蔵省接待汚職事件」の報道から、中央省庁の中で利用したのは大蔵省や日銀の幹部と思われがちだが、主要公職者の顧客リストでは旧厚生省、旧通産省、農水省が多く、次いで旧建設省、旧運輸省、旧郵政省などとなっている。
顧客リストの中には後に宮内庁長官となった官僚の名もみられる。

また、利用当時の所属官庁こそ異なるものの、日本最大の公益財団法人の現会長と現理事長がともに顧客リストに入っている。

接待での利用や著名人の利用が多かった地下3階の個室では、ノーパンで接待する女性の股間をクローズ・アップできるCCDカメラと液晶モニターが完備され、懐中電灯(ペンライト)で照らすオプション・サービスもあった。

ホステスは18~20歳の女性を中心に、元顧客のブログ情報によれば名門大学の女子大生など良家の子女のアルバイトも珍しくなかったといい、これが高額にもかかわらず人気を持続した理由のひとつとなっていたが、応対に来たホステスが自分の娘だったという悲喜劇等も起きたとされる。


出典: 「ノーパンしゃぶしゃぶ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 日本では けっこう破廉恥なことをやってたのねぇ~。。。!?

面白いでしょう!?

面白くないわよ! なんだかエログロ・ナンセンスじゃない! みっともないと思うわァ~。。。 つまり、ノーパンしゃぶしゃぶ事件というのは、エロい汚職事件なのねぇ~。。。?

そういうことですよ。。。

。。。で、CIAがどこに絡(から)んでいるのォ~?

その説明をする前に、ちょっと次の小文を読んでみてください。

官僚と汚職

By 池田勇人


(ikeda001.jpg)

大蔵省の組合の幹部は、みな私の古くからの友人である。
一つ釜の飯を食った連中だから、行政整理なども比較的円満にゆく。
大蔵省に関する限り不平はあまり聴いていない。

しかも熱心に働いてくれることは大したもので、日曜でも予算編成の関係で出勤しろと言えば、文句も言わず、会議に出てくれる。
ありがたいと思っている。

ただ私が遺憾に思うのは、税務管理の汚職問題である。
昔からよくあることだが、税金が高い時代になると汚職が行われる。

自分の生活が苦しいところへ、いろいろな誘惑が来る。
その防止策として内部に監督機関を設けたりしているが、税務管理が急激に増えたために、年の若い官吏が多くなった。

一方ますます誘惑が多くなる。
そこで時々汚職事件が起こるので困っている。

これについては一般の国民が税務官吏に汚職をさせないように自分一人が賄賂を使って税金を安くしてもらおうなどという気持ちを、絶対に起こしてもらいたくないと思う。
もちろん税務官吏を充分に戒め、教養を施すなど、あの手この手で汚職の防止に努める覚悟である。

【昭和27(1952)年2月号】

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


114-115ページ
『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第1巻】終戦から高度成長期まで
編集人: 石橋俊澄
平成27(2015)年7月21日 発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

この文章を書いたのは当時の大蔵大臣の池田勇人氏なのですよ。。。 この8年後に日本の総理大臣になる人物です。。。 この人が言うように昔からよくあることだが、税金が高い時代になると汚職が行われるのですよ。。。 だから、大蔵官僚の汚職事件は珍しいことではなかった。

でも、いけないことでしょう!?

もちろんですよ。。。 だから、池田大蔵大臣もあの手この手で汚職の防止に努める覚悟であると、言ってるわけです。

。。。で、CIAは、どのように関係してるのォ~?

ちょっと次の記事も読んでみてねぇ~。。。

特捜部は米国と深い関係


(tokuso02.jpg)

歴史的に特捜部は米国と深い関係をもっています。
まず1947年、東京地検特捜部が占領下で、GHQのために働く捜査機関として発足します。

敗戦直後は、それまで旧日本軍が貯蔵していた莫大な資材が、さまざまな形で横流しされ、行方不明になっていました。
1945年10月にはGHQ自身が、東京の三井信託の地下倉庫からダイヤモンドをなんと16万カラットも接収しています。


(diamon9.jpg)

そうした不当に隠された物資を探し出して、GHQの管理下に置くことを目的に設置された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が、東京地検特捜部の前身です。
「GHQの管理下に置くことを目的にする」という点に注意してください。
つまり、GHQのために「お宝」を見つけ出す特別の捜査機関。
それが東京地検特捜部の前身だったのです。

 (中略)

過去の東京地検特捜部長のなかで、もっとも興味をひくのは布施健(ふせたけし)でしょう。
彼は戦前、ゾルゲ事件の担当検事として有名でした。
私はこの事件が1941年9月に発覚し、対米戦争の回避を模索していた近衛内閣が崩壊する一因となった裏には、米国の工作があったと考えています。
ゾルゲと親交のあった尾崎秀実は上海でアグネス・スメドレーと親交を結びますが、このスメドレーは1941年に米国国内で、対日戦争の呼びかけを行っていました。

いずれにせよ、G2のウィロビーはゾルゲ事件の報告書をまとめて陸軍省に送っていますから、ウィロビーと布施には密接な関係があります。
さらに布施は、一部の歴史家が米軍の関与を示唆する下山事件(国鉄総裁轢死事件)の主任検事でもあります。

そして田中角栄前首相が逮捕されたロッキード事件のときの検事総長でした。

ゾルゲ事件といい、ロッキード事件といい、いずれも闇の世界での米国の関与がささやかれている事件です。
そのすべてに布施健は関わっています。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


83-85ページ 『戦後史の正体』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 創元社

『田中角栄と軽井沢』にも掲載
(2016年4月21日)

つまり、東京地検特捜部が関わっている事件は 米国と。。。、ひいてはCIAと深い関係がある、とケイトーは思うのォ~?

いや。。。 僕が言い出したわけじゃなくて、そのように考えている人も多いのですよ。。。

でも、それは、単なる個人的な意見でしょう?

あのねぇ~、1992年12月8日、アメリカの政策研究機関であるケイトー研究所は、スタンレー・コバーの「経済スパイとしてのCIA」という論文を発表したのですよ。。。それには次のように書いてある。


(gates009.jpg)

CIA長官ロバート・ゲイツは1992年4月13日、デトロイト経済クラブで“ナショナル・セキュウリティ・レビュー (ブッシュ大統領の下で国家安全保障を検討した組織)”は、情報部門の問題として国際経済問題の重要性に焦点を当てた。

新たな要請の約40%が経済問題である。

1992年夏、上院情報委員会は米国企業トップと情報専門家と会合した。

この会合では経済スパイや工作の必要性について熱心に議論された。

ターナー元CIA長官がのべた「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。 われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」という論は多くの参加者に支持された。


出典: 「経済スパイとしてのCIA」

つまり、アメリカは日本を対象にして経済スパイを送り込んだと言うのォ~?

そういうことですよ。

でも、上の論文から、そう断定するのは、ちょっと早合点じゃないのォ~?

状況証拠ならば、まだあるのですよ。。。 次の記事も読んでみてね。

元駐日大使アマスコトは90年代半ばに次のようにのべています。


(amascot.jpg)

「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなったのに、現実の前進はまことに微々たるものである。

その理由を求めるのはむずかしくない。

最も巧妙かつ執拗な抵抗は、他ならぬ官僚機構によるものである

 (中略)

このアマスコトの発言は実に興味深いものです。

「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなった」

つまり90年代半ばには政治家レベルでの抵抗は少なくなったということです。

だからあとは抵抗を続けている官僚機構をつぶせば、米国の思うようになると言うのが、アマスコトの考えです。

こうしてアマスコトの考えに応じるかのように、日本国内では官僚たたきが激しくまりました。

1998年に起こった「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」 (略) はその典型でした。

この事件が大きく報道された結果、官僚イコール悪というイメージが国民の間に定着し、省庁再編で大蔵省は分割されてしまったのです。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


326-327ページ 『戦後史の正体』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 創元社

池田勇人・元大蔵大臣も言ってたように 官僚の汚職事件など別に珍しいことではなかったのですよ。

つまり、アメリカはCIA経済スパイを使って 日本の官僚機構を弱体化するために、1998年の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」を利用した、とケイトーは言うのォ~?

いや。。。 僕が言ってるわけじゃなくて、上の記事を読めば、そうとしか考えられないでしょう!?。。。 要するに、戦後の日本では、政治家には、あまりたいした人物は出てこなかった。。。 政治家は選挙区へのサービスに忙しかった。。。 かろうじて通産省や大蔵省などの官僚機構が「シンクタンク」の機能を果たして日本の舵取りをしていたのですよ。。。 それで、日本は経済大国になることができた。

つまり、そのシンクタンクとしての日本の官僚機構を弱体化すれば、日本の国家戦略はダメになると思い、それでアメリカはCIAの経済スパイを使って、東京地検特捜部に働きかけ、大蔵省を分割するように仕組んだと言うわけぇ~?

そういうわけですよ。。。 それには1998年の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」は理想的な事件だったわけです。


(laugh16.gif)

【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは どう思いますか?

それほどまでに、CIAの経済スパイは日本に浸透していると思いますか?

かつて岸信介首相は、1960年に新安保条約の締結を強行した人物でした。

今では、CIAから多額の資金援助を受けていたことが分かっています。


(kishi119.jpg)

情報担当のアメリカ国務次官補ロジャー・ヒルズマンによれば、

1960年代の初めまでにCIAから日本の政党と政治家に対して

提供された資金は、毎年200万ドルから1000万ドルだったと言います。

その巨額の資金の受け取り手の中心は岸信介氏だったというのです。

あなたは信じることができますか?

ところで、シルヴィーさんのことをもっと知りたかったら次の記事を読んでください。


(sylvie500.jpg)


『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

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『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

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(byebye.gif)

スカートをはいた兵隊だよ

2016年10月16日

 

スカートをはいた兵隊だよ

 


(kilt002c.jpg)

太平洋戦争中のチャンギー捕虜収容所


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占領前、チャンギー要塞の中にあった刑務所が、現在は捕虜収容所になっている。
その中で、捕虜どうしの慰安のために、園芸や芝居が行われているという。
進藤に収容所長に連絡して貰い、翌日、小津(安二郎)は厚田と浜田を連れてチャンギーに行った。
「日本側としては見てもらっても結構なのですが、自治組織になっている捕虜の委員たちが、一応お会いしてからご返答するといっています」
少将の階級章をつけた所長はそういうと、案内役もつとめる通訳の大尉を呼んだ。

12畳ほどの部屋に案内されると、ソファーから3人の男たちが立ち上がった。
通訳の紹介によれば、イングランド、スコットランド、オーストラリア各軍の将校だという。
「大尉、皆さんの階級を教えてくれませんか。 失礼があるといけない」
「ジュネーブ協定によって、将校と兵は区別しています。 しかし、この3人は元の階級は持っていても、現在は捕虜です。 階級の区別を知る必要はないでしょう」
小津はやんわりとした物言いで答えた。
いや、それは君の考え方で、こちらの人々には通じないだろう
捕虜は捕虜です
「私は軍人という人間に会いに来たんだ。 捕虜だろうとなんだろうと、軍人を紹介する場合に階級をいわないのは失礼だよ。 そのことを私は最初に遠廻しに言ったはずだよ」
3人は客である小津が立ったままでいるので座れない。
しかも、小津と通訳との間に激しい調子の言葉のやりとりが行われている。 驚いたように、2人の顔を見くらべていた。
「君は今私に敬語で話している。 それはなぜだい」
「あなたは左官待遇の軍属だと聞きました」
「つまり、軍属であっても、軍に関係ある人間である以上、階級を心得てものをいわなければならないと思っているからじゃないかい」
通訳は詰まった。

突然、女のスカートのような軍服を着ていた男が、英語で2人に何か説明しはじめた。
そのしぐさで、小津がこういい、通訳がこう答え、小津がこう反論したといっていることがわかった。
説明された2人が驚きの表情を浮かべて小津を見た。
「小津さん、私はマッコーミック中佐、こちらはハーリントン少佐、それからこちらがタッパー大尉です」
幾分発音に外人特有のアクセントはあったが、完璧に近い日本語だった。
「私は昭和15年まで京都の大学で英語を教えていました。 あなたの映画も見ています。 お会い出来て嬉しいです

赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)


397-398ページ
『絢爛たる影絵-小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社


(sylviex.jpg)

ケイトー。。。「スカートをはいた兵隊」というのは「キルト」をはいたスコットランドの兵隊さんのこと?


(kato3.gif)

当然そうでしょうね。

「スカート」なんて言ったら、スコットランド兵を侮辱することになるんじゃない?

僕が言ったのじゃありませんよ。 上の本の中に、そう書いてある。

ケイトーは、もちろん「スカート」ではなく「キルト」だと知っていたのでしょう?

もちろんですよ。 カナダにいればキルトをよく見かけますよ。 お祭りと言えば必ずと言っていいほどキルトをはいたスコットランド人が登場してバッグパイプを演奏しますからね。 もう何度も目にしていますよ。 カナダでキルトのことをスカートなんて言う人はまず居ませんよ。

キルト(kilt)


(kilt003.jpg)

キルトはスコットランドのスカート状の伝統衣装。
通常はタータン柄である。
キルトは英語名で、ゲール語ではフェーリア(Feileadh)と呼ばれる。
もともとはタータンの大きな布を独特の方法で腰に巻き、紐やベルト、ピンで留めていたもので、ハイランドの男性用衣装であった。
元来ハイランド人はゲール語を話したので、単にフェーリアと呼ばれていたが、この古典的なスタイルのキルトは現在フェーリア・モール(Feileadh Mor)またはベルテッド・プラッド(Belted Plaid)、ときにブレアカン・モールと呼ばれている。

18世紀中盤以前のハイランドではキルト=フェーリアを普段から身に着けることは一般的だったが、ハイランド人がみなキルトを着ていたわけではなく、ズボンの類を着用していた記録も少なくない。

1746年、カロデンの戦いの勝利によってジャコバイトの反乱を制圧したものの、反乱の再発を恐れた政府は、ジャコバイト軍の中心となっていたハイランダーの結束を弱めるためにクランの解体を図り、クラン姓の使用やバグパイプの演奏の禁止と共に、キルトやタータンを含む民族衣装の着用を禁止していた。
但し、ジャコバイトの反乱の際政府軍に与するハイランダーによって編成され、反乱の鎮圧にも貢献した第42ハイランド連隊(42nd Highland Regiment)は禁止の対象外とされ、この時代を通して同連隊の制服としてキルトは使用され続けていた。

現在のスコットランドにおいてはハイランド、ローランドを問わず、キルトは催しや祭礼で用いられる民族衣装となっており、最近は女性も身に着けるようになった。
ほとんどの場合はフェーリア・ベックであるが、フェーリア・モールを好んで着る人も見受けられる。
軍隊でのキルトは、ダンケルクの戦いに於いてクィーンズオウン・キャメロン・ハイランダーズ連隊が着用したのを最後に戦場では着られなくなったが、現在でもスコットランドの連隊の正装や礼装及び常装には使用されている。


(kilt002c.jpg)

赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)


出典: 「キルト (衣装)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

。。。で、どうしてキルトをはいたスコットランド兵を取り上げたの?

本の中に面白いことが書いてあったのですよ。

面白い事ってどういうことよ?

このページの冒頭の箇所に引き続いて次のような会話が出てくるのですよ。

「浜ちゃん、今夜、進藤さんと町に出て、5,6枚パンツを買ってきてくれや」
「え?」
「気がつかなかったのか。 マッコーミックさんソファーに座る時、スカートの下からこのくらいのものが見えたんだよ。 余程、困ってるんだな」
小津は2本の人差し指を立てて、10センチほどの間隔を作ってみせた。
「いえ、優にこのくらいはありましたよ」
全く聞いていないような顔をしていた厚田が20センチほどの長さに指を開いてみせた。

 (中略)

浜田はマッコーミックに小津がそれをどう渡すのかと、興味津々の思い出2人を見まもっていた。
小津はマッコーミックに連れられて、収容所の中を歩いている時を選んだ。
「えーと、……その……マッコーミック中佐、その……気を悪くして頂くと困るのですが、実はですね……さんざ考えたのですが、……どうも、その、……これという、うまい方法がないので……これですが、……受けとって頂けると、本当に有難いと……」
小津は人眼をさけるように、素早く紙包みを鞄から出すとマッコーミックに押し付けた。
「くれるんですか、私に。 なんですか」
マッコーミックは堂々たるものだった。 外人の習慣で、貰ったたものはすぐにあけて見る。
紙包みを破り、中の白い布で作られたものをとり出すと、ぱっと振った。
「おう……」
といったなり、そこに立ち止まってしまった。
見る見る中(うち)に顔が真っ赤に染まってくる。

小津も小津で眼のやり場がないように、その場所に釘づけになったままで顔を真っ赤にしていた。
厚田と浜田は困り果てた。
2人とも、お互いが必死になって笑いをこらえるために体が震えていたのがわかるのだ。
自分もさることながら、相手がそうしていることが、またおかしい。
我慢しきれなくなった浜田がついに吹き出した。
厚田が笑い、当の本人マッコーミックまでが笑い出した。
小津だけがまだ耐えている。
それが、今度は、3人におかしい。
「小津さん……あなた、武士の情け、武士の情け」 そういいながら、マッコーミックが肩を叩いた。
突然、小津が火山が爆発するように笑い声を上げた。


(changi08.jpg)

太平洋戦争中のチャンギー捕虜収容所

これには後日譚(ごじつだん)がある。
後年、あの下にはなにもはかないのが正式だと聞かされて、小津は顔色を変え、それは本当なのかと何度も問いただした。
好意でしたことが、マッコーミックを侮辱したことにはなりはしないか、マッコーミックが自分をかばってくれたのではないかということが気になったのだ。

赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)


399-401ページ
『絢爛たる影絵-小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社

うふふふふふ。。。おかしいわねぇ。。。

シルヴィーもおかしいと思う?

それはそうよ。。。うふふふふふ。。。でも、あの下にはなにもはかないのが正式なの?

いや、僕は絶対にそう思いませんよ。 第一、キルトの下に何も穿かないとしたら、クイーンと並んで写真を撮った時に、丸見えになってしまうことだってありますよ。


(kilt002.jpg)

そうよね。。。クイーンの向かって左に座っている兵隊さんが、もし何も穿いてないのならば、長いものがビローンと垂れ下がって見えてしまうわァ。 うふふふふふ。。。

でしょう!? だから、正式な時には絶対にパンツ穿かなければならないはずですよ。 そうでないとクイーンに対して失礼になりますよ。


(kilt001.jpg)

だから、ちゃんとこうしてパンツを穿いているのですよ。 (微笑)

そうよねぇ~。 クイーンが写真を見た時にキルトの中が丸見えになっていたら、やっぱり失礼よね。 うふふふふ。。。で、ケイトーは、このことを言うために「スカートをはいた兵隊」を取り上げたの?

やだなあああァ~、違いますよ。

。。。で、何が言いたいのよ。

あのねぇ~、実は、上の場面は大本営の依頼を受けて小津監督が国策映画を作ることになった。 それで日本軍が占領中のシンガポールへ行ったわけです。 英国軍の兵隊を映画の中で使わなければならないので、その役者を探しにチャンギー捕虜収容所に行ったわけです。 そのときのエピソードが上で引用した挿話です。

それで。。。?

僕はバンクーバー図書館でDVDを借りて “The Mystery of Rampo” を観たのですよ。


(rampo01.jpg)

この映画については、すでに2つの記事を書きました。

『拝啓、乱歩先生』

(2011年12月29日)

『スケートリンクと乱歩』

(2011年12月28日)

この映画がどうだと言うの?

この映画の中に日本帝国政府の検閲官が登場して乱歩先生が書いた小説『お勢登場(おせいとうじょう)』を発禁処分にするのですよ。

なぜ。。。?

実は、この小説は『大衆文芸』の1926(大正15)年7月号に掲載された。 でも、映画の中では検閲官が乱歩先生に発禁処分を言い渡す。 その結果、その内容は世間に公開されてないという設定になっている。 それにも拘らず当時の日本で、不倫している妻が病弱な夫を「長持ち」に閉じ込めて殺すという小説と同じ内容の事件が持ち上がる。 その殺人犯である静子という女性が映画のヒロインなのですよ。

映画の中では『お勢登場(おせいとうじょう)』がどういう理由で発禁処分になったの?

要するに妻の夫殺しが当時の日本の風紀を乱すというような理由なのですよ。

でも、そのような内容のミステリーならば欧米の推理小説には数え切れないほどあるじゃない。

その通りですよ。 ところが日本では、愚かとも思える言論統制が真面目に行われたのですよ。 太平洋戦争中に実際に行われた。 その良い例が「竹ヤリ事件」です。

島国根性に凝り固まっていた

帝国政府の政治家と役人は

英語を使うのを禁止した!


(jbeauty7.gif)

知っていますか?
太平洋戦争時代、日本帝国政府は今から考えれば愚劣と言えるほどの言論統制で国民をがんじがらめにしたのです。

その良い例が英語を使うな、という規制です。
野球で英語が使えなかった。
ストライクと言ってはダメなんですね。
じゃあ、何と言ったか?

「当たり」「一本」「良し」とか言ったらしい。
「ボール」も使えない。
「はずれ」とか「ダメ」とか言ったらしい。

愚かと言うより、こうなるともう滑稽ですね。
しかし、戦争当時、みんなが真面目にこう言いながら野球したらしい。
いっそのこと野球も敵性スポーツとして禁止すればよかったと思うのですが、帝国政府の親玉の中に野球の好きな人がいたらしい。

それなら、英語も使わせればよいと思うのに、そうはしなかった。こういうところが片手落ちなんですよね。

アメリカはどうだったか?
すっかり逆でした。

日本人が昔から親しんだ「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という『孫子の兵法』の中の有名な格言を忠実に守ったんですね。つまり、戦争に勝つためには日本人を知らなければならない。そのためには日本語を大いに学ばねばならない。と言う事でアメリカ政府は日本語学校を作ってそこで日本語を徹底的に学ばせて、日本人の研究人材を養成したわけです。

『菊と刀』で有名な著者ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)さんも政府から依頼を受けて「お国のために」日本人と日本文化の研究をしたんですね。彼女がレポートを提出した時には戦争が終っていた。それで、その研究に基づいて1946(昭和21)年に出版されたのが『菊と刀』です。この本の事を全く知らない人は次のリンクをクリックして僕の書評を読んでみてください。

『「菊と刀」 書評』

現在でも読まれています。すでに90版以上を重ねているはずです。僕は6度程読みましたが、読むたびに新たな感動を受けています。このべネデクトさんは日本で暮らしたことが一度もない人なんですね。もちろん日本へ行ったこともない。そういう人があれだけの研究成果を出したんですから、日本研究がどれだけ進んでいたかが良く分かるんです。アメリカ政府の採った政策は日本帝国政府がやった言論統制と比べると雲泥の差です。

しかし、日本にだって良識を失わない人たちも居たんですね。極めて少なかったですが。。。太平洋戦争下で唯一といってよい言論抵抗事件がありました。このことについて、ちょっと詳しく語ろうと思います。1944(昭和19)年2月23日の『毎日』新聞の竹ヤリ事件というのがこれです。

この記事を書いたのは37歳の新名丈夫記者でした。「竹やりなんかでアメリカに徹底抗戦なんてどうかしている」と言うような趣旨の事を書いてしまったんですね。もちろん、覚悟して書いたんです。うっかりして書いてしまったわけではないんです。

でも、当時の東条英機首相はこれを読んで激怒した。


(yesman.gif)

それで、頭にきたものですから、できれば書いた記者を死刑にしたい。でもいくらなんでもそんな無茶な事は出来ませんから、赤紙で徴兵して南方戦線に送り込もうとしたわけです。当時の常識として、南方戦線に送り込まれれば生きて帰れないということが分かっていました。つまり事実上の「死刑」です。いづれにしても、無茶な事をしたんですね。

当時軍部と帝国政府に真っ向から反対すれば、このような仕打ちが待っていたんです。だから、分かっていた人もおとなしく黙っていた。でも、新名記者はメディア人としての良識を持っていたわけです。アメリカを例に取れば、あのニクソン大統領を退陣に追い込む事になったウォーターゲート事件を暴露したワシントンポスト記者のボブ・ウッドワード(Bob Woodward)のような人だったわけです。

最近、命を懸けて記事を書くような新聞記者が日本にはいなくなりましたね。残念です。

この記事が発表された頃には、もう戦局は悪化していました。問題の記事が発表された前年、1943(昭和18)年には、まず2月、ガダルカナル島で日本軍の撤退が開始されました。これを契機に、米軍は一挙に攻勢に転じたわけです。以後、5月にアッツ玉砕、11月にはマキン・タラワ全滅と戦局は日々悪化していきました。1944年2月17日には「日本の真珠湾」と米軍から呼ばれた作戦の最重要拠点、トラック諸島が米軍の手に落ちてしまいました。

軍部でも、帝国政府でも太平洋戦争の敗北はすでに決定的となったと考える人がでてきました。しかし国民には「勝った、勝った」という虚偽の情報以外は一切知らされていなかったんですね。そのためにも言論は厳しく統制されたわけです。

新名さんは海軍記者となって以来半年間にわたって主力艦隊に乗り組み、戦況を自分の目で確かめていた。戦況が悪くなっていた事も充分に知っていた。陸海軍が対立し、飛行機生産のためのジュラルミン三十万トンの大部分を陸軍が本土決戦用に抑えて出さないという内幕もキャッチしていたほどです。

マーシャル陥落の発表を大本営が20日間もためらって大騒動を演じているのを見た新名記者は決意を固め、一大プレスキャンペーンを社に上申しました。メディア人としての良識です。「日本の破滅が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の醜い相克を知りません。今こそわれわれ言論機関が立ち上がるほかはありません」
そのように便せんに書いて、吉岡文六編集局長に上申したのでした。
「よし、何とかして国民に知らせるほかない」と決意した吉岡局長は社外の大物に書かせようと、まず元中国駐劉大使・本多熊太郎氏に交渉しました。しかし、「検閲があっては書けない」と断わられてしまいました。

結局、編集会議の結果、新名さんが指名されました。当時の記事は、もちろん検閲を受けなければならなかったのです。しかし、海軍担当の新名記者が執筆したものは海軍省の検閲だけでよく、各社のキャップの書くものは無検閲でよいという紳士協定になっており、その特典を利用したのです。

「書けば東条から懲罰召集を喰らうかも知れない。社もつぶされるかも知れない。殺されるかも知れない」
新名記者は悲壮な覚悟で執筆したのでした。実際、その通りになってしまい、ハチの巣をつついたような騒ぎとなったのです。新名記者は責任を感じ辞表を提出しました。しかし、吉岡局長は突き返し、逆に金一封の特賞を出したのです。その代わり、3月1日に吉岡局長、加茂勝雄編集次長兼経理部長は責任をとって辞任しました。

しかし、こんなことで東条首相はおさまりません。東条さんは情報局次長村田五郎を呼びつけて「竹ヤリ作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と指示したのです。村田さんは答えました。「廃刊するのはわけありません。紙の配給を止めれば、毎日は明日から出ません。ただし、よくお考えになってはいかがですか。毎日と朝日は、いまの日本の世論を代表しています。その新聞の一つがあのくらいの記事を書いた程度で、廃刊ということになりますと、世間の物議をかもす、ひいては外国から笑われることになるでしょう」

東条首相も馬鹿ではありませんから、この説得が効いたのでしょう。廃刊は引っ込めました。しかし、陸軍からの新名さんへの執拗な処罰要求が出されたのです。そういうわけで、新名記者に対して陸軍から懲罰召集が強行されたわけです。

極度の近視ですでに徴兵検査で兵役免除になっていた37歳の新名さんへの再度の徴兵でした。海軍省は「新名は報道班員としてパラオ派遣が決定しているので、召集を延期されたい」と陸軍省に申し入れたのです。陸軍省はこれを突っぱねました。しかし、海軍も負けてはいられないと大運動を展開して、なんとか召集を解除させたのです。

ところが、陸軍中央から絶対に還すなという厳命がきており再度召集があり、丸亀連隊へ一人だけの中年二等兵の入隊になったのです。これはもう、海軍と陸軍の対立というところまでエスカレートしてしまったわけです。

これに対して海軍が再び抗議しました。「なぜ、中年二等兵が一人だけ入隊するのか?」
陸軍も黙っては居ません。何とかしようという事で、新名さんと同じく大正生まれの兵役免除者二百五十人を召集したのです。つじつまを合わせたわけですね。「新名記者憎し」の陸軍の執念はすごかった。

さらに、陸軍中央は新名さんを最激戦地の沖縄、硫黄島方面の部隊へ転属させろと厳命してきたのです。やることが汚いです。生きて帰さぬ方針を取ったわけです。こうなると、もう、無茶苦茶ですね。

しかし、陸軍の思い通りには行きませんでした。三ヵ月がたち、結局新名さんは他の戦友と除隊になりました。丸亀連隊報道部の香川進大将は 「この召集は東条大将の厳命だったんだよ。新名は絶対に還すな、重労働を課せとね。海軍や軍令部からもなんども人がきた。われわれは自分らの正しいと思う判断で君を扱った。善通寺師団司令部でも見て見ぬふりをしてくれた」と除隊の真相を説明したのです。

海軍は直ちに新名さんを報道班員としてフィリピンへ送り、陸軍の再召集を防いだのでした。新名記者がフィリピンに出発した直後、新名さんの“とばっちり”を喰らって再召集された丸亀連隊の中年二等兵たち二百五十人は硫黄島に送られ、全員玉砕してしまったのです。全くこれでは、この二百五十人の人たちの魂は泣き切れないでしょうね。ひどいものです。

言論統制から、人の命までが軽々しく一部の人間の思うように処分されてゆく。死ななくても良い人たちまでが、とばっちりを受けて250人もが硫黄島のチリとなって消えてしまう。もし、あなたがこの250人の中に選ばれたとしたらどう思いますか?

ええっ?現在、そんな馬鹿げた事は起こらない?
そうでしょうか?
太平洋戦争が終って戦争放棄を謳(うた)った憲法が出来た時、いったい誰が自衛隊が出来ると考えたでしょうか?
その自衛隊が、イラクに派遣されると誰が考えたでしょうか?

ええっ?でも徴兵なんて日本には絶対にないから、戦争で死ぬ事はない?
そうでしょうか?
あなたと私が声を大きくして、表現の自由と言論の自由のもとで戦争反対を訴えない限り、
一体、誰が徴兵の無い時代を保障しますか?

これまで読んできて、表現の自由と言論の自由の大切さが分からないとしたら、あなたも、あの250人の中に選ばれて硫黄島へ送られるということが、また起こるかもしれないですよ。
そう思いませんか?
ええっ?あなたは女だから心配ない?

しかし、アメリカを見てくださいよ。
アメリカ女性兵士がイラクで救出されたことがありましたよね。あなただって知っているでしょう?
日本はアメリカの真似をしますからね、志願だけではなく女性だって徴兵される時代が来るかもしれませんよ。現在の日本の自衛隊にも男性と同様に実戦訓練を受けている女性自衛官が結構たくさん居るんですよ。

ええっ?もう兵隊にとられるような年齢じゃない?
あなたの子供の事、あなたの孫の事を考えてくださいよ!
表現の自由、言論の自由のもとで、平和な国にしようと主張しましょうね。
とにかく、表現の自由、言論の自由を守りましょうね。


『少しでも日本を良くしたいと思いませんか?』より
(2005年7月3日)

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確かに太平洋戦争中に行われた上のような言論統制はムチャよねぇ。 人間無視の言論統制じゃないの。

その通りですよ。 「スカートをはいた兵隊」の挿話は、ちょうどこの時期にシンガポールのチャンギー捕虜収容所でのエピソードなのですよ。

人間的にぬくもりのある交流がなされていたとケイトーは言いたいの?

その通りです。 そればかりではない。 次のようなエピソードも上の挿話に引き続いて書いてある。

その夜、高木が主(あるじ)の名をあかさない招待の話を小津に持って来た。
「先方はお会いになればわかるといっておられます。 小津さんの旧知の方のようです」
小津は招待を受けた。
場所を聞くと、芸者の入る高級将校用の料亭で「近松」という家だった。
近松門左衛門の子孫が経営しているといわれ、シンガポールの日本料亭の中では格式の高さを誇っていた。
中国従軍時代の小津を知っている人だろうと斉藤はいったが小津には思い当たる人間がなかった。

ふすまを開けると、床の間を背負う席を開けて座っていたのは、あの紬(つむぎ)を着て撮影所の前で小津を待っていた男だった。
参謀飾諸(しょくしょ)を吊り、大佐の階級章をつけている。
「大本営第四班長の永井八津次です。 あの折は」
言葉は短かったが、丁寧な物腰の挨拶だった。
名前を聞いて、咄嗟に小津は思い出した。
外務大臣・松岡洋介がドイツからロシアを廻った時、随行武官として同行した永井の名を何度か新聞で見ている。

 (中略)

「とうとう大本営が姿を現したと思ってらっしゃいますな」
小津はくすっと笑った。 正体のない“大本営”を、小津が巧みに利用していることを、相手は知っているのだ。
「前線視察の途中に寄ったのですが、大本営が来た以上、ユニオン・ジャックだろうが星条旗だろうが上げさせます」

 (中略)

「…堂々と外国人に見せられる映画にしてほしい、そのことだけです」
「忘れてはおりません」
「あとのことは全部おまかせします」
 …
「来たついでに、ひとつ、お土産(みやげ)を用意しておきました」
「はあ」
「キャセイ・ホテルのあの劇場の倉庫に、軍が押さえたアメリカやヨーロッパの映画が山と積んであります。 なにかの御参考になるかと思って、あなたが御覧になりたいものは全部お見せしろといっておきました


(cathay001.jpg)

キャセイ・ホテルと劇場があった

キャセイ・ビルディング

赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えました。
写真はデンマン・ライブラリーより)


384-386ページ
『絢爛たる影絵-小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社

太平洋戦争中にも拘らず大本営には永井八津次・大佐のような「表現の自由」を理解している軍人が居たのですよ。 ちょうど竹ヤリ事件の時の丸亀連隊報道部の香川進大将のように。。。

つまり、この事が言いたかったの?

そうですよ。 この時期、小津監督はシンガポールでジョン・フォード、ウイリアム・ワイラー、ウオルト・ディズニーの映画を観まくった。 もちろん、この当時日本では誰も米国映画を観ていない。

小津監督はこの時期に充電していたわけね?

その通りですよ。 敗戦になり、帰国した後で小津監督は3作目の『晩春』で自分の世界を作り上げ、死ぬまで日本映画最高の位置を誰にも譲らなかった。 むしろ死後10年経ち、20年経って、ますます国際的に有名になったのですよ。

この事が言いたかったの?

いや。。。違いますよ!

何が言いたいのよ?

あのねぇ~、乱歩先生が書いた小説『お勢登場』は映画の中では発禁処分にされているのだけれど、実際には『大衆文芸』の1926(大正15)年7月号に掲載された。 この時期は「大正デモクラシー」の言わば最後の年ですよ。

「大正デモクラシー」って何よ?

1910年代から1920年代にかけて、つまり、大正年間に日本で起こった、政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動や風潮や思潮のことですよ。 それがやがて軍国主義になってゆき、映画”The Mystery of Rampo”の中で描かれているような愚かな言論統制をやりだす。 ところが統制の真っ只中にも拘わらず丸亀連隊報道部の香川進大将や大本営の永井八津次・大佐のような良心的な人が居た。

だから。。。?

それにも拘らず日本では愚かな言論統制をやったり、何よりも太平洋戦争という負けるのが判りきったような戦争を無理矢理始めてしまった。

どうして、そうなってしまったの?

つまり、丸亀連隊報道部の香川進大将や大本営の永井八津次・大佐のような良心的な人がもっとたくさん居たのだけれど、時代に押し流されるままに声を上げなかったのですよ。

だから。。。?

だから、正しいと思う事は、そう思っているうちに言わなければならない。 そうしないと、悪い奴の言う事がだんだんと正論になってしまう。 だからこそ言論の自由・表現の自由は大切だと、僕はしみじみと思ったのですよ。 うししししし。。。

マジで。。。?

もちろんですよ。。。このような話の最後にウソやデマカセが言えるわけがないでしょう!? (微笑)


初出: 2012年1月15日 『スカートをはいた兵隊』

【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
確かに、そうですわよね。
『お勢登場』は大正デモクラシーの時代には出版できたのでござ~♪~ます。
それが軍国時代になると出版できなくなるのですわよ。

どうして。。。?

“無理が通れば道理が引っ込む!”

だから、無理が通る前に正しいと思うことを主張しなめればならない。
デンマンさんは、そう言いたいのでござ~♪~ますわ。

ええっ。。。そうじゃないと、あなたはおっしゃるのでございますか?
どうして。。。?


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今の日本が軍国主義の時代に向かっているのだよ!
戦後、日本国憲法ができた時に、いったい誰が自衛隊ができるだろうと思ったことかア?
その自衛隊が湾岸戦争後の1991(平成3)年に自衛隊法第99条を根拠に海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾に派遣されるだろうと誰が想像しただろうか?


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そして、原子爆弾の唯一の被害国である日本の、ノーベル平和賞をもらった首相が、密約で原子爆弾を持ち込むことを許していたなんて、いったい誰が想像していただろうか!?
さらに今、アメリカの一州のようになった日本がアメリカの世界戦略の一翼を担って極東におけるアメリカの尖兵のようになってしまっている現実を日本人の多くが半ば認めてしまっている。
日本はすでに危機的な進路を知らずに歩き始めているのだよ!
もう手遅れかもしれないのだよ!んもおおおおォ~。。。


(kokubo2.jpg)

なるほどねぇ~。。。
あなたの言っていることはマジで正しいかもしれませんわよ。
だから、無理が通る前に正しいと思うことを主張しなめればならないのでござ~♪~ますわ。

そう思ったら、あなたもコメントを書いてね!

ところで、シルヴィーさんのことをもっと知りたかったら次の記事を読んでくださいね。


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『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』


(sunwind2.gif)

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』

『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』

『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


(hand.gif)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事


平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
(himiko92.jpg)

『卑弥子の源氏物語』

『平成の紫式部』

■ めれんげさんの『即興の詩』

■ めれんげさんの『極私的詩集』

Jagel - Soft Japanese Bagel
(bagel702.jpg)

■ “JAGEL – Soft Japanese Bagel”


(linger65.gif)

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『軽井沢タリアセン夫人 – 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』


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宝暦の恨みを明治維新で

2016年10月8日

 

宝暦の恨みを明治維新で

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで“宝暦の恨みを明治維新で”というタイトルにしたのでござ~♪~ますのォ~。。。?


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あのねぇ~、たまたま夕べ バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

宝暦治水


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中部地方には、「木曽三川」といわれる河川(揖斐川・長良川・木曽川)がある。

これらの河川は、岐阜県海津市あたりできわめて近接して流れており、昔はそれぞれの河川で洪水があるたびに、流路をまたがって流れたため、一流域で大雨が降ると、それが全下流域に及ぶといった被害がたびたび発生した。

そこで、江戸幕府は、この三川の近接部をきちんと分流することとし、木曽川は木曽川の流路、長良川は長良川の流路、揖斐川は揖斐川の流路になるよう、三川を分離する治水工事を実施することにした。

島津藩に御手伝い普請を命じて行わせたこれは「宝暦治水」(1754年~1755年)と呼ばれている。

この工事はきわめて何工事であったため、多数の島津藩士が病死したり自害したりした。

また、予想外の費用がかかったことから、工事責任者であった島津藩家老の平田靱負は、工事完了時に切腹して責任を取った。


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しかし、江戸時代の技術力ではこの三川を分離することは不可能だった。

木曽三川が完全に分流され今日の姿になったのは、明治以降の治水努力の成果なのである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)


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74-76ページ 『国土が日本人の謎を解く』
著者: 大石久和
2015(平成27)年9月16日 第5刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

この部分を読んで、僕が中学生の時の歴史の時間に先生が言った事を思い出したのですよ。。。

つまり、歴史の先生が“宝暦の恨みを明治維新で”と言ったのでござ~ますかァ~?

そうなのです。。。 この部分を読まなかったら、その歴史の先生のことなど思い出すことはなかったでしょうねぇ~。。。

。。。で、その先生のお名前は。。。?

それが、全く記憶にない。。。 思い出そうとしても思い出せない。。。 ところが、上の「宝暦治水」を読んだら、その先生の言った事だけは鮮やかに思い出されたのですよ。。。 その先生の姿や行田中学2年の時の教室までも はっきりと思い出すことができた。。。 不思議と言えば不思議ですよ。。。

デンマンさんは、中学生の頃から歴史に興味があったのでござ~ますかァ~?

好きでしたねぇ~。。。 好奇心を刺激されました。。。 それに、その先生も歴史にハマッていたのですよ。。。 かなり熱のこもった授業でした。。。

。。。で、この「宝暦治水」というのは、江戸幕府が島津藩の恨みを買うほどのひどい工事だったのですか?

それは、それは、ひどい工事だったのですよ。。。

宝暦治水事件


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宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。
幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。

宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。
濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。

1735年(享保20年)、美濃郡の代官であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難の幕府の許可が下りなかったとされる。
このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。
ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。

幕府は延享4年(1747年)に二本松藩主丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で御手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。

時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。
1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。
この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。
また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。

1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。
また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。
さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。

宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。
高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。

事件概要

当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。

同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。
工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。
工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

最初の犠牲者

1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。
両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。

以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
また、この工事中には幕府側からも、現場の責任者が地元の庄屋とのもめ事や、幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。
さらに、人柱として1名が殺害された。

幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。
ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。

赤痢

1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死した。

1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。
その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。


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辞世の句は以下のとおり:

住み馴れし
 

里も今更
 

名残にて、
 

立ちぞわずらう
 

美濃の大牧

 


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薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。

大坂の商人からは22万298両を借入。
返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。
現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

その後

この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだ。
ただし長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。
これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。

薩摩藩では治水事業が終了したあとも現地に代官を派遣したが後に彼らは尾張藩に組み込まれている。
その後、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。

1900年(明治33年)の分流工事完成時に、宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。
1938年(昭和13年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を、「祭神」として顕彰するために『治水神社』(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。
2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。
鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援に当たった。
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は、これが縁で友好提携を結んでいる。


出典: 「宝暦治水事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そもそも、なんで とんでもなく遠い鹿児島にある島津藩が岐阜の治水工事を命ぜられたのござ~ますかァ?

あのねぇ~、18世紀の中頃、島津藩は琉球との貿易によって財力を得ていたのですよ。。。 だから、徳川幕府のお偉方は、島津藩を恐れていた。

つまり、島津藩が財力に物を言わせて 幕府に抵抗して謀反を起こすと考えたのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。 いつの時代にもスパイが活躍しているのです。。。 そのスパイが幕府のお偉方に“島津藩に注意せよ!”と告げ口するわけです。。。

でも。。。、でも。。。、上の説明によると、工事を命令された当時、島津藩はすでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していたというではござ~ませんかァ!

でもねぇ~、幕府としては、スパイの言うことを信じるわけですよ。。。 事実、島津藩は琉球と密貿易をしていたのだから。。。

要するに、幕府のお偉方は島津藩の密貿易の証拠を握っていたわけですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 だから、幕府の命令を 島津藩は断固として断るわけにはゆかなかったのですよ。。。

でも、島津藩からすれば、“嫌がらせ”以外の何物でもないわけですよねぇ~。。。

そうです。。。 幕府のお偉方だって、うすうす島津藩の台所事情が良くない事ぐらい知っていたはずです。。。 でもねぇ~、この際、島津藩の財力を ごっそりとそぎとってやろうという意地悪な気持ちが頭をもたげたのですよ。。。 島津藩が貧乏になれば、幕府のお偉方は枕を高くしてグッスリと眠れるわけだから。。。

つまり、わざと難工事を島津藩に押し付けたわけでござ~ますかァ?

島津藩の財力を弱らせるには、一番それが手っ取り早い方法だからですよ。。。 だから、工事費用は島津藩が全額負担とした。。。 それに加えて幕府は、大工などの専門職人を一切雇ってはならないと命令した。

どうして、そういう命令を出したのでござ~ますかァ?

専門職人がいなければ、所々でミスをやらかすわけですよ。。。 そうなれば、幕府はやり直しを命ずることができる。。。そうなれば、ますます島津藩はお金を使うことになる。。。

そうやって、イジメながら島津藩を貧乏にするためなのですかァ~?

そういうことです。。。 幕府のやり方は マジで汚いのですよゥ。

工事に携(たずさ)わった島津藩士はアタマにきたでしょうねぇ~?

当然でしょう!。。。 僕が島津藩家老の平田靱負ならば、絶対に我慢できませんよ。

デンマンさんならば、どうなさるのですかァ~?

琉球は幕府には内緒で清国とも密貿易をしていた。。。 もちろん、その事は公然の秘密だった。。。 だから、僕が島津藩家老の平田靱負ならば「そのような無理を幕府が我が藩に課するならば、我が藩は清国と琉球と共同戦線を組んで幕府と一戦を構える覚悟です」と幕府の重役たちに言いきかせますよ。。。

つまり、脅(おど)しをかけるのでござ~ますか?

当たり前でしょう!

18世紀の中ほどにデンマンさんが島津藩に生きていなくて良かったと思いますわァ。。。 もし、それが現実になったら、日本の歴史は変わっていたでござ~ましょうねぇ~。。。

だいたい、幕府のやり方が汚すぎるのですよ。。。 幕府のやり方は露骨な弾圧ですよ!。。。 島津藩が恨みに思うのも もっともです。。。 とにかく、平田靱負は、平和を愛する人だったに違いないのです。。。 我慢に我慢を重ねた。。。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請した。

許可がおりたのでござ~ますかァ?

もちろん、幕府は度重なる願い事もすべて退けたのですよ。。。 むちゃくちゃですよ。。。 しかも、工事のやり直しを命じることがしばしばだった。。。 だから、工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した。

ちょっとひどいですわよねぇ~。。。

だから、幕府の監視役の中からも、島津藩に同情する良心的な人物までが出てきた。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う幕府の監視役の武士が二名いたのですよ。。。

あらっ。。。 感動させるエピソードですわァ~。

ところが、平田靱負は、あくまでも平和を愛する人物のようです。。。 切腹した島津藩士が 51人も出たというのに、幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理していたのですよ。。。

それで、最終的に工事が終わった時点で、平田靱負は50歳で切腹して果てたのでござ~ますか?

そうなのです。。。 分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したのだけれど、平田靱負は藩への多大な負担の責任を取って自害した。。。 さらに、島津藩主の島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没しているのです。

マジで。。。?

ところが、この話の元になっている史料は、昭和29年に発行された「宝暦治水と薩摩義士」という書物なのですよ。。。 でもねぇ~、それ以前の史料には平田靱負が自害した記録が無いとされている。

あらっ。。。 それってぇ、どういうわけでござ~ますか?

それどころか「島津氏世録正統系図」には、「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」と書かれている。

あらっ。。。 じゃあ、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」というのは、創作された美談なのでござ~ますか?

ただし「同時代の公式記録に自刃という出来事を載せない」という慣習が島津藩にはあったという歴史家もいるのですよ。。。

真相はどうなのでござ~ますか?

あのねぇ~、島津藩主の島津重年が心労で、27歳の若さで亡くなってしまったのですよ。。。 そのことを考えれば、50歳の平田靱負も、工事が終了したときには、病気で棺桶に片足が入っていたとしてもおかしくない。

つまり、平田靱負の死を無駄にしないために、「平田靱負が藩への多大な負担の責任を取って自害した」という美談に仕立て上げたのでござ~ますか?

僕は、そうだと思います。。。 そうすることにより、島津藩が長州藩と一緒に弾圧政府の江戸幕府を倒して明治維新を断行したという正当な理由にしたと思うのですよ。


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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

確かに、江戸幕府のやり方はひどすぎたのでござ~ますわァ。
遅かれ早かれ、幕府は倒されて近代日本が生まれるのは宿命だったのかもしれませんわねぇ~。。。

ところで、個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?

とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『ハマグリにハマる』

『ハマグリの誘惑』

『ハマグリの足跡を追って』

『芭蕉と遊女』

『光源氏もビックリ』

『エロエロ源氏物語』

『悲痛の紫式部』

『卑弥子のえっち』

『白妙の和歌を探して』

『キーワード診断』

『紅のボート難民』

『ん?ネトウヨ』


(miya08.jpg)

『下衆のかんぐり』

『桓武天皇のママがネットで』

『ござが天皇とGOOGLE』

『エロ 建礼門院』

『一敗が三人に!』

『行田の黒い霧をはらう』

『ペルシャ人が飛鳥に』

『小柴垣草子』

『後白河上皇ダントツ』

『ブスと美人』

『エロい話が好き?』

『死んでも生きてる』

『失意の太田将宏』


(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


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『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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